心に残る名曲 その二十五 チェロ協奏曲ロ短調 (Dvorak Cello Concerto B minor)

ドヴォルザーク( Antonin Dvorak)の代表作です。ボヘミアの民族音楽と新大陸アメリカの土着の音楽を融和させたといわれるチェロ協奏曲にはいくつかの特徴があります。「ロンド(rondo)」と呼ばれる異なる旋律をはさみながら、同じ主題の旋律をなんども繰り返す形式をとっています。大辞泉ではロンドを「輪舞曲」と名付けていて、Aという主題の旋律が、繰り返し演奏されます。「A B A C A D A」という具合です。さらに、管弦楽の部分が劇的と思われるほど響き渡ります。

第一楽章では早めのアレグロ(Allegro)に始まり、次ぎにまどろむような第1副主題、親しみやすい旋律が流れます。第二楽章では、緩やかに遅く(Adagio, ma non troppo)、民謡風の第2副主題といずれも美しい主題がロンドの形式にそって演奏されます。木管楽器は抒情に溢れた響きを放ちます。ホルンの音も穏やかに流れます。もちろん独奏チェロの技巧性が遺憾なく発揮されます。最終楽章は、第1楽章の第1主題が回想され最高潮に達して全曲が閉じます。

作曲家がチェロ協奏曲を書くのは、それなりの理由があるといわれます。チェリストであったハタッシュ・ヴィハンという友人からの作曲要請があったようです。ですがドヴォルザークにはチェロを協奏曲の独奏楽器としてはあまり効果的でないと考えていたようです。しかし、この曲を聴いていると管弦楽とチェロのバランス、音の混ぜ合わせなどは、彼自身ヴィオラの奏者であったことも伏線にあったような気がします。

この作品は、親しみやすい旋律に満ちていることから、その主題が先住民インディアンや南部の黒人の歌謡から採られたという説があります。この説はともあれ、ボヘミアの民俗舞曲であるポルカ風のリズムも感じられます。チェロ協奏曲の範疇にとどまらず協奏曲という形式でも最高傑作の一つとして評価される作品です。

心に残る名曲 その二十四 ドヴォルザークとスメタナ

交響曲第9番「新世界より(New World)」や弦楽四重奏曲第12番「アメリカ(America)」と並ぶドヴォルザーク( Antonin Dvorak)の代表作の一つといわれるのが、チェロ(Cello)協奏曲です。協奏曲とは複数の独奏楽器と管弦楽で演奏される多楽章形式の曲です。

ドヴォルザークの故郷はボヘミア(Bohemia)。ボヘミアはとは現在のチェコ(Czech)の西中部地方を指す地名です。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指したようです。首都はプラハ(Prague)です。

1892年9月にドヴォルザークはニューヨークにやってきます。そしてナショナル音楽院(National Conservatory)の院長に迎えられ、講義や作曲に没頭します。ネイティブ・アメリカンの音楽や黒人霊歌を調べ、それを自身の作品に反映させたのが「新世界より」とか「アメリカ」です。

ドヴォルザークはスメタナ(Bedrich Smetana)とともに、民族性や地域性と国際的水準との両立を目指した作曲家や音楽家の総称であるボヘミア楽派(Bohemian school)と呼ばれます。特にスメタナは、チェコの独立、チェコ民族主義と密接に関連する国民楽派を発展させた先駆者といわれます。その代表曲が「わが祖国」といわれ、チェコの歴史や伝説、風景を描写した作品といわれます。

心に残る名曲 その二十三 「アンヴィル・コーラス」 イル・トロヴァトーレから

ヴェルディ(Giuseppe Verdi) 歌劇、イル・トロヴァトーレ(IL Trovatore)の合唱は「アンヴィル・コーラス」(Anvil chorus)として知られています。ジブシー(gypsy)の男たちが鍛冶仕事で金床(Anvil )をリズムよくハンマーで叩きながら歌うので、「鍛冶屋の合唱」とも呼ばれています。ジブシーは、かつてヨーロッパ各地にいた移動型の民族のことですが、今はこの言葉は使われません。

イル・トロヴァトーレは、中世の騎士物語ともいわれ、美女をめぐって生き別れになった兄弟の公爵と吟遊詩人の争い、ジプシー女の呪い、母娘二代にわたる復讐といった複雑な舞台劇です。

このオペラは華やかな旋律が歌手たちの声や合唱、管弦楽で満ちています。オペラ史上最大級の作曲家と呼ばれるヴェルディの作品のなかでも、これほど輝かしくも悲劇にふさわしく翳りあるメロディが展開するオペラはそうはないと「Encyclopaedia Britannica」でいわれます。

「鍛冶屋の合唱」は、ジプシーたちが夜明けに歌うことから別名『Coro di Zingari ジプシーの合唱』とも呼ばれています。次のような歌詞となっています。
”Singing the praises of hard work, good wine, and Gypsy women.His lovely Gypsy maid!”

心に残る名曲 その二十三 リヒアルト・ワーグナー

ワーグナー(Richard Wagner)はバッハが活躍したライプツイッヒで育ちます。幼少期から音楽に親しみ、兄弟の多くも音楽で身を立てていきます。ワーグナーは、ライプツィヒ大学(Universität Leipzig)で学び、音楽を学んでからはドレスデン(Dresden)の宮廷楽長とし迎えられます。特に一家とも親交があった作曲家ウェーバー(Carl von Weber)から強い影響を受けたといわれます。

「ローエングリン(Lohengrin)」、「トリスタンとイゾルデ(Tristan und Isolde)」といった楽劇(Musikdrama)のほかに、「さまよえるオランダ人(Der fliegende Holländer)」という神罰によって、現世と煉獄の間をさまよい続けているオランダ人の幽霊船が喜望峰で遠望されるという物語の曲もあります。神話や伝説に題材にして求め、人間は女性の愛によって救われるという考え方が以上の作品に貫かれています。

自由を圧迫するドイツ社会への失望し、1849年にドレスデンの革命に参加し、ロシアの革命家のバクーニン(Mikhail Bakunin)と交流するなどで指名手配されます。そしてスイスに亡命します。追放は1862年に解除されバイエルン国王の保護で宮廷楽長となります。

ワーグナーは、いくつかの特徴的な旋律で劇中の人物を表現するという手法をとりいれ、巨大な管弦楽法によって分厚い和音や半音階的進行、無限に流れる旋律などを曲に盛り込みます。これが楽劇という形式です。それまでの歌唱とかアリア偏重のオペラに対して,音楽と劇の進行を密にし融合を図った音楽形式といわれます。その形式を確立したワーグナーは「楽劇王」と呼ばれるようになります。

心に残る名曲 その二十二 「兵士の合唱」 ファウストから

フランスの作曲家、シャルル・グノー(Charles Gounod)の作品にドイツの文豪ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の劇詩「ファウスト(Faust)」第1部に基づく同名のオペラがあります。

老学者ファウストが自分の書斎で、人生をかけた自分の学問が無駄であったと嘆きます。そして服毒自殺を図るのですが思いとどまります。そこに悪魔メフィストフェレス(Mephistopheles)が現れ、 ファウストの望みを聞くというストーリーです。このオペラで歌われるのが「兵士の合唱」です。

グノーの作品に合唱曲として「賛歌と教皇の行進曲」があります。バチカンの国歌(National Hymn of Vatican)ともいわれます。彼の作品は、優雅でやさしい旋律、色彩感に満ちたハーモニーを伴った音楽といわれます。フランス近代歌曲の父とも呼ばれ、は今日も広く愛されています。バッハのクラヴィアを援用した「アベ・マリア」の作曲でも知られています。

心に残る名曲 その二十一 「巡礼の合唱」 タンボイザー WWV70から

「タンホイザー」(Tannhäuser WWV.70)ワーグナー(Richard Wagner)が作曲した全3幕のオペラです。正式な名称は『タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦』(Tannhäuser und der Sangerkrieg auf Wartburg)といいます。このオペラで良く知られているのは序曲(Overture)、第2幕のエリザベート(Elizabeth)のアリア(Aria)、「大行進曲」などで個別でもよく演奏されています

ところで、ワーグナー作品目録は、Wagner-Werke-Verzeichnis(WWV) といわれています。作品目録は1番から113番までの番号が付されています。バッハの作品の目録である「BWV」と同じです。

「巡礼の合唱」(Pilgrim’s Chorus)ですが、中世のドイツでは、騎士たちの中で吟遊詩人(Minstrel)となって歌う習慣があったといわれます。騎士の1人であるタンホイザーは、テューリンゲン(Thüringen)の領主の親族にあたるエリザベート(Elizabeth)と清き愛で結ばれていたのですが、ふとしたことから官能の愛を求めるようになります。

我に返ったタンホイザーは自分の行為を悔やみますが、領主はタンホイザーを追放します。そして領主はタンホイザーにローマに巡礼に行き教皇の赦しが得られれば戻ってきてよいと云います。彼は巡礼に加わりヴァルトブルク(Waltburg)城を去ります。

ヴァルトブルク城近くの谷。タンホイザーが旅立ってから月日がたちます。エリザベートは、タンホイザーが赦しを得て戻ってくるようにと毎日祈り続けます。やがてローマから巡礼の一行が戻ってきます。エリザベートはその中にタンホイザーを探すのですが、彼はいません。このとき歌われるのが「巡礼の合唱」です。

心に残る名曲 その二十 グレゴリオ聖歌 その2 その特徴

グレゴリオ聖歌のように歌を典礼に導入する形式は、元をたどればユダヤ教のシナゴーグ音楽(synagogue music)に由来します。ユダヤ教の礼拝儀式ではヘブライ語(Hebrew)による宗教歌が歌われます。それらは旧約聖書の朗唱,祈祷歌,賛歌などでいずれも無伴奏です。ヒンズー教(Hindu)も 同じような形式の歌を礼拝でとりいれています。

グレゴリオ聖歌の特徴としては次のことが挙げられます。
1)無伴奏のユニゾンによって歌われる、一本の単純な旋律なのでプレインソング(plainsong)とも呼ばれる
2)全音階のみを使ってすべての旋律を表現する方法でできている
3)2拍子、3拍子といった拍節がない
4)歌の終り感がない
5)歌詞はラテン語

ミサで歌われる祈りのグレゴリオ聖歌は、キリエ(Kyrie)、グローリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトス(Sanctus)、ベネディクタス(Benedictus)、アニュスデイ(Agnus Dei)からなります。

Kyrieとは、「主」を意味し、「Kyrie eleison)」「主よ憐れみ給え」と三度唱和します。7世紀になるとGloriaが加わります「栄光」という意味で、もともと詩篇(Psalm)にある歌詞が引用されます。11世紀頃、Credoが採用され「信条」「信仰」として歌われます。Sanctusは「聖なる」、Benedictusは「恵みある」で初期のキリスト教時代である使徒時代(Apostolic Time)に作られたようです。Agnus Deiは「神の子羊」とされ7世紀の東方教会のミサで歌われ定着しました。

心に残る名曲 その十九 グレゴリオ聖歌 その1 名前の由来

グレゴリオ聖歌(Gregorian chant)は単旋律(monophonic)でユニゾン(unsion)によるローマカトリック教会の典礼音楽です。ミサの中で歌詞に旋律が付けられたものです。590年から604年までローマ教皇であったグレゴリウス1世(Gregorius)にちなみ、770年頃からグレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)と呼ばれるようになります。グレゴリウスは聖歌をいわば公認したというわけです。「Chant」とは聖句を詠唱するとか単調な旋律で繰り返し歌う、という意味です。もともとはフランス語です。

フランク王国(Frank)のカール大帝(Charlemagne)らによる古典復興といわれるカロリング・ルネッサンス(Carolingian Renaissance)が起こる800年頃の文化隆盛期に聖歌は大きく育ったといわれます。それは、フランク王国がキリスト教を受容し、グレゴリオ聖歌をミサで使い、王国の運営にも教会の聖職者たちが多くを担ったこともあります。やがて聖歌は西方全域へと波及し、ローマカトリック教会もこれを採用します。

キリスト教の伝統的な聖歌には二種類あります。一つは東方教会で使われるビザンティン聖歌(Byzantine Chant)です。ギリシャ正教会の奉神礼で用いられる歌でギリシャ語世界に存在する聖歌です。西方教会を代表するのがグレゴリオ聖歌です。

心に残る名曲 その十八 バッハと三つの時代

バッハが特に影響を受けた作曲家の一人がブクステフーデ(Dieterich Buxtehude)であることを既に述べました。ブリタニカ国際大事典によりますと、1705年に北ドイツにあるルーベック(Leubeck)を訪ね、ブクステフーデの壮麗な演奏と作品に触れたことが彼の音楽的成長に大きな役割を及ぼしたとあります。「トッカータとフーガ 二短調 BWV 565」はその代表です。1708年にワイマール(Weimar)公の宮廷に礼拝堂オルガニスト、兼オーケストラのヴァイオリニストとして迎えられます。「トッカータ、アダージョとフーガBWV564」やコラール前奏曲、「オルガン小曲集BWV599-644」などから、ワイマール時代がバッハの「オルガン曲の時代」と呼ばれる所以です。

しかし、ワイマール公爵家の内紛や楽長の死後、その後任に選ばれなかったことの理由からバッハはワイマールを辞します。そしてハインリッヒ・ケーテン公(Heinrich von Anhalt-Köthen)に招かれます。そこでは世俗的な器楽の作曲と演奏が主な職務となります。有名な「無伴奏チェロ組曲BWV1007」、「ブランデンブルグ協奏曲BWV1046-51」などを完成させます。さらに「平均律クラビーア曲集BWV846-69」「インヴェンション BWV772-80」など多くのクラヴィア曲を作ります。ケーテンでの六年間はバッハにとって「世俗器楽曲の時代」と呼ばれました。

さらに1723年からライプツイッヒ(Leipzig)に移り、聖トーマス教会(St. Thomas)と聖ニコライ(St. Nicholas)教会の音楽監督(カントル)として作曲にも注ぎます。そして「ヨハネ受難曲 BWV145」、「マタイ受難曲 BWV244」、「クリスマスオラトリオ BWV248」、「ロ短調ミサ曲 BWV232」といった「四大教会音楽」を残す活躍を示します。そうした作曲活動からライプツイッヒ時代は「教会声楽曲の時代」と呼ばれるくらいです。

心に残る名曲 その十七 「楽しき狩りこそわが悦び BWV208」

バッハの作曲した「世俗カンタータ(Secular Cantata)」の一つで、通称「狩のカンタータ(Jagdkantate)」と呼ばれています。現存するバッハの世俗カンタータの中では最も古いものです。1713年2月のヴァイセンフェルス公クリスティアン(Christian von Sachsen-Weissenfels)の誕生を祝う祝典曲といわれます。全部で15曲から成ります。

「世俗カンタータ」とは、バロック時代の声楽形式で,一つの物語を構成する歌詞がアリア,レチタティーボ(recitative),重唱,合唱などからなる多楽章形式のものです。小型のオペラまたはオラトリオともいわれます。今日では教会礼拝用音楽としての教会カンタータが有名です。

ブリタニカ大百科事典によりますと、バロック時代を通じての標準的で一般的なカンタータは、世俗カンタータであったようです。第1曲 レチタティーヴォの「楽しき狩りこそわが悦び」は言葉の抑揚に忠実なので朗唱と訳されています。終曲の第15曲は「愛しき眼差しよ」という合唱となっています。

ところで、第9曲はアリア(Aria)「羊は憩いて草を食み(Adagios Sheep may safely graze)」という叙情的な朗唱です。「Adagios」とや「ゆっくり」、とか「長閑と」という曲の表現やテンポを示す音楽用語です。旋律の美しさを重視し、リコーダは牧歌的なテーマを要所で挿入し、ソプラノが伸びやかに草を食む羊を描きます。

羊とは領民をさし、牧童はクリスティアン公を示唆しているといわれています。領民の安寧を導く賢い王となるように願った曲のようです。第9曲はこのカンタータの中で最も知られているといえましょう。