バッハが特に影響を受けた作曲家の一人がブクステフーデ(Dieterich Buxtehude)であることを既に述べました。ブリタニカ国際大事典によりますと、1705年に北ドイツにあるルーベック(Leubeck)を訪ね、ブクステフーデの壮麗な演奏と作品に触れたことが彼の音楽的成長に大きな役割を及ぼしたとあります。「トッカータとフーガ 二短調 BWV 565」はその代表です。1708年にワイマール(Weimar)公の宮廷に礼拝堂オルガニスト、兼オーケストラのヴァイオリニストとして迎えられます。「トッカータ、アダージョとフーガBWV564」やコラール前奏曲、「オルガン小曲集BWV599-644」などから、ワイマール時代がバッハの「オルガン曲の時代」と呼ばれる所以です。
しかし、ワイマール公爵家の内紛や楽長の死後、その後任に選ばれなかったことの理由からバッハはワイマールを辞します。そしてハインリッヒ・ケーテン公(Heinrich von Anhalt-Köthen)に招かれます。そこでは世俗的な器楽の作曲と演奏が主な職務となります。有名な「無伴奏チェロ組曲BWV1007」、「ブランデンブルグ協奏曲BWV1046-51」などを完成させます。さらに「平均律クラビーア曲集BWV846-69」「インヴェンション BWV772-80」など多くのクラヴィア曲を作ります。ケーテンでの六年間はバッハにとって「世俗器楽曲の時代」と呼ばれました。
さらに1723年からライプツイッヒ(Leipzig)に移り、聖トーマス教会(St. Thomas)と聖ニコライ(St. Nicholas)教会の音楽監督(カントル)として作曲にも注ぎます。そして「ヨハネ受難曲 BWV145」、「マタイ受難曲 BWV244」、「クリスマスオラトリオ BWV248」、「ロ短調ミサ曲 BWV232」といった「四大教会音楽」を残す活躍を示します。そうした作曲活動からライプツイッヒ時代は「教会声楽曲の時代」と呼ばれるくらいです。