北方領土を考える その三 択捉島

とても読むのが難しい地名が「択捉」です。「択捉島」という名称で始めて読める漢字ではないでしょうか。択捉島は「北方領土」の中で最大の島であり、島の大きさは、本州・北海道本島・九州・四国に次ぎます。英語名では「Iturup」。何となく「単冠」という当て字から由来するような英語です。後述しますが、択捉島の単冠湾(ヒトカップ)は歴史的に有名な地域です。

Ìåñòî äëÿ îòäûõà òóðèñòîâ íà ãîðÿ÷åì èñòî÷íèêå ó ïîäíîæèÿ âóëêàíà Áàðàíñêîãî. Êóðèëüñêèå îñòðîâà, îñòðîâ Èòóðóï.

@–k•û—Ì“y@‘𑨓‡

さて、択捉島は国後島の2倍、沖縄本島のおよそ2.7倍もあります。北方諸島の中でも最大の島です。日本の島々と比較すると次のようになります。択捉島>国後島>沖縄本島>佐渡島>奄美大島>対馬>淡路島という順になるほど大きいのです。火山の島で温泉に恵まれ、今も地熱発電による電力が供給されています。漁業資源はもとより金鉱などの地下資源もあり、その開発が待たれているといわれます。

第二次世界大戦末期、1945年8月28日に日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍により武力占領され、現在はロシア連邦の不法な実効支配下にあります。ロシア側行政区においては、国後島や色丹島とは別の行政単位であるサハリン州クリル管区に位置付けされています。

1946年1月、連合国軍最高司令部 (GHQ)から命令が下ります。日本の北方四島を含む千島列島の施政権を停止させるものです。しかし、この命令は日本の千島列島の領有権の放棄を命じたものではないことを知っておくべきです。かつての琉球や小笠原諸島のアメリカによる施政権の行使と同じです。

ソ連の占領後は、同島における日本人とロシア人との混住状態が1年以上続きます。日本人の本土引き揚げは、1946年12月から本格的に始まり1948年までにおおむね終了します。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

北方領土を考える その二 国後島と択捉島とアイヌ語

プーチン大統領と安倍総理との山口と東京における鳴り物入りの会談が終了。ロシアは「人たらしの術」によって北方領土はにべもなく、双方は四島については「特別制度による検討」、「共同経済活動」とやらで合意したそうです。経済協力先行を主張するロシアの手練手管に翻弄されたようです。

日露首脳会談

北方諸島の名称のことです。アイヌ語で「草の島」を意味するのが「国後」。アイヌの人々は「キナシリ」と呼んでいました。アイヌ語で「岬のあるところ」を意味するのが「択捉」。アイヌの人々は「エトゥ・ヲロ・プ」と呼んでいました。

択捉島の中心は紗那、しゃな、という部落でした。アイヌ人は「流れ下る川」を意味する「サンナイ」と呼んでいたとされます。戦前生まれの人なら択捉島を知らなくて単冠湾を知っているでしょう。そうです。真珠湾攻撃前に極秘裏に帝国海軍の連合艦隊が集結した場所です。アイヌ語で「ヒトカップ」と呼ばれました。ヒトカップとは「山葡萄の樹皮」を意味したようです。

国後島に住んでいたアイヌ人が「チャチャ」、または「チャチャヌプリ」と呼んでいた山があります。チャチャには「爺々」という当て字がついています。「チャチャヌプリ」とはアイヌ語ではお爺さんの山という意味だそうです。

樺太ですが、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味する「ヤンケモシリ」と呼ばれ、 北海道アイヌ語では「カラプト」と呼ばれたようです。江戸末期、松前藩の記録には「唐渡之嶋」とあるようです。

私が樺太で生まれた町は真岡(まおか)の由来です。真岡はアイヌ語で「マオカ」。その意味は「静かな場所」、もう一つは「マ・オカ」で川口が入江になっている海岸という意味だそうです。今はホルムスクと呼ばれています。最も大きな町は豊原でした。豊原の旧名は「オロコトイ」です。アイヌはウイルタ族をオロッコと呼んでいました。オロッコ・トイ(オロッコ族・原)からきた地名とあります。

先住民族のアイヌ、オロッコ(Orok)、ギリアーク (Gilyak)は北方諸島の地名と切っても切り離すことができません。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

北方領土を考える その一 北方諸島とアイヌ語の地名

ウラジミール・プーチン (Vladimir Putin)大統領が来日しています。山口と東京における安倍総理との会談がどんな成果を生むかが注目されます。会談の一つに北方問題を取り上げられるようです。日ロの平和条約に関して安倍総理は「新しいアプローチに基づく交渉」とか「特別制度による共同経済活動」とやらで臨んでいるようです。経済協力先行を主張するロシアは領土問題を棚上げしたいのは目に見えています。

国家の主権の大事な要素は領土、そしてそこに住む民族です。領土の帰属を主張する根拠とは、誰が見つけて占有を宣言するかではなく、誰が先住していたかということが20世紀以降の国際通念です。北方領土問題は占有と先住を巡る解釈、そして力関係です。そうたやすく解決する問題ではなさそうです。100年はかかるかもしれません。樺太生まれの北海道育ちの私も日ロの平和条約と北方問題の解決には大いに関心を持っています。

北方領土における千島や樺太、そして北海道にはアイヌ語を語源とする地名などが沢山あります。私が生まれた樺太の真岡は、アイヌ語の「マオカ」で静かな場所、「マ・オカ」という呼び名もあり、これは「川口が入江になっている海岸」という意味だそうです。小さいとき育った美幌はアイヌ語の水多く、大いなる所を意味する、「ピ・ポロ」、稚内はアイヌ語の「冷たい飲み水の沢」を意味する「ヤム・ワッカ・ナイ」、名寄はアイヌ語の渓流に注ぐ口という意味の「ナイオロプト」、旭川はアイヌ語で忠別川を指す「チュプ・ペッ」と呼ばれていました。「チュプ」は「日」、「ペッ」は川の意味でやがて「旭川」となったという説です。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その三十 「さまよえるオランダ人」

リチャード・ワーグナー(Richard Wagner) 作曲のオペラに「さまよえるオランダ人」 (The Flying Dutchman) があります。「楽劇王」と呼ばれたワーグナーです。「ニーベルングの指輪」(The Ring of the Nibelung)、「タンボイザー」(Tannhäuser)、「ローエングリン」(Lohengrin)、「トリスタンとイゾルデ」 (Tristan and Isolde) などを作曲しています。ブリタニカ国際大百科事典によりますと、楽劇とは 「ギリシア悲劇への復帰を理念とし,神話や伝説に題材を求め,言葉,音楽,身ぶりの融合によって総合的な劇作品となったもの」 とあります。私には歌劇と楽劇の違いはよく判別できませんが、、、

「さまよえるオランダ人」の話です。アフリカ最南端の喜望峰(Cape of Good Hope)で、オランダ人船長ファン・デル・デッケン(Hendrik van der Decken)が風を罵って呪われます。そして船は幽霊船となり、船長はたった1人で最後の審判の日まで彷徨います。船は今も湾に入れず近海をさまようという物語です。1780年代の話で、オランダは大航海時代のときで、世界を席巻していた貿易大国の裏話のようです。

「さまよえるオランダ人」のドイツ語は「Der fliegende Holländer」とあります。 “Holländer”には「オランダ人」のほかに「幽霊船」という意味があるそうです。”fliegende”とか”flying”が形容詞となっていますから「さまよえる幽霊船」 と訳すのも可能です。

“The Flying Dutchman”ですが、これを「空飛ぶオランダ人」と意訳してサッカー選手にも使われました。オランダの世界的な元サッカー選手にヨハン・クライフ (Johannes Cruijff) がいます。位置はフォワードとミッドフィールダー。柔軟なボールタッチで相手のタックルをはずし、フェイントで飛び越えたプレーに「空飛ぶオランダ人」とニックネームがつきました。さしずめ日本では釜本邦茂といったところでしょう。柔道や卓球、スピードスケートなどスポーツの盛んなオランダです。

これで「木枯らしの季節とオランダ」の話題は尽きました。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十九 ヨハネス・フェルメール

日本人好みというか、親近感の高い画家として挙げられるのがフェルメール (Johannes Vermeer) のような気がします。どこでも見られるような庶民の生活を描いた風俗画や街や田舎の風景が描かれています。オランダ絵画の黄金期17世紀オランダにおいて最も傑出した画家の一人で、Encyclopedia Britannicaでは、「たった36の絵画しか現存しないが、レンブラントと並ぶ17世紀オランダ人画家の最高峰とあまねく認められている」とされています。

その絵画ですが、人物では「レースを編む女」(Lacemaker)、「ギターを弾く女」(Guitar Player)、「牛乳を注ぐ女」(Milkmaid) 、「真珠の耳飾りの少女」(Girl with a Pearl Earring)、水差しを持つ女 (Young Woman With a Water Jug)、青衣の女 (Woman in Blue Reading a Letter)、窓辺で手紙を読む女 (Lady Reading a Letter)、手紙を書く女(Lady Writing a Letter) など女性がしばしば描かれているような印象を受けます。「娼婦」(The Procuress)の絵もあります。

どれも室内で描かれているせいか、なんとなく弛緩した時間の中に、庶民の暮らしが切り取られているような感じがします。どの絵からも日常の姿が描かれています。そしてどれも暖かい息遣いが伝わってきます。風景画に「デルフトの眺め」(View of Delft)がありますが、住んでいたデルフトの自宅からの風景のようです。自宅にある家具や食器が別な絵にも描かれているそうです。

宗教絵画の巨匠ともいわれるのがフェルメールです。なかでも有名なのが「マルタとマリアの家のキリスト」(Christ in the House of Martha and Mary) です。この絵の下敷きは、ルカによる福音書10章38~42節 (Luke 10:38-42)のエピソードです。ベタニア村(Bethany)に住む 姉マルタ(Martha) と妹マリア(Mary) の家に主イエスが訪れた時、主の説教に聞き入り、もてなしの手伝いをしない妹マリアを姉マルタが咎めるも、イエスは「マリヤはその良いほうを選んだのだ。彼女からそれを取り上げてはいけない」といってマルタに言い含めるのです。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十八 フィンセント・ファン・ゴッホ

私は絵画でも素人ですが、鑑賞は好きです。アムステルダムでは国立美術館とともにファン・ゴッホ美術館 (Van Gogh Museum) も立ち寄るべき所です。彼の描いた200点の絵画、風景画、静物画、沢山の手紙類が展示されています。

ポスト印象派の画家。日本ではヴァン・ゴッホ (Vincent van Gogh)と呼ばれていました。わたしも高校時代にはそう習いました。ですがオランダ人は「ファン・ゴー」と発音します。姓の一部であるVanは省略しないのです。ちなみにアルファベットの [V] はファ、[J] はイャというように発音します。オランダ語、ドイツ語、英語が混在して「Vincent van Gogh」の読みが日本では混在している印象を受けます。ここではオランダ表記とします。

ファン・ゴッホの主な作品の多くは1886年以降のアルル (Arles)とサンーレミ (Saint-Remy)にあったサンポール・ド・モゾル修道院 (St. Paul de Mausole)の精神病院での療養時代に制作されたといわれます。アルル地方は地中海性気候で、暑く乾燥した長い夏、穏やかな冬で知られています。療養しながら制作に打ち込むのに適した土地だったようです。ファン・ゴッホは感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、後期印象派を代表する画家といわれます。

印象派の絵画は、時間や季節の中に輝く光と色彩の変化を細かく描写します。人々が日常生活で醸す動きなどを詳細に描くことなどにも特徴があります。モネ (Claude Monet) やルノワール (Pierre-Auguste Renoir) などの作品をみるとそれがわかります。ところがブリタニカ国際大百科事典によればファン・ゴッホなどの後期印象派とは、 「印象派絵画の批判を継承しつつ、厳密な形態の復活、原始的な題材や激しい色彩の導入など」 に独自の特徴があるといわれます。

絵画のことは私にはよく分かりませんのでこの位とします。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十七 レンブラント・ファン・レイン

アムステルダムに行ったとき、ダウンタウンにある国立美術館に立ち寄りました。そこでレンブラント (Rembrandt van Rijn)の「夜警」 (De Nachtwacht)をみました。市民の自警団が集団の肖像画を発注した絵の一つです。描かれて人物は銃や槍、太鼓、旗を手にしています。各団員はそれぞれ表情を見せて異なった方向に体を向けています。皆帽子を被り服装もまちまちです。火縄銃に弾を込める団員もいます。子どもや犬も描かれています。完成は1642年とあります。光と影の明暗を明確にする技法を駆使したバロックの黄金期を代表する絵画の傑作といわれています。

バロック絵画の時代は宗教画や歴史画が頻繁に描かれます。当然レンブラントも宗教画、歴史画をたくさん描いています。例えば「放蕩息子の出戻り」(Return of the Prodigal Son)があります。ルカによる福音書15章11節(Luke 15:11-32)が主題です。この絵はただの宗教画ではありません。キリストもマリアも弟子も十字架も描かれていません。息子を抱く慈愛に満ちた父親、冷ややかに弟の帰りを見つめる兄弟がいるだけです。聖書のエピソードを情感を込めて描いた新しい宗教画といえましょう。

「夜警」を描く頃、レンブラントは家族の不幸に見舞われます。妻のサスキア(Saskia)との間に生まれた四人のこどものうち三人を亡くします。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子だけだったようです。「夜警」が制作された1642年にサスキアも亡くなります。画家としての名声を確立するのですが、家族との別れや経済的な困窮に苦しめられた晩年生活であったと記録されています。光と影の絵にレンブラントの生涯が描かれているのでしょうか。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十六 ピーテル・パウル・ルーベンス

ピーテル・ルーベンス(Peter Paul Rubens) のことは、本ブログ[その十八 オランダとフランドル]で児童文学書「フランダーズの犬」の物語に少し触れました。 オランダを代表する不世出のバロック期のフランドル(Flandern) の画家といわれています。祭壇画 (altarpiece)、肖像画(portrait)、風景画 (landscape painting)、神話画 (mythology)や寓意画 (allegory)も含む歴史画 (history paintings) など、様々なジャンルの作品を生みます。ルーベンスはアントワープ (Antwerpen) で大規模な工房を経営し、そこで作品を生み出します。それらはヨーロッパ中の貴族階級や蒐集家間でも高く評価されたようです。残した作品はスケッチを除いて1,403といわれます。

壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物、タペストリー(tapestry)やそれを印刷したもの、自画像(self painting)、さらには自分の家までも設計しています。ルーベンスは画家としてだけではなく、古典的知識を持つ人文主義学者、美術品収集家でもありました。八ヶ国語に精通し、社交家として外交官としても活躍します。宮廷や富裕層から注文が殺到したといわれます。スペイン王フェリペ四世 (Felipe IV) とイングランド王チャールズ一世 (Charles I) からナイト (Knight) の爵位を受けています。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十五 バールーフ・デ・スピノザ

私は哲学や神学についてずぶの素人。一介の信徒として神学には僅かに関心があります。個人的な興味からオランダ人であり神学に触れているスピノザの汎神論を調べることにします。

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza) は、オランダが輩出した哲学者です。デカルト (Rene Descartes)やライプニッツ(Gottfried Leibniz)と並ぶ合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論者(pantheism) と考えられてきました。

さてスピノザは、神は超越的な原因ではなく、万物の内在的な原因なのだというのです。どういうことかといいますと神とはすなわち自然のことで、自然とは人や物も含めたすべてのものと主張します。神と世界は相即的であって、それは同一の実在の二つの名称であると考えます。これは一元論的(monism)汎神論と呼ばれます。

スピノザが1677年に著した倫理学の哲学的研究書にエチカ (Ethica) があります。邦訳「エチカ-倫理学」として岩波書店から発行されています。これによりますと、彼の一元論が明快に描かれています。万物に原因があり、またそれ以上探求することができない究極的な原因が存在するとします。この究極的な原因が自己原因と定義されるものであり、これは実体、神、自然と等しいという立場です。神は無限の属性を備えており、自然の万物は神が備える無限の属性の様態であるというのです。こうした一元論はキリスト教やユダヤ教神学者から猛烈な批判を受けるのは必至でありました。

スピノザは、デカルトらの二元論 (dualism)を批判します。二元論とは原理としては善と悪、要素としては精神と物体などといった構成からなります。機械論的な存在である物質と思推といった実体が持つ能動性、いいかえれば自由意志の担い手という構成です。スピノザは、神即自然という一元論の立場から、自由な意志によって感情を制御する思想を認めません。心身合一という帰結として、独立的な精神に宿る主体的で自由な意志が受動的な身体を支配する、という構図を破棄するのです。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないのだ、意志とか理性を個々の意志発揚の原因として考えられないのだ、とさえ断言します。誠に強烈な主張です。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

木枯らしの季節 その二十四  デジデリウス・エラスムス

オランダと日本との通交や「蘭学事始」から少し離れます。時代は16世紀のことです。オランダの著名な人文学者、ヒューマニストにデジデリウス・エラスムス (Desiderius Erasmus) がいます。 彼はカトリック(Catholic)の司祭、神学者、哲学者でありました。ロッテルダム (Rotterdam)の出身です。当時、ラテン語名には出身地をつける慣習があったそうで周りから「ロッテルダムのエラスムス」(Erasmus of Rotterdam)とも呼ばれました。

エラスムスは1509年にエッセイの 「愚者礼賛」(The Praise of Folly)を著します。愚かしい女神モリア (Moriae) が主人公です。彼女は雄弁、軽妙で洒脱、貴族や聖職者、神学者、哲学者ら権威者をやり玉にあげます。ローマカトリック教会の迷信を悪用する堕落したありさま、さらに人間の営為の根底には痴愚の力が働き、人間は愚かであればこそ幸せなのだ、と痛烈な風刺を交えた荒唐無稽ながらまじめな内容です。このエッセイは、聖書伝説やギリシアやローマの古典からの詳しい引用が根拠になっています。

文献に基づく確かな知識が大切であることを主張したのがエラスムスです。そのことは1516年に刊行した「校訂新約聖書」にも示されています。ギリシア語やラテン語の原典に立ち戻って新約聖書を改訂するという作業であります。彼は聖書を忠実に文章化し、地位や貧富、老若男女、言語の相違を越えて誰でもが聖書を読み、聖書にもとづく生活をできるようにするべきだと考えます。当時としては画期的な主張です。ラテン語で書かれた聖書を民衆は読むことはできなかったのです。

このようなエラスムスの主張はルターの改革理念である「万人祭司主義」(Universal Priesthood) を先取りしていたのです。聖書を民衆のものとすることをルター( Martin Luther)に先立って叫んだのです。ルターが1517年に提起した「九十五ヶ条の論題」 (The Ninety-Five Theses)で始まった宗教改革(Reformation)をして、「エラスムスが産んだ卵をルターがかえした」といわれる所以です。忘れてはならないオランダを代表する世界的な人文学者です。

[contact-form][contact-field label=’お名前(公表することはありません)’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]