心に残る一冊 その133 「虚空遍歴」 その五 ”書物からまなぶ学問ではなく”

「虚空遍歴」の五回目です。浄瑠璃の台本作者、中島酒竹が冲也の家に夜遅くやってきます。酒竹は冲也のために台本を創作しています。二人は仕事仲間であり、ずけずけとものを言い合える仲です。
「このうちはあたたかすぎる」酒竹が云います。
「すきま風もはいらない、あたたかくて、穏やかで、いつも平穏無事で、心配事や不安などのかけらもない」
「酔っぱらいのくだを聞く暇もないぜ」
「ご新造さん、酒をたのみます」
酒竹は持っていた空の徳利を、トンと膳の上におき、冲也の顔を不審そうにみます。

  襖をあけてお京がはいってきます。勘徳利が二本、つまみものをいれた小さな鉢が皿にのっています。お京はいつものおっとりした笑顔で主が酒を飲まないため、接待がちぐはぐになって申し訳ない、と挨拶します。
「おかしなやつだ、」と冲也は云います。
「おまえは酒さえあればなんにもいらないようだな、もっとしごとに必要な勉強をしなくてはだめじゃないか」

「私に必要なのは」と酒竹は云います。
「書物からまなぶ学問ではなく、生きた人間と、その生活です」
「人間と生活と、それをとり巻く世間それが私の勉強の対象ですよ」

「人間のぶつかる悲劇や喜劇は、なまのままでは役にたたない、それを一度分解し、どこにしんの問題があるかをみきわめて、正しく組み直すことが必要だし、それにはまず学問をして、謝りのない観察眼や判断力を養わなければならないだろう」冲也は云います。

「私は誤ることを怖れませんね、悲劇も喜劇もなまのままで受け入れます」酒竹は手酌で飲みながら云います。
「いくら学問に精を出し、博学多識になったところで、人間の観察眼や判断力なんぞたかが知れたもんです」
「たとえば、ここである男が盗みをはたらいたとしますね」
「それを理性あるあたまで多くの判例を比較参照し、法律や常識論から詳しく検討して、その罪を裁くことはできるでしょうが、その男の内部を理解することはできない、、私が知りたいのは、その男の盗みがいかなる罪に値するかではなく、どうして盗みをしなければならなかったか、盗みをする気持ちはどんなだったか、ということです」
「これには学問も理性もいらない」酒竹はすぐ続けます。
「、、、ただその男といっしょに酒を飲む、いっしょに酔っぱらえばいいんですよ」

心に残る一冊 その132 「虚空遍歴」 その四 上方訛り

「虚空遍歴」には、中藤冲也の人格の形成や芸の発展にさまざまな影響を与える人物が登場します。まずはおけいです。冲也に対して唯一無二の理解を示し、彼に通じる特別な人物として描かれています。芸妓であり囲われ女なのですが、冲也の端唄を聴いて自分が変身するような経験をします。彼女が思い遣る視線や立ち居振る舞いによって、冲也の生き方が辛さにおいて一層引き立っていきます。冲也の理解者でありつつ、冲也に温かい感情の目線を与えることで、その献身さが魅力的に描かれます。

お京は冲也の妻で幼なじみです。料理茶屋「岡本」の娘で、冲也の芸を信じ彼の仕事にいっさい口をはさまぬ、彼の芸への情熱を信頼する忠実な女性です。

常磐津由太夫は本名幸次郎。常磐津を出て、冲也を弟子として〝冲也ぶし〟を教えていきます。常磐津繁太夫は冲也の兄弟子です。冲也に芸事、仕草、生活態度などにいろいろな忠告をし、冲也の成長に期待する人物です。

  中村勘三郎という芝居座元がいます。彼は江戸生まれで上方育ちです。座元は、どんな芝居をするか、誰に出演させるか、資金はどれくらいかかるか、などの総取締役です。冲也は、自分の浄瑠璃で中村座の舞台に立ちたいと考えています。それには勘三郎のような後ろ盾が必要なのです。

中島酒竹という浄瑠璃の台本作者が冲也と会話しています。冲也の浄瑠璃の台本を創作してきた男です。
「勘三郎はどこの生まれだ?」
「育ちが上方か、、」
「江戸生まれの江戸育ちですよ」酒竹が云います。
「なぜです?」
「上方訛りで饒舌ってた、初めて訊いたように思うが、今日は妙な上方訛りを使ってたぜ」と冲也が云います。
「ああ、あれですか、あれはしょうばいですよ」
「しょうばいとは?」
「つまりこうです、しょうばいをするときに、それもうまく纏める商談のときは、上方の言葉のほうがやわらかくていい、」
「江戸弁ははっきりしているから、纏まるはなしもこわれてしまうってね」
「いやならよしゃがれ、と云うよりも、あきまへんか、」酒竹は上方弁をまねます。
「そう云わんと、もう一つ思い直しとくんなはれいな、わてもしょうばいやよってな、辛うおまっせ、といったふうに云うほうが、はるかに事が荒立ちませんからね」

心に残る一冊  その131 「虚空遍歴」 その三 義太夫節

義太夫節の成立以前、浄瑠璃は古浄瑠璃と呼ばれていたようです。1684年ごろ、後に筑後掾となる竹本義太夫が道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を広めるとともに、その後は浄瑠璃に新たな時代が訪れたといわれます。

名作者近松門左衛門と結びつくことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章が洗練されていきます。義太夫節と人形浄瑠璃という新しい様式は、上方の人々から熱狂的な支持を受ます。こうして義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術性が高くなったといわれます。義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになります。

古浄瑠璃時代には語り手の名を付して何某節と呼ばれていたようです。それがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかったようです。ですが義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、「義太夫節」という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられ続けました。それが今日まで残っています。

義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにあるようです。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマを「語り」によって立体的に描きあげる構成力に特徴があります。そのいずれをとっても義太夫が浄瑠璃界に遺した功績は大きいといわれています。

他方、このころ竹本義太夫と同期の都太夫一中は京で一中節を創始し、その弟子宮古路豊後掾がさらに豊後節へと改めて、1734年これを江戸にもたらします。豊後節の特徴は義太夫節の豪壮な性格とは対照的に、一中節の上品な性格を生かしたやわらかで艶っぽい語り口にあり、江戸において歌舞伎の劇付随音楽として用いられたため、またたく間に大流行したといわれます。その人気は、心中ものの芝居にさかんに用いられたために江戸で心中が横行し、風俗紊乱を理由に豊後節が禁止されます。それだけ豊後節は話題を醸したということでしょう。

心に残る一冊  その130 「虚空遍歴」 その二 浄瑠璃

「虚空遍歴」で主人公が中藤冲也が浄瑠璃の新たな姿を追い求めた遍歴に入るまえに、「日本文化いろは事典」や「ジャポニカ 大日本百科事典」などを参照しながら、浄瑠璃とはなんぞやを考えていきます。以前、友人に連れられて大阪は日本橋にある国立文楽劇場で初めて文楽を鑑賞したときの印象も交えます。文楽劇場の座席正面右に出語り床があり、肩衣を着用する大夫という語り手と三味線弾が坐ります。見台には床本があります。

浄瑠璃は劇中の人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な響きをを持ちます。このため浄瑠璃を演じることは「歌う」ではなく「語る」と言います。浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物と呼ばれます。

中世以来の諸音典を綜合した語り物の総称が浄瑠璃です。初めは素朴な音楽的物語で、伴奏には扇拍子や琵琶が用いられました。やがて三味線が伴奏楽器となり、太夫が詞章を語る音曲・劇場音楽となっていきます。さらに操り人形も加わり独特の語り物による楽劇形態として完成していきます。

こうした諸芸能が統合され、近松門左衛門の詞章で、豪快華麗な曲節が特徴である義太夫節によって舞台の人形が操られるとき浄瑠璃は近世的、庶民的性格をもつ音楽、文学、演劇の融合芸能として発展します。

ところで、「浄瑠璃」という名称の出所です。16世紀の室町時代、誕生した語り物の中に、牛若丸と浄瑠璃姫のロマンスを題材にした物語があり、人気を集めたといわれます。岡崎の地で、牛若丸と浄瑠璃姫が出合い、お互いに恋い焦がれ、惹かれあうものの、揺れ動く時代の中で悲恋の結末となるのが「浄瑠璃姫物語」です。

心に残る一冊 その その129 「虚空遍歴」 その一 中藤冲也

昭和36年3月から翌々年2月まで『小説新潮』に掲載された山本周五郎の代表作の一つといわれるものです。題名にある「虚空」とはサンスクリット語で、空間とか大地、インド哲学では万物が存在する空間、広大無辺、永遠、清浄、超越という意味だそうです。絶対者、真理との概念で結びつけられるといわれています。

「虚空遍歴」の主人公は中藤冲也という旗本の二男です。侍を捨て芸人として生きる道を選ぶのです。端唄で人気を得ますが、それに満足せず浄瑠璃作りから〝冲也ぶし〟を生みだそうと苦闘するのです。江戸で端唄の名人と評判がたった若き冲也が、そういう浮名がたつほどの人気にもかかわらず、それに満足できずに自分を嫌悪し、あえて本格的な浄瑠璃をつくろうとして苦悶する遍歴が克明に描かれる作品です。

  「ジャポニカ大日本百科事典」によりますと端唄は、江戸時代中期以降における短い歌謡の総称といわれます。大正半ばまでは小唄も端唄の名で呼ばれていたようです。その後端唄・小唄俗曲とはっきりと区別されるようになります。

才能のある冲也による浄瑠璃の第一作が、江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋、中村座にかかって好評を博します。しかし冲也はこれにも満足できずにしだいに行き詰まっていきます。周囲では「あれは金の力だ」といった噂がたてられ、冲也はそれに潔癖に対峙してしまうのです。師匠の常磐津文字太夫からも離れてしまいます。

「才能のある人間が新しい芸を創りだすのは、古い芸にかじりついているよりよっぽど本筋だ、世間なみの義理や人情のために、創りだせるものを殺しちまうとすればそれは本当の芸人じゃあねえ、本当の芸っていうものはな、・・・ときには師匠の芸を殺しさえするもんだぜ」

こうして冲也はあてどもない浄瑠璃遍歴に旅立っていきます。江戸から東海道を上り、京都へ、近江へ、さらに金沢へと変転します。その流浪に冲也に惚れる「おけい」という女がかかわって、独白の挿入が入ってきます。長い独り言です。おけいはもともとは色街育ちなのですが、冲也の芸を聞きかれの歌いに傾倒し世話をする女性です。

心に残る一冊 その123「樅ノ木は残った」 その十 仙台六十万石は安泰

伊達安芸宗重からの上訴により、地境争いの評定が始まります。大老酒井雅楽頭は、甲斐が実は宗重と繋がっていて、しかも自分が伊達兵部宗勝と交わした六十万石分割の密約の写しが甲斐の手元にあることを知り、大藩取潰しの野望が破れたことを察知します。

評定は板倉内膳正邸で行われる予定だったのですが、にわかに酒井雅楽頭邸に変わります。甲斐の意を受け原田家を出奔し、雅楽頭邸に勤めていた黒田玄四郎は邸内のものものしい動きを察知します。

「やむを得まい、秘策のもれるのを防ぐには知っているものをぜんぶやるほかはない、甲斐はその第一だ、彼はそれを知り六十万石を守る」
「しかしその代償は払わなければならない、評定の席に出る者にはみな、 その代償を払わせてくれるぞ」と呟くのです。

酒井雅楽頭が忙殺を命じた五人の仕手は、評定に喚問した伊達藩の四人の重臣、伊達安芸、柴田外記、古内志摩、そして甲斐を控えの間に襲って斬りつけます。それに気づいて評定の間に清直居士といわれていた久世大和守と板倉内膳正らが出てきます。瀕死の傷を負った甲斐は気力を振り絞って大和守に訴えます。
「私です、私が逆上のあまり、、これは甲斐めの仕業です、久世候、、」
「こやつの非で伊達藩に累が及ばぬようお頼み申し上げます、」
「安芸、甲斐も聞け、伊達のことは引き受けた、仙台六十万石は安泰だぞ」

公儀の裁きにより、後見の兵部と家族は所領没収の後、土佐高知藩にお預け、甲斐は「伊達騒動の首謀者」の汚名を着せられ、三人の息子は切腹、二人の嫡孫は死罪となり家名断絶となります。こうして兵部が逐われて、伊達家の禍根が絶たれます。十年余り続いた伊達騒動は幕を閉じます。

宇乃は、芝の良源院の方丈で住職の玄察と語らっています。外は雪です。宇乃は早くから、甲斐がなにごとかを為そうとしていたかを知っていました。
「おじさまは、はれがましいことや、際だつようなことはお嫌いだった」宇乃は玄察に云います。広縁に出ると伊達家の宿坊が並んでいます。昏くなり始めた庭のかなたをみます。

「雪はしだいに激しくなり、樅ノ木の枝々はいま雪を衣て凜と力強く昏れかかる光の中に独り静かにしんと立っていた」
「おじさま、、」宇乃はおもいこめて呼びかけます。すると樅ノ木がぼっとにじんでそこに甲斐の姿があらわれた、、、、、、

心に残る一冊 その122「樅ノ木は残った」 その九 甲斐と久世大和守

江戸幕府老中、久世大和守を甲斐は八十島主計という名前で訪ねます。ギヤマンに入った透明な赤い色合いの酒を差し出します。甲斐は自分が毒見をするといって一杯注いで飲みます。大和守は自分も飲んでみようかと云います。葡萄酒そのものはさして珍しくはいのですが、その酒のやわらかくこなれた甘みとこもったような香りとは、大和守の舌を陶酔させたようでした。
「この酒の味と香りは珍重だ、これをあじわいながら話を聞こう」
と大和守が云います。

「まずはご覧を願いたいものがございます」甲斐は懐から奉書に包んだ書状を取り出します。
「これはどいうものだ」
「まずは御披見を願います」
読み込んでいくうちに大和守の顔はゆっくりと硬ばってゆき、下唇がさがっていきます。その表情は激しい驚きと、怯えたような色があらわれます。

「この証文の主であるある一人は、おのれの職権を悪用して、人を扇動し無法にことを起こし、ついには公儀のご裁決をうけなければならぬ、という状態にまでたち至りました」
「証文は三十万石分与ということが目的ではなく、さる大名の家中を紛争におとしいれて公儀のご評定にかけ、仕置きが不取締まりというご裁決で、六十万石改易にもってゆくということなのです」

「待て、原田、待て、」と大和守が云います。
「さる候は三十万石分与という密約のあることを知って、忠告をなされた、もちろんその証文の他のお一人は、天下に並ぶものなきご威勢のある方です、しかし、、、、、いかにご威勢並ぶものなき方でも、六十万石を分割し、ご自身の縁弁にあたる者に三十万石を分与する、などということができるものでしょうか」

大和守は唾をのみます。
「仙台六十万石の取り潰しが成功すれば、加賀、薩摩にも手を付けることができるでしょう」 甲斐はそこで叫ぶように囁きます。
「その証文は六十万石改易にかけられた罠です」
「私どもはこういう事態ならぬよう、忍耐のうえにも忍耐してまいりました」
「罪無くして罰せられる者、無法に刑殺される者、闇討ち、置毒、、、幾十人となく血を流し斃れていくさまを、ただ主家大切という一義のため、堪え忍んでまいったのです」

「しかしそのかいもなく、老中ご評定ということになりました」
「ご評定の裁決によっては、一門一家あわせて八千余に及ぶ人数が郷土を追われ家を失い、生きる方途を迷わなければなりません」
甲斐は殆ど眠たそうな眼つきで大和守を見つめます。

心に残る一冊 その121「樅ノ木は残った」 その八 取潰しの全体像

原田甲斐は常着のまま、袴もはかず、編み笠をかぶった姿で長徳寺の門前で茂庭主水と逢います。主水は伊達家重臣で松山の館主、周防定元の子です。定元は甲斐や安芸と共に伊達兵部の陰謀を防ぐために奔走してきたのです。主水もまた単衣の着流しで、やはり編み笠をかぶり、片手に釣箱と餌箱をもっています。
「父は私に遺書をのこしました」と主水は云います。
「それで一度おめにかかりたいと思っていたのです」
「会えと書いてありましたか?」
主水はそこでちょっと口ごもります。
「あなたに悪評が立ち、不審と思えるようなことがあっても、あなたを信じておれ、そして、もしもあなたからなにか頼まれたら一命を賭してやれ、という意味でした」
「父の遺書はどういう意味なのでしょうか?」主水は訊きます。
「話しましょう」

「誰かおります」主水がそういって片方をさします。一人の老人がすっとたちあがります。
「誰だ、」と老人が呼びかけます。
「ここは無用の者がくるところでない、、」
視力は全く失っているようです。甲斐は近寄りながら、穏やかな声で云います。
「久方ぶりだな、十左衛門、わたしだ、」
「船岡どのか」その老人、里見十左衛門が云います。

十左衛門はかつての伊達家家臣です。兵部の専横が強まり、これを批判した奉行家老奥山大学を失脚させます。十左衛門は甲斐を通じて兵部に諫言したため、失脚させられます。伊東七十郎という重臣伊東新左衛門の義弟と友達でした。七十郎は文武両道の才人といわれ、伊達の家来ではありませんでしたが、義兄を助けて十左衛門と共に兵部に敵対してきた男です。

「松山の主水どのが一緒だ」
「ここで話したいことがあって案内を頼んだ、ちょうどいいおりりだ、十左衛門にも聞いてもらうこととしよう」
こうして、二人は甲斐から仙台藩取り潰しの全体像を教えられるのです。
「わたしにはそのまま信じられません」十左衛門が云います。
「ことに仙台藩という由緒ある大藩に幕府が手をつける、などということがあるでしょうか」

十左衛門が納得しかねるのもむりではない、だが、事の起こりから考えてみれればわかる」
「まず綱宗さまにたいする殆ど無根拠な譴責と、跡目をきめるについての難題だ」
「そして同時に、二方面に手がうたれた、一つは酒井候が一ノ関の兵部に与えた三十万石分与の密約であり、もう一つは幕府閣老の某候が、茂庭周防を呼んでひそかにその密約を告げてきたことだ」
「よもや風聞ではごあいますまいな」
「酒井候と一ノ関とで交わした証文があり、仔細あってその一通を私が持っている」
「紛れのないものですか?」
「紛れのないものでだ」甲斐が答えます。
「幕府閣老の某候がひそかに周防を呼んで、そういう密約があることを告げたのだ」
「某候とは誰びとです?」
「名は云えない」
「名は云えないが、将軍家お側衆で、当代十善人のひとりと評された人だ」
十左衛門は俯向くのですが、すぐに「久世大和守、、、」と口の中で呟き顔をあげます。

心に残る一冊 その120 「樅ノ木は残った」 その七 「くびじろ」(2)

「くびじろ」を追いながら甲斐はまず弓を取って弦を張ります。それから音のしないように、手早く食糧を片づけて寝袋に入れ、それをかたく背負いながら、いま鳴き声のしたほうをうかがいます。やはりなにも見えず、なにも聞こえません。
「しかし紛れはない」

甲斐はそう呟いて、雪帽子をかぶり、藪の蔭から、そっと伸び上がってくびじろの通路にあたる山つきの低地を見やります。くびじろは阿武隈川を渡ると、正覚寺山から甚次郎山へぬけるか、谷地をまわってやまにはいり、丘陵へ向かうかのどちらかの通路を通るのがいつもの例でした。こんどは谷地を川上のほうへいったというので、いま甲斐の見張っている場所なら決して見失う心配はありません。

オスジカ                   知床半島 ウトロ森林地帯

甲斐は雪払いの動作を止めて息を呑みます。視野の端になにか動くものの姿を認めたからです。二段ばかり先の枯れ木林の中からすっと一頭の鹿がでてきます。粉雪のとばりのかなたにそれはなんの物音もさせず、幻のようにあらわれ、そこでじっと立ち停っています。くびじろだ、、、、、

鹿がこっちへ動き出したのです。甲斐は弓を持ち直し矢をつがえます。風は北から吹いています。くじびろは風上からこっちへきます。用心深くときどき鼻を上に上げ、周囲をうかがいながら、静かにこっちへ近づいてきます。距離は三十尺、甲斐が立ち上がったとき、くびじろもぴたりと足を止めます。甲斐は弦をひきしぼり、矢の幹がききと爽やかにきしみ、弦はいっぱいにしぼられます。その瞬間くびじろが頭を右に振り、甲斐は矢を射放します。矢はくびじろの肩に当たります。くびじろはするどく叫び、頭を振り躍り上がります。

くびじろは逃げ去ることなく、甲斐のほうに跳躍しながら雪しぶきをあげなが甲斐に跳びかかってきます。甲斐はすぐはね起き、弓を拾い矢をぬいて弓につがえながら向こうを見ます。距離は約四間。呼吸が合って、まさに矢を射放そうとしたとき、弓弦が音をたてて切断してしまいます。くびじろは甲斐に突きかかり、その角で甲斐の軀をはねとばします。甲斐の軀はおおきく跳ね上がれ、雪を被った笹の斜面へ投げ出されます。

甲斐はじぶんの肋骨の折れる音をきき、二間あまり斜面を転げ落ちるとすくに腰の山刀を抜きます。くびじろは斜面を駆け下りてきました。甲斐は立とうとしますが、激痛のためにうめき声をあげ、雪の中に横倒しになります。斜面を駆け下りてくるくびじろのみごとな大角をみながら、甲斐は左の肱で半身を支え右手の山刀の切尖をあげます。視界が一瞬ぼうとかすみます。くびじろは大角をさげ、後肢で雪を蹴たてながらとびかったきます。

心に残る一冊 その119「樅ノ木は残った」 その六 「くびじろ」(1)

「樅ノ木は残った」の主人公、原田甲斐は人間関係の煩わしさを避け、人との距離を上手に置こうとしていたことが伺えます。黙っていると四十五、六に見える歳です。あまりものを云わず、話をするときも饒舌ではありません。稀にしか笑わないところもあります。花を愛で、自然を愛し孤独な時を大事にする性格としても描かれています。例えば、村の娘とともに山小屋にこもって鹿やいのししを狙い続けたり、小さいとき川で釣りをしていたとき大きな鯉に引っ張られておぼれ死にするような一面がありました。その時が最も自由で人間らしく幸せだったかのようです。

「くびじろ」とは地元の人々がつけてい大きな鹿の呼び名のことです。猟小屋に籠もっていたときです。弓や矢の手入れをしているととき、粉雪といっしょに三人の娘が入ってきます。三人はそれぞれ手籠や角樽、重箱の包みを並べます。会話とともに小屋の中での小さな宴を始めます。そうしているうちに、娘たちのなかで鹿の話になり、娘の一人、きよきが云います。
「くびじろをみつけただべが、」
「くびじろだって、、」甲斐が顔をあげます。
「おら、滝沢の瀬で見たです」

そのとき、この小屋の表で人の声がして、外から引き戸があけられます。粉雪が舞い込み片倉隼人と与五兵衛という甲斐の家臣が入ってきます。
「若い牝鹿がさきに渡り、あとからくびじろが、それを追って渡ったです」
「西からか東からか?」
「東からこっちへです」

与五兵衛は云います。「殿様、くびじろはなりませんぞ」
「おれにかまうな!」甲斐が云います。
「くびじろはだめです、」と与五兵衛は繰り返します。
「あれは十五歳にもなる豪のもので、これまで大猪を二頭殺し、熊を一頭傷つけ、どんなに老練な猟師でもあれにだけは手を出しません」とい云います。
「くびじろは谷地へはいったか」
「谷地を川上のほうへいったようです」きよきは云います。

会話が終わると三人の娘は帰り支度をします。甲斐は夜の明けるまえに細谷という部落の山の中で横になります。甲斐は藪蔭を選んで斜面のほうを頭にし、寝袋のなかにすっぽりと軀をいれ、食料の包みを枕にしてじっと眼をつむっています。

甲斐は心の中で呟きます。けものを狩り、樹を伐り、雪に埋もれた山の中で、寝袋にもぐって眠り、一人でこういう食事をする、そして欲しくなれば、ふじとやなおこをこのようなむすめたちを掠って馬草のなかで思うままにねる、それがおれの望みだ、四千石の館も要らない、伊達藩の家格も要らない、自分には弓と手斧と三刀と、寝袋があれば充分だ、それがいちばんおれに似合っている、と呟くのです。