したたかに生きる庶民や、うだつの上がらない下級武士などを淡々と描いたのが作家藤沢周平です。その短編作品に「ただ一撃」があります。この小説のあらましです。仕官を望む一浪人の清家猪十郎は、自分を高く売るために履歴書である高名の覚を持参し、庄内藩内にやってきます。そして藩の優れた若侍と試合を所望します。タイ捨流という無双の刀遣いで、腕自慢の連中4名を撃ち込み、手傷を負わせるのです。
初代庄内藩主忠勝は、この野猿のような猪十郎をぶちのめせと家老に命じて不機嫌に去ります。家老たちは苦渋の相談の果てに、かつて兵法堪能だった刈谷範兵衛を5番手の相手に決めるのです。
範兵衛は60歳の隠居の身。毎日嫁の三緒に「お舅さま、洟、洟」と注意される体たらくです。範兵衛の息子,篤之介は三緒の夫ですが、父が兵法の達者であることを知らないので驚きます。
鶴ケ岡城下から半里ほどのところに、小真木野と呼ぶ広大な原野があります。高台のため未だに狐狸が出没するといわれています。範兵衛は対決に備えそこで修行に入ります。通りがかりの者から天狗を見たという噂が流れます。
やがて天狗に間違えられた範兵衛が修行を終えて帰宅し、ぐっすり昼寝をした後三緒と語ります。
範兵衛 「妻の房枝が死んでから、女子の肌に触れたことがない」
範兵衛 「男のものはもはや役に立たんようになったかも知れん」
三緒 「もうお年ですゆえ、ご無理でございましょう」
二人で短い会話をしながら範兵衛はいいます。
範兵衛 「ところがさっき奇妙な夢をみてな」
三緒 「夢、でございますか」
範兵衛 「夢の中で、嫁女を犯した」
範兵衛 「無理かどうか、試したい」
三緒 「それがお役に立つなら、お試しなさいませ」
こうして範兵衛は嫁の三緒と合意の上で交わるのです。「儀式のようにして行われたそのことの最中に三緒の躰は不意に取り乱して歓びに奔った」のです。翌朝三緒は懐剣で喉を突いて自害します。驚愕した篤之介は飛び込んできて自害を知りますが、範兵衛は眉も動かしません。
試合で範兵衛は清家猪十郎を「ただ一撃」であっけなく勝ちます。それからは、ぼんやり庭や空を眺め、やがて雪が振ると部屋に閉じ籠って、行火を抱いてうつらうつらと眠る日課です。範兵衛は急速に老いていきます。「ただ一撃」とは嫁女三緒との交わりを暗示しているかのようです。
結末の文は憎たらしいほど見事です。江戸時代を舞台として老人の性というきわめて現代的課題に迫ります。現代小説では醜くなりがちな話を持ち前の筆力で、いざとなると大胆な女の可憐さを描くこの作品は秀逸といえましょう。
(2023年11月5日 大和田囲碁同好会 成田 滋)