山本周五郎の作家としての矜持とはなにかを考えるですが、相当にかたくなに自分の意思を貫いて筆を握っていたことがあちこちの本に書かれています。例えば頑固一徹であったとか、「狷介固陋」(けんかいころう)であったという記載です。広辞苑によれば「狷介固陋」という単語の「狷」は分を守って不義さなぬこと、「介」は固い意志、とあります。固く意思を貫いて人と相容れないことが「狷介固陋」だそうです。この言葉が山本の矜持、自分を固く守って妥協しないさまを示しているという評論家のかなり一致した見方のようです。
山本の作家としての姿勢に「片意地」とか「傲岸不遜」という評をくだす人もいます。「傲岸」とはおごり高ぶってへりくだらないこと、「不遜」謙虚さのないさまともあります。「無名若しくは新進作家の大衆文芸」に与えられるのが直木賞です。昭和18年に「小説日本婦道記」がその候補に挙がったとき辞退したというのも山本の気概が伝わってきます。芥川賞が純文学の新人に与えられる賞、直木賞は大衆文学に与えられる賞という巷の評価に山本は抵抗したのかもしれません。当時、文藝春秋の社長であった菊池寛との角逐があったともいわれます。
山本の「ねじけ魂」のような姿勢は、作品の中に感情の側面である怒りがしばしば登場することに現れています。彼は「人間を感動させることはやさしいが、人を心から怒らせることは難しい」という言葉にそれが示されています。怒りを表現する作品にこだわったのかもしれません。怒りは人間の無気力さに対する抗議の印のようです。人間としての怒りをその心に沸き立たせる文学に向き合ったといえるかもしれません。
山本は学習された無気力に激しく立ち向かう作品を書いています。無気力に関する一例としてネズミの実験があります。片方のネズミには、動き回ったり抵抗すると締め付け、おとなしくなるとすぐ解放するという負荷やほうびを与えます。それを繰り返し学習させます。こうした学習したネズミと普通のネズミを同じ水槽に入れると、普通のネズミは60時間ももがいて死ぬのに、学習させられたネズミはぴくりともしないで死ぬという結果がでたそうです。
この実験から云えることは、抵抗しないほうがよいと学習した人間もまた、社会悪や不正義に対する抵抗力を奪われてしまっていて、無気力感を備えてしまうということでしょう。地域でも組織でも、自立した個人の立場から声を挙げることが摩擦や面倒を引き起こすことは私たちがよく経験していることです。抵抗は空しいということを知らず知らずのうちに学習し、その意識を心のどこかに植えつけてしまっているのです。