ナンバープレートから見えるアメリカの州ウェストヴァジニア州・Wild, Wonderful

ウェストヴァジニア州(West Virginia) は、合衆国東部の州でアパラチア山脈中に位置しており、山岳州(The Mountain State)とか自然の美(Wild, Wonderful)という愛称で知られています。ナンバープレートにこのフレーズが見えます。すべての地域が山岳内にあります。州都で最大の町はチャールストン(Charleston)となっています。北部はペンシルベニア州(Pennsylvania)、北部及び西部はオハイオ州、西部はケンタッキー州(Kentucky)、北部及び東部はメリーランド州(Maryland)、東部及び南部はヴァジニア州と隣りあっています。

License Plate of West Virginia

オハイオ川(Ohio River)が西の州境上部の大部分を形成し、ポトマック川(Potomac River)が北の州境の一部を形成しています。また、グレートカナウハ川(Great Kanawha River)とかシェナンドー川(Shenandoah River)が州を横断しています。ウェストヴァジニア州はアパラチア山脈が横断しており、全体的に起伏の多い土地です。古くからインディアンの狩猟が盛んで、考古学的な痕跡を残したアデナ族(Adena)が住んでいました。その後、イロコイ族(Iroquois)とチェロキー族(Cherokee)に引き継がれていきます。

Map of West Virginia

現在のウェストヴァジニア州に最初にヨーロッパ人が入植したのは、1720 年代にポトマック川(Potomac River)沿いの東部のパンハンドル(Panhandle)に到着したドイツ人でした。 その後、多くのスコットランド系アイルランド人やイギリス人が入植しました。アフリカ系アメリカ人もこの初期の遺産を共有していましたが、険しい地形によりプランテーション農業が制限されていたため、この地域で奴隷にされた人の数は限られていました。南北戦争後、州内の鉄道、鉱業、産業の発展により、南部からの黒人だけでなく、南ヨーロッパ(Southern Europe)や東ヨーロッパ(Eastern Europe)からも多くの労働者が集まりました。

ヴァジニア州東部は急速に入植が進みますが、西部地域は険しい地形のため入植は制限されました。アメリカ独立戦争後、主に非奴隷の入植者が西部に移り住みます。しかし、彼らはヴァジニア州政府への不満を募らせ、南北戦争が勃発すると1861年にヴァジニア州西部の住民は分離独立条例に反対票を投じます。1863年にウェストヴァジニアは35番目の州として連邦に加盟します。

Chapel in West Virginia

現在、アパラチアの多くの地域と同様に、ウェストヴァジニア州もほとんどが白人です。2020年の合衆国国勢調査では、州住民のほぼ10分の9を非ヒスパニック系(non-Hispanic)白人が占めていた。最大の少数民族であるアフリカ系アメリカ人は人口の約4パーセントを占め、ヒスパニック系は2パーセントを占めます。非常に少数のアジア系アメリカ人、ネイティブ・アメリカン、太平洋諸島民もいます。

ウェストヴァジニア州は依然として国内で最も経済的に最も恵まれない州の1つです。都市居住者の割合はここ数十年で増加しましたが、人口の約半数は依然として農村部に住んでいます。地方在住者の多くは、仕事を求めて都市部に通勤しています。アーカンソー州及びミシシッピ州に次いで、1人当たりの収入が3番目に低い州といわれています。さらに平均世帯収入は最低という数字となっています。国勢調査局のデータがそれを伝えています。ウェストヴァジニア州の4年制大学卒の人口の割合は15%であり、合衆国内で最低となっています。貧しい人口が多いことを示しています。

ウェストヴァジニア州経済の主要な資源のひとつは石炭です。1870年代には石炭やガスなどの天然資源がアメリカの成長に貢献し、鉄道の発達により産業が発展していきます。中小規模の石油及び天然ガスも開発されています。アパラチア山脈の全域に硝酸カリウムの採れる洞窟があり、弾薬用に開発されています。ヴァジニア州との州境には「硝石トレイル」があり、硝酸カルシウムを豊富に埋蔵する石灰岩の洞窟が並んでいて産品は政府に買い上げられています。農業は狭い平野に限定されています。山岳地帯のウェストヴァジニアはヨーロッパからの移民が入ってくる前は、ネイティブアメリカンの狩猟の場だったようです。

Small Town of West Virginia

ウェストヴァジニアといえばジョン・デンバー(John Denver)を取り上げたいです。カントリーポップでシンガー兼ソングライターの彼は、好きな山々と素朴な田舎暮らしについての歌を歌います。そして1970 年代半ばに商業的な成功を収めます。彼の最大のヒット曲「Take Me Home, Country Roads」や「Rocky Mountain High」、「Sunshine on My Shoulders」は、フォーク、カントリー、ロックの要素を組み合わせて明るい景色を歌で表現します。

1970 年代半ば、デンバーは環境保護活動にも熱心に取り組み始め、亡くなるまで続けます。1976 年に、非営利の教育研究グループであるウィンドスター財団(Windstar Foundation)を設立します。その後、ハンガー・プロジェクト(Hunger Project)を設立し、ユニセフ(UNICEF)などへも支援していきます。

1981年、彼は最後のポップヒット曲の一つであるオペラ歌手プラシド・ドミンゴ(Placido Domingo)とのデュエット曲「Perhaps Love」をリリースします。デンバーの海外ツアーでは、ソ連、チェルノブイリ(Chernobyl)原子力発電所事故の犠牲者のための慈善コンサートを行ったほか、中国やベトナムにも訪れています。1997年10月12日、自身が操縦していた単発機がカリフォルニアのモントレー湾(Monterey Bay)に墜落し53歳で亡くなります。

John Denver


「Take Me Home, Country Roads」は、デンバーがウェストヴァジニア州をドライブしたときのことをモチーフにしています。

 Country Roads take me home
To the place I belong
West Virginia mountain momma
Take me home Country Roads

田舎道が俺を故郷へ連れて行く 俺が育ったところ ウェストヴァジニアは母なる山  田舎道が俺を故郷へ連れて行く

私のウェストヴァジニア州ですが、家族と2か月の英語研修を受けていたジョージアからウィスコンシンへ移るとき、Interstate 79を通り、モーガンタウン(Morgantown)という町を通りかかりました。州立総合大学、ウェストヴァジニア大学(University of West Virginia)が本部キャンパスを置く大学町となっています。
(投稿日時 2024年2月13日)