心に残る一冊 その117 「樅ノ木は残った」 その四  宇乃と甲斐

「樅ノ木は残った」には二人の特徴的な女性が登場します。一人は「おくみ」であり、もう一人は「宇乃」です。伊達家の家臣の一人、畑与右衛門の娘が宇乃です。与右衛門は汚名を着せられて上意討ちとなります。宇乃は、かつては甲斐の母であった慶月院の側に仕えました。甲斐は宇乃の後見人のようになり、成長を見守っています。「おじさま」と呼びながら甲斐に心を通いあわせています。

甲斐の屋敷は東新橋の芝口などにあります。上屋敷とか浜屋敷とよばれていたようです。藩主や家臣が住み政務をとるところです。愛宕下付近にあったのが中屋敷で藩主の妻や嫡子らが住むところです。下屋敷とか蔵屋敷もあったようです。妻の律は国許である宮城は柴田の船岡にいますが、甲斐とは不仲になっています。後に離縁されます。

甲斐と宇乃が樅ノ木について語ります。
「私はあの木が好きだ」
「船岡にはあの木がたくさんある」
「樅だけで林になっている処もある」
「静かなしんとした、なにもものを云わない木だ」
「木がものを云いますの?」 宇乃が訊ねます。
「宇乃はしらないのか」
「木はものを云うさ、木でも石でも、、みんな古くなるとものを云う」
「いまに宇乃が船岡へいったら木がどんなにものを云うか、わたしが教えてあげよう」

中屋敷では麻疹で苦しむ息子虎之助が寝ています。二人はしばし昔話などをしています。甲斐は障子をあけて廊下にでます。そこに宇乃が佇んでいます。両袖を胸に重ねて身動きもせず、雪の舞しきる庭のひとところをみています。
「なにを見ている」
「ああの樅ノ木に雪が積もっています」
「わたしは明日、船岡に帰る」

すると宇乃が彼のほうへくるりとむきなおり、大きく見開いた眼でまっすぐに彼を見上げます。その眼は見開いたままで、たちまち涙でいっぱいになりります。
「おじさま、、」宇乃はそう云って衝動的に両手で甲斐を抱きしめるのです。

心に残る一冊 その116 「樅ノ木は残った」 その三  おくみと甲斐

甲斐の江戸の別宅は上野の近くの湯島にありました。江戸の海産問屋である雁屋信助が原田家の回米を受け持つこととなり、信助は日本橋の石町の家に甲斐を招待します。米の回送で雁屋は繁昌します。そのとき給仕をしたのが信助の妹おくみです。一目で甲斐にひきつけられ、信助はまた妹が甲斐に気に入られたと思い込みます。信助は甲斐に心服していました。

「保養のために控え家を持ってはどうか」と信助は甲斐にすすめ、自分の費用で湯島の家を手に入れます。そして「お側の用をさせてくださるよう」と云っておくみをつけたのです。

この別宅を大老酒井雅楽頭が訪れたときです。甲斐はこの時身分を偽り浪人の身であると雅楽頭に告げるのですが、この嘘は見え見えでした。雅楽頭は八十島なる人物が原田甲斐であるのを見抜いていたのです。しかしあくまでも甲斐は偽名を使い「それがしは浪人八十島で御座います」と述べるのみでした。
この時、甲斐は時の最大権力者酒井から直につかわされた盃を受けようとしません。
「ここはそれがしの屋敷です。例えどなた様のお勧めでも盃はお受けできません」

甲斐のこの振る舞いは、酒井や兵部一味に取りこまれることを避けたうえでのものでした。甲斐のこの言葉に雅楽頭の顔がぱっと赤くなります。この場で無礼討ちにしても不思議ではありません。その時、二人の間に酌をしていたおくみが割って入ります。
「その盃、わたしがお受け致します」

おくみの器量の良さと良妻ぶりのような仕草に、さすがの雅楽頭もかろうじて冷静さを取り戻すのです。そして云います。
「そちたちはいい夫婦だ」

雅楽頭が帰ると、甲斐とおくみは次のような会話を交わします。
「どうしてあんなに強情をお張りになさいましたの」
「強情だって、、」
「お盃ですわ、どうしてあの盃をお受けにならなかったのですか、」
「候は怒りはしない」
「あたしあの盃をお投げになるかと思いました」
「えらいな」
「ですからあたしいそいで頂戴したんですわ」
「いい呼吸であった」

甲斐は頷いて、おかげで酒井候は命びろいをしたよ、と云います。
「どういうわけですの?」
「舎人と丹三郎がいるのを忘れたのか」
「わたしが辱められれば二人は黙っていない、必ず候に斬りかかる」
「もっとも、わたしはそれを待ってはいないがね」

甲斐は頭巾をかぶり立ち上がります。おくみはにわかに別れが惜しくなり、袖や袴の裾などを直しながら、また逢うことの約束をせがむのです。

心に残る一冊 その115 「樅ノ木は残った」 その二 伊達家分断の密約

やがて原田甲斐は、伊達兵部宗勝の推挙で国家老につきます。陸前にある金鉱山が、藩内の権力を欲しいままにする兵部宗勝に加えられます。その領分の中に伊達家の金山も含まれていました。その鉱山から産する金は兵部に属するか伊達本藩に属するかという問題が生じます。甲斐は、「その所領にあるものは領主に帰属する」と兵部に有利な評定をします。

甲斐の判断は安芸宗重、柴田外記といった伊達家重臣には不利なものでした。彼がこうした裁定を下したのは、藩内の紛争を表立てしたくないという意図がありました。もし係争が幕府に持ち込まれれば内政紊乱の口実により、伊達家の存立を危うきものとすると考えたのです。周りには甲斐の態度は煮え切らないもどかしい人物に映り、不満や疑心が高まり側近は去っていきます。甲斐は四面楚歌のような状態に置かれていきます。

甲斐はやがて、幕府の大藩お取り潰しという基本政策があることを知ります。手始めに伊達藩が目をつけら、しかも御家内のゴタゴタと見せかけての謀略であることを察知します。それゆえ、家中のいかなる紛争も幕府に提訴させることはあってはならないと考えます。甲斐は外様大名であった加賀藩や薩摩藩との連衡の可能性を探るのですが首尾良く運びません。

伊達兵部宗勝が藩体制を良からぬ方向に持っていこうとしているのを知り、甲斐は兵部の懐に潜り込んで兵部派になりすまし、取潰しの計画を食い止めようと考えます。甲斐はたまたま兵部と彼の両方に情報を売り込みにくる野心家の浪人柿崎六郎兵衛より、幕府老中酒井雅楽頭忠清と兵部との間に交わされた六十万石分断の密約証文があることをききます。柿崎六郎兵衛は兵部から金銭をもらい道場を開いていました。

伊達家の家臣、里見十左衛門が兵部弾劾九カ条をあげて国老を詰問するという事態も起こります。しかし、兵部暗殺計画ということが密告され、同家臣の伊東七十郎とともに捕縛され刑死します。甲斐の意向をうけ、原田家を出奔して雅楽頭邸に勤めていた家従の中黒達也が、雅楽頭と兵部が密契していた三十万石分与の証文を得ます。

伊達安芸宗重と伊達式部宗倫との間で領地の境界で紛争がおこります。安芸重は、「式部の領地侵入は「堪忍なり難く」と幕府に訴える所存であるから、老中評定の場で酒井と兵部の密約証文をつきつけて欲しい」との書状を甲斐に書きます。甲斐は安芸をなだめますが、安芸は決死の覚悟で供を揃えて出府します。甲斐は、伊達家分断の密約が取り交わされたことを家老首席の茂庭周防に洩らします。甲斐はさらに将軍側衆の久世大和守を訪ね、密約証文を見せて伊達藩の安堵を頼むのです。

心に残る一冊 その114 「樅ノ木は残った」 その一 原田甲斐

山本周五郎の傑作といわれる「樅ノ木は残った」のつかみ所などを、僭越とは承知で私なりに数回にわたって解説させていただきます。六十万石という大大名で外様藩である仙台藩、別名伊達藩が江戸幕府のお取り潰しの策謀とで、生き残りをかける歴史小説といってもよい内容です。

原田甲斐は、仙台藩家臣で宮城県柴田郡柴田町の館主四千二百石でした。国老に就任できる筋目の家柄で四十二歳にてようやく評定役の一員にすぎませんでした。甲斐は、原田家の当主として伊達藩家臣団に組み込まれていますが、権勢を求めず、奥羽山脈に抱かれた船岡の居館において「朝餉の会」という気の合う仲間との懇談を楽しみとし、穏やかな日々を過ごしていました。舘において保護をしている宇乃は、甲斐の母親であった慶月院の側に仕えます。慶月院はかつては甲斐を厳しく育て女丈夫といわれました。

万治三年というと1660年です。仙台藩第三代藩主である伊達綱宗は、幕府より与えられていた浜屋敷にいました。現在の港区東新橋のあたりです。綱宗は幕府からかねがね不作法の儀不届との理由で、突然閉塞蟄居を命じられます。江戸の吉原での放蕩三昧が理由とされますが、非難されるほどの遊興の覚えではなく、藩内の権力争いによるでっち上げでありました。

国家老首席の茂庭周防は幕府に対して、綱宗の長子亀千代を世継にと願いでます。そしてようやく、僅か二歳の亀千代が藩主となります。幼君の後見役として一門の大名で、伊達政宗の末子であった伊達兵部宗勝が任命されます。その夜、坂本八郎左右衛門、渡辺九郎左右衛門、畑与右衛門、宮本又吉のもとへ訪問客があり、上意討ちとの名で誅殺されます。吉原に同行したという畑与右衛門らの口封じのためです。ところが、伊達当主は不在であって、上意討ちを命じるものはいなかったのです。これを幕裏で指示したのは、兵部宗勝でありました。畑与右衛門の妻も暗殺されますが、かろうじて逃げ延びたのは娘の宇乃でした。

甲斐は庭にある樅の巨木の孤高を語ります。「私はこの木が好きだ。この木は何も語らない。だから私はこの木が好きだ」。宇乃は甲斐が、樅ノ木に己の生き様を重ね合わせているように思えます。

上意討ちという暗殺事件で開かれた評定役会議で、予告なしに出席した兵部は、暗殺者たちを不問にすべきと強引に弁護します。世間では、この一件の裏に大名家の取り潰しや弱体化を画策する幕府の思惑が働いていると噂が流れます。

事態は紛糾していきます。国家老の一人、奥山大学が首席の茂庭に代わろうとする策動、新たに兵部に加えられた領分に陸前の金山があり、産金は兵部に属するか、伊達本藩に所属するかの紛争もでてきます。さらに兵部に亀千代毒殺の謀略があるとも噂されます。

心に残る一冊 その113 「小説日本婦道記」 その十一 「二十三年」(2)

怪我で運ばれてきたおかやを治療した医者は云います。
「崖から落ちたときに頭をうったのが原因でござろう」
「口が利けなくなったのもそのためで、悪くするとこれは生涯治らぬかもしれん」

医者が去るとまもなくおかやは起き出します。そしてしきりに靭負の息子の牧二郎を背負いたがるのです。四国松山に発つための支度のできている荷物を持ち出して「ああ、、ああ、、」と外を指さします。すぐに旅立っていこうという仕草です。思いがけない奇禍で白痴になってさえ、松山へ供をしてゆく積もりです。

  「おかや、、」靭負は側に立って呼びかけます。
「、、、いっしょに松山へ行こう、おまえにはずいぶん苦労をかけるが、松山へ行って治ったら新沼から嫁に遣ろう」
「もし治らなかったら一生新沼の人間になれ、わかるか?」
おかやはけらけらと笑います。

おかやの兄、多助は云います。
「ただ、こんなお役に立たぬ者になり、また遠国のことでなにかあってもお伺いすることができません」
「どうか呉々も宜しくお頼みします」

松山への旅の途中、おかやは考えたより足手まといにはなりません。却って役に立つのです。口が利けないのと、物事の理解が遅鈍なだけです。靭負の身の回りや牧二郎の世話には欠けるところがありません。「もしおかやを伴れてこなかったら、、、」靭負はしばしばそう思うのです。

松山に着きます。然し伊世松山藩、蒲生家の老職からは、予想外の冷ややかなあしらいを受け仕官の道が絶たれます。靭負は道後村に居を定め収入の途として、道後名物の土焼きの人形づくりを始めます。それからひどい暮らしが何年も続きます。

蒲生氏のあとに隠岐守松平定行が松山に封ぜられてきます。彼は靭負が会津蒲生の旧臣であり、松山にきた目的など仔細に知っていました。そして松平家に仕官する気がないかを尋ねてきます。食録も会津の旧扶持だけは約束するというものです。靭負は仕官を決意します。牧二郎は十六歳になり学問や武芸に励み二十歳で召し出されて父とは別に百石の役料をもらいます。

やがて靭負は五十三歳で亡くなり、牧二郎が跡目を継ぎます。そして菅原いねという娘を娶ります。祝言の夜、四十三歳となったおかやを呼んで対座します。
「おかや、牧二郎もこれで一人前になった、今日まで二十三年、新沼家のためにおまえの尽くして呉れたことは大きい、、」
「明日からは妻がお前に代わる」
「おまえは牧二郎にとって母以上の者だ、」
「妻のいねにも、お前を姑と思って仕えるように云ってある」
「明日からおまえは新沼家の隠居であるぞ、、、」

牧二郎はじっとおかやの眼を見つめます。そして云うのです。
「だから、おかや、おれはお前に白痴の真似をやめて貰いたいのだ、」
おかやは顔色を変えます。
「おまえは白痴でも唖者でもない、おれはそれを知っているんだ、、」
牧二郎は激してくる感情を抑えながら云います。おかやは驚愕の余り身を震わせて大きく眼を見張り、坐りなおしてうつ伏します。

心に残る一冊 その112 「小説日本婦道記」 その十 「二十三年」(1)

小説日本婦道記にある最後の作品「二十三年」は1945年10月の「婦人倶楽部」に掲載された作品といわれます。この雑誌は講談社から創刊され、「主婦の友」や「婦人公論」と並んで読まれたといわれた月刊誌です。

主人公は、新沼靭負という会津蒲生家の武士です。”靭負”は”ゆきえ”と呼ばれます。靭負は御蔵奉行に属し、食録は二百石余りでした。まじめで謹直なところが上からも下からも買われて、平凡ながら極めて安穏な暮らしをしてきます。しかし、主家の改易があり、下野守忠郷が病没すると嗣子がないことが原因で会津蒲生家は改易となります。多くの者は寄る辺を頼り、また他家へ仕官して、思い思いに城下から離散していきます。1611年に起こった会津地震も藩内を大きく揺さぶります。

   下野守の弟にあたる蒲生忠知が伊予の国松山藩で、二十万石で蒲生の家系をたてているというので、会津藩の人々は松山藩に召し抱えられたいと希望します。靭負もその中の一人です。靭負は妻のみぎを亡くし乳飲み子を抱えています。貯えも多くはないので、家士や召使いには皆暇を遣りますが、「おかや」という婢は独りどうしても出て行きません。おかやには両親はいませんが、兄の多助はおかやに度々、良縁があるからお暇を頂くようにと云ってきます。おかやはまだ早すぎると答えるばかりです。

仲間が欠けていくのを見送りながら靭負は独りで松山に行くことに決めます。
「松山にお供させて頂きます」 とおかやは云います。

仕官の見通しもなく、浪人の身で給金さえ遣りかねるときがくるといって靭負はおかやへ家へ帰るように云います。
「ではせめて坊さまが立ち歩きをなさるようになるまで、、、」
靭負は多助に家に戻るよう申し訓えてくれるように頼みます。多助の訓が功を奏したのか、おかやは案外すなおに云うことをききます。靭負は牧二郎を抱いておかやと多助が出て行くのを見届けます。しかし、おかやは八幡様の崖の下で倒れているのが見つかり、戸板に乗せられて靭負の家に運び込まれます。医者は「脳の傷みがひどく、ひと口でいえば白痴のようになっている」と云います。

心に残る一冊 その111 「小説日本婦道記」 その九 「尾花川」

膳所藩は近江国大津周辺にあった藩で彦根藩に次ぐ譜代藩です。関ヶ原の戦のあと、幕府が全国の諸大名に命令し行わせた土木工事が天下普請。膳所城はその第一号と云われます。京都の東の守りを固める目的で築かれたようです。藩主家は本多家です。藩政安定化のため、漁民を保護してしじみの豊漁を奨励したことで知られていました。

幕末期、頻繁に異国船が渡来し各地で尊王攘夷の声があがっていた頃です。膳所藩も攘夷派と佐幕派が対立しています。河瀬太宰は尊王攘夷の波の中にいます。やがて佐幕派が藩内で力を盛り返します。あるとき、将軍家茂が膳所城に宿泊することになっていたのですが、藩内に不穏な動きがあるというので、宿泊は取りやめとなります。藩は恥をかくのです。そのため藩は尊攘派の藩士を検挙します。

河瀬宅は琵琶湖から離れ近くに尾花川が流れ、屋敷も広く幕吏の追捕を逃れる者にはいい隠れ場所でした。尊攘派の同志は河瀬の家に、我が家のようにやってきて静かな一時をすごしたり、志を語りあいます。幸子は客人を温かく迎え酒食も費用をいとわず気を配ります。客人をして「百日の労苦が一夜で癒される」と云わしめたくらいです。

太宰の妻幸子はゆったりした体つき、口数は少ないのですが、はきはきとしたなかに温かい包容力をもった婦人です。年齢からも気性からも老臣の五男に育った太宰には姉という感じで、一種の圧迫感を受けるばかりでした。太宰は膳所藩の家臣です。

やがて幸子のもてなし方がよそよそしくなります。安い鮒を買い、酒はもうないといって食事をだしたりして、吝嗇にちかいもてなしなのです。太宰がそのことを尋ねると幸子は云います。この家へ立ち寄りくださるときくらいは、身にかなうおもてなしをして、せめて一屋なりとも心からご慰労もうしたい、そう考えて至らぬながら酒肴の吟味もしてきた、しかし、この世情不安の中で、いまは禁裏でさえ食べるものに難儀しているという、事に身を捧げる志士の日夜のご辛労はどれほどか、それなのに酒肴を吟味するなど許し難い行為だ、と云うのです。

幸子は太宰に云います。「ひともわれもできるだけ費えをきりつめ、あらゆるものを捧げて王政復古の大業のお役にたてなければなりません。」

太宰は妻の言葉を聞いておのれの迂闊さを恥じ入り、決意します。どんな人間よりも謙虚に、起居をつつしみ困苦欠乏とたたかって大業完遂の捨石とならなければと、、、

心に残る一冊 その110 「小説日本婦道記」 その八 「風鈴」

主人公、弥生の良人は扶持が十五石の加内三右衛門です。息子は与一郎といって毎日剣術の稽古に励んでいます。弥生の両親は他界しましたが、妹が二人います。小松は百樹家という二百五十石の寄合いの妻に、津留は三百石の家に嫁いでいます。

二人は時々姉のところに遊びにやってきます。ひさしに古雅な青銅の風鈴をみて、この家には色彩がない、調度品もみなくすんでいるなどと指摘します。しきりに姉に対して、もっと華やかで豊かな暮らしをするように云いいながら風鈴を箪笥の引き出しにしまうのです。
「お姉様はこんなにして、一生を終わってよいのでしょうか」
「いつまでも果てしのない縫い張りやお炊事や煩わしい家事に追われ通して、これで生き甲斐があるのでしょうか」
「そしてお姉様は、やがて小さなおばあさまになっておしまいになさるのね」

三右衛門は火鉢に手をかざしながら、一冊の写本をひらいてみます。妙法寺記というものです。そこに勘定奉行の岡田庄兵衛という老人が訪ねてくきます。そして三右衛門に奉行所へ替わるよう推挙したいと云います。ところが、三右衛門は現在のお役に馴れてもいるし、自分の性に合っていると云いいます。
「はじめ御書庫の中で分類朝年代記というものを拝見しておりました」
「飢饉の条のあまりに多いことから思い切って詳しい年表を作ってみようと思いました」

庄兵衛が三右衛門に訊きます。
「然し、そこもとの多忙なからだで、どうしてこんなむつかしいことを始める気になったのだ?」 
三右衛門は答えます。
このように年次表に書き上げますと飢饉のくる年におよそ周期があるのです」
「凶作があって一年めに飢饉の続くことがもっとも多く、次に五年、ないし六年目にくる例が非常に多い、この年次表が完成して周期の波がはっきりわかるとすれば、藩の農政のうえにかなり役立つと思うのですが、」
「たしかに、、」 庄兵衛は大きく頷きます。
「そうすれば冷寒風水による原因もわかって耕作法のくふうもあろうし、荒凶に対する予備もできるだろう、」

ですが、庄兵衛は云います。
「勘定所つとめではさきも知れているし、殊にそこもとの仕事は気ぼねばかりが折れて酬われることが少ない、まったくの縁の下の力持ちで、わしも役替えするほうがよいと思うがな、、」

「役所の事務というものは、どこに限らずたやすく練達できるものではございません、勘定所の、ことに御上納係は、その年々の年貢割をきめる重要な役目で、常づね農民と親しく接し、その郷、その村のじっさいの事情をよく知っていなければならぬ、これには年数と経験が絶対に必要です、単に豊凶をみわけるだけでもわたしは八年かかりました、そして現在ではわたしを措いてほかにこの役目を任すことのできる者はおりません、」
「、、、、それとも誰かわ私に代わるべき人物がございましょうか」
「正直にもうして代わるべき者はない」 庄兵衛はそう呟きます。

三右衛門はこう続けます。
その人たちには、私が栄えない役を務め、いつまでも貧寒でいることが気の毒にみえるのです、なるほど人間は豊に住み、暖かく着、美味をたべて暮らすほうがよい、たしかにそのほうが貧窮であるより望ましいことです、」
「貧しい生活をしている者は、とかく富貴でさえあれば活きる甲斐があるように思いやすいのです」
「然しそれでは思うように出世をし、富貴と安穏が得られたら、それでなにか意義があり満足することでできるでしょうか」
「たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない、人間と生まれてきて、生きたことが、自分にとってむだではなかった、世の中のためにも少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います」

隣で二人の会話を聞いていた弥生は身震いをします。
「そうだ、少なくとも良人や子どもにとってかけがえのない者にならなくては、、」
箪笥にしまっていた風鈴を弥生は思い出します。それを吊ると久しく聞かなかったチリンチリンという澄んだ音が響きわたります。

心に残る一冊 その109 「小説日本婦道記 その七 「不断草」

「もう少し気を働かせないといけませんね、」姑が云います。
姑は両眼が不自由です。勘が悪く、起きるから寝るまでいろいろと菊枝の介添えが必要でありました。それでも姑は息子、登野村三郎兵衛のことになるとまるで菊枝に同情がなくなります。三郎兵衛も菊枝に刺々しい言葉遣いとなります。菊枝は神経が昂ぶり、幾夜も寝られない日が続きます。

菊枝の父は仲沢庄大夫で上杉家の三十人頭です。半年後、仲人の蜂屋伊兵衛がきて離縁と決まります。そして荷をかたづけていると種子の袋を見つけます。「唐苣」、とうちぎ、またの名を不断草です。時なしに蒔き、いつでも柔らかい香気のある葉がとれます。姑にはなによりの好物でした。

上杉家の若き主君、弾正太弼治憲は非常に英名の質があり、家督を継ぐとかなり大胆な藩政の改革をします。その改革を心よからずと思う家臣がいて五十カ条にあまる訴状をもって治憲に迫るのです。治憲は果断なく機先を制し、訴状を退けます。訴状を出したもののなかに登野村におりました。そのため扶持を返上し退身します。母親は農家の預けられます。

菊枝は思うのです。良人が離縁を迫ったのは、この事件の結果を知っていてその累を菊枝に及ぼしたくなかったためかと。そして自分は登野村を出るべきではなかったと気がつくのです。

父、仲沢庄大夫の前にでた菊枝は云います。
「これから登野村の老母のもとへ行きたいのです」
「お前には、、」
「ならぬと申したらどうする、」
「わたしを義絶していただきます」
こうして菊枝は父から勘当されます。

村の名主、長沢市左右衛門に事情を包まず話し、老母のみとりをさせて貰いたいと頼みます。そして菊枝だということを内密にして欲しいとも云い添えます。市左右衛門は菊枝を連れて隠居所へ行きます。
「ようやくおまえさまのお世話をしてくれる者が見つかりました」
「わたしもこのとおり、眼の不自由なからだです」
「いろいろ面倒であろうが、よろしくお願いいたしますよ」
「もったいない仰せでございます、秋ともうします」
菊枝は気づかれないようにと、つぶやくような声でそう云います。

あくる朝、菊枝は隠居所の横にひらける畑の隅に唐苣の種子を蒔きます。やがて全部の種子が芽生え、小さな柔らかいあさみどりの双葉がびっしりと生えてきます。ある夜、菊枝は初めて唐苣を採って食膳にのぼらせてみます。
「これは唐苣ですね」
「、、、はい」
「お気に召しましてうれしゅうございます」

老母の許に一通の封書が届けられます。
「倅からきた文です」
倅とはかつての菊枝の良人です。文面は三郎兵衛の病臥の知らせです。菊枝は胸のふさがるおもいで姑に読み聞かせます。やがてしずかに盲いた面をあげて云います。
「おまえ、みとりにいってお呉れ」
「、、、、、、」
「おまえ、おどろいておいでのようだね」
「わたしおまえに気づかなかったとでも思っておいでだったの」
「でもね、わたしはね菊枝どの、わたしはここへ移るとすぐきっとあなたが来てお呉れだと思っていました」
「お姑上さま、」
「きっとお呉れだと、、、わたしはあなたのお気性を知っていましたからね」
菊枝は堪りかねて姑の膝へすがりつきます。

心に残る一冊 その108 小説日本婦道記 その六 「糸車」

主人公、お高の父は依田啓七郎という松代藩五石二人扶持です。二人扶持とは、1年間に二人分の生活費として米十俵の扶持米を貰える身分ということです。つつましい暮らしです。実直で温厚、しかし卒中で倒れ殆ど寝たり起きたりの生活をおくっています。十歳になる松之助という息子がいます。妻は松之助が三歳のとき亡くなります。

お高の実の父は西村金大夫で、松本藩の勘定方頭取をしていて五百五十石の身分です。実の母がお梶です。かつて西村家には子どもがたくさん生まれ、養育することにもこと欠くありさまでした。そのため松代藩の依田啓七郎にお高を遣ったのでした。その後、不思議なほど幸運に恵まれ西村金大夫は勘定方に出世したのです。

お高は依田家で木綿糸を紡いで生計のたしにしています。お高が織った糸束を会所に持って行くと係の老人が云います。
「わずかの間にたいそう上手になられたな、」
「そなたの糸は問屋でも評判になっているそうだ」
「ひとつには孝行の徳かもしれぬが、、」

夜、父の肩をもんでいると父は云います。
「おまえあした松本へゆくのでがな、」
「松本ではお梶どのがご病気だそうな、おまえさんに一目逢いたいから四五日のつもりで来てくれるよう、お使いの者がきたのだ」

お高が西村家に着くとお梶女が云います。
「依田どのからあなたにあてた手紙です」
こんど松本におまえを帰すにあたってはいろいろ考えた、西村からこれまでの養育料としてかなり多額のたいもつをくれる話があり、それだけあれば自分の田地を買って松之助と二人、安穏にくらしていける、おまえも西村のむすめとして仕合わせな生涯にはいれるだろう、という内容でした。

その手紙を読んで、お高は父から松本へゆけといわれた夜のことを思い浮かべます。お高に肩をもませながら、こちらに背を向けて自分の辛い顔をみせたくなかったのです。

実の母、お梶にお高は云います。
「思し召しはよくわかりました。ほんとうに有り難う存じますけれど、私はやはり松代へ帰らせていただきます」

「ただいま戻りました」
「どういうわけで帰った?」
「持たせてやった手紙は読まなかったのか、」
「拝見いたしました」
「おゆるしください、父上さま、」
「わかっておりますけれど、お高はいちどよそへ遣られた子でございます」
「乳ばなれをしたばかりで、母の懐からよそへ遣られたお高を父上さまは可哀そうと思ってはくださいませんか?」
「もし可哀そうだとお思いくださいましたら、ここでまたよそへ遣るようなことはなさらないでくださいまし」

「だが、西村はおまえにとって実の親だ、西村に戻ればおまえは仕合わせになれるのだ」
「いいえ、仕合わせとは親と子がそろってたとえ貧しくとも、一椀の粥を啜りあっても親と子が揃って暮らしていく、それがなによりの仕合わせです」
「お高にはあなたが真実のたった一人の父上です、亡くなった母上がお高にとってほんとうの母上です、この家のほかにわたしには家はございません」
「父上、」と叫びながら松之助が走り寄ってきます。表で二人の話を聞いていたのです。
「どうぞ姉上を家においてやってください!」

「西村どのには父から手紙を書く、もう松本には遣らぬからと」
松之助は姉の膝へとびつき、涙に濡れた頬をすりつけながら声をあげて泣き出すのです。