認知的行動変容

少し古い話に戻ります。1960年代、アメリカでは一時ティーチングマシン(teaching machine)が学校で流行ったことがあります。それを日本の教育工学会の学者が踊らされておじゃんとなりました。コンピュータ上のドリル学習が紙のワークシートに置き換わっただけでした。行動主義理論とプログラム化された学習教材が結びつき、子供の学習で正答には褒美を与えて学習の効果を上げようとするものです。日本教育工学会というところは新しいものに飛びつくのが大好きです。行動主義心理学者のジョン・ワトソン(John Watson)や行動分析学者バラス・スキナー(Burrhus Skinner)の影響を引きずって学会活動は学校になんの役にもたたず無残な結果に終わりました。

人間の行動が道具的条件づけと呼ばれるオペラント(operant) と環境との関わりによって形成され維持され、また抑制されるというスキナーの研究は、子供の学習にも大きな影響を及ぼし、応用行動分析の礎石となりました。しかし、複雑な人間の存在を行動とその環境の記述に限定することへの批判が高まるのは当然でした。人間を情報処理機械とみなしてその知的機能をモデル化する研究が始まり、既述したクラーク・ハル(Clark Hull)らが提唱する人間の内的過程の解明が進みます。

人間の心や情感などの仕組みをモデル化して、そこから行動を説明するような発想をしたのがハルです。彼は、目に見える行動ではない人間の内側で起きている心とか感情の働きを分析できると唱えます。これは方法論的行動主義と呼ばれ、革命的なできごとと賞賛されました。こうして、ティーチングマシンは完全に廃れ、いかに子供の学習の動機付けを内側から持続させたり高めたりできるかというテーマに関心が移っていきます。ドリル学習といえばフラッシュカードもその類です。ただ、知識の習得では暗記も必要です。暗記したことをつなぎ合わせて、少しずつ全体を見渡せるかが学習の成果につながります。

マイケンボウム(Donald Meichenbaum)というカナダの研究者は、言語行動とか言語共同体という視点から「心」や「意識」の意味を問い直すという作業をしたことで知られています。人間の記憶と想起、内言語を介在させて自分を行為を強化する手段を強調したのです。これは人間の内観を明らかにするような手法ともいえます。

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ウィスコンシン州とジョセフ・マッカーシー その一

はじめに
 ウィスコンシン州の政治で忘れられないのは、極右と呼ばれた上院議員の存在です。その人物は、ジョセフ・マッカーシー(Joseph R. McCarthy)。1947年から1957年に48歳で死去するまで、ウィスコンシン州選出の共和党上院議員(Republican U.S. Senator)を務めたアメリカの政治家です。1950年以降、冷戦の緊張により共産主義による破壊活動が国内に広まるのではないかという恐怖がアメリカで高まっていた時期に頭角を現した政治家です。これから四回にわたり、合衆国の政治でマッカーシーがどのような影響を与えたかを考えていきます。

 冷戦状態が高まるにつれて、多数の共産主義者とソ連のスパイやシンパがアメリカ連邦政府、大学、映画業界などに潜入していると主張し、いわばレッドパージ(red purge)しようとしたのがマッカーシーです。1950年にマッカーシーの行為に関連して作られた「マッカーシズム」(McCarthyism)という用語は、反共産主義活動に適用されるようになりました。今日では、この用語はより広い意味で、扇動的で無謀で根拠のない非難、および政治的反対者の性格や愛国心に対する公的な攻撃を意味します。最終的に、マッカーシーは、彼が非難されるべきかどうかを調査するために設置された委員会への協力を拒否し、委員を攻撃したとして1954年に上院から非難され政界から追われます。

Joseph R. McCarthy

マッカーシーの経歴
 ウィスコンシン州グランドシュート(Grand Chute)生まれのマッカーシーは、1942年に海兵隊(Marine Corps)に入隊し、急降下爆撃機中隊の情報報告担当官を務めます。第二次世界大戦の終結後、少佐に昇進します。砲手観測員として12回の戦闘任務に志願します。これらの任務は概ね安全で、後に彼の英雄的行為の主張のいくつかは後に誇張または偽りであることが判明し、「テールガンナー・ジョー」(Tail-Gunner Joe)というあだ名がつけられ揶揄されたようです。テールガンナーとは爆撃機の最後尾に備えられた攻撃機を狙う機関砲の射手のことです。

 マッカーシーは1944年、現役軍人(active duty)でありながらウィスコンシン州で共和党上院議員候補指名選挙に立候補しますが、現職のアレクサンダー・ワイリー(Alexander Wiley)に敗れます。太平洋戦争が終結する1945年9月の5か月前の1945年4月に海兵隊を退役した後、マッカーシーは巡回裁判所判事(circuit court judge)に無投票で再選されます。その後、ウィスコンシン州共和党の政治ボスであるトーマス・コールマン(Thomas Coleman)の支援を得て、1946年の共和党上院議員予備選挙でより組織的な選挙活動を開始します。この選挙でマッカーシーが挑んだのは、ウィスコンシン進歩党の創設者で、ウィスコンシン州知事兼上院議員のロバート・M・ラフォレット・シニア(Robert M. La Follette Sr)の息子で、3期務めたロバート・M・ラフォレット・ジュニア(Robert M. La Follette Jr)上院議員でした。

(投稿日時 2024年9月12日) 成田 滋

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