アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その57 『Mother of Presidents』とヴァジニア州

ヴァジニア州(Virginia)はチェサピーク湾(Chesapeake Bay)と大西洋に面し、山麓はピードモンド台地(Piedmont Plateau)が広がります。歴史上特に重要な州です。1607年にイギリスが最初に建設したのがジェームズタウン(Jamestown)、ウイリアムスバーグ(Williamsburg)、ヨークタウン(Yorktown)など開拓初期から独立革命にかけての史跡が極めて多いのが特徴です。

Colonial Williamsburg

北東部は首都ワシントンDCに隣接し、ジョージ・ワシントン(George Washington)ゆかりの史跡、マウントヴァーノン(Mount Vernon)があります。モンティチェロ(Monticello)は、ヴァジニア州シャーロッツビル(Charlottesville)にあり、独立宣言の起草委員および合衆国第3代大統領を務めた、トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)の邸宅と歴史的なプランテーションがあったところです。

Village in Virginia

初代大統領はじめ8名の大統領を輩出したので、この州の愛称は「Mother of Presidents」と呼ばれるほどです。州都はリッチモンド(Richmond)です。それまでヴァジニアの主都であったウイリアムスバーグに代わって1779年にヴァジニアの州都となります。リッチモンドは、南北戦争当時は南部連合の首都となりますが、激戦のために市街の大部分は破壊されます。リッチモンドは、化学、食品加工などが盛んで、煙草の集散地でもありフィリップ・モリス(Philip Morris)の工場があります。

Map of Virginia

ヴァジニアは自然にも恵まれた州です。アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)は、アメリカメガロポリス(American Megalopolis)からの利用者で賑わう公園です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その56 『Green Mountain State』とヴァマント州

北はカナダ国境に接するのがヴァマント州(Vermont)です。かつで私は家族と車で州都モントピリア(Montpelier)を訪れたことを思い出します。カナダのモントリオール(Montreal)からの帰りのことです。独立革命のとき、1775年にニューヨーク州ハドソン川峡谷にあったイギリスのタイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を攻略したのがイーサン・アレン(Ethan Allen)率いる植民地軍「グリーン・マウンテン・ボーイズ」(Green Mountain Boys)です。その活躍が名高く記録されています。その軍名が州の愛称となっています。

Vermont walk

誠に小さな州都で人口は約8千人と、全米の州都の人口の中で最も少ないところです。しかし、歴史的な建築物が並び、絵本に出てくるような街並みが保たれているのが特徴です。小さな街には風情があります。最大の都市はバーリントン(Burlington)ですが、それでも人口は5万に満たないところです。

Berlington

ヴァマント州の名前は,「緑の山地」を意味するフランス語 les Verts Monts から派生したといわれます。州内にグリーン山地があり、州の多くは山岳と森林で占められているので「Green Mountain State」とも呼ばれる所以です。メープルシロップ(Maple syrup)の生産が盛んで、アメリカの35%のシェアを誇り全米一となっています。モース・ファーム(Morse Family Farm)では無料のメープルシロップの試食ができる他、農場と博物館も併設されています。秋に州全体で素晴らしい楓–メープルの紅葉が見られるところとしても有名です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その55  クレオールと小泉八雲とケージャン

あらゆる文化の基礎となるのが言語です。クレオール語(creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の人々が、自然に作り上げられた言語(ピジン言語–pidgin)が、次の世代で母語として話されるようになった言語のことといわれます。英語でいえば、ユー・イェスタデイ・ノー・カム(You yesterday no come )といった按配の会話です。文法構造などが簡略化されて、単語をつなぐだけでも会話が成立します。ピジン語が、日常生活のあらゆる側面を使われると、やがてそれが人々の中で母国語化するのです。

前稿では、フランスの植民地であるカリブ海に浮かぶマルティニク島でのクレオール化に触れました。クレオールの人々は次第に少数派となりますが、排他的な努力をして彼らの文化的優越性を守ろうと努力してきました。今では社会的な勢力を失いましたが、風俗、食物、建設にその文化は生き残っています。宗主国フランスによる支配と同化に対抗するために、クレオールとしてのアイデンティティの確立を叫んだのは、前述のグリッサンの他にラファエル・コンフィアン(Raphael Confiant) といった作家です。コンフィアンは、クレオール文学を通して文化的な同化に対して次のような警鐘を鳴らしています。
「我々は西洋の価値のフィルターを通して世界を見てきた。」
「自身の世界、自身の日々の営み、固有の価値を「他者」のまなざしで見なければならないとは恐ろしいことである。」

小泉八雲記念館

クレオールと小泉八雲(Lafcadio Hearn)との関係についてです。彼は、日本に来る前にアイルランドからフランス、アメリカ合衆国で働き、やがて西インド諸島の仏領マルティニク島に住み着いたことがあります。マルティニクでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、文化の多様性に魅了されつつ、旺盛な取材、執筆活動を続けます。それが〈クレオール物語〉〈仏領西インド諸島の二年間〉といった著作です。彼は西洋文明の社会に疑問を抱き、「非西欧」への憧れが彼の中で育っていたことがわかる著作といわれています。八雲はいかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかったようです。それがクレオールの文化に傾倒した理由といえましょう。

Lafcadio Hearn

アメリカ少数文化集団の一つにケージャン(Cajun)があります。ルイジアナ南西部に住むフランス系の住民です。ケージャンの呼称は、アカディア人(Acardia)を意味するフランス語の〈Acadien〉がなまってカジャンとなったものを英語式にしたことから由来します。1604年、最初にカナダ南東部アカディア地方に入植したフランス人が、18世紀に英仏間の植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)のあおりで、各地を転々とし、ルイジアナの低地帯に住み着きます。そして同地域がアメリカに併合の後も周囲から孤立して独自の文化を保ってきました。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その54 ルイジアナとクレオール

クレオール(creole)とは、スペイン語でクリオーリョ(creollo)と呼ばれ、その原義は〈良く育てられた〉といわれます。16世紀にはアメリカ新大陸生まれの純粋のスペイン人を指す言葉として用いられました。その後、拡大解釈され、ヨーロッパ以外のさまざまな植民地で生まれたヨーロッパ人、とくにスペイン人の子孫に用いられました。アフリカから連れてこられた黒人と区別するために、新大陸生まれの黒人がクリオーリョと呼ばれることもあったようです。

クレオールは、アメリカ合衆国では、ルイジアナ地方に植民したフランス人やスペイン人、及びその血を純粋に受け継ぐ者を指します。ニューオーリンズを建設した奴隷労働力の上に優美なフランス的文化を育てた人々がクレオールと呼称されています。クレオールという言葉はしばしば誤用されてきたようです。フランス系やスペイン系と黒人との混血を意味するようになります。

Creole

アメリカ南部のルイジアナ州はもとはフランスの植民地でした。そこに黒人奴隷がサトウキビ農園で働き、白人地主と黒人奴隷との間の、あるいは黒人奴隷の間のコミュニケーションのための言葉が生まれました。それがクレオール語と呼ばれるようになりました。アフリカのさまざまな地域から連れてこられた黒人奴隷は、多くの異なった言語集団に属していたため、彼ら自身の共通の言語を持たなかったのです。そして子ども達はクレオール語を習得していきます。しかし、クレオール語は奴隷の言葉として差別の対象ともなります。クレオール語とは特定のものがあるわけではなく、全世界の旧植民地に広く存在するといわれます。

Creoles

植民地においては、そこで生まれのあらゆるもの、たとえば人、物、習慣、文化などすべてがクレオールと呼ばれるようになっていきます。やがて奴隷解放の機運や運動が起こります。それを促したのはフランス人権思想の影響といわれます。こうしてフランス植民地による奴隷制は、フランス自身の思想によって衰退することになります。そのためアフリカからの労働力を期待できなくなります。やがてアジアの植民地であったインド、中国、レバノンなどから貧しい人々が安い労働力として連れてこられます。こうしていっそう、さまざまな文化要素の混交が起こります。これをクレオール化(Creolization)と呼ばれます。クレオール化を提唱したのは、フランスの植民地の1つ、カリブ海に浮かぶ西インド諸島に位置するマルティニク島(Martinique)生まれの詩人・作家・思想家のエドアール・グリッサン(Edouard Glissant)で、彼のコンセプトは言語、文化などの様々な人間社会的な要素の混交現象を指します。

State Park, Louisiana

フランス領マルティニクの首都はフォール・ド・フランス(Fort-de-France)です。この島にもフランス本国と同様に人権の理念が及んでいきます。知識人の間だけでなく、一般市民レベルでもクレオール語は差別の対象となり、フランス語崇拝が広まっていきます。しかし、フランスへの文化的同化現象は起こりませんでした。1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、マルティニクは同化されるべき植民地の扱いから脱することが出来ず、現在も植民地のままです。自治権が与えられていきますが、独立の問題を先送りにされています。今でも小・中学校ではクレオール語による教育は排除されています。マルティニク島は、アジアやアフリカの植民地に比べ、人口の大部分が他からの移住から成り立っているため、民族主義的地盤が弱いといわれています。フランスへの人口流失が続き、現地の産業は弱小で、フランスへの経済的な依存が続いています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その53 『Creole State』とルイジアナ州

ルイジアナ州(Louisiana)は、アフリカ、フランス、ネイティブアメリカ、カナダ、ハイチ(Haiti)、ヨーロッパ(Europe)など、いくつもの文化が絶妙に混ざり合い、それらが結合して南部のこの州でしか見られない特別な風土や文化を生み出しています。州全体がメキシコ湾大平原の一角を占め、州北部の東境は北米最大のミシシッピ川(Mississippi River)が流れています。ミシシッピ河口部の三角地帯-デルタを中心とした低平な州で湿地帯が多いところです。ルイジアナ州を3回にわたり紹介することにします。

Map of Louisiana

スペインの探検家エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)がこの地に入ったのが1541年。その後1682年にフランス人ラ・サール(La Salle)がフランス領と宣言し、1714年にフランス人集落を作ります。1803年に1500万ドルでアメリカがフランスより購入します。ルイジアナという地名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV)に由来します。この州では、他州で用いられるカウンティ(郡–county)ではなく、キリスト教会の小教区を意味するパリッシュ(parish)を使うという珍しい州です。ルイジアナの州都はバトンルージュ(Baton Rouge)、最大都市はニューオーリンズ(New Orleans)です。

ルイジアナ州の特徴として、クレオール文化(Creolization)に触れなければなりません。この文化は、フランス、スペイン、アフリカおよび先住民文化から色々な要素を取り入れた融合文化であるとされます。クレオール文化は白人クレオールと黒人クレオール両方に属しています。当初クレオールという言葉はフランスまたはスペイン人の子孫で、現地で生まれた白人を指していました。それが後には白人男性が黒人女性との子孫も指すようになり現在に至っています。植民地社会では、ヨーロッパの諸語が正統言語であり、クレオール語は奴隷の「粗野で崩れた方言」とみなされたののもうなずけます。しかし、1970年代以降の地域ナショナリズムの高まりによって、フランス語系クレオール語を中心にクレオール語・クレオール文化復権運動が起こってきます。クレオール語を認知することで多重言語状況を肯定し、それを将来への遺産へつなげようとする運動です。

Southern Cuisine

クレオール文化に並んで、ルイジアナ州の南西部地方に見られるのがケイジャン(Cajun)文化です。ケイジャン文化は、もともとフランス系移民、アメリカ先住民のアタカパス族(Atakapa)、カナダのアカディア(Arcadia)から逃れてきた人々によって形成されます。ラファイエット(Lafayette)という田舎街などに、ケイジャン文化のコミュニティーを見ることができます。人々は湿地の沿岸地帯での漁業や大草原での牧畜で生計を立てています。ケイジャン文化は、素朴な料理とフランス語を話す歴史を特徴としています。

世界的に名が知られるニューオーリンズのことです。「ビッグイージー(Big Easy)」とも呼ばれるこの街は、歴史が豊かで魅力に溢れています。ジャズ、クレオール料理、南部なまり、多文化のルーツ、そしてもちろん世界的に知られたマーディ・グラ・フェスティバル(Mardi Gras Festival)で有名です。カーニバルのお祭りにおいては、マーディ・グラの右に出るものはないといわれます。ところで、なぜこの街が「ビッグイージー」と呼ばれたかです。20世紀初めには、演奏会場の数が多かったたために、ジャズやブルースのミュージシャンのための開催場所として全国的に認められたからであるという説です。 公園での演奏やストリートでのパーティなどで、ビッグイージーは、常に演奏のための憧れのミュージシャンの渇きを受け入れたオープンで支持的な都市、それがニューオーリンズであるというのです。