心に残る一冊 その99  「おもかげ抄」 鎌田孫次郎

山本周五郎の「小説日本婦道記」に収録されている「おもかげ抄」です。
浜松の裏街道にある家作へ引っ越してきたのが鎌田孫次郎です。年の頃は二十八、九。上背があり立派な体つきで色の浅黒い、眼の涼しいこのあたりでは珍しい美男です。家作とは借家のことです。

魚売りの金八が長屋の周りの者に云います。
「まあ、聞きね、」「表へでて洗濯をしているじゃねえか」、「奥様のお加減でもお悪うございますか」と訊いたんだ。「するとその返辞がふるってら、」
「いや別にとこも悪いと申すほどでもござらぬが、ちと我がまま、まあ朝寝がしたいのでござろうよ、とかくどうも女は養い難しでござる、、あはは、、」
長屋の女房達の間に孫次郎につけられた甘次郎、甘田甘次郎先生などの綽名がたちまち付近にひろまります。

二十日あまりが経ち隠居の六兵衛が孫次郎の浪宅を訪れます。
「ようこそおいで下された」と奥へ振り返って、「これ椙江、お客来じゃ、お茶をいれ申せ」とい云います。舌打ちをしながら「しようのないやつ、また頭でも病むと申すのであろう、我がままがつのって困る」

孫次郎がご用向きをきくと、空屋を寺子屋として子どもに素読の指南し、剣術も教えて欲しいというのです。孫次郎は二つ返事で引き受けます。初秋の昼下がり空き地で子ども達に剣の心得を教えていると、子どもが叫びます。
「向こうの原っぱでお侍が斬り合いをやっていますよ」

孫次郎も剣を持ってかけつけると、一対四の真剣勝負です。訊くと御意討となった侍の犬飼研作を四人が仕留めようというのです。犬飼の剣は鋭く四人の侍は歯が立ちません。孫次郎は助太刀し犬飼を倒します。そこに一人の老武士が馬で駆ってきます。「あっぱれ、お見事」と思わず声をあげます。子ども達も空き地の隅で固まってみていました。孫次郎が戻ると「お師匠さまは強いな、、」と歓声をあげます。

二、三日経たある日、さきの老武士が前触れもなく孫次郎を訪れます。
「椙江、お客様じゃ、、」
「ご覧の如き浪宅、何のお構いもなりませぬ、どうぞお許しを」
老武士の名は沖田源左衛門という家臣の大番頭をしているという。
「お手前のほど、先日篤と拝見仕った、ご流儀は梶派でござるな」
「実は拙者も壮年の頃、梶派一刀流をわずか学びなしたので、太刀懐かしく拝見いたしました」

倅の千之助に梶派を教えて欲しいというのです。
「未熟の拙者、とても人に教え申すことなど出来ませぬが、折角の思し召しを辞するは却って失礼、宜しかったら型だけでも」
「ところでご家内はご病気でござるか?」
「はあっ、、、」

孫次郎はなぜかうつむきやがて席を立つと「ご覧ください」といって合いの襖を開けるのです。
甘次郎という綽名をきいていた源左衛門は、甘次郎と呼ばせる妻はどんな美人かとみると、次の間には小さな経机がひとつ、仏壇のまえに据えられていて、ゆらゆらと線香の煙が立ち上っています。
「これは、、、、、」
「実は三年前に死去致しまして、、」
「すると先刻、奥へ声をかけられたのは?」
「お耳にとまって赤面仕る」
「仕合わせ薄き女にて、三年浪々の貧中死なせましたが、未練とお笑いくださるな」
「手前にはどうしても死んだと思い切ることができず、、」
「面影あるうちは生きているつもりにて、あのような独り言を申し始めたのが癖となり、今日までそのまま、、、」

「いや佳きお話を承った、亡き人へのそれほどの御愛、未練どころか却ってお羨ましゅう存ずる、拙者もご回向仕ろう」

心に残る一冊 その98  「三年目」 人情裏長屋から

山本周五郎が得意とする長屋に暮らす市井の人々の物語です。

友吉はいい大工職人でした。五郎兵衛町の広田屋伊兵衛という大工のもとでずば抜けた腕を発揮し、17歳のときにはすでに一人前の手間取りになっていました。広田屋は当時左前で友吉と角太郎の二人しか職人をもっていません。伊兵衛は友吉を一人娘のお菊の婿にして広田屋を盛り返そうとします。

ところが伊兵衛は大怪我をし、臨終の前に友吉をとお菊が夫婦になるように遺言をします。友吉には賭博の癖があったので、「今日限りさいころは捨ててくれ」と言い残します。友吉は悪仲間と縁を切るために江戸から上方へ行き新規まき直しをする決心をします。

三年後、友吉が江戸に戻るとお菊の安否を尋ねてあるきます。堀の棟梁の息子、仁太郎という道楽者から、お菊は角太郎と深川近辺で所帯をもったことを聞かされるです。

降り続く雨で大川の水は濁って岸に溢れかかっています。新大橋は通行止めとなり友吉は入った居酒屋でお菊が角太郎と八幡様の裏の二階屋にすんでいることを聞きます。角太郎は友吉より一つ上、腕も達者というほどではなく、男ぶりもぱっとしない、ただ愚直で間違いのない仕事をするだけが取り柄でした。

雨の街へでたとき、友吉のこころはずたずたになっています。
畜生、あの顔で騙しゃがったか、、、
「中川の水門が壊れたぞ、、、」という声が響きます。
友吉は教えられた二階屋にやってきます。
「どなた、、、、船定さんからですか、、」
「、、、、あっ、お前は」
「友吉だ、驚いたか、」
「よくも、よくもおいらを騙しやがったな、、おいらこんなことを知らねえからおいらあ上方で三年、一口の酒も呑まず稼いだぞ、、」
そういって友吉はお菊を縛り上げ、押し入れに押し込みます。

そこに角太郎が帰ってきます。そして取っ組み合いの喧嘩なります。角太郎が云います。
「兄貴、あの時の約束を忘れたのか?おらあいったはずだ、たとえどんなことがあっても、お菊さんは大切に預かっているって、、」
「そんならなぜお菊と夫婦になった!」

死んだ広田屋伊兵衛が堀の棟梁に借金があって、その金を枷に若棟梁の仁太郎がお菊を妾にしようとしたことを云います。広田屋の再興には堀一家とは喧嘩ができないので、二人で夫婦になったとみせかけるしかなかったと説明します。

一階には水が入ってきます。押し入れられぐったりしたお菊を二人で助け上げるのです「、、、おらあ鈍な生まれつきだ、兄貴にとんだ心配をかけちまって済まねえ、、勘弁してくんな」
「角、、、、生きるも死ぬも三人一緒だ、おいらの馬鹿を笑ってくれ、」
「お菊、気がついたか、友吉だ、、、」
「友さん、、、、」

心に残る一冊 その97  「荒法師」

山本周五郎の「荒法師」を紹介します。

武蔵の国にある臨済宗の古刹に昌平寺があります。そこに荒法師と呼ばれていた俊恵という僧がいました。もと土地の貧しい郷士の子で幼いとき孤児となり昌平寺に引き取られます。十八歳になり京へのぼり、最古の伽藍である東福寺にはいり建仁寺からさらに鎌倉の円覚寺で修行します。六尺近い体格、一文字を引いた眉、光る眼、全てが逞しい姿の僧になります。「いかにも荒法師という風だ」とその名が近在に広がります。

俊恵の修行は、生死超脱という難題に向き合ったことです。俊恵は云うのです。いちど死に逢うやすべてあとかたもなく消え去る。この世にあって存在の確かなるものは、まさに「死」においてほかにない。かくて死はすべての消滅でありながら、しかも唯一のたしかな存在である。この矛盾をどう解すべきか、、、、、

あらゆる生物はやがて死滅する。同時にあらゆる生物が生ききるのも事実ではないか。生物は死ぬるまで生きる。死が否定しがたいものであるなら、生もまた否定できない。死が必ず現前するものだとすれば、むしろ生きてあることを肯定し、そのまさしい意識を把握すべきだ、生死の超脱は生きることのうえに成り立たなくてはならない、俊恵はその一点に向けて修行していきます。

武蔵国に石田三成の軍勢が攻めてきます。忍城という北条の出城が昌平寺の近くにありました。三成の指揮下にあった浅野軍の使者が昌平寺を本陣に使いたいと申し出ますが、慧仙和尚は断ります。そのため昌平寺は焼き払われます。昌平寺の近くに住む花世という娘が俊恵のもとにきて、討ち死にした人々を弔ってほしいと云ってきます。俊恵は出掛けて数珠をつかみながら読経していきます。形容し難い惨状の前で俊恵は唱えます。
「、、なお十万の諸仏、仰ぎ願わくは愛護の御手を垂れて、、、、」俊恵は念仏唱名しながら一人ひとり供養していきます。

一人の武者の前に立ち、静かに経文を唱えはじめると、ふいにその武者が「御坊無用だ、、、、」と激しい口調で云います。微かに呼吸があります。
「もうながくない、もうそのときはみえている、」
「しかし経文は読むに及ばないぞ」
「なぜ経文は無用だと仰しやる?」
「おれは、、、」
「おれは成仏するつもりはないからだ、、、」
「生きて命のある限り、死ねば悪鬼羅刹となって十たびも、十たびも人間になって生まれかわり、あくまで父祖の国土は守護し奉る、これがもののふの道なのだ、おれだけではないぞ、、」
「断じて成仏せず、、」

俊恵はかっと眼をひらき叫びます。「そうだ、これだ、ここにあった。」武士の信念に生死超脱の境地をみるのです。
「唯今のご一言、肝に銘じました。こなたには及ばぬまでも御遺志を継いで城に入ります。ぶしつけながら鎧を借り受けます。」

俊恵は忍城に入り、攻撃する浅野の軍勢に向かいます。真一文字に突っ込むさまは凄く、群がる人数の中でも一歩もひかず奮戦した闘い振りも類の無いものでした。浅野軍の兵たちも後に「あれはたしかに名のある武士だったに違いない」と云います。「あとにもさきにもあれほど大胆不敵な闘いぶりをする者を見たことがない、敵ながら全く惜しい武士だった」と振り返るのです。

心に残る一冊 その96  「月の松山」

「月の松山」という山本周五郎の作品です。宗城孝也という青年剣士が主人公です。

孝也は浪人の子で、江戸に育ちます。十六歳のとき孤児となり茂庭信高家に預けられます。茂庭家は古くから兵法をもって北条氏に仕えます。鞍馬古流の小太刀を教え、二十町余りの山林と十五町余りの田畑をもって家計は豊かです。病床にある信高は、一人娘の桂が孝也と結ばれることを願っています。しかし、孝也もまた右足の骨が壊死し枯れ木のように脆くなっています。肉も腐りはじめ菌が体に広がっているのです。
「お気の毒ですが、もう間違いありません」医師の花崗道円が云います。
「すると期間はどのくらいですか?」
「百日よりは早いことはあるまいが、一年より遅くはない」

松山という高さ百尺あまりのなだらかな丘陵があります。孝也は辞去するとその坂を登りつめたところにある枯れ草の上に腰を下ろします。自分の将来が長くないことを考え精一杯生きようと決心するのです。桂は孝也の病を心配しています。

茂庭家の山林や田畑をめぐって争いが起こります。地境争いを吹きかける坪田与兵衛という一派がいます。坪田は土着の大地主ですが、領主松平家の金御用を勤めだしてから、にわかに横暴になり、自分の持ち地所と接するとこで地境争いを起こします。茂庭家の田畑にもそれが及ぶのです。そして信高の病状が悪くなるにつれて、両家の地境争いが深刻化していきます。

孝也は郡代役所から年貢帳などを取り寄せ「今後は境を超えない」という誓書を取り戻してきます。しかし、大道寺九十郎とか日野数右衛門といった素行の悪い松平家の家来が「紙切れ一枚で役に立つのかああ、、」などと嘲笑するのです。

孝也の桂への態度がよそよそしくなっていきます。桂がそのことで茂庭道場の西秋泰二郎に相談するのですが、その密会のような場面に孝也がきます。西秋は桂との会話を説明するのです。
「弁解か、云ってみろ」
「待ってください、ひとこと云わせてください」
「西秋さまに罪はありません」 桂は云います。孝也は黙って二人を見ていました。
「どうか誤解しないでください」

五年に一度の奉納試合があります。この試合は鞍馬流の正統を示す絶好の機会です。病気の孝也は、この奉納試合を目指して泰二郎を鍛えようとします。そんな孝也の様子が変化していきます。稽古の烈しさと仮借なさは徹底的で泰二郎がどんなに疲れても自分で納得するまで稽古をやめないのです。孝也は泰二郎を奉納試合に出させようと考えています。

坪田の小作人がまたまた越境し始めたという知らせがきます。かつて茂庭道場にいて破門された大道寺や日野らが真剣での果たし合いを孝也に申し込むのです。孝也は部屋をすっかり片付け師匠の信高と泰二郎宛に封書を残します。

大道寺や日野の助っ人の弓矢を背中と腰に打ち込まれた孝也のところに泰二郎がかけつけます。
「大道寺らはどうした?」
「仕止めました」
「おれの足を見ろ、右の足だ、」
「あっこれは、宗城さん、」
「触るな、それは脱疽というのだ、おれはもうこのままでも五十日とは生きられない軀なんだ」
「脱疽ですって、あの骨もにくもくさる、、」
「手紙を読んだな?」
「郡奉行所に届ければ、もう坪田も悪あがきはすまい、おれはいい死に場所に恵まれたんだ、」
「西秋、、、あの人を頼む、茂庭のあとを頼む、、、」

心に残る一冊 その95 山本周五郎という作家 その四 「須磨寺附近」

山本周五郎は三年間関西へ転居し仕事もしています。神戸で小さな雑誌社に勤めました。旧友の姉が須磨区に嫁いでいたのを頼って下宿します。彼女の夫は海外勤務です。山本は彼女を「須磨寺夫人」と呼んでいます。そのときの「危険な恋」が「須磨寺附近」という小説だといわれます。

「須磨寺附近」は大正十五年に文藝春秋に山本周五郎のペンネームで発表したのが文壇出世作といわれます。清三という男が主人公です。青木の兄がアメリカに赴任しているため、友人の青木、青木の兄嫁である康子、そして清三という奇妙な3人暮らしです。浜辺、須磨寺、六甲山などに遊ぶうち、清三は康子に心惹かれていきます。神戸松竹座での待ち合わせを機に2人の仲は俄かに接近するのですが、康子は夫に呼ばれアメリカに去っていきます。主人公の清三というのは山本の本名、清水三十六からとったようです。山本自身の青春のアヴァンチュールだったのかもしれません。

山本が「小説日本婦道記」を書いたのが昭和十七年といわれます。昭和は小林多喜二や徳永直、宮本百合子らプロレタリア文学の全盛期といわれました。その間、山本は少年少女雑誌小説や推理小説書きに没頭します。さらに大人向け娯楽小説雑誌、キングなどを主な執筆舞台としていたといわれます。純文学作家と大衆作家とは異人種とみられるような時代です。

山本は云います。「文学には純も不純もない、より文学を最大多数の人々へというおれひとりの旗印を掲げる」とうっ積したような思いで主張するのです。ここでの最大多数の人々とは、恵まれた一部の権力者やエリートたちのことではなく、社会から見放されたような日陰に身を寄せる多数の人々のことです。反権力の姿勢で庶民の側に立ち、弱い人々がこの世を暮らしていくためには、お互いが同世代に生きる人間であるという絆や連帯感が大事だと云うのです。こうして純文学と大衆文学の垣根を取り除こうとします。

「大衆小説を書くが、やがてその中で自分のやりたいことをやる、同じ小説で講談雑誌へ出しても”改造”や”中央公論”へ出してもおかしくないものを仕上げる」と云っています。雑誌改造は主に労働問題、社会問題の記事が中心で、中央公論は自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした雑誌です。

山本さらに云います。「自分の書くものは、よく古風な義理人情といわれる、私が自分が見たもの、現実に感じることができるもの以外は殆ど書かないし、英雄、豪傑、権力者の類には全く関心がない。人間の人間らしさ、人間同志の共感といったものを満足や喜びの中よりも貧困や病苦や失意、絶望の中により強く感じる。」

心に残る一冊 その94 山本周五郎という作家 その三 血縁や地縁を問い直す

いつの時代もおとなしくしていれば楽に暮らせます。ところがなにかに物言いをつけたり反対したりすると、周りから嫌がらせを受けたり、締め付けとかしっぺ返しがやってくることが多いものです。したがって黙っているのが安全です。

大衆とか庶民という言葉によってくくられる大多数の人々の暮らしの中にそんな側面がよくあります。沈黙や無気力さや長いものに巻かれるような生き方に山本周五郎は黙っていないのです。無気力を思い切ってさらけ出し、人間としての怒りを沸き立たせたのが山本の文学だといわれます。

「怒りという感情の発動とは、自分が生きる主人公であるための、そしてより豊かな人間関係を築いていくための突破口なのだ」と山本は云っているような印象を受けます。私の勝手な憶測ではありますが、、、

この突破口の具体的な事例が、血縁や地縁を問い直すという主張です。江戸時代という封建制度にあって、その秩序を保つ要因は、血縁や地縁ということです。血筋とか出身地ということです。これによって人間の一生が規定されるのが当時の社会です。例を挙げれば我が国の士農工商とかインドのカースト制。こうした制度というのは社会の仕組みを固定させ、社会の発展を阻害し、その結果として安定した社会を維持することに寄与するのです。

山本は、人間にとって最も身近な血縁とか地縁とはいわば内向きの仕組みであると云います。それに風穴をあけ、新しく人と人とを結ぶ心縁、つまり心の絆をもってする家族とか故郷における人間関係の再構築を図ろうとしたことが作品に横溢しているような気がします。山本の作品を読み込んでいくとき、必ずやどこかでこのような新たな人間関係を作りだそうという意図を感じます。これまで紹介してきた「かあちゃん」、「朝顔草紙」、「初蕾」、「菊千代抄」、「いさましい話」、「七日七夜」など、心という縁でつながる物語を解説してきました。

心に残る一冊 その93 作家山本周五郎 その二「狷介固陋」

山本周五郎の作家としての矜持とはなにかを考えるですが、相当にかたくなに自分の意思を貫いて筆を握っていたことがあちこちの本に書かれています。例えば頑固一徹であったとか、「狷介固陋」(けんかいころう)であったという記載です。広辞苑によれば「狷介固陋」という単語の「狷」は分を守って不義さなぬこと、「介」は固い意志、とあります。固く意思を貫いて人と相容れないことが「狷介固陋」だそうです。この言葉が山本の矜持、自分を固く守って妥協しないさまを示しているという評論家のかなり一致した見方のようです。

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山本の作家としての姿勢に「片意地」とか「傲岸不遜」という評をくだす人もいます。「傲岸」とはおごり高ぶってへりくだらないこと、「不遜」謙虚さのないさまともあります。「無名若しくは新進作家の大衆文芸」に与えられるのが直木賞です。昭和18年に「小説日本婦道記」がその候補に挙がったとき辞退したというのも山本の気概が伝わってきます。芥川賞が純文学の新人に与えられる賞、直木賞は大衆文学に与えられる賞という巷の評価に山本は抵抗したのかもしれません。当時、文藝春秋の社長であった菊池寛との角逐があったともいわれます。

山本の「ねじけ魂」のような姿勢は、作品の中に感情の側面である怒りがしばしば登場することに現れています。彼は「人間を感動させることはやさしいが、人を心から怒らせることは難しい」という言葉にそれが示されています。怒りを表現する作品にこだわったのかもしれません。怒りは人間の無気力さに対する抗議の印のようです。人間としての怒りをその心に沸き立たせる文学に向き合ったといえるかもしれません。

山本は学習された無気力に激しく立ち向かう作品を書いています。無気力に関する一例としてネズミの実験があります。片方のネズミには、動き回ったり抵抗すると締め付け、おとなしくなるとすぐ解放するという負荷やほうびを与えます。それを繰り返し学習させます。こうした学習したネズミと普通のネズミを同じ水槽に入れると、普通のネズミは60時間ももがいて死ぬのに、学習させられたネズミはぴくりともしないで死ぬという結果がでたそうです。

この実験から云えることは、抵抗しないほうがよいと学習した人間もまた、社会悪や不正義に対する抵抗力を奪われてしまっていて、無気力感を備えてしまうということでしょう。地域でも組織でも、自立した個人の立場から声を挙げることが摩擦や面倒を引き起こすことは私たちがよく経験していることです。抵抗は空しいということを知らず知らずのうちに学習し、その意識を心のどこかに植えつけてしまっているのです。

心に残る一冊 その92 作家山本周五郎 その一 庶民の作家

山本周五郎の作品を読んでいくと、彼の生い立ちや家族関係、育った土地とそこにおける人間関係がどのようであったかということに興味が湧いてきます。こうした事情を知ることで、山本の作家としての矜持とか誇り、作品に流れるテーマも理解できそうな気がしてきます。「山本周五郎を読み直す」や「山本周五郎庶民の空間」、「人間山本周五郎」といった本などを参照しながら、彼の作家の人となりを数回にわたって探っていくことにします。

山本周五郎の本名は清水三十六。「さとむ」と呼ばれたそうです。明治三十六年、山梨県北都留郡初狩村に清水家の長男として生まれます。祖父清水伊三郎がどうしても周五郎を引き取ることを許さなかったあります。事情はわかりません。そのため伊三郎の姉、斉藤まつの家で出生したようです。父の逸太郎は妻を失った後、若い女を二度嫁にもらいます。しかし、二人とも男を追って去ります。やってきた後妻のてるえは家事一切をよくこなし、病床の逸太郎や子どもの面倒をみます。

初狩の生活では家運が傾き、同家所有の長屋に移転します。祖父母、叔父、叔母、逸太郎夫婦に周五郎を加えた八人家族の清水家は狭い生活で、そのため大月に転居したようです。父逸太郎の葬儀のとき、山本はなぜか立ち会っていません。そのため親族から非難が集中したようです。この一件を機に山本は故郷の山梨には来なくなります。とはいえ倒れた父に毎月二十円を送金し、韮山に墓地の墓石には清水逸太郎建立と刻印したと記録されています。その費用を負担したのが山本だったといわれます。血縁や地縁を問い直そうという作品を数々書き上げていく理由がこのあたりにありそうです。

昭和六年に大森は馬込の借家に入居するまで、山本はおおむね窮屈な居住事情の中で暮らします。それが作品に投影されているようです。山本周五郎は庶民の作家だと云われる所以です。日の当たらぬ吹き溜まりに身を寄せ合い、「一日いちにち、まっとうな暮らしをしようとする最大多数の人々に、親近感を抱き続けた出発点が借家であり長屋生活であった」と山本の研究家木村久邇典が書いています。

心に残る一冊 その91  「お美津簪」 正吉の最期

「お美津簪」の続きです。
長崎の母の許に行くための船賃を稼ぐために、初めて犯す罪で押し入った家がたまたま筑紫屋茂兵衛の家でした。かつて丁稚奉公をしていた店です。茂兵衛に見つかって捕まります。
「この手で縄をかけてやるのも穢らわしい、早くここから出て失せろ!」
「この茂兵衛はなあ、今まで貴様のことを、もしや真人間になって帰る日もあろうかと、自分の倅を一人亡くしたよりも辛い気持ちで待っていたのだぞ、、」
「可哀相なのはお美津だ、お美津は貴様のことが忘れることができず、いまは半病人のようになっている」

正吉は畳に伏したまま、ごぼごぼと咳をすると口から血潮がほとぼります。茂兵衛は正吉から長崎行きの船賃欲しさにたまたま忍び込んだこと、お袋に一目会って死のうとしていることを白状します。
「なにも仰有らずお見逃しくださいまし、」

それをきいた茂兵衛は戸棚から金子を持ってきて正吉に渡すのです。
「これは貴様に遣るのではない、長崎で待つお袋さんに遣るのだ、お美津は今夜長唄の稽古があって出掛けている、もうそろそろ帰る時分だが、お美津に貴様のその姿を見せたくない」

筑紫屋を追い出された正吉は、廻船を待つために居酒屋に入ります。そのとき、「助けて!助けて!」という女の声をききます。無頼者態の男が二人、一人の娘の手を取り奥に引き込もうとしています。正吉は土間に落ちている花簪をひょいと拾います。正吉は刺身包丁をつかみながら二人の男に体ごと突っ込みます。一人がだあっーーと倒れます。残りの一人が短刀を抜き正吉の腹へ一突き。
「だ、、誰かきてくれ、、、」
正吉は傷に耐えながらよろよろしています。
「助けて、助けてください、、」そのとたん娘が「あ、、おまえは正さん」
「えっ」
正吉は眼を見はります。
「あたしを忘れたの正さん」
「あっ、、、ここは危ない、早く表へ、」

お美津を抱き起こして二人は走ります。お美津は長唄の稽古の帰りに襲われたことを話します。
「ここからは家も近い、お美津さま、あなたは早く帰ってください!」
「あたしはいや、おまえと一緒でなければお美津は生きる甲斐がないのよ、正さん、あたしがどんなに待っていたか、おまえは知らないでしょう」
「お帰りなさい、家へお帰りなさい、お美津さま!」
「正吉は長崎へ帰ります、そして真人間になって昔の正吉に生まれ変わってきます」

すがるお美津の手を振り切って正吉はよろめきながら走ります。懐には土間で拾った花簪を確りと握っています。その明くる朝、江戸橋の船着き場に一人の男の屍体がころがっているのが発見されます。

心に残る一冊 その90  「お美津簪」

山本周五郎の作品の一つ「お美津簪」の紹介です。かんざしー「簪」という語は難しい綴りです。

初めて父に連れられて長崎から江戸にやってきたのが正吉です。同郷の筑紫屋茂兵衛の店に奉公にだされます。茂兵衛には男の子がなく、お綱とお美津の二人の娘がいます。

正吉は気質が良く、人品も優れていて人並み以上の敏才の持ち主です。茂兵衛はお綱を婿として跡目を継がせようと考えていました。正吉とお美津は私かに恋を語る仲となります。そしてあるとき、正吉とお美津が土蔵の中で逢い引きをしているのを見つかります。正吉は一年間、小僧として使い走りに落とされます。

正吉はそれ以来夢のなかでうなされるようになります。お美津ばかりの夢を見、病気が進行しているような状態になります。正吉はすっかり自棄となり、お紋という女性に懸想してしまいます。そして店の金五十両を持ち出しお紋と駆け落ちするのです。その後、お紋に拐かされたように押し借り、強請、博奕などあらゆる無頼の味を嘗めていきます。女の情欲のために、治る見込みのない労咳で病む身となります。「罰だ、罰だ、旦那様やお美津ちゃんの罰が当たった、、」
「長崎、長崎、、、おっかさん」
正吉の胸に故郷の念がつきあげてきます。

「そうだ、長崎へ帰ろう、どうせ半年先もおぼつかない体だ、故郷の土を踏んでから死のう、おっかさんに一目会って不幸を詫びて死のう、」

その体ではとても長崎まで歩き通すのは無理なので、廻船問屋できくと、幸い明日の明朝長崎向けの船が江戸橋からでること、船賃は二両であることを知ります。居酒屋をでた正吉は船賃を得るために博奕のことを思い出します。
「もう一度だけだ、今夜っきりでおさらばなんだ、これ一度だけやろう」

しかし、博奕を見張っていた岡っ引きに追われ、黒板塀の家へ忍びこみます。短刀を持ってその家の主人の居間らしき部屋に入ります。その刹那、足をすくわれて転倒しその場で取り押さえられるのです。

「誰か、灯りを持ってこい!泥棒だ!」
「あっ、、おまえは、、、」
「正吉!顔を挙げたらどうだ、」
「あっ、旦那!」
初めて犯す罪で押し入った家がたまたま筑紫屋茂兵衛の家だったのです。