ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューハンプシャー州・Live Free or Die

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ニューハンプシャー州(New Hampshire)のナンバープレートには「Live Free or Die」と描かれています。「自由を与えよ、さらば死を」という意味です。いわゆるニューイングランド地域の一部で、北部及び北西部でカナダのケベック州(Quebec)、東部はメイン州(Maine)、南部はマサチューセッツ州(Massachusetts)、そして西部はヴァモント州(Vermont)と隣り合っています。

License Plate of New Hampshire


1623年に最初のイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近郊に定住したとき、この地域にはアルゴンキ語(Algonquian)を話す人々が住んでいました。この地域は1641年にマサチューセッツ州の管轄下に入り、1679年に独立した王家の植民地となります。ニューハンプシャーは最初にイギリスの統治を離脱し独立への歩みを踏み出します。1776年にイギリスからの独立を宣言した最初の植民地です。独立宣言後、最初の13州の一つともなります。合衆国の州として最初に憲法を制定した州となります。

Map of New Hampshire

花崗岩の州(Granite State)として知られるニューハンプシャー州は、さまざまな多様性の研究対象の州としても知られています。19世紀後半以来、連合内で最も工業化が進んだ6州の1つでありながら、農業と牧畜が盛んな州として描かれることがよくあります。ニューハンプシャー州は、ヴァモント州と同様に、白人でアングロサクソン系プロテスタント(White-Anglo-Saxon Protestants: WASP)が多数を占める「ヤンキー王国」(Yankee Kingdom)を構成しているといわれます。同州にはフランス系カナダ人、ドイツ人、イタリア人、ポーランド人、その他非英国人を祖先に持つ住民が多数住んでいます。

その政治的評価ですが、ビジネス寄りで保守的ですが、唯一最大の州の資金源は企業利益税となっています。さらに、同州は同性カップル(same-sex couples)のシビル・ユニオン(civil unions)を合法化した最初の州の一つとなっています。 ニューハンプシャー州の地域区分は非常に複雑なので、メイン州(Maine)、ヴァモント州、マサチューセッツ州をほぼ同じ割合で加えて3分の1に分割することを多くの人が提案しているのは興味深いことです。

Downtown Portsmouth

こうした議論はありますが、この州ははっきりとした特徴とかアイデンティティ(identity)を発展させてきました。そのアイデンティティの中心となるのは州政府の倹約のイメージです。ニューハンプシャー州には一般消費税や個人所得税がありません。州レベルでの倹約は町への責任の分散を強調した。市政府はニューイングランドのすべての州に存在しますが、ニューハンプシャーほど独自のサービスを提供する権限や責任を負っている州はありません。

そのアイデンティティのさらにもう1つの要素は、伝統への強いこだわりです。これは、「山の老人」(Old Man of the Mountain)として知られるフランコニア・ノッチ(Franconia Notch)の岩の輪郭によって長い間力強く象徴されているといわれます。 倹約、地方分権、伝統主義、工業化、民族性、地理的多様性の組み合わせにより、ニューハンプシャー州は多くのアメリカ人にとって非常に魅力的な都市となっています。ところでフランコニア・ノッチとは、州立公園のことで、キャノン山(Cannon Mountain)の州営スキー場が起点となっています。キャノン山は頂上の岩の形が山の老人に似ていたそうです。

Colonial Style House

建国後、ニューハンプシャー州は急速に発展します。農業が栄え、河川沿いで製造業が発展します。ポーツマスは造船の中心地となります。現在は主に製造業と観光業が経済の基盤となっていますが、酪農と花崗岩の採石も重要です。合衆国で最も早く大統領予備選挙が行われるので、多くの候補者の最初の試練の場となっています。その後の各州での大統領選挙を予測するうえで重要な選挙となっています。

ニューハンプシャーの州都はコンコード(Concord)という小さな街です。コロニアルスタイルといわれる町並です。植民地時代の木造家屋のデザインを示します。この州で忘れられないところがポーツマスという街です。日露戦争が終わり、当時の大統領ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介でポーツマス条約(Portsmouth Peace Treaty)が締結された街、それがポーツマスです。実に小さな港町です。こんなところで条約が結ばれたのか、と頭をかしげたくなるようなのんびりとした所です。街全体がコロニアルスタイルです。

Treaty of Portsmouth

日露戦争後、講和条約締結交渉の日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアは元大蔵大臣のセルゲイ・ウイッテ(Sergei Witte)です。ポーツマスの博物館に当時の交渉の様子を報道した写真や新聞記事が飾られています。大男のウイッテが小男の小村を威圧するイラストがあります。当時ロシアはヨーロッパの大国、日本はアジアの小国でした。アメリカは太平洋の利権があって日本に同情的な姿勢であったことを伺わせます。

当時日本は戦争のために財政が逼迫して、また、ロシアでは国内で革命運動が起こるなど両国ともこれ以上、戦争を続けることはむずかしい状況にありました。交渉にあたり困難を極めたのは、日本の国民が戦争に勝利したとして、戦勝国としての見返りを期待していたのに対し、ロシアには敗戦国としての認識はなかったようでした。こうした中で、小村寿太郎らは戦争終結のため、困難な外交努力を重ねて条約をまとめ上げていったといわれます。

日本への風刺画

ポーツマス条約では、ロシアは北緯50度以南の樺太(サハリン)を日本に譲渡する、日本の韓国における軍事・経済上の卓越した利益を承認し、日本が韓国に指導・保護・監理の措置をとるのを妨げない、日露両国は満州から同時に撤退し、満州を清国に還付する、ロシアは、清国の承認を得て、長春・旅順口間の鉄道を日本に譲る、ロシアはロシア沿岸の漁業権を日本に譲る、などが定められました。

講和前と講和後の日本地図

交渉の会場となったポーツマス海軍工廠(Portsmouth Naval Arsenal)では、1994年3月に会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されます。

アメリカにはNewが付く州や町がたくさんあります。州ではNew Mexico, New Jersey, ご存じNew York, New London, New Berlin, New Heavenという街もあります。イギリスやヨーロッパ各地からの移民が開拓したことを伺わせます。1769年創立のダートマス大学(Dartmouth College)とニューハンプシャー大学(University of New Hampshire)は州の2大教育機関となっています。

私にとってのニューハンプシャーとの繋がりは、長男の嫁の両親がポーツマスの隣町に住んでいることです。ポーツマスは実に長閑とした綺麗な港町です。条約交渉を伝える博物館は興味ありました。
(投稿日時 2024年3月11日)

ノースカロライナと迫害されたキリスト教徒

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ノースカロライナ州のバーク郡(Burke County)というところの出身で、現在名古屋に住むRon Scronceという友人がいます。この郡にワルドー派(Waldensians)と呼ばれるキリスト教一派の人々が住む、人口4,689人のヴァルデイズ(Valdese)という小さな街があるのを教えてくれました。なぜこの田舎街にワルドー派の人々が定住したかの経緯は興味深いので、リサーチすることを勧められました。Scronce氏はヴァルデイズの隣りのヒッコリー(Hickory)の出身です。以下はワルドー派の信徒がヴァルデイズにやって来るまでの歴史です。

ヴァルデイズ長老教会

バーク郡にあるヴァルデイズは、1893年にイタリア北部のピエモンテ州(Piedmont)のコッティ・アルプス(Cottian Alps)という地域からの移民によってつくられます。今この街には、アメリカ最大のワルドー派のキリスト教会があります。その教会名は、ワルドー派長老教会(Waldensian Presbyterian Church)として知られています。ヴァルデイズには他に20もの教会があります。後述しますが、ワルドー派の信徒は最初の新教徒(protestant)とか最古の福音派運動(evangelical movement)を始めた人々といわれています。彼らは宗教改革の中心人者であったマルチン・ルター(Martin Luther)よりも以前に福音主義を掲げていたのです。

ワルドー派は、宗教改革以前に西方キリスト教内の禁欲運動(ascetic movement)として始まった教会伝統の信奉者です。元々は12世紀後半にフランスのリヨンの貧者(Poor of Lyon)として知られ、この運動は現在のフランスとイタリア国境付近にあるコッティ・アルプス地域に広がりました。ワルドー派の創立は、1173年頃に財産を手放した裕福な商人ピーター・ワルドー(Peter Waldo)で、彼は「使徒的貧困」(apostolic poverty)が完全なる生き方であると説いて信者を獲得していきます。

当時のカトリック教会の一派であるフランシスコ会(Franciscans)が「使徒的貧困」に異議を唱え、さらに地元の司教の特権を認めなかったのでワルドー派の会衆はフランシスコ会と衝突します。そのため1215年までにワルドー派は異端と宣言され破門されて迫害が始まります。

ピエモンテの復活祭の迫害

教皇インノケンティウス3世(Pope Innocent III)はワルドー派の人々に教会に戻る機会を与えると宣言します。ワルドー派の信徒は教会に戻りますが、「貧しいカトリック教徒」(Poor Catholics)と呼ばれるようになります。教徒の多くは使徒的貧困を信奉し続けたので、その後数世紀にわたって激しい迫害を受けていきます。

最も激しい迫害は1655年4月24日に起こります。この迫害と虐殺はピエモンテの復活祭(Piedmont Easter)として知られるようになります。推定約1,700人のワルドー派信徒や住民が虐殺され、この虐殺はあまりにも残忍であったため、ヨーロッパ全土で憤りを引き起こしたと記録されています。

ヘンリ・アルノー


初期の粛清でピエモンテから追放されたワルドー派の牧師にヘンリ・アルノー(Henri Arnaud)がいました。彼はオランダから帰国し、ロッカピアッタ(Roccapiatta)という街での集会で感動的な訴えを行い、武装抵抗を支持する多数派の支持を獲得します。迫害団体との休戦協定が切れる4月20日に備えワルドー派は戦闘の準備を整えます。

1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。

Waldesian Church in Italy

しかし、それでも抵抗するワルドー派の人々はヴォードワ人(Vaudois)と呼ばれ、約200人から300人のヴォードワ人が他の領土に逃亡します。翌年にかけてヴォードワ人は、占拠する土地にやって来たカトリック教徒の入植者とのゲリラ戦を開始します。これらのヴォードワ人は「無敵の人たち」(Invincibles)と呼ばれ、サヴォイア公がついに折れて交渉に同意するのです。「無敵の人たち」は、投獄されている仲間を釈放し、ジュネーブ(Geneva)へ安全に移動する権利を勝ちとります。

やがてサヴォイア公は ヴォードワ人に直ちに退去するかカトリックに改宗することを要求します。この布告により、約 2,800人のヴォードワ人がピエモンテからアルプスを越えてジュネーブに向けて出発しますが、そのうち生き残ったのは 2,490人といわれました。

その後、貧困や社会的差別、人種的な偏見によりヴォードワ人は季節労働者としてフランスのリヴィエラ(Riviera)とスイスに移住します。イタリアのワルデンシア渓谷の故郷の土地は、1690年の戦いの終結以来、増え続ける人口で混雑していました。家族の農場は世代を経て分割され、再分割されていたため、将来の世代に受け継ぐ土地はほとんどありませんでした。そこで南米やアメリカなど他の国に土地を求める決定がなされます。

1892年頃、ノースカロライナ州で土地を売り出すことを知ったワルドー派の2人の先遣隊が、入植が可能かを調べるためにやって来ます。土地の広さは10,000エーカーほどで、一人はこの土地は新しい入植地として適しているだろうと考えます。もう一人は、岩が多すぎて肥沃な土壌が不十分でひどい土地であると考えます。実は後者の見方が正しかったのですが、ワルドー派は集団で土地を購入することに決めるのです。

Outdoor Drama, From This Day Forward

1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な土地での生活を期待します。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。

そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズとなっています。ヴァルデイズでは毎年夏に「今日ここから前進するのだ」(From This Day Forward)という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活、苦難の開拓の歴史を演じる内容です。

ジョン・カルビン

今日の宗教学者は、中世のワルドー派はプロテスタントの原型と見なすことができると説明します。ワルドー派はプロテスタントと歩調を合わせるようになり、やがてカルビン主義(Calvinism)の伝統の一部となります。ヨーロッパでのワルドー派は17世紀にはほぼ消滅して長老派教会(Presbyterian)に吸収されていきます。
(投稿日時 2024年3月7日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ノースカロライナ州・First in Flight

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ノースカロライナ州(North Carolina)といえばライト兄弟(Orville and Wilbur Wright) です。1903年、世界で初の有人動力飛行に成功したのがノースカロライナです。ナンバープレートには「First in Flight」と記されています。

License Plate of North Carolina

大西洋岸にあるノースカロライナ州は、周りをヴァジニア州、テネシー州、ジョージア州、そしてサウスカロライナ州に囲まれています。首都はラレイ(Raleigh)、最大の都市はシャーロット(Charlotte)です。チャペルヒル(Chapel Hill)という町には、実に綺麗なノースカロライナ大学(University of North Carolina-Chapel Hill)のキャンパスがあります。どの町も樫の木の緑が豊かです。

Map of North Carolina

ノースカロライナ州には、16世紀半ばに最初のヨーロッパ人探検家が到着するまでに、すでに 35,000人から50,000人の先住民族がいました。主に海岸平野のタカロラ族(Tuscarora)とカトーバ族(Catawba)、アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のチェロキー族(Cherokee)が住んでいたと推定されています。1524年にジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ(Giovanni da Verrazzano)によって探検され、1585年には新大陸で最初のイギリス人入植地がロアノーク島(Roanoke Island)に設立されます。ロアノーク島は、1663年にカロライナ州の一部となります。

1650年代にヴァジニア州ジェームスタウン(Jamestown, Varginia)のイギリス植民地からヨーロッパの永住者がノースカロライナ州にやって来ます。また、ペンシルバニア州(Pennsylvania)からシェナンドー渓谷(Shenandoah Valley)を通ってピードモント州(Piedmont)に大きな荷馬車道を通ってやって来た人、ヨーロッパから船で来た人もいました。誰もが土地と厳格な階級や宗教的制限からの自由を切望していました。初期のノースカロライナ人は、さまざまな宗教、国籍、経済的および社会的階級を代表する異質な集団でした。

Black Mountains

イギリス国教会(Anglican Church)は18世紀初頭に法律によって設立され、聖職者や典礼の権威を強調しました。それに抵抗した信徒、例えば長老派(Presbyterians)、クエーカー教徒(Quakers)、モラヴィア派(Moravians)、ルーテル派(Lutherans)、改革派(Reformed)、バプテスト派(Baptists)、メソジスト派(Methodists)、そして少数のユダヤ人らが新大陸にやって来ます。こうした人々の国籍は、イギリス、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、スイス、フランス、ドイツに及びます。こうして白人のヨーロッパ系アメリカ人コミュニティは何世紀にもわたって拡大し、21世紀初頭までにノースカロライナ州の人口の4分の3近くに達します。

1830年代後半、現存する最大の原住民集団であるチェロキー族のほとんどがミシシッピ川(Mississippi River)西方の土地に強制移住させられます。この追放は1838年から1839年にかけて起こり、「涙の道」(Trail of Tears)として記録されています。しかし、チェロキー族やその他の先住民族の一部はノースカロライナ州に残り、21世紀初頭までに約10万人のネイティブ・アメリカンが州に住み、ミシシッピ川以東の州では最大の先住民族人口を構成します。

North Carolina Beach

アフリカ系の奴隷は、初期のノースカロライナ州の人口の重要な部分を占めていました。米、藍、タバコ、綿といった労働集約的な作物は、特に1790年代に綿織機が登場してからは、州内での奴隷制度の拡大を促しました。21世紀初頭、アフリカ系アメリカ人は人口の約5分の1を占めていました。

ノースカロライナ州のヒスパニック系(Hispanic)人口は、いまだ少数派ではあるのですが、急速に増加しています。ヒスパニック系コミュニティの規模は、1990年から2000年の間に2 倍以上に増加します。同州に新たに住むヒスパニック系住民の多くは、主に農業や製造業、あるいは州の軍事施設での職を求めてメキシコからやって来た人々です。

1903年12月に,自転車屋をしながら兄弟で研究を続け、弟のオービルが動力機によって12秒間,約37mを飛行しノースカロライナ州沿岸の砂地に突込みます。ただ兄弟が世界初の本当に操縦可能な飛行機を作って飛行に成功したのは,これからさらに2年後のことです。

First in Flight

奴隷労働に基づく18世紀の農業経済は19世紀まで続きました。1861年に連邦から脱退。南北戦争後、脱退命令を破棄して奴隷制を廃止し、1868年に連邦に再加盟します。1940年代にはフォート・ブラッグ(Fort Bragg)を含む全米最大級の軍事施設が置かれ、経済が発展します。農村部の人口が多いのですが、ラレイ・ダーラム(Raleigh-Durham)地域ではハイテク産業が拡大しています。生産物はタバコ、トウモロコシ、そして家具などの製造業が盛んです。ノースカロライナ州の白人と黒人の生活条件の格差は依然として存在しますが、同州ではますます多くのアフリカ系アメリカ人が教育、芸術、スポーツ、ビジネス、政治の分野で重要な地位を獲得しています。

ノースカロライナ州は科学技術の研究開発が非常に盛んなところです。その中心は研究の三角地帯(Research Triangle)と呼ばれるラレイ、ダーラム、チャペルヒル(Chapel Hill)の三つの町です。三つはちょうど三角形のように点在しています。この地域は東部きっての学術や研究エリアで、150もの企業が集中し「東のシリコンバレー」と呼ばれるほど発展しています。

Cape Fear River

農業生産品は鶏卵、豚、牛、牛乳の他にタバコ、大豆が主要なものです。他にも織物、化学工業、電子機器、製紙も知られています。意外なことですが、ノースカロライナ州はカリフォルニア州以外で最大の映画制作を行っている州の1つでもあります。

スポーツも盛んな地です。特に大学バスケットボールとフットボールは全米でも有数です。大学間での競争が激しいことにもよります。デューク大学(Duke University)、ウェイクフォレスト大学(Wake Forest University)、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)、ノースカロライナ大学が競っています。ノースカロライナ大学は、アメリカで最初に生まれた公立大学としても知られています。

Bald Head Island

ノースカロライナには、「タールのついた踵の州」(Tar Heel State)といって「粘り強い、苦境にもまけない州と人々」という意味のニックネームがついています。1987年に私はチャペルヒルにあるノースカロライナ大学でLDの研究者を訪ねたことがあります。その名前と町並みが印象に残っています。
(投稿日時 2024年3月6日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ネバダ州・The Silver State

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ネバダ州(Nevada)のナンバープレートには「The Silver State」とあります。「Home Means Nevada」と印字されたのもあります。西にカリフォルニア州、北にオレゴン州、東にユタ州(Utah)、南にニューメキシコ州に囲まれています。州都はカーソンシティ(Carson City)。最大の街はラスベガス(Las Vegas)となっています。

この地域に人類が定住したのは2万年以上前のことといわれ、先史時代の居住者の証拠である住居跡や岩絵が残っています。初期の居住者はショショーネ族(Shoshone)やパイユート族(Paiute)、ワショー族(Washoe)です。18世紀にはスペインの宣教師が、1820年代には毛皮商人のジョン・フレモント(John C. Fremont)とキット・カーソン(Kit Carson)による大規模な探検と地図作成が行われる前に到着していました。

Map of Nevada

ネバダ人の大多数はヨーロッパ系の祖先を持ち、そのうちの5分の4以上がアメリカ国内で生まれています。ネバダ人のごく一部は、ピレネー(Pyrenean)の故郷から羊飼いとして徴兵されたバスク人(Basques)に祖先をたどります。主にメキシコとキューバ系のヒスパニック系住民が州住民の約4分の1を占め、南東部に集中しています。アフリカ系アメリカ人は主にラスベガスとリノ(Reno)地域に住んでおり、人口の10分の1以下です。パイユート族、ショショーネ族、ワショー族(Washoe)のネイティブ アメリカンはいくつかの居留地に住んでおり、州の人口のほんの一部を占めています。

Valley of Fire State Park


ネバダ州は1848年にメキシコからアメリカに割譲された土地の一部で、ユタ準州(Utah Territory)に含まれました。1859年にヴァジニア・シティ(Virginia City)で豊富な銀鉱脈であるコムストック・ロード(Comstock Lode)が発見されると、入植者が増加します。1861年にネバダ準州となり、1864年にはアメリカ36番目の州となりました。大恐慌の時代にギャンブルが合法化され、近代経済への移行が始まっていきます。フーバー・ダム(Hoover Dam)の建設がネバダ州南部の経済を助けます。伝統的な経済基盤である鉱業と農業は、政府活動や観光業によって影を潜めていきます。

ネバダという名前は、スペイン後で雪がかぶった山々という意味の「Sierra Nevada」から由来すると言われます。北部は砂漠地帯、南部や渓谷と山となっています。ラスベガスの北104キロのところに1951年1月11日に設置されたネバダ核実験場(Nevada Test Site)があります。最後の大気圏内実験は1962年7月、地下核実験は1992年9月となります。この地域は合衆国の中でも最も核爆発回数の多かった場所となります。戦後はしばしば新聞紙上でネバダでの核実験の記事が掲載されたものです。

Lake Mead

ネバダの主産業は合法化されたカジノ(casinos)を代表とする娯楽産業と鉱業です。最大都市はラスベガスで、世界有数のカジノ街として名高いです。また、州西部のリノ(Reno)もカジノの町として知られています。24時間営業のカジノは、合法ギャンブル業界で最も広く知られている側面です。カジノに付随する重要な施設は、高級ホテル、グルメレストラン、ゴルフ コース、ナイトクラブなどのライブエンターテイメントです。

観光とその関連活動は、鉱業、農業、製造業を合わせたよりも多くの収入をもたらし、労働力の5分の2以上を雇用しています。何百万人もの人々がミード湖(Lake Mead)やタホ湖(Lake Tahoe)その他のレクリエーション地域や景勝地を訪れますが、観光の中心は主にネバダ州に特有のカジノというスポットです。

鉱業はネバダ州経済の中で依然として重要な位置を占めています。金の産出は有名で世界第4位となっています。ネバダ州中部の田舎の郡に特有なのは合法売春(legal prostitution)ですが、これらの地域では近年、売春を非合法化する取り組みが高まっています。

Las Vegas

1850年代のカリフォルニア・ゴールドラッシュ(California Gold Rush)で数多い中国人が抗夫としてワショー郡(Washoe County)に入ってきて以来、アジア系アメリカ人が州内に住むようになります。中国人に続いて19世紀後半には日系人が農業労働者としても移住してきます。州を潤していた鉱産資源が底を突き始めると人口流出が深刻となります。州政府は窮余の策として移住者の離婚を認め、定住者の娯楽と産業創出のためにカジノを公認するようになったとあります。

ネバダは乾燥地帯で疫病が少ないため住みやすく、諸税の少なさから都市部での人口増加や企業進出が顕著となっています。主要な宗教グループはモルモン教徒(Mormons)とローマ・カトリック教徒(Roman Catholics)です。プロテスタント(Protestant)にはさまざまな宗派があり、少数のユダヤ人(Jewish)も住んでいます。

州の大半を砂漠が占めており、農業はほとんどみられません。そのため気候は砂漠の影響で夏は乾燥して高温、冬は厳しい寒さが襲います。寒暖の差は合衆国で一番といわれています。
(投稿日時 2024年3月5日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューヨーク州・The Empire State

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ニューヨーク州(New York)のナンバープレートには「The Empire State」と印字されています。戦後しばらく、世界一高い建物といわれたEmpire State Buildingの影響があるようです。なんでも世界一が好きなアメリカのことです。ニューヨークは確かにそのような風格と内容を備えてはいますが、少々いかつい印象もぬぐえません。

License Plate of New York

ヨーロッパの植民地化以前は、アルゴンキン族(Algonquian)とイロコイ族(Iroquois)がこの地域に住んでいました。1524年、ジョヴァンニ・ヴェラッツァーノ(Giovanni Verrazzano)がニューヨーク湾(New York Bay)にやってきます。1609年に、ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)とサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)がニューヨーク湾を探検し、やがてオランダ人らが入植を開始します。1664年、ピーター・スタイヴェサント(Peter Stuyvesant)によってオランダの植民地ニューネザーランド(New Netherland)が作られます。しかし、その後やってきたイギリスに降伏し、ニューヨーク湾を放棄します。そしてニューヨークと改名されます。

オランダ人の上陸

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)が起こり、ニューヨーク北部と中部で小競り合いが始まり、この地域におけるイギリスの支配が確立します。アメリカ独立戦争では、タイコンデロガ(Ticonderoga)やサラトガ(Saratoga)など多くの戦いの舞台となります。ベネディクト・アーノルド(Benedict Arnold)によるウェストポイント(West Point)もイギリスへの謀反の舞台となりました。

最終氷河期(Ice Age)の間、後退する氷河が現在のニューヨークの地形を削り出しました。ハドソン川(Hudson River)とモホーク川(Mohawk River)の渓谷の形成により、キャッツキル山脈(Catskill Mountains)とアディロンダック山脈(Adirondack Mountains)を突破するL字型の通路が形成されました。ハドソン川の河口から旅をしていた初期の探検家や入植者は、五大湖やその先へ行くためにこの道をよく利用しました。このルートの大部分を利用して、エリー運河(Erie Canal)が19世紀初頭に建設されました。この運河はハドソン川とエリー湖を結びました。1825年の開港後、貿易が発展し、ニューヨークがアメリカ商業の最前線に立つことになります。

Map of New York

ニューヨークは17世紀初頭のオランダ人入植後、すぐにアメリカ大陸への主要な玄関口になります。1840年代以来、ニューヨーク市はアメリカのるつぼ(melting pot)として膨張し、ヨーロッパ全土から、後にはラテンアメリカ(Latin America)、アジア、アフリカ、その他の世界の地域からの何百万人もの移民にとって機会の場所となってきました。港にあるリバティ島(Liberty Island)には、自由の像(Statue of Liberty)、自由の女神が立っています。

なにを取り上げても話題の尽きない州です。最大の都市はニューヨークですね。州都はニューヨークから300キロも離れた人口10万人足らずのアルバニー(Albany)。ニューヨーク州は正三角形に近い形をしています。ニューヨーク州の境界には五大湖のうちの2つのエリー湖(Lake Erie)とオンタリオ湖(Lake Ontario)があります。カナダのオンタリオ州とケベック州(Quebec)と国境を接し、コネチカット州、ヴァモント州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、そしてとペンシルベニア州と隣接しています。

1800年代後半から1900年代初頭にかけて、エリス島(Ellis Island)は合衆国の主要な移民ステーションとなりました。この島はアッパーニューヨーク湾(Upper New York Bay)にあり、ニューヨーク市の一部であるマンハッタン島の南西約1.6 km、ニュージャージー海岸(New Jersey shore)のすぐ東にあります。

Statue of Liberty


この島は、1770年代に島を所有していたマンハッタンの商人サミュエル・エリス(Samuel Ellis)にちなんで名付けられました。1808年、ニューヨーク州はこの島を連邦政府に売却します。やがて移民センター(immigration center)は1892年に開設されます。それから1924年までの間に1,200万人以上の移民がエリス島に上陸し、そこで医師による検査を受け、入国手続きを受けました。ほとんどの人は入国が許可されますが、重病人や障害者は拒否されました。拒否された移民は祖国に送り返されました。

エリス島は、1924年に移民をより厳しくする法律が議会で可決されると、この島の重要性が低下します。1943年に移民の受付がニューヨーク市本土に移された後も、エリス島は移民問題を抱えた人々の収容所として機能し続けます。やがて1954年にエリス島のセンターは閉鎖されます。この島は1965年に自由の女神国定公園(Statue of Liberty National Monument)の一部となり、1976年に観光客に再開されました。1980年代に政府は島の建物を修復し、現在はエリス島移民博物館(Ellis Island Immigration Museum)となっています。

Ellis Island

今やニューヨークは合衆国50州の中で傑出した地位を占めています。その大都市であり港であるニューヨーク市は、アメリカ最大の都市です。長い間この国の文化的および金融の中心地となるこの街は、新生した国の最初の政治的な首都でした。伝統によれば、1784年、ジョージ・ワシントン(George Washington)が初代大統領としてニューヨーク市に就任する5年前に、ニューヨークを「帝国の本拠地」(seat of empire)として構想し、その結果、エンパイア ステート(Empire State)というニックネームが生まれたとも言われています。

1789年に合衆国が共和制になったとき、ニューヨーク州は人口で州の中で5位にランクされました。 新しい国の初期の数年間、この州は急速に成長し、1820 年の国勢調査では第一位に躍り出ました。ニューヨーク州は1960年代半ばまで人口で州のトップであり続けましたが、その後カリフォルニア州に追い抜かれました。それでも、ニューヨークは全米で最も人口の多い州にランクされており、1年間に生産される商品とサービスの合計額州総生産は、一部の国を除くすべての国を上回っています。

Central Park

ニューヨークの人口のほとんどは都市に集中しています。歴史的に、都市化はエンパイアステートに繁栄だけでなく問題ももたらしました。都市部の混雑した状況により、時には困難な生活環境がもたらされることがあります。現在の社会的不平等に対する州の対応としては、労働者の権利を守る強力な法律、少数派を保護するプログラム、巨額の福祉手当などが挙げられています。

1777年にニューヨークが最初の州憲法を採択し、1797年には州都がニューヨークからアルバニーに移転します。1825年にエリー運河(Erie Canal)が開通し、州西部の開発に拍車がかかります。19世紀にはニューヨーク市でタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党の政治団体の影響力が強まり、票の買収操作による政治腐敗によって市と州との間に緊張が走ったこともあります。かつてはバッファロー(Buffalo)、ロチェスター(Rochester)、シラキュース(Syracuse)など各都市の製造業が経済の中心でありました。現在はニューヨーク市に集中するサービス業が中心となっています。

Niagara Falls


北東部の森林に覆われたアディロンダック(Adirondack)斜面、中央および西部地域のなだらかな丘陵地帯、セントローレンス川(St. Lawrence River)とオンタリオ湖とエリー湖の草原が、州の大部分の田園風景を形成しています。エリー湖からオンタリオ湖に流れるところにナイアガラの滝(Niagara Falls)があります。この辺りはニューヨーク州とカナダのオンタリオ州との国境になっています。19世紀の終わりまで、ニューヨークは国の主要な農業州でありました。乳製品や果物、野菜の生産では依然として上位にランクされていますが、21世紀の州経済ではサービスと製造業が農業をはるかに上回っています。

ニューヨーク市は世界経済、商業、コミュニケーションの中心地です。多くの企業の本社がここにあります。またショービジネスなど娯楽産業の中心でもあります。年間4700万人の観光客が訪れます。国際連合はじめ公共機関も沢山あります。9・11の影響がいまだに続いてはいますが、急速な回復はニューヨークのバイタリティを感じます。公共交通網も張り巡らされ、多くの交通機関は24時間運行となっています。ニューヨーク市のニックネームは「Big Apple」。その由来は、大恐慌時代に失業者が市内でリンゴ売りをしていたとか、ジャズマンが使い始めたとか、1800年代に街には一番美味しい「リンゴ」(隠語で売春婦)がいたという説などです。

Rockefeller Center

ニューヨークではBBQを賞味したいものです。シシカバブ(shish kebab)です。もともとはトルコからの移民がもたらした料理ですが、ニューヨークにもすっかり定着しました。市内にはたくさんのBBQレストランがあります。私にとってのニューヨークですが、私はセントラルパーク(Central Park)を走り、家内はメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum- Met)へ、院生はミュージカルを楽しんだようです。友人の教員がBBQレストランに連れて行ってくれたのが思い出です。
(投稿日時 2024年3月3日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州テネシー州・Volunteer State

注目

テネシー州(Tennessee)のナンバープレートには「Volunteer State」とあります。米英戦争の時代、1815年のニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)で志願兵が傑出した働きをしたと記録されています。この戦いでイギリス軍を破り、ルイジアナやテネシーが植民地から解放されていきます。「Volunteer State」のフレーズはそれに由来しています。

License Plate of Tennessee

16~17世紀にスペイン、フランス、イギリスの探検家たちがこの地を訪れたとき、チカソー族(Chickasaw)、チェロキー族(Cherokee)、ショーニー族(Shawnee)などの原住民が住んでいました。最初の定住は1770年頃で、1785年までノースカロライナ州の一部でしたが、入植者たちが分離独立し、自由州フランクリン(Franklin)が形成されます。ノースカロライナは1789年に領有権を放棄し、テネシーは1796年にアメリカ合衆国16番目の州となります。1861年に連邦(Union)から離脱し、南北戦争の激戦地となったシロー(Shiloh)、チャタヌーガ(Chattanooga)、ストーンズ・リバー(Stones River)、ナッシュビル(Nashville)の戦いがここで起こります。

テネシー州名の由来です。18世紀初頭、イギリス人交易業者がモンロー郡(Monroe)で「タナシ」(Tanasi)というチェロキー族の町に出くわしたことが原型のようです。州境でケンタッキー州、ミズーリ州、ヴァジニア州など8つの州と接しています。最大の都市はメンフィス(Memphis)ですが、州都はナッシュビル(Nashville)となっています。「チュチュトレイン」のチャタヌーガ(Chattanooga)もこの州にあります。産業では、タバコ、綿花、そして大豆などの農産物が有名です。

Map of Tennessee

18 世紀に多くの数のヨーロッパ人が現在のテネシー州に移住し始めました。この地域にはすでにさまざまな先住民族が住んでおり、注目すべきは西のチカソー族(Chickasaw)と東のチェロキー族(Cherokee)です。しかし1830年代、ほとんどの先住民は州を離れ、いわゆるインディアンカントリー(Indian Country)と呼ばれたオクラホマ州の居留地に移住することを余儀なくされます。そのような理由で今日、ネイティブアメリカンは人口のほんの一部にすぎません。

最初のヨーロッパ人入植者は主にスコットランド系アイルランド人とイギリス人の祖先でした。ドイツ人も多く含まれていました。ヨーロッパ人はアフリカ系黒人の奴隷を連れてきましたが、19 世紀のテネシー州中西部での綿花栽培の拡大により、黒人の人口は大幅に増加します。しかし、20世紀になると、多くのアフリカ系アメリカ人がテネシー州を離れ、相当数の白人アメリカ人がテネシー州に移住してきます。21 世紀初頭、テネシー州の人口の約5分の4は白人で、約6分の1はアフリカ系アメリカ人となりました。

テネシー州には、1770年代の白人入植時にこの地域に定住していたチェロキー族とチカソー族を中心としたネイティブ アメリカンの豊かな伝統が息づいています。スモーキー山脈(Smoky Mountains)地域に住んでいたチェロキーは、白人の侵入にもかかわらず、テネシー州東部に独特の遺産を残しました。辺境の課題に対応して、テネシー州の白人入植者は強い独立した姿勢を示し、それがしばしば州政や国政に現れていきます。1812年の南北戦争の英雄であり、第7代アメリカ合衆国大統領であるテネシー州のアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)は、1830 年代の民主党を庶民の党へと導きます。1840年代にテネシー州出身で合衆国の大統領となったジェームス・ポーク(James K. Polk)も同様です。南北戦争と独自の再建によって大きく分断されたテネシー州は、強固な民主党南部の一部となりますが、多くの地域では豊かさや魅力の面で他の州より遅れていました。19 世紀後半の実業家の夢は、第二次世界大戦と中央政府の支出によって新たな種類の産業活動が促進され、20世紀後半に実現していきます。

Smoky Mountains

1929年10月24日、通称暗黒の木曜日(Black Thursday)にアメリカで起こった株式市場の暴落で始まった世界恐慌で、失業者の雇用を生み出す必要が起こります。そこで1933年にテネシー川流域開発公社(TVA)が設立されます。これがテネシー計画(Tennessee projects)です。TVAは理事会によって統治される公開企業でテネシー川の流域全体を管轄し、アラバマ(Alabama)、ジョージア(Georgia)、ケンタッキー(Kentucky)、ミシシッピ(Mississippi)、ノースカロライナ(North Carolina)、テネシー、バージニア(Virginia)の7つの州の一部をカバーしていきます。

ニューディール政策(New Deal)の主要な公共事業プロジェクトの1つとして議会によって設立されたTVAは、地域の慢性的な洪水を制御するためのダムシステムを構築し、航行を改善するために水路を深くし、川沿いの港湾施設の開発を進めていきます。このプロジェクトにより、川の交通量が大幅に増加し、安価な電力が供給され、慢性的に低迷していた地域経済の産業発展が促進されるのです。

TVA計画

テネシーはカントリーウエスタン(Country Western)の発祥の地です。エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)もここの出身。彼が主に音楽活動を行ったのがメンフィスです。ナッシュビルにも沢山の南部のライブを楽しめるところがあります。その響きはBluegrassと呼ばれるアコースティック音楽のジャンルです。演奏にはギター、マンドリン、フィドル(ヴァイオリン)、ギターなどの楽器が使われます。アパラチア南部に入植したスコッチ・アイリッシュといわれる北アイルランドやスコットランドから移住した人たちの伝承音楽をベースにしているようです。

Bluegrassはアップテンポの曲が多く、楽器には速弾きなどの即興演奏(インプロヴァイズ)もあります。もちろん、ブルース感を表現する弾き方やハーモニーにも特徴があります。ナッシュビルへ行ったら必ず本場のBluegrassを楽しむべきです。戦後大いに流行った恋の歌にテネシーワルツ(Tennessee Waltz)があります。歌っていたのはパティ・ページ(Patti Page)で、日本では江利チエミが歌っていました。懐かしいですね。

さらにTVAによってもたらされた豊富な電力を活かしたマンハッタン計画(Manhattan Project)が推進されます。東テネシーは核分裂中性物質の生産と分離を行う拠点となります。その場所としてオークリッジ(Oak Ridge)が選ばれ、オークリッジ国立研究所(Oak Ridge National Laboratory)が 建設されます。この研究所では、基礎研究から応用の研究開発まで、多方面にわたって活動が始まります。クリーンで豊富なエネルギーの研究、自然環境の保全の研究、安全保障に関する研究などです。そのお陰でオークリッジの町は経済や文化で重要な役割を果たしています。

Patti Page


アパラチア山脈を中心とするグレート・スモーキー山脈国立公園(Great Smoky Mountains National Park)は、ハイカーが押し寄せるところです。公園の95%は森で、その1/4は原生林といわれます。生物相が極めて豊かで、112キロのアパラチア自然歩道やハイキングコースが整備され、年間900万の人々がここで休暇を楽しむようです。

私にとってのテネシーはナッシュビルにあるバンダービルト大学(Vanderbilt University)を数回訪れたことです。ここにあるピーボディ教育学部(Peabody School of Education)は研究と教員養成でアメリカ有数の大学として知られています。
(投稿日時 2024年2月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州テキサス州・The Lone Star State

注目

テキサス州(Texas)のナンバープレートには「The Lone Star State」とあります。メキシコからの独立という願いとして、テキサスの州旗に白い星を一つあしらったといわれています。これがLone Starの由来です。テキサスは面積、人口ともに全米で2番目に大きい州です。 北部のレッド川(Red River)はオクラホマ州との州境の3分の2を占め、東部はアーカンソー州と一部接しています。サビーン川(Sabine River)がルイジアナ州との州境の大部分を形成しています。

License Plate of Texas

テキサス(Texas)という名前は、カド(Caddo)族の言葉で「友人」または「同盟者」を意味します。「友人」や「同盟者」は「テイシャ(Teja=táysha)と呼ばれたようです。1500年代にスペインの探検家たちが到着した時、カド族はこの地域に住んでいた先住民の一つでした。探検家たちはtejasまたはtexasと綴り、この地域にこの名前をつけたといわれます。

1528年にスペイン人が到着した時、アパッチ族を含むネイティブ・アメリカンはこの地域に住んでいました。最初の入植は1685年にフランス人によって試みられ、フランス人はこの地域をルイジアナの一部と主張します。1803年、アメリカはルイジアナ購入でフランスの領有権を獲得しますが、1819年の条約でスペインに譲渡します。そして1821年のメキシコ独立によりメキシコの一部となります。

Map of Texas

1836年、テキサス人はメキシコからの独立を宣言すると、メキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テキサス反乱軍)の間で戦争が始まります。その最も激しかったのがアラモの戦い(Battle of the Alamo)といわれます。1836年2月23日から3月6日の13日間にテキサス側の拠点とされ戦闘の舞台は、アラモ伝道所(Fort Alamo)です。

大統領兼将軍であるサンタ・アナ(Antonio Santa Anna)の部下であったマルティン・デ・コス(Martín Perfecto de Cos)はサンアントニオ包囲を命じられます。テキサス反乱軍はアラモの任務を防衛の根拠地を強化していきます。テキサス正規軍の部隊はウィリアム・トラヴィス大佐(William Travis)が指揮し、ジェームズ・ボウイ大佐(James Bowie)が守備側の最大の分遣隊である民兵を指揮します。約150人の兵士と約20門の大砲からなる部隊がメキシコ軍の進軍を待っていました。

Fort Alamo

戦争初期の交戦に参加したテキサス人の多くは故郷に戻っていたため、守備の拠点であるゴリアド(Goliad)とサンアントニオの守備隊の大部分は、冒険を求めて北部から到着した志願兵で構成されていました。彼らは開拓者として土地を獲得するという期待から、アラモに惹かれた人々でした。その中には、伝説的な人物で、かつてはテネシー州議会議員でもあったデイビー・クロケット(Davy Crockett)もいました。

アラモ守備陣の援軍への要請は、トラビスが送ったテキサス人とアメリカ人に支援を求める手紙に強く反映されていました。しかし、戦闘前に追加部隊が到着したのはわずか約30名であったようです。アラモの守備兵の実際の数の推定はさまざまで、通常は183人から189人位だったといわれます。

サンタアナ軍は2月23日にアラモに到着し、メキシコ軍の包囲と攻撃が始まります。砲撃は3月6日のメキシコ軍の攻撃まで続き、アラモの守備兵は全員死亡します。非戦闘員の女性、子どもや奴隷数名は生き残り、撤退を許可されました。サンアントニオ(San Antonio)中心街の一角にアラモ伝道所の遺跡があります。1960年にジョン・ウエイン(John Wayne)が製作・監督した「The Alamo」という映画が作られました。

Davy Crockett

テキサス州は国内のどの州よりも農場が多いことで知られます。東テキサスの肥沃な土地は、南北戦争前に綿花農家を惹きつけ、南北戦争後の数年間、綿花は州の主要作物となります。機械化農業が発展するにつれ、綿花生産はテキサス州西部のハイプレインズ(High Plains) へと移り、灌漑と肥料が豊作をもたらし、綿花生産におけるテキサス州の全国的な地位を不動のものとします。ときには、干ばつによる不作が続き、作物の多様化が進んでいきます。灌漑の導入により、リオ・グランデ・バレー下流(Rio Grande Valley)では大規模な野菜と果物の生産が行われるようになります。20世紀半ば以降、テキサスはソルガム(sorghum)、ピーナッツ、トウモロコシの主要生産地ともなります。

Fall of the Alamo

牛、羊、ヤギの飼育では他州をリードしています。国内で生産されるモヘア(mohair)のほぼすべては、テキサスのアンゴラ山羊からとれます。19世紀の広大な内陸部の牧畜帝国は、沿岸部に移行する傾向となり20世紀には綿花の生産が盛んになります。商業漁業はテキサス州の経済に大きく貢献しており、メキシコ湾岸の60以上の港から小さな船団が出漁しています。ブラウンズビル(Brownsville)は国内最大級のエビトロール船団の中心地となっています。エビ漁は経済的にテキサス漁業の最大かつ最も重要な産業です。

テキサス州は、石油と天然ガスの生産量と石油精製能力では依然として他州をリードしています。メキシコ湾や内陸部に油田が多く、エクソンモービル(Exxon mobil)などの石油会社の本社があります。電子機器、航空宇宙部品、その他のハイテク製品の製造はますます重要性を増しています。アメリカン航空(American Airline)、コンチネンタル航空(Continental Airline)、AT&Aなど多くの企業の本拠地となっています。カリフォルニア、ニューヨークと並ぶ商業や経済の中心です。

Giant

現在の州都はオースチン(Austin)ですが、近年特に人気が高い町がリバー・ウォーク(River Walk)のあるサンアントニオ(San Antonio)です。リバー・ウォークは小さな河の両岸にレストランが並んでいます。散歩、船下りにも楽しいところです。今や年間1,000万人以上が訪れる全米有数の観光都市としても知られています。研究者を集める多くの学会もここで開かれています。

River Walk

オースチンの学校を見学したことがあります。引率の教師はピックアップトラックで案内してくれました。サンアントニオは学会発表で行ったのですが、発表を終えてからアラモ砦を見学し、夕食場所のリバー・ウォークへ向かいました。
(投稿日時 2024年2月26日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ジョージア州・Peach State

注目

ジョージア州(Georgia)のナンバープレートには桃(peach)がデザインされています。この州はスイカ、メロンなどの果物が多いのです。特に桃は有名なので「Peach State」、「桃の州」と呼ばれています。ここの桃は、日本の桃とは違い、少し堅めの肉感がします。甘みも結構ありますが、日本の桃とは比べられません。そのかわり安価で助かります。ナンバープレートのデザインは明るくのどかなものです。ジョージア州のモットーに「南部の帝国」(The Empire of the South)というのもあります。

ジョージア州名は、植民地設立の勅許をイギリスの軍人ジェームズ・オグルソープ(James Oglethorpe)に与えたイギリス国王ジョージ二世(George II)に由来します。悲劇もあります。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領(Andrew Jackson)がインディアン移民法に署名します。そして東部にいた多くのインディアンを現在のオクラホマ州にあった居留地に移住させる決定をします。これにはジョージアにいた全ての部族も含まれていました。1835年にチェロキー族(Cherokee)連合に対して行われた強制移住です。約15,000名のチェロキーのうち4,000から5,000名が途上で死亡したといわれます。この逃避行は「涙のトレイル」(Trail of Tear)と呼ばれました。その途中でインディアンは「Amazing Grace」という讃美歌を歌って気分を高めたともいわれます。

ジョージア州の居住パターンは、物理的な地理と同じくらい多様性に富んでいます。州の先住民族は、1500年代初頭のヨーロッパ人との接触の時点で、すでに豊かで複雑な村ベースの文明を確立していました。1700 年代にイギリス人入植地はマスコギー(Muskogee)と呼ばれていた先住する先住民部族との文化的対立を引き起こし、その世紀後半から1800年代初頭にかけて白人入植者が着実に西に移動するにつれて激化しました。元々の英国植民地の1つであり、最初に合併した州の1つであるジョージア州は、アメリカ独立戦争後に、米と綿花を栽培し、増加する黒人奴隷人口に大きく依存するプランテーション社会として台頭しました。

Map of Georgia

20世紀になると、ジョージア州の主要都市が拡大し、ジョージア州の人口は徐々に田舎の性格を失います。1980年代から90年代にかけて、州の南西部と中央部にある古い綿花地帯の多くは人口が減少していきます。しかし、これらの損失は、80kmも離れたアトランタ郊外での大幅な利益によって大幅に相殺されていきます。大西洋岸のサバンナ(Savannah)とブランズウィック(Brunswick)周辺の地域も急速な成長を遂げています。南部諸州の中で、ジョージア州は1970年代以降、フロリダに次ぐ人口増加が一般的となり、1990年代にはその増加はフロリダを上回りました。

Rev. King Center


ジョージア州等の南部の諸州は「バイブル・ベルト」(Bible Belt)という名称で呼ばれます。「福音派プロテスタント」というキリスト教の宗派が社会と政治において特に強い役割を担っている地域のことを指します、住民も一般的に社会に対して保守的であり、他の地域の人々よりも教会への出席率が高いのです。主にプロテスタントであり、アフリカ系アメリカ人コミュニティでは特にバプテスト教会とメソジスト教会が強い州となっています。

南部のアトランタ(Atlanta)はジョージア州最大の都市であり州都です。21世紀初頭には、州の繁栄は主にサービス業を基盤とするようになります。その中心は、アトランタとその周辺がその大部分を占めます。特にアトランタは、州の主要な公益企業、銀行、食品・飲料、情報技術産業の本拠地であり、企業本社の立地としてはまさに国内有数の都会となっています。アトランタの先進的なイメージと急速な経済・人口成長に後押しされ、ジョージア州は20世紀後半には、全体的な繁栄と全国的な社会経済規範の浸透で、深南部(Deep South)の他の州を大きく引き離していきます。コカコーラやCNN、保険会社アフラック(Aflac)の本社などがあることでも知られています。

ジョージア州は映画の舞台でもあります。「風と共に去りぬ」(Gone with the Wind)を書いたマーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)の記念館-The Margaret Mitchell House-がダウンタウンにあります。マーチン・ルーサー・キング(Martine Luther King Jr.)牧師が説教していたエベネゼル・バプティスト教会(Ebenezer Baptist Church)、そして師の功績を称えるThe King Center博物館は必ず立ち寄るべきところです。政治では第39代大統領となったジミー・カーター(Jimmy Carter)がでたところです。

Margaret Mitchell

大西洋側に前述したサバンナの港町があります。植民地時代は、サバンナは綿花のヨーロッパへの輸出港でした。今も貯蔵倉庫が建ち並び、多くのレストランなどに改装されています。マスターズ・トーナメント(Masters Tournament) のゴルフ大会が開かれるのがオーガスタ(Augasta)です。メンバーは世界中に約300名、会員になるためには数10年程待たなければならないそうです。

Peach State

ちょっと寄り道ですが、コーカサス山脈(Caucasus Mountains)に囲まれ、黒海に面する国に「ジョージア」があります。もともとはソ連邦の一部で「グルジア」(Gruziya)と呼ばれていました。合衆国のジョージア州とは全く関係がありません。一度、ネブラスカ大学の友人からメールが来て、「今、ジョージアにいて学生に特別講義をしている」というものでした。てっきり南部のジョージア州だと思いましたが、首都のトビリシ(Tbilisi)にいるとのことで了解しました。

グルジアは1783年にロシアの保護を求め、1801年にロシア帝国に併合されます。1917年のロシア革命(Russian Revolution)の後、この地域は短期間独立します。1921年にソビエト政権が樹立され、1936年にグルジアはソビエト連邦の正式加盟国となります。1990年、ソビエト・グルジアで史上初めて行われた自由選挙で非共産主義連合が政権を獲得し、1991年にグルジアは独立を宣言し、海外からは「ジョージア」と呼ばれるようになります。2003年にジョージアのエドゥアルド・シェワルナゼを大統領辞任に追い込んだ暴力を伴わない革命が起こります。これは通称「バラ革命」と呼ばれます。現在はロシアとの対立路線をとることが多いといわれます。独裁者ヨセフ・スターリン(Joseph Stalin)は「グルジア」の出身でした。

ジョージアは黒海(Black Sea)の南東海岸、コーカサス山脈内に位置している共和国です。グルジアは1783年にロシアの保護を求め、1801年にロシア帝国に併合されました。1917年のロシア革命(Russian Revolution)の後、この地域は短期間独立しました。1921年にソビエト政権が樹立され、1936年にグルジアはソビエト連邦の正式加盟国となりました。1990年、ソビエト・グルジアで史上初めて行われた自由選挙で非共産主義連合が政権を獲得し、1991年にグルジアは独立を宣言します。

私は、アメリカ留学のために英語の研修を2か月受けました。その場所はジョージア州のステイトボロ(Stateboro)という小さな町にあるカレッジです。家族を引き連れての2か月の滞在でした。国際ロータリー財団(Rotary International Foundation)からの50名くらいの奨学生と一緒に、短期間でしたが南部の人々の親切さ(Southern Hospitality)と温暖な気候を満喫しました。

Southern Drawl

ジョージアに来て始めていろいろなことを知りました。コンビニもそうで、セブンイレブン(Seven-eleven)が大きなスーパー店の側にあるのです。タバコの競り市に行ったときです。人々がしゃべっていることが全く分かりません。南部訛り(Southern Drawl)というのを体験しました。いわば南部アクセントです。南部訛りは、ゆっくりとした話し方で、母音を引き伸ばすように話します。アクセントの配置にも特徴があります。例えば「police」の発音は、「ポ・リース」と、リースの部分を伸ばして発音するのが一般的です。イギリス英語と少し似ていて、carやfarの最後のrをはっきりと発音しない特徴もあります。そのせいもあってか、私の英語には南部訛り(Southern Drawl)があるようです。

毎日3時頃になると決まってスコールが通り過ぎます。市営ブールで遊ぶ子ども達はプールから出なければなりません。それと、午後にはスイカやメロン、ピーチを積んだトラックがきます。スイカはラクビーボールのような形です。滞在していたアパートの前にピーカン(peacon)の木がありました。くるみに似ているナッツで、始めて賞味しました。実に美味しかったのを覚えています。
(投稿日時 2024年2月25日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州コロラド州・Centennial State

注目

コロラド州(Colorado) のどのナンバープレートにも、背景にロッキー山脈(Rocky Mountains) が描かれています。「生命を尊重しよう」(Respect Life)というフレーズをあしらったものもあります。森羅万象、自然が豊かな州だからこその言葉です。独立して100年後の1876年に合衆国に州として認められたので「Centennial State」というニックネームがついています。コロラドは山岳地帯の州です。南北にロッキー山脈が貫き、州全体の平均標高が合衆国で一番高いところです。州の東側は大平原(グレートプレーンズ)が広がります。州都であり最大の都市は、デンバー(Denver)です。

License Plate of Colorado

スペイン語はコロラド州の地理に深く刻み込まれています。州名はスペイン語のコロラド、「赤」または「血色の良い」(red or ruddy)に由来しています。コロラド州の20の大きな川はリオス(ríos)と呼ばれ、多くの都市、村、山脈や山頂にはスペイン語の名前が付いています。

コロラド州の開発は16世紀半ばからのスペインの探検と入植から始まり、やがてリオ・グランデ(Rio Grande)上流沿いに恒久的な入植地がふえてきます。南北戦争以前、測量技師たちは踏破路、峠、領土境界を決めていきます。技師たちはインディアンの先導によって、川とその主な支流を地図化していきました。モルモン教徒も1847年にユタ州の大盆地に入植し、ユタ州とアリゾナ州のコロラド川の支流渓谷に移動し、後の科学的調査に参加していったという歴史があります。

Map of Colorado

コロラド州におけるネイティブ・アメリカン(Native American)文化の影響は強いです。アメリカ先住民の地名は英語の語彙を豊かにしました。ネイティブ・アメリカンの民話、音楽、ダンスはアメリカ文化の一側面として認められています。さらにネイティブ・アメリカンの食べ物や芸術作品は、コロラド州の一体性という感覚に貴重で、かつユニークな貢献をしてきたといわれます。メサ・ベルデ国立公園(Mesa Verde National Park)にある先祖代々のプエブロ文化(Pueblo culture)別名アナサジ(Anasazi)の崖の住居は、初期のネイティブ・アメリカン・コミュニティの重要な遺跡の1つです。

Mesa Verde National Park

この国立公園で、著名な先史時代の崖の住居を保存するために1906年に設立されました。1978年に世界遺産(World Heritage)に指定されました。210平方キロメートルの高台地帯を占め、最大13世紀までの数百のインディアンの村遺跡が含まれています。最も印象的なのは、張り出した崖の下に建てられた高層アパート(multistoried apartments)です。遺跡以外にも、この公園には壮観で険しい景色がいくつかあります。

公園は、海抜2,600メートル以上の大きな砂岩台地の一部を占めており、南に緩やかに傾斜しています。過去 200万年にわたる河川の浸食により、台地に深い峡谷が削り取られ、峡谷の間に細長い高台地(high tableland)、つまりメサが残されました。水の浸食により、崖の住居が位置するの峡谷の壁の砂岩に、さまざまなサイズの隙間や床の間が形成されました。これらのメサの頂上には、風に吹かれて肥沃で赤みを帯びた黄土が堆積しています。気候は半乾燥で、年輪の調査によれば、過去 600 年間ほとんど変化がありません。この地域の植物は半乾燥気候に適応しています。公園内にはクマやピューマmountain lionsが数頭、小型哺乳類が多数生息しています。

Village in Colorado

平原インディアンの主であるアラパホ族(Arapaho)とシャイアン族(Cheyenne)は、探検家、貿易商、罠猟師を平原全体に案内しました。彼らは、小川、自然の道、淡水と薪の水源、自然保護地域、水牛の餌場を知っていました。グレートベースン(Great Basin)のグループであるユート族(Ute)もロッキー山脈(Rocky Mountains)の知識に詳しく、それを広めるのに貢献しました。

しかし、アメリカ先住民は、メキシコから金銀の求めてやってきたスペイン人探検家によって追われます。メキシコ人はアメリカによる攻撃を恐れ、1840年代に北のアーカンソー川(Arkansas River)にまで及ぶ巨額の土地補助金(land grants)を発行してスペイン国境を強化します。これらの助成金に基づいて、コロラド州に非先住民族の最初の定住地が設立され、1851年には記録に残る最初の灌漑(irrigation)が行われました。

デンバーは標高が約1マイル(約1600メートル)なので、マイル・ハイ・シティー(Mile High City)の愛称で呼ばれています。デンバー市内には多くの日系人が住んでいます。その数、約1万4千人といわれ、 「ロッキー時報」(Rocky Times)という日本語の新聞が発行されているのもうなずけます。

コロラド州の商業や経済は多様です。金融センターであるデンバーを中心に、科学研究及びハイテク産業が集中しています。他の産業は食品加工、輸送設備、機械、化学製品、稀少資源の開発そして観光業となっています。

View of Colorado

州都デンバーから車で一時間ほど南に下ると、ロッキーでも一段と高く聳える「パイクスピーク」(Pikes Peak)がみえます。その山麓には炭酸泉が多数あり、飲泉が結核に効くとされたことから、19世紀にはマニトウ・スプリングス(Manitou Springs)などの保養地がつくられます。その山麓の台地には、アスペン(Aspen)などの綺麗な街並みが広がります。コロラド・スプリングス(Colorado Springs)も全米で知られる町です。ここは都市の規模に比べて物価が安く、アメリカでも最も住みやすい町の一つといわれています。

この住み心地の良さを支えるのは、巨大な国防総省の施設によってもたらされる経済効果です。ロッキーの山中には、北米航空宇宙防衛軍(North American Aerospace Defense Command: NORAD)や軍事衛星による監視や弾道ミサイル防衛を担う戦略基地が掘られています。北米航空宇宙防衛司令部とアメリカ宇宙コマンド(US Space Command) は、ピーターソン空軍基地(Peterson Air Force Base)に本部を置いています。近くのシャイアンマウンテン(Cheyenne Mountain)の空洞化した内部には、NORADや他の機関の指揮統制施設があります。1966年以来、ここは航空宇宙防衛と軌道天体の追跡のための主要基地となっています。ランパート山脈(Rampart Range)を背景に米空軍士官学校(U.S. Air Force Academy)もあります。

US Air Force Academy

私は小さいとき、「コロラドの月」というアメリカ民謡をしばしば聞いたことがあります。進駐軍の放送から聞こえてきたものです。ネット上で歌詞を調べると次のようにあります。
 「コロラドの月の夜に
  想い出は いやます
  恋の日の しのばれて
  さびしさに 涙す
 むすびし 恋も
  あだに 君はいずこぞ
  コロラドの 月の夜に
  なれも 我をば待てる」
という恋歌です。当時はそんなことを知るべくもありませんでした。そしてデンバーを訪ねたのは学会発表の1987年です。その時、コロラド大学(University of Colorado)の看護学科の准教授の案内で市内の学校を見学しました。
(投稿日時 2024年2月23日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州ケンタッキー州・Bluegrass State

注目

ケンタッキー州(Kentucky)のナンバープレートには「Bluegrass State」とあります。草原を遠くから眺めると青紫色のつぼみが一面広がり、「青い草」に見えたので名付けられたとあります。ブルーグラス・ミュージック(Bluegrass Music)です。スコットランドやアイルランドの音楽を基にしています。アップテンポの曲が時代と共に多くなり、速弾きなどのインプロヴァイズ(即興演奏)もあります。お隣テネシー州でもこの音楽は盛んです。

License Plate of Kentucky

ケンタッキー州は、1769年にダニエル・ブーン(Daniel Boone)や他のヨーロッパの開拓者が到着するまで、長い間、さまざまなネイティブ・アメリカンの人々の本拠地でした。その名前の由来ですが、一説は、チェロキー族(Cherokie)が狩猟を行っていたこの地域を「カトブ」と呼び、先祖伝来のこの狩り場を売却することに反対し、「暗い血にまみれた大地」を買おうとしていることを警告してそう呼んだという説です。他の説にはイロコイ語(Iroquois)で「草原(prairie)」を意味する言葉に由来しているというものです。

1792年にケンタッキー州がアパラチア山脈以西では初で15番目の州としてとして認められるまでに、73,000 人近くの入植者が集まりました。1800年までにこの数は約22万人に増加し、その中には約4万人の奴隷も含まれていました。

Map of Kentucky

ケンタッキーはイリノイ州、インディアナ州、オハイオ州、ミズーリ州に囲まれ、オハイオ川とミシシッピ川で州境をなしています。東側にはアパラチア山脈が聳えていて、豊かな自然に恵まれています。この州はなんといっても「ブルーグラスの州」と呼ばれ、肥沃な土壌からの多くの農産物がとれます。州都はフランクフォート(Frankfort)。最大の都市はルイビル(Louisville)となっています。

ケンタッキー州というと、炭鉱、バーボン郡(bourbon) にちなんで命名されたといわれるバーボン・ウイスキー、登山家、違法酒の蒸留業者、夏のベランダでミント・ジュレップ(mint juleps)をすすりながら白衣を着た大佐や女性、ケンタッキーダービー(Kentucky Derby)などで知られています。肥沃なブルーグラスは馬の飼料として栄養価が高いので、馬の生産が盛んになったと言われます。

バーボン・ウイスキーの主原料は51パーセント以上のトウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などで、これらを麦芽で糖化させ、さらに酵母を加えてアルコール発酵させるのです。バーボンという名前はフランスの「ブルボン朝」(Bourbon dynasty) に由来するという説もあります。その他タバコの生産も盛んです。

Kentucky Derby

ケンタッキー州には、興味深いことに独特の地域と特徴が混在しています。レキシントン(Lexington)周辺のなだらかなブルーグラス(Bluegrass)地域にある、白いフェンス、パドック(paddocks)、タバコ畑、牧草地がどこまでも続く風景は、ケンタッキー州の立場を反映しながら、南北戦争前の南部とのつながりを彷彿とさせるような、ゆったりとして上品な生活様式を示唆しているといわれます。その反面、タバコや麻が名産だったので、奴隷制度の中心ともなりました。奴隷市場が置かれ、川を下って運ばれる奴隷の出発地がルイビルだったのです。

対照的に、ケンタッキー州の最北端は、主にドイツの伝統があり、郊外の開拓への傾向があり、オハイオ州シンシナティの大都市へ向いていることことから、州と北部の都市部とのつながりが特徴的となっています。ケンタッキーは自動車産業も盛んです。フォード、GM、トヨタの工場があります。トヨタはアメリカで最もポピュラーな車「カムリ」をジョージアタウン(Georgetown)という街で組み立てています。

ケンタッキー州は、過去と未来を見つめる州として、西部への拡大の岐路として、そして1861年から1865年までの南北戦争中に忠誠心が分かれたことがあげられます。南北戦争の大統領である北軍のエイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)と反対側の南軍の大統領となったジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)は両方ともケンタッキー州生まれです。

Country Road

ケンタッキーといえば、スティーブン・フォスター(Stephen Foster)がいます。1848年に、アンクル・ネッド(Uncle Ned)やオー・スザンナ(Oh! Susanna)などのバラードのいくつかが出版されます。曲が知られるようになると、彼は作曲活動に従事します。さらにクリスティ・ミンストレルズ(Christy Minstrels)のために曲を書くよう依頼されます。その中で最もよく知られているのが「オールド・フォークス・アット・ホーム」(Old Folks at Home)とか「スワニー・リバー」(Swanee River)で、1851年にエドウィン・クリスティ(Edwin P. Christy)の名前で発表し、彼は1879年までクリスティの名前で活動を続けます。

1852年にニューオーリンズ(New Orleans)への旅行中に、フォスターはケンタッキー州に立ち寄り、バーズタウン(Bardstown)という街の近くにあるフェデラル・ヒル(Federal Hill)に住むいとこの家を訪れます。そこで彼は「My Old Kentucky Home」を書いたと言われています。この曲はケンタッキー州の州歌になりました。フェデラル・ヒルには州のフォスター記念碑があります。

Stephen Foster

フォスターは、生涯経済的にはあまり恵まれなかったようです。1857年に曲のすべての権利を1,900ドルで出版社に売却します。利益は主に出版社と出演者に支払われたようです。1860年に彼はニューヨーク市に移ります。やがて妻と別居し、貧しく気ままに暮らします。そして1864 年1月13日にニューヨークで亡くなります。

彼は生前に約200曲を残しています。ほとんどの曲は、自分で歌詞と音楽の両方を書いています。最も人気のある曲の中には、「Old Black Joe」、「Jeanie with the Light Brown Hair」、「Come Where My Love Lies Dreaming」、「Beautiful Dreamer」などがあります。さらに賛美歌も作曲しています。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。

「My Old Kentucky Home」の一節です。
  Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home
 ’Tis summer, the darkies are gay
The corn top’s ripe and the meadows in the bloom
While the birds make music all the day

ケンタッキー州政府は、南部の心の温かさという概念に基づいて、他から州内により多くの人々を惹き付けようと考え、「こんなに友好的だ」(”It’s that friendly”)というスローガンを提唱したこともあるようです。州境地域にある「ケンタッキー州にようこそ」(Welcome to Kentucky)という看板に、(Unbridled Spirit)「自由奔放な精神」というフレーズも印字されています。

ケンタッキー州は、民主党は19世紀半ば以来、州政と連邦政界の両方をほぼ支配してきました。実際、2002年にアーニー・フレッチャー(Ernie Fletcher)がケンタッキー州知事に選出されたとき、彼は36年ぶりに共和党員として当選しました。大統領選挙では、1896年、1924年、1928年の例外を除いて、州は南北戦争後、ほぼ1世紀にわたって民主党に投票してきました。しかしながら、1950年代以降、同州は連邦レベルで共和党を支持する傾向にあり、現在も共和党支持州の一つとなっています。

私と家族はかつてジョージアからウィスコンシンへ向かう途中、ケンタッキーをとおりました。「ケンタッキーの我が家」のメロディが浮かんだのはいうまでもありません。ですが公式な州歌であることを知ったのは、ずっと後のことではあります。
(投稿日時 2024年2月21日)