森有正の経験論

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森有正は20世紀日本の重要な思想家・哲学者であり、特に「経験」と「体験」という言葉の違いを通して、人間の内面の深まりや自己のあり方を問い直しました。彼のこの区別は、現代においても大きな意義を持っています。その理由を説明します。森は「経験」と「体験」の違いを、特に以下のような形でこの二つを区別しています。

 体験とは外的な出来事としての出来事や刺激のことで、個人の内面に深くは残らない一過性のものと考えていることです。現象的・表層的・情報的といえます。他方、経験とは体験が自己の存在に深く関わり、内面的な意味や変化をもたらしたと主張します。自己の歴史として刻まれる存在論的、内省的、形成的な意見というわけです 体験が自己の存在に深く関わり、内面的な意味や変化をもたらしたものです。森は、単なる出来事が「経験」になるためには、それが自己の存在に問いを生み、内面を揺さぶり、深く反省される必要があると考えました。

 一体、なぜいま「経験」と「体験」の区別が重要かという現代的意義についての問いが生まれます。「情報」や「刺激」が過剰な時代において、現代はSNSやインターネットにより、日々膨大な「体験的な出来事、例えば旅行・イベント・知識などにさらされています。しかしそれらは一過性で、すぐに消費され、忘れられてしまうものです。森の思想は、「本当の経験とは何か」を問う指針となっているように思えます。「自己の存在に関わるような出来事として、何をどう受け止めていくか」を森は問うています。

森がしばしば引用するノートルダム大聖堂

 「生きる意味の問い」が見失われがちな現代に、森の経験論は、自己と世界の関係を深く見つめる態度に根ざしています。現代のように、スピードと効率が優先される時代では、「自分はなぜここにいるのか」「この出来事は自分にとってどんな意味があるのか」という問いが後回しにされがちです。 森の思想は、「意味を問い、反省し、内面的な成長を促す」経験の大切さを再認識させてくれているようです。

 フランス文学に精通する森は、フランスでの長い生活から、フランスの学校教育や人間形成におけるヒントを提供しています。森は教育哲学にも関心があり、「経験」は人格形成や倫理観に深く関わると考えていました。 今日の教育現場で、「体験型学習」が多く行われていますが、体験が「経験」へと昇華するためには、内省のプロセスが不可欠というわけです。つまり、ただイベントに参加するだけではダメで、それがどう自分の生き方に関わるのかを問う時間や対話が重要になります。森有正の「経験と体験」という思索は「体験を経験に変える力」を私たちに問うています。

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マサチューセッツ農科大学とウィリアム・クラーク

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北米大陸は大西洋岸のニューイングランド(New England)地方の政治、経済、文化、観光の中心地がマサチューセッツ州(Massachusetts)です。州の第二の都市ウースター(Worcester)近くに長男家族が住んでいます。長男はウースターにあるイエズス会経営の単科大学、ホーリークロス大学(College of Holy Cross)で物理学を教えています。

 マサチューセッツ州の中心都市はボストン(Boston)です。ボストン周辺には、メイフラワー号(Mayflower II)がやってきたプリマス(Plymouth)、独立戦争発端の街レキシントン(Lexington)、捕鯨船に助けられたジョン万次郎ゆかりのフェアへブン(Fairhaven)、19世紀のアメリカ文学界を代表する作家の一人、ヘンリー・ソーロー(Henry David Thoreau) が暮らしたコンコード(Concord)、夏の避暑地ケープコッド(Cape Cod)など興味深い歴史に彩られた所が点在しています。

Johnson Chapell, Amherst College

 マサチューセッツ州と北海道の関係といえば、1876年に設立された札幌農学校の初代教頭になったウィリアム・クラーク(Dr. William Clark)を思い起こします。彼はマサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agriculture College)の第三代学長でありました。1863年にボストンの西約90マイルの所にあるアムハースト(Armherst)にて創立された大学です。新島襄や内村鑑三がかつて学んだ大学であることは、すでにこのブログで35回に渡って振り返りました。今は、アムハースト校はマサチューセッツ大学(University of Massachusetts)の旗艦キャンパスとなっています。マサチューセッツ大学はアマースト校を含む5つの大学からなる州立大学システム(UMassシステム)です。

 マサチューセッツ州内には121の高等教育機関があります。研究開発型大学の代表としてボストンの郊外ケンブリッジ(Cambridge)にあるハーヴァード大学(Harvard University)とマサチューセッツ工科大学(Massachusette Institute of Technology- IMT)があります。その他USニューズ &ワールド・レポート(US News and World Report)のランキングで常に40位以内にある総合大学として、タフツ大学(Tufts University)、ボストンカレッジ(Boston College)、ユダヤ系のブランダイス大学(Brandeis University)があります。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その五 宥和政策の理由と失敗

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ミュンヘン会談の結果、ズデーテン地方のドイツへの割譲が決定され、チェンバレンは帰国後、「我々の時代の平和(Peace for our time)」と宣言します。チャーチルは当時、政権の中枢にはいませんでしたが、下院議員として会談後すぐに強い批判を展開します。特に有名なのは1938年10月5日のイギリス下院での以下のような演説です。

あなた方は戦争を避けるために屈辱を選んだ。しかし、屈辱を受けた上で戦争がやって来るだろう。
“You were given the choice between war and dishonour. You chose dishonour and you will have war.”

 このチャーチルの言葉は、先日のトランプがプーチンとの会談で示したロシアの譲歩に似ています。停戦はウクライナのゼレンスキー大統領の態度如何であると言って、プーチンになんらの警告も出さなかったのです。しかも会談中にロシアのウクライナの都市への爆撃が続くという有様です。


ズデーテン地方

 この発言は、チェンバレン政権がヒトラーに譲歩したことを「屈辱(dishonour)」と断じ、それが結局は戦争を防ぐどころか助長する結果になるだろうと警告するのです。チャーチルは、チェンバレンが国民にたいして述べた「平和」は幻想であり、ミュンヘン会談の後に宣言されたその和平は一時的なものであり、根本的な解決になっていないと断定します。そして「ヒトラーの要求は止まらない。彼はズデーテン地方だけで満足することはなく、次の侵略を計画している。その侵略がやがて起きる。」と予測します。ヒトラーの野望に対しては、力による抑止が必要であるとし、ヒトラーその野望を止めるには譲歩ではなく、早期の軍備強化と集団安全保障体制が必要だと主張します。

 結果的にチャーチルの見解は的中し、1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキア全土を占領し、1939年9月にポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発するのです。チャーチルの警告は現実のものとなり、宥和政策の失敗が明確になります。チャーチルはミュンヘン会談における宥和政策を「屈辱的で危険な譲歩」と位置づけ、戦争を防ぐどころか逆に招く結果になると強く批判しました。彼の見解は当時は少数派でしたが、後に歴史的に正しかったと評価されています。

チェンパレンの我々の時代の平和

 チェンバレンが宥和政策を選んだ主な理由はいくつか指摘されています。それには第一次世界大戦の記憶と反戦世論がありました。イギリスを含むヨーロッパ諸国では、第一次世界大戦の記憶が生々しく、戦争による莫大な犠牲に多くの人が苦しんでいました。大戦後、「二度と戦争は起こしてはならない」という強い世論が形成されており、政府に対しても戦争回避の姿勢が求められていました。特にイギリスでは、「平和のためなら多少の譲歩はやむを得ない」と考える国民が多かったのです。

 宥和政策を選んだもう一つの理由は、軍備の不備と準備不足がありました。1930年代のイギリスは、世界恐慌という経済不況の影響もあり、軍備の再建が進んでいませんでした。特に空軍・陸軍ともに、ドイツとの全面戦争を即座に戦える状態ではなかったようです。チェンバレンは、今戦うよりも、時間を稼ぎ軍備を整えることが現実的と考えていたとも言われます。こうして、複数の歴史的、政治的、社会的要因が絡んでおり、チェンバレンの宥和政策は、「弱腰」ではなく、当時の状況下で「最善の現実的選択」と考えられた部分もあります。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発

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トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれたのですが、詳しい会談結果は報道されていません。大統領専用機から降りて、両者の対面場所に向かうトランプの歩みはジグザクで、痴呆的(dementian)な障がいがあるようだ、というコメントもあります。共同記者会見のタイトルは、「Trump presser goes horribly wrong with Putin. Luncheon between US and Russians delegates has been cancelled. Trump will immediately return to Washington. 」首脳会談はトランプにとって悲惨な結果であるというコメントです。

「Trump has mad extraordinary concessions to Russia in exchange for nothing. Russia has repaid him by continuing the war and seeking to win it. Putin knows that Trump want the Novel Prize.」「この首脳会談は、トランプはロシアに対し何の見返りもなしに、並外れた譲歩をした。ロシアは戦争を継続し、勝利を目指すことで報いてきた。プーチンは、トランプがノーベル賞を欲しがっていることを知っている」と報道する有様です。

 共同記者会見では、両首脳は会談の内容を簡単に説明するだけで、実質的なウクライナ戦争の停戦などのディールはありませんでした。記者からの質問も受けず立ち去るのです。記者から「質問、質問、、、」という叫びを全く無視して会場を立ち去るのです。会談では全く停戦に向けた進展がなかったからでしょう。次のようなコメントも寄せられています。「プーチンがこの会談に同意したのは、トランプを当惑させ、従順な子犬のように見せるためだけだった。任務は達成された。」ロシア駐在の元アメリカ大使が会談の内容について、プーチンは何も妥協せず、トランプは何も得るものがなかったとコメントしています。


 1938年9月28日、イタリア首相ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が仲介に入り、イギリスの首相チェンバレン、フランスの首相ダラディエ、ムッソリーニ、ドイツの総統ヒトラーが集まり会談を行う提案を行います。ヒトラーは応諾し、開戦の延期を声明します。報告を受けたイギリス議会では大歓声が起こり、戦争勃発の懸念から低迷していたニューヨーク株式市場も一斉に反発し値上がりします。翌、9月29日、ミュンヘンで4カ国の首脳による会談が行われます。チェコスロバキア代表のヤン・マサリク(Jan Masaryk)駐英大使とヴォイチェフ・マストニー(Vojtech Mastny)駐独大使は会議には参加できず隣室で待たされるのです。

 翌30日午前1時30分に会談は終了し、4か国によってミュンヘン協定(Munich Agreement) が締結されます。ドイツの要求はほとんど認められ、ハンガリーとポーランドの領土要求にも配慮された結果となります。ヒトラーは「これ以上の領土要求はしない」と約束するのです。それは英独共同宣言と呼ばれ、戦争の危機は一応は回避されます。会談の隣室で待っていたマサリクとマストニーにはチェンバレンによって会談の結果が伝えられ、協定書の写しが手渡されます。この一連の国際会議はミュンヘン会談(Munich Conference)といわれます。

 なおミュンヘン会談から帰国したチェンバレンを迎えたジョージ6世(George VI) は、チェンバレンにバッキンガム宮殿(Buckingham Palace) のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えます。大衆の前で国王と政治家の友好関係を見せるのは極めて異例であったといわれます。

 しかし一連のチェンバレンによる宥和政策は、ウインストン・チャーチル(Winston L, Churchill)が指摘したように「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与えた」と同時に「イギリスとフランスが実力行使に出るという危惧を拭えていなかったヒトラーに賭けに勝ったという自信を与え、侵攻を容認したという誤ったメッセージを送った」として、現在では歴史研究家や軍事研究家から強く非難されています。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型」とされ、近代における外交的判断の失敗の代表例として扱われています。

 1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻と、同日に駐独イギリス特命全権大使を通じてポーランドからの撤退を勧告した最後通告への返答がなかったことを受けて、9月3日にチェンバレンもフランスのダラディエとともに対独宣戦布告を行います。ここに第二次世界大戦が勃発するのです。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その三 ネヴィル・チェンバレン

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2025年8月15日にアラスカのアメリカ軍基地において、トランプ大統領とプーチン大統領の首脳会談が開かれました。ウクライナ抜きです。会談後の共同記者会見で両者が発言した内容はさして新しいものではありません。お互いに多くの点で一致をみたが、重要な点ではまだ未解決な課題があるという内容です。

 トランプとプーチンは大国の首脳ですが、双方は大事な課題については相違があるということを認め合ったようです。それはウクライナ領土のドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)の割譲を要求するプーチンに対してトランプが合意していないということです。この違いはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)とトランプ大統領との格の違い、チェンバレンとヒトラーとの格の違いを示しています。つまり、ヒトラーのほうが政治や軍事面で優位であるがゆえに、チェンバレンは妥協せざるを得ないという結末が待っているのです。このことは「その四 ミュンヘン会談と大戦の勃発」で説明します。

 1938年4月24日、ズデーテン・ドイツ人民党党首で指導者的存在であったコンラート・ヘンライン(Konrad Henlein)はチェコスロバキア政府に対し、ズデーテン地方でのドイツ人の地位向上と自治を求めます。1938年5月7日、イギリスとフランスの公使はチェコスロバキア政府に対し、ヘンラインの要求を受け入れるように求めます。これを介入の好機とみたヒトラーは、国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)大将にチェコスロバキア侵攻計画「緑作戦」の策定を督促していきます。5月20日にこの作戦は完成しますが、軍の見通しは時期尚早とされ、ヒトラーもいったんはチェコスロバキア侵攻を見送るのです。

ナチス総統館

 イギリス首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)はチェコスロバキアに譲歩させて戦争を回避する腹を固め、9月18日にフランス首相エドワード・ダラディエ(Édouard Daladier)と外相ジョルジュ・ボネ(Georges-Étienne Bonnet) をロンドンに招いて協議し、ダラディエもチェンバレンの意見に同意します。9月19日にプラハ(Prague) 駐在のイギリスとフランスの公使は、チェコスロバキア大統領エドヴァルド・ベネシュ(Edvard Benes)にズデーテン地方のドイツへの割譲を勧告します。さらに現存の軍事的条約の破棄も通告されたベネシュは、一時これを拒絶します。しかし「無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関与しない」という強硬なイギリス政府の通告により、9月21日、チェコスロバキア政府は勧告を受諾する声明を行います。翌日チェコスロバキアのミラン・ホッジャ(Milan Hodza)内閣は総辞職し、ヤン・シロヴィー(Jan Syrovy)内閣が成立します。

ミュンヘン会談後ロンドンに戻るチェンパレン

 チェコスロバキア政府の勧告受諾を携えて、22日にチェンバレンはゴーデスベルク(Godesberg) でのヒトラーとの会談に臨みます。しかしヒトラーはズデーテン地方の即時占領を主張し、また同日にハンガリー王国がスロバキアとカルパティア・ルテニアを、ポーランドがチェスキー・チェシーン(Ceský Tesín) の割譲をチェコスロバキアに要求していることを口実にチェンバレンの調停を拒否します。こうして会談は物別れに終わります。チェンバレンはヒトラーの強硬姿勢に驚き、外交的圧力のためにチェコスロバキアに動員の解禁を通告します。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その二 ズデーテン地方

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チェコスロバキア(Czechoslovakia)でも有数の工業地帯であったのがズデーテン(Sudeten)地方です。ここにはチェコスロバキア最大の財閥であるシュコダ財閥(Skoda Works)をはじめとする多くの軍需工場が立ち並んでいました。また、この地方の約28%がドイツ系住民といわれていました。チェコスロバキア政府は、ドイツ人の独立運動を警戒し、ドイツ人を公務員に登用する事を禁止する措置をとっていました。そのため、ズデーテン地方のドイツ人政党であるズデーテン・ドイツ人民党(Sudeten German Party) は、チェコスロバキアからの分離とドイツへの併合を唱えていました。ヒトラーは、かねてからズデーテン地方のドイツ系住民はチェコスロバキア政府に迫害されていると主張しており、解放を唱えていました。ヒトラーがここで持ち出したのが、ヴェルサイユ条約(Treaty of Versailles)の基本となった十四か条の平和原則にある民族自決)national self-determination) の論理です。

Sudeten

 1937年6月24日、ドイツ陸軍参謀本部は、近隣への侵攻作戦の策定を開始します。その中でもチェコスロバキアに侵攻する計画が「緑作戦」(Fall Grün) と呼ばれました。特に西部のズデーテン地方は、ドイツにとっても重要な目標でした。当時、チェコスロバキアの東半の領土であるスロバキア(Slovakia)とカルパティア・ルテニア(Carpathian Ruthenia) はかつて北部ハンガリー(Hungary)と呼ばれており、トリアノン条約(Treaty of Trianon) によってチェコスロバキアがハンガリーから奪取した経緯がありました。

 トリアノン条約は、第一次世界大戦後の1920年6月4日に、フランスのヴェルサイユにあるトリアノン宮殿で、連合国とハンガリーの間で調印された講和条約です。この条約により、ハンガリーは領土の大部分を失い、現在のチェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアに分割されました。それ故に、ハンガリー王国は北部ハンガリーの回復を狙い、領有権を主張していました。さらにチェコスロバキア北部にはポーランドとの係争地も存在していました。

 他方で、チェコスロバキアは1924年1月25日にフランスと相互防衛援助条約を結んでおり、1935年5月16日にはソビエト連邦とも相互防衛援助条約を結んでいました。このため、チェコスロバキアへの領土要求は世界大戦を発生させる懸念があったのです。1938年3月にドイツは、オーストリアを併合(Anschluss of Austria) し、ズデーテン問題はドイツの次なる外交目標となっていきます。

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ミュンヘン会談と宥和政策 その一 トランプとプーチンの会談

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宥和政策(Appeasement)とは、戦争の回避、あるいは実用主義などに基づいた戦略的な外交スタイルの一つの形式です。敵対国の主張に対して、相手の要求をある程度受け入れることによって問題の解決を図ろうとする政策です。宥和主義ともいわれ、危機を抑止する概念といわれます。

Munich Agreement

 なぜ宥和政策の話題を取り上げるかです。今週、トランプ大統領がプーチン大統領とアラカスカで会談することになりました。この会談でどのようなことが協議され、どのような結論が出るかは興味あります。報道によりますと、トランプは、プーチンとで領土の交換をし、それで停戦しようとしているらしいとのことです。この二人の大統領の会談には、当事者であるウクライナのゼレンスキー大統領(resident Zelensky)は蚊帳の外だというのです。ウクライナはロシアの領土であるクルスク州(Kursk Oblast)の一部を占拠していますから、それを得る代わりにドンバス地域(Donbas)をロシアに渡すという案です。ウクライナはロシアが占拠するドネツク州(Donetsk)とルガンスク州(Lugansk)を渡すことには反対しています。まずは双方が停戦して、その間領土の協議をしようという計画だったようです。

チェコスロバキア領土の奪い合い

 ウクライナがアメリカとロシアの会談に臨めないとなれば、これに似た歴史が1938年に開かれたミュンヘン会談(Munich Agreement) を思い起こします。この会談は、ドイツのミュンヘンで開催された国際会議で、チェコスロバキア(Czechoslovakia)のズデーテン(Sudeten)地方帰属問題が協議されました。この会談にはイギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が出席します。ドイツ系住民が多数を占めるズデーテンの自国への帰属を主張したドイツのアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler) 総統に対し、イギリス・フランス両首脳は、これ以上の領土要求を行わないことを条件に、ヒトラーの要求を全面的に認め、1938年9月29日付けで署名します。

 この会談で成立したミュンヘン協定は、戦間期の宥和政策の典型とされ、イギリスとフランスの思惑とは裏腹にドイツの更なる増長を招き、結果的に第二次世界大戦を引き起こしたことから、一般には強く批判されることが多い協定です。

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忘れ得ぬ人 その九 教育統計のジェームズ・マッカーシー教授

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ウィスコンシン大学ではいろいろな先生から指導を受けました。そのお一人が今回紹介するジェームズ・マッカーシー教授(James McCarthy)です。この先生のご専門は障がい児教育の評価と測定といういわば統計学です。特に単一被験者とか少数被験者の教育や実験計画(single subject experimental design)で得られたデータの分析です。行動科学などの分野での研究では統計が重要視されます。数量的なデータを処理し、何らかの結論を導き出す必要がある場合が多いのです。数量的なデータの処理とは、単純な集計のように事実を数値で要約することか、児童生徒の行動観察やテストの結果から成績表をつけるということもあるでしょう。

Bascom Hall

 障がい児教育の分野では、障がいのない子どもと異なり、子どもの数が少ないのです。例えば、ある科目において1学年遅れのある子どもは、母集団と呼ばれる全2年生の15%位だろうと察します。母集団の成績は、グラフで表すと釣り鐘の形をします。これは通常正規分布といいます。母集団の成績のデータには、最頻値、中央値、算術平均があります。しかし、学習に困難を示す子どものある特性は、正規分布からかなり離れていることが多いのです。

 一例として、ある県における自閉症的傾向を示す子どもの出現率は男子、女子の比は4:1であるとします。そうすると、日本全国にいる同じような行動上の特徴を示す子どもの出現率も4:1での割合で推測できるかもしれません。このような判断をするのを推測統計といいます。別な例で言いますと、2025年7月20日の参議院議員選挙で、投票所での出口調査の結果、投票が締め切られた瞬間に当選確実、と発表できるのは推測統計によるからなのです。この場合の出口での投票者数は標本と呼ばれ、全投票者数は母数と呼ばれます。つまり、標本の結果は母数の結果とほぼ一致するのです。ただし、この場合、標本と母数の誤差は5%以下といわれます。このような統計手法は、『母数による検定』、別名パラメトリック法(parametric) といいます。

University of Wisconsin, Red Gym

 しかし、標本数が限られている場合は、『母数による検定』は使えません。そこでそれに代わる検定として『母数によらない検定』、別名ノンパラメトリック法(non-parametric) があります。マッカーシー教授は『母数によらない検定』の基本的な前提、手法、検定の仕方を詳しく院生に教えてくれたのです。すこし、統計的検定のことを説明します。検定とは、ある種の仮説についての検定であり、この仮説を採択すべきか、棄却すべきかを調べます。その判定基準は適当に定めた確率である危険率によるのです。危険率とは通常.05とか5%が使われます。5%とは20回のうち1回は間違いを起こすことがあるが、それは無視してよいというのが統計です。

マスコットのバジャー

 マッカーシー教授の講義で思い出深いのは、講義の他に統計手法の使い方の実習時間をとってくださったことです。通常、大学では講義で終わりなので、実習時間をとってくれることはありません。それも朝の8時からなのです。必ずベーグルとかクロワッサンを持参して院生に振る舞ってくださるのです。この日は、院生は朝食抜きでやってくるのが通例でした。その他、ミルウォーキー(Milwaukee)での学習障害の学会にも院生を同伴してくださったり、夏はマディソン郊外でのシェークスピア(William Shakespeare)の野外劇にも連れて行ってくれるなど、実に気さくで面倒見の良い先生でした。マッカーシー教授には博士論文の審査委員のお一人にもなっていただきました。後に就職した国立特別支援教育総合研究所時代に『障がい児教育のための統計情報処理入門ーノンパラメトリック法を中心に』という120ページの小冊を刊行できました。これも先生の薫陶によるお陰です。2012年4月に逝去されたことを大学のWebサイトで知りました。

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忘れ得ぬ人 その八 合唱のきっかけ:近藤艶子先生

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ずぶの素人音楽愛好家の一人が私です。いろいろのジャンルの音楽を楽しんでいます。日本の最北端、稚内高校時代に部活の響声クラブで歌い、その後北海道大学男声合唱団で’4年間歌いました。そのこともあり、ウィスコンシン大学に留学していたとき、マディソンにあるマウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church) の聖歌隊で歌うことにもなりました。

 こうした合唱を始めるきっかけをつくったくださった先生が稚内中学の音楽教師であった近藤艶子先生です。なぜ私を合唱団に入るように声をかけてくださったのかは、さっぱりわかりません。しかし、そのときから、なにも分からず歌を歌い始めることになりました。楽譜の読み方や発声の仕方を学び、男声と女声の混声合唱を始めました。旭川市でのNHK主催の全国唱歌ラジオコンクール、現在の全国学校音楽コンクールの中学校の部にも出場したことがあります。当時、稚内から旭川までは汽車で4時間かかりました。コンクールでは課題曲と自由曲を歌い審査されます。コンクールを控えて何度も練習を重ねたものです。近藤先生はピアノの伴奏をされました。コンクールの成績は全く覚えておりません。多分入賞圏外だったろうと察します。

リコーダ

 大会翌日、部員の一人と旭川市内で映画を見ました。題名は「八十日間世界一周」(Around the World in Eighty Days)といって、後期ビクトリア朝の一貴族が賭けをして、世界を80日間で一周しようと試みる波瀾万丈の物語です。コンクールのことは定かに覚えていないのに、この映画を見たことを覚えているとはなんと近藤先生には失礼なこととお許し願いたいです。私は大の映画きちがいでもあるのです。(差別用語をご容赦ください。)稚内にいたとき、父親と「戦場に架ける橋」(The Bridge on The River Kwai)という有名な作品を見に行ったのも覚えています。タイとビルマ国境にあった捕虜収容所が舞台です。日本人大佐と英国大佐との対立と交流を通じ極限状態における人間の尊厳や名誉、そして戦争の惨さを表現した見事な作品です。

 近藤先生からは、音楽鑑賞の時間にさまざまな西洋音楽を聴かせてもらいました。音楽室には歴代の有名な作曲家の写真が時代別に飾られていました。一番左端にはヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)が、右端にはルートビッヒ・ベートーベン(Ludwig van Beethoven)が並んでいたものです。この音楽鑑賞をとおして賛美歌やバロック音楽等に接する機会ともなりました。マディソンでにはリコーダの工房があり、そこでローズウッド(rosewood) のアルトリコーダを購入しました。バロック音楽にリコーダは欠かせない楽器です。

 今思えば小さい時から西洋や日本の音楽を聴かせてもらうことは、必ず大人になってからも音楽に対する興味や関心を高める契機となるということです。稚内中学校は創立78年を迎えます。校舎は新築され、私が学んだところに建っています。現在生徒数は95名です。今も音楽教育が受け継がれていることを信じつつ、近藤艶子先生から指導を受けたことを思い出します。先生は、引退後は旭川の郊外にお住まいになり、そこでピアノ教室を開いて後進の指導にあたられていたとお聞きしていました。恐らく鬼籍に入られたこととお察しします。忘れ得ぬお人はいつも記憶に鮮明に残っています。

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忘れ得ぬ人 その七 洗礼を授けてくれたディーン・シュスラー牧師

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 2001年8月17日に私の恩師のお一人であるディーン・シュスラー(Rev. Deane Schuessler)牧師のジューリ・シュスラー夫人(Julie Schuessler)から夫が心臓発作で亡くなったという知らせを頂ました。享年85歳でした。前日は、次男、孫らとでミネソタ・ツインズ(Minnesota Twins)の野球試合を一緒に観戦したとのことでした。長い闘病生活がなかったのがせめてもの幸いだったとジューリさんは書いておられました。

 1965年、私は札幌ユースセンター教会でシュスラー師より洗礼を受けました。ご一緒したのは、現小樽オリーブ教会の牧師らでした。先生より「センターで働きませんか」と誘われて、就職が内定していた商社を断りセンターで青少年活動を任されました。1967年に結婚したときも司式をしてくださり、翌年長男が生まれて洗礼を施してくださいました。

 時は経て、私は1971年に那覇ルーテル教会に派遣され幼児教育を受け持ちました。丁度、ミズリー派ルーテル教会内で神学論争があった頃です。そして1976年に日本ルーテル教団がミズリー派教会(Missouri Synod)からの自給を宣言します。シュスラー師は既に帰国されていましたが、日本各地でなお宣教師をされていた方々が、自給への経緯について心配されていたのを記憶しています。

 私は1978年に国際ロータリークラブからの奨学金をいただき、ウィスコンシン大学に留学しました。その頃、シュスラー師は隣のミネソタ州のルーテル教会から招聘されておりました。一家5人でシュスラー家を訪ねました。「ミネソタ州の州鳥はなにか知っていますか?」と訊かれ思案していると「モスキートです」と片眼でウインクされました。なるほど、外で立ち話をしていると蚊の大群が襲ってきます。ミネソタ州は氷河が残した10,000以上の湖が点在しています。シュスラー師はその後、神学博士号を取得され、いろいろな著作も刊行されました。

 シュスラー師のご昇天にあたり、私は霊的な指導を受けた方々を想い出します。北海道の余市沖で溺れた高校生を助けようとして亡くなられた宣教師師、ジョージア州で車を譲ってくださった宣教師、沖縄幼稚園の園長であった宣教師、そして最初の感謝祭の晩餐に招待してくださった宣教師、前稿で就職のお世話をしてくださったジェームズ・ウィズィ宣教師などです。特にウィスコンシン大学に入るとき、マディソン市内で牧会されていたトマス・ゴーイング師からは、教授を紹介してもらい、そのまま博士課程修了まで指導を受けることができました。シュスラー師の息子のジョエル・シュスラー氏がミネアポリスのコンコーディ大学(Concordia College)で教鞭をとっていました。この大学の教師教育やインターネット活用のカリキュラムなどを見聞できたのも幸いでした。

 振り返りますと、宣教師の方々にお世話になった者で私の右に出る者はいないだろうと思います。長年日本における宣教に邁進されたお一人おひとりの先生方の訃報に接すると、「すべてに時がある」という聖句が心に浮かびます。

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忘れ得ぬ人 その六 福音派の人:ジョン・シルバーネーゲル氏

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ウイスコシンでの生活でお世話になった方のお一人にジョン・シルバーネーゲル(John Silbernagel)夫妻がいます。この方は熱心な福音派のクリスチャンで、マウント・オリーブルーテル教会(Mt. Olive Lutheran Church)の礼拝でお会いしたのがきっかけです。マディソンに着いてから知人にアパートを紹介して貰いました。アパートには家具がありません。最初の礼拝に出席したあと、牧師さんから「なにか不自由している物はありませんか?」と尋ねられました。そこでベッドや毛布、台所用品などが不足していると伝えました。数日後、牧師さん自らがピックアップトラックを運転して家財道具を運んでくれました。会員から集めたものだというのです。

Mt. Olive Lutheran Church

 教会員と会話するといろいろな話題に及びます。かつて横須賀の研究所で障がい児教育の研究をしていたことを話すと、退役した会員がいて「自分もヨコスカに住んだことがある」というのです。別の会員は「タチカワやザマにいた」というのです。共通した話題になると教会員との距離はぐんと縮まるものです。このルーテル教会には私たちのほかに日本人はおりません。そんなわけでなにかと心配してくれるのです。聖歌隊に入り毎週木曜日の練習に参加しました。隊員は初見で新しい賛美歌を歌えるのです。小さい時から日曜学校などで歌っていたのです。

 そのうち、シルバーネーゲル(John Silbernagel)夫妻から「家にあそびにいらっしゃい」というお誘いを受けました。シルバーネーゲル氏も陸軍の将校退役軍人でマディソンの郊外で酪農を経営していました。酪農業はもっぱらご長男らがとりしきっておりました。ご自宅の畑の一画を使いなさいとの申し出で、私はジャガイモ作りを始めました。酪農を営んでいたので、種の植え付け前に堆肥を十分施すことができました。ウィスコンシンは「アメリカの酪農の地」(America’s Dairy Land)と呼ばれるほど酪農が盛んなところです。戦後、北海道の美幌で父親はジャガイモやトウモロコシを育てていたので、それを思い出しました。秋になるとジャガイモが沢山とれました。

 シルバーネーゲル家がある夏に、「旅行に出かけるので、留守番をして欲しい」と頼まれました。邸宅のように広い家です。大きな冷凍庫と冷蔵庫があり買い物は全く必要ありません。子牛半分の肉が整然と並んでいるのです。トウモロコシや肉はもちろん、トマトなどをビン詰してずらりと棚にならべて保存しているのに驚いたものです。地階はビリヤードがあり、おもちゃが一杯揃っていて子ども三人は愉快そうに遊んでいました。

 シルバーネーゲル家の三女ジャネット(Janet)は私の長女と同じ年です。彼女は後にウィスコンシン大学で教授となります。今は、老人ホームで100歳にならんとしている母親を定期的に訪ねているそうです。私の二人の娘が彼女の家を訪ねて交友を暖めたようです。ジャネットとはZOOMで会話しています。

 ウィスコンシン州は大昔、氷河に覆われそれが次第次第に溶けていきました。氷河が溶けながら地面を削っていくと、モレーン(moraine) という石や岩を残していきます。地表はそのためになだらかな丘陵となります。ウィスコンシン州の大地には石や岩が多く、大平原での農業とは違って、大麦やトウモロコシを作れないのです。そのために牛を放牧し乳製品を作る酪農が盛んになります。気候が似たスカンディナビア(Scandinavia) 諸国やドイツ、ポーランドからの移民が住みつくところとなります。伝統的な福音派のキリスト教も持ち込まれ盛んになるのです。福音派とは自由主義神学に対抗して近現代に勃興した、聖書信仰を軸とする神学的・社会的に保守派のムーブメントのことです。保守的な信仰者ともいわれるのが福音派の人々です。

ウィスコンシン州議事堂

 ウイリアム・ハーバーグ(William Herberg)というジャーナリストが一般のアメリカ人を次のように形容します。『アメリカン・ウェイ」(American Way)とは人道主義的で、前向きで、楽観的である。アメリカ人は、世界で最も寛大で慈善的な人々で、進歩、自己啓発、そして熱狂的に教育を信じている。しかし何よりも、アメリカ人は理想主義的だ。』 少々、ステレオタイプな表現に聞こえますが、、、シルバーネーゲル家の人々は、ハーバーグのいう「American Way」を地でいくような存在です。霊的生活の中心としての聖書の教えを守り、伝統を重んじる良きアメリカ人の典型ともいえる方々です。当然ですが政治的には共和党を支持しています。ジョン・シルバーネーゲル氏は享年90歳でした。

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忘れ得ぬ人 その五 日本スタンフォード協会とジェームズ・ウィズィ師

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私にとって、戦後日本各地のルーテル教会で牧会されていた宣教師の先生方には格別な思い出があります。多くの宣教師がなぜ海外で活動されたのかは、いろいろな動機や使命感があったのだろうと察します。今も日本には、ノルウェイ、フィンランド、スエーデンなどスカンディナビア諸国からの宣教師が活躍されています。宣教の場所として、戦前は中国大陸が選ばれ宣教活動をしていました。大陸での戦線が拡大するにつれて活動が困難になり、日本を新しい宣教の地として選ぶのです。宣教の母体となったのは、アメリカはセントルイス(St. Louis) にあるミズーリ・シノッド(Missouri Synod)という福音系のルーテル教会です。やがて日本ルーテル教団が設立され、各地で宣教活動が開始されます。私はこうした宣教師に出会い札幌のルーテル教会で洗礼を受けました。

Rev. James Wiese

 日本ルーテル教団の宣教師のお一人がジェームズ・ウィズィ師(Rev. James Wiese)です。この方との出会いを紹介することにします。ウィズィ師は1936年10月に、インディアナ州の農村で生まれます。13歳でコンコーディア・フォートウェイン校(Concordia Fort Wayne)の牧師養成プログラムに入学します。セントルイスのコンコーディア神学校(Concordia Seminary) で神学修士号を取得します。その後、スタンフォード大学(Stanford University) で学校経営と日本研究の修士号も取得した方です。

 神学校卒業後、奥様のリタ(Rita)さんとで日本にやってきます。それから34年間、家族とともに日本で教会の様々な役職を歴任し、セントポール国際ルーテル教会(St; Paul International Lutheran Church)の牧師、日本ルーテル教団立の聖望学園(Holy Hope Schools)のチャプレン(chaplain)兼校長となります。聖望学園はウィズィ師の尽力でセントルイスにあるミズーリ・シノッド教会の婦人会の寄付によって設立された中等教育学校です。後にアメリカンスクール(American School in Japan)の開発部長などを歴任されます。その他、大阪国際学校の初代校長兼理事長、横田米軍基地牧師を務めるという経歴の持ち主です。彼はまた、在日商工会議所、東京国際交流会館、そしてロータリークラブ(Rotary Club) にも積極的に参加します。さらに日本スタンフォード協会(Japan Stanford Association)の会員でもありました。

Concordia Seminary

 ウィズィ師に私はどのような恩があるかを申し上げます。それはウィズィ師が日本スタンフォード協会の会合で横須賀にある国立特殊教育総合研究所の部長に会います。この部長もかつてスタンフォード大学で留学した経験があります。私はウィズィ師に日本のどこかの研究所や大学で仕事をしたいということを伝えておりました。彼はこの部長に私を紹介したのです。しばらくしてこの部長から連絡があり、彼にウィスコンシン大学の学位の写しや成績を手渡しました。そして面接のあとにこの研究所に就職できました。日本スタンフォード協会を通して、ウィズィ師にお世話になったことで、この同窓会の会員は絆が非常に強く、会員同士の信頼が高いということを後で知らされました。蛇足にはなりますが、東京を中心とする我がウィスコンシン大学の同窓会は、極めて凝集力が弱いことを感じます。

 私は10年あまりこの研究所で働き、その後兵庫教育大学に移りました。2012年に院生を連れてカンザスのオマハ(Omaha)の学校視察に行きました。もちろんウィズィ師を頼っての訪問です。オマハ市内の学校訪問で同行してくれたのは師の長男夫妻でした。そのとき、ウィズィ師のご両親や親戚にお会いしたことをお伝えしました。それはジョージアでの語学研修が終わり、ウィスコンシンに向かう途中、私と家族はインディアナ州のレイノルズ(Reynolds)という小さな街に住むウィズィ師のご両親宅に泊まらせていただきました。ウィズィ家は、広大な農地でトウモロコシ栽培を経営していました。地平線まで広がるようなトウモロコシ畑でした。ウィズィ師は帰国後、カンザス州(Kansas) オタワ(City of Ottawa)のフェイス・ルーテル教会(Faith Lutheran Church)、その後テキサス州のオデッサ(Odessa)にあるリディーマー・ルーテル教会(Redeemer Lutheran Church)から招聘を受けて奉仕します。

 2012年にRitaさんよりメールを頂戴し脳腫瘍で入院されていることを知りました。脳腫瘍は手術のしようのない病といわれます。そして天に召されたとの便りを貰いました。享年76歳でした。

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忘れ得ぬ人 その四 ウィスコンシン大学の恩師:ルロイ・アザリンド教授

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ハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson) に颯爽と乗っていた先生の紹介です。お名前はルロイ・アザリンド(Dr. LeRoy Aserlind)といいます。私のウィスコンシン大学(University of Wisconsin) での指導教授であった方です。

 1978年にロータリー財団(Rotary Foundation)が指定するジョージア州(Georgia)での3カ月の英語研修を終わってウィスコンシンへ車で向かいました。『U-Haul』という小さなトレーラーにわずかの家財道具を乗せて出発しました。初めての大陸での長旅でした。『Haul』とは「引っ張る」という意味です。ですから、”You haul”をひっかけた造語が『U-Haul』といわれます。ウィスコンシン州の州都マディソン(Madison) に着きました。ウィスコンシン大学の威厳のある構内に入ったとき、「果たしてここで学位をとれるだろうか、、」という不安がこみ上げてきました。かつて、新潟などで宣教されていたルーテル教会の牧師さんがマディソンで牧会をされていました。この先生には事前にウィスコンシン大学で学ぶことを知らせてありました。この方のお名前はトマス・ゴーイング(Rev. Thomas Going)といいます。ゴーイング牧師は、1958年から2000年の長きにわたり新潟市、加茂市、三条市、そして東京で宣教されます。

Bascom Hall

 ゴーイング牧師は、ウィスコンシン大学教育学部(School of Education) の行動障害学科の一人、アザリンド教授に私を指導してくれるよう依頼してくださっていました。アザリンド教授は1963年にウィスコンシン大学マディソン校で博士号を取得し、その後、リハビリテーション心理学・特別支援教育学科となった行動障害学科の助教授に任命されました。 1968年に准教授、1972年に教授に昇進し、1971年から5年間学科長を務めました。1965年から1970年にかけて、アザリンド教授は米国教育省のプロジェクトを指揮し、発達障害のある生徒の教師を養成する最初のプログラムの一つを提供しました。

 先生は1980年代初頭には、「特別な子ども」と題した特殊教育入門コースの指導を開始し、全国の多くの大学でそのようなコースに採用された教科書の共著者となりました。先生の入門講座は、特別支援教育を専攻する学部生だけでなく他の学生にも好評で、学内で最も受講者数の多い講義の一つとなりました。学生からは、この講座が障害に関する認識と理解に大きく影響したという感想がしばしば寄せられました。

Memorial Union

 アザリンド教授の授業を受けたときです。最初の中間試験がありました。試験問題は多肢選択と記述という問題の組み合わせでした。この結果は惨憺たるもので、先生の部屋のドアに結果の一覧が張り出されていました。私はアメリカの大学での試験問題の対策に慣れていなかったのです。これが私の奮起を促す契機となりました。大学院とはいえ講義は徹底的な詰め込み教育であることを知りました。授業が終わると、すぐさま図書館などで筆記した単語を文章化し暗記することにしました。日本の大学では多肢選択問題で試験することはありません。大抵の場合、短文により記述試験問題が主流です。この日本とアメリカの大学の試験方法の違いを知った機会でした。

 先生の授業は、スライドやビデオを使ったものでした。視覚的に受講生に講義内容の理解を促すという手法は私のその後の兵庫教育大学での授業で大いに役立ちました。当時登場した「PowerPoint」というアプリを使いスライドで授業をしたことが院生に広がりました。彼らの修士論文のプレゼンではこのスライドでの説明です。その時、ある教授はこうしたプレゼンの仕方に反論していたことが懐かしいです。ビデオやスライドを使うことで「百聞は一見にしかず」という言葉を皆が体感することになります。

 アザリンド教授には家族ぐるみでスキーに連れて行ってもらったことも思い出です。ハーレー・ダビッドソンでモンタナへ何度も旅行し、退官後はそこに永住しました。2006年1月9日、モンタナ州(Montana)のリビングストン(Livingstone)のご自宅で、55年間連れ添った奥様マーガレット(Margaret)さんらご家族に見守られながらお亡くなりなりました。

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忘れ得ぬ人 その三 囲碁の達人:吉澤 實氏

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我が国の伝統文化である囲碁は、今や高齢化などによりその愛好者の人口がじわじわ減少しています。八王子囲碁連盟(八碁連)も例外ではありません。そんな中にあって、私は2019年から2021年に八碁連の会長を務めました。その経緯を申し上げますと、2018年に私は新米の理事として会長を補佐する副会長に推薦されました。八碁連は伝統的に副会長が会長になっていました。会長は長らく八碁連の会員であること、高段者であるなどが慣行となっていました。私はいわば八碁連では無名の三段でしたので、その条件にあてはまらなかったのです。にも関わらず会長であった恩方同好会の吉澤實八段は、何故か私を副会長に指名したのです。その理由は今もって分かりません。

 2018年は、八碁連の結成30周年にあたっていました。吉澤会長は設立30周年記念誌を作成しようと提案し、それが総会で承認されました。彼は最初の理事会で私を編集責任者に指名しました。私は過去にいくつかの本を出版してきたので、もとより記念誌の編集にも自信がありました。記念誌を作るにあたり、私は八碁連の未来を志向する構成にする、会員や求道者を読み手とする、八碁連の活動にスポットを当てる、視覚に訴える内容にする、という方針を立てました。それにそっていろいろな人々に原稿を依頼しました。対談の内容も加えました。予算をカバーすることも考えて広告を掲載することにしました。

 やがて依頼原稿が集まり、印刷会社に持参すると記念誌は100ページを超えることがわかりました。印刷会社は折角の記念誌なので表紙をカラー化する提案をしてきました。これでは発行予算を大幅に超過するので、会計理事は原稿数を減らすように提案してきました。私は執筆者には頼み込んで依頼した手前、もし原稿を減らすようなことが理事会で決まれば、理事を辞任するつもりでした。ですが吉澤会長のとりなしで、集まった原稿はすべて掲載することになりました。印刷費がオーバーしたので、当初の発行部数の1,000部から600部にはなりました。幸い広告収入もあり、記念誌一冊の単価が454円となりました。ちなみに20周年記念誌は白黒印刷でページ数は半分、一冊単価が396円でした。

 記念誌の作成とともに、インターネットの活用を提案し八碁連のWebサイトを立ち上げました。そのために「hachigoren.com」というドメイン名を取得しました。Webサイトでは、八碁連の様々な紹介や歴史、八碁連だよりの掲載、各種大会の案内、大会参加申し込みのフォーム、過去のさまざまな資料のアーカイブを保存することとしました。理事の間の連絡を円滑にするために、グループメールを作り理事の間での情報の漏れがないように工夫しました。吉澤会長はそれまで電子メールを使ったことがなかったのですが、婿さんの指導で使い方を習得され、理事の間の情報交換は頻繁になりました。電子メールの利用により、八碁連だよりの原稿の点検も理事の間で行われるようになりました。吉澤会長らは、それまで会長の任期は一年という規約を改正しようと尽力され、総会にて会長を含む理事の任期を三年とすることになりました。

 2019年に会長に就任した私は、吉澤氏には相談役を引き受けていただきました。そしていくつかの試みに挑戦しました。女性の囲碁人口を増やすために、女性囲碁大会を始めることができました。しかし、2020年の1月15日に国内で初めての新型コロナウイルス感染者(COVID-19)が特定され、その流行によって国内は危機的状況を迎えることになりました。八碁連も各種の大会や集会は中止に追い込まれ、会員はネット上での対局などを余儀なくされました。ですが、インターネット上で、ZOOMというアプリを使い「オンライン囲碁セミナー」という研修を毎月開くこともできました。講師には会長を退いた吉澤氏らに依頼して研修を続けることができました。このようにコロナ禍を逆手にとって研修活動ができたのは、インターネットの活用と吉澤氏ら講師陣の活躍によるものでした。

 2022年8月24日に吉澤實氏よりメールを頂戴しました。東京医科大学八王子医療センターに入院との知らせでした。そして吉澤氏と交誼を結ぶ会員とでお見舞いの小冊子をお届けしました。私は若輩ながら次のような言葉を小冊子に添えました。

 私は、いく度となく吉澤實氏に相談し助言を頂戴し、激励を受けて行動してきました。氏の虎の威を借りたことも度々でした。ですが吉澤實氏は2022年11月にご逝去されました。享年84歳であられました。

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忘れ得ぬ人 その二 国際ロータリークラブ:国吉 昇氏

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いつかこのブログで「ドルと沖縄と留学」という拙稿を掲載しました。私が始めて沖縄に赴いたのは1970年。本土復帰の2年前です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を設置する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要。1ドルが360円のときでした。当時、幼稚園設置のために琉球政府のお役人とで何度も打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれて、認可にこぎ着けることができました。沖縄は1972年5月15日に本土復帰を果たします。このときは1ドルが300円となりました。

 開園後、園児を募集すると障がいのある2人の幼児が保護者に連れられてやってきました。この2人を担当するのが私の仕事ともなりました。彼らと接しながら、もっと障がい児教育を学ぶ必要を感じていきました。ひよんなことで、ロータリー・インターナショナル(Rotary International) という組織が、障がい児教育の分野で奨学金を出していることを知りました。沖縄には那覇東ローターリークラブがありました。そこで社会貢献活動を担当されていた国吉昇氏と出会いました。

 国吉氏は、戦時中は沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。悲惨な沖縄戦で九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして40年以上も毎週の例会に欠かさず出席していた熱心な会員です。国吉氏は私をロータリーインターナショナル(Rotary International)の奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。当時の為替レートでいえば、200万円です。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブ(Officer’s Women Club)からも1,700ドルの奨学金が提供されました。そして1978年に家族を連れてアメリカに向かいました。

 この頃になるとドルと円は変動相場となり、交換レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ・ミヨン(filet mignon) の部厚いステーキが5〜6ドルくらいで、1,500円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに3,000円、4,000円へ上がっていきました。沖縄の人は当時ドルで生活していたので、相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍、3倍に上がりました。沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。沖縄は完全に本土並となりました。沖縄の人は本土復帰によって、国家権力がいかに強大かを思い知らされることになりました。

 ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。通常買い物で100ドル札を出す人はいません。皆小切手を使います。彼女は100ドル札を見たことがなかったのです。その時の円相場は1ドル200円前後で、授業料の支払いなどでわずかの円預金では大変な生活でした。学業がてら私も家内も懸命にアルバイトをしました。このような留学経験は、通貨の価値とか為替相場ということを知る機会となりました。

 時を経て、1982年12月にウィスコンシン大学から学位を貰い、帰国してから横須賀にあった文科省の研究所、兵庫県にある小さな大学で教育と研究に従事することになりました。その間、国吉氏と手紙のやりとりをしながら、1995年に長男とともに沖縄に出かけ、国吉氏と再会できました。2020年の12月に再度那覇を訪れ、那覇東ローターリークラブの例会でお礼を述べ、その後老人ホームに入っておられた国吉氏とお内儀にお会いしました。国吉氏の記憶は大分衰えているようでした。2024年の7月に国吉ご夫妻のご長男からお二人がお亡くなりになったという手紙を頂戴しました。アメリカに留学し学位を得て障がい児教育に従事することができたのは、ひとえに国吉昇氏のご尽力で奨学金を頂戴したお陰でありました。生涯、忘れ得ぬお一人です。

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忘れ得ぬ人 その一 北海道大学の恩師:松沢弘陽教授

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これから暫く、これまでお世話になった方、ご迷惑をおかけした方、ご教授を賜った方、親しくお付き合いをしてくださった方などを取り上げます。こうした人々を思い起こしますと、すでに鬼籍に入られた方々のお顔が脳裏を横切ります。私は現在82歳ですから、ご存命の方はほとんどおりません。ですが、お一人おひとりが私と家族のために親身になってお付き合いをしてくださったことを想うと、本当に幸せな時間を持てたと述懐する今日この頃です。

 私が北海道大学に入学したのは1961年4月です。卒業した道立旭川西高校から16名の合格者が北大にやってきます。60年安保の大学闘争が一段落した年です。大学正門には学生団体のけばけばしい立看がずらりと並んでいました。大学に入ると全員教養部というリベラルアーツの部門で、学問の基礎を学びます。私にとって目新し学びは哲学とドイツ語でした。他の教科は高校の復習のようなものでしたが、英語の読解を担当した川村という教授が、「君たちは大学生なのだから英英辞典を使いなさい」と言ったのを今も鮮明に覚えています。

北海道大学古川講堂

 一年半の教養部を終えて法学部に移行しました。政治学を学ぼうと指導教官として松沢弘陽教授にお願いしました。当時、私は松沢先生が、東京大学教授の政治学者、丸山真男氏の一番弟子であったことを知りませんでした。丸山教授は、西欧思想と東洋古典に精通し、戦後民主主義思想の展開に指導的役割を果たした学者です。そして〈丸山学派〉と称される後進の研究者も輩出し、日本政治学や政治思想史の分野での飛躍的な発展に大きく貢献されます。

 松沢先生は、1960年に北海道大学法学部助教授、1965年に同大学教授。1984年に同大学法学部長・大学院法学研究科長を歴任されます。専門分野は、日本における近代日本政治思想史ですが、近代政治思想史全般にも精通された学者です。特に内村鑑三や福澤諭吉の研究が有名で、思想史上の師である丸山教授の業績も広く紹介します。特に1995年に「丸山眞男集」や「内村鑑三全集」全40巻の編集に携わり、いずれも岩波書店から刊行します。その蔵書類を日本女子大学に寄贈する仲立ちをも果たします。また思想の科学研究会の鶴見俊輔らの共同研究「転向」にも参加し、後年は日本政治史も研究対象としていきます。北海道大学を退官された後、放送大学客員教授をはじめ、小樽商科大学、北海道教育大学、札幌大学法学部、北星女子短期大学、東京都立大学法学部、名古屋大学法学部などの非常勤講師を務められます。

北海道大学構内

 私の書棚には丸山真男氏の著作「現在政治の思想と行動」があります。この著作は1956年に未来社から発行され、私が保管するのは1962年刊の第22刷ものです。表紙は大分古びて時代ものになったような装幀ですが、各論文は、講演調、書簡体、対話体と、ヴァラエティにとんだ歯切れのよい文体で綴られています。それに加えて大変読みやすく読者の理解を助けてくれます。「戦後日本社会科学の精神的起点の一つ」といわれる著作で、松沢先生はこの名著の論文の配列、小見出し、追記、補注の作成に携わります。

 松沢先生は、福澤諭吉や内村鑑三に私淑され、1967年に岩波書店から「福澤諭吉の思想的格闘-生と死を超えて」という著作を刊行されます。私はルーテル教会の札幌ユースセンター教会で結婚式を挙げます。その式に松沢先生は参列してくださいました。

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トランプ政権が名門大学を攻撃する理由

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現在、トランプ政権の中東情勢をめぐる外国人留学生のビザ制限などに対して,名門大学は法廷闘争を展開しています。この闘争は、大学側に有利な展開も予想されています。ハーヴァード大学とマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT) は2020年に、トランプ政権の外国人留学生のビザ制限に対し連邦地裁に提訴し、一時的な勝利を収めました。司法はこれまで、政権の移民制限策に対して慎重な姿勢を示してきたため、法廷では大学側の理が通る可能性が高いと見られていました。ただし、政権がさらに法改正や規則の変更で圧力を強めると、再び法的な応酬が繰り返されることになるかもしれません。

Massachusetts Institute of Technology

 トランプ政権のもう一つの狙いは、リベラル勢力への牽制です。ハーヴァード大学は「リベラルの牙城」とされており、トランプ政権にとっては政治的な敵対的な対象でもあります。政権側の真意は、ハーヴァード大学だけでなく、全米の高等教育機関に対する締めつけを強めることで、「エリート主義」への反発を強調し、保守・中間層など政権支持層へのアピール 対中国政策の強化を狙っている可能性があります。

 「エリート主義」への反発ですが、2022年時点で、25歳以上のアメリカの成人のうち、約37.7%が学士号を取得しています。この数字には学士号のみならず、修士・博士号の取得者も含んでいます。そのうち大学院修了者は約14.2%に達するといわれます。ちなみに日本では、大学または大学院を卒業した人の割合は 約25.5%といわれています。 トランプの支持者は、人口の3/4を占める高卒の市民です。「エリート主義」に対するアンチの人々ということです。

 トランプ政権のもう一つの狙いは、主に中国人留学生の排除があるようです。アメリカの大学には、数十万人規模の留学生が在籍しており、その多くが理工系分野で最先端の研究を担っています。特に中国やインドなどからの優秀な学生は、アメリカの研究・産業競争力の源でもあります。同時に、海外からの留学生の増加で肝心のアメリカ人の若者が入学を阻まれているという事情もあります。そうした不満もアメリカ国民の中にはあるのです。

 2023年6月29日、アメリカの連邦最高裁判所は、大学の入学選考において人種を考慮する「積極的格差是正措置」(affirmative action)を違憲としました。この判決により、大学の入試や公的機関の採用で、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系、先住民などが不利にならないように考慮されることがなくなり、いわゆる白人アメリカ人の入学や雇用が促進されそうです。これはトランプ政権が望んでいることです。

 留学生の受け入れを制限すれば:優秀な頭脳が欧州やカナダなど他国に流出し、アメリカの研究開発力やイノベーションの低下につながるという懸念もあります。また、留学生の学費は大学の重要な収入源であり、大学の財政難といった中長期的な悪影響も懸念されています。今後の展望ですが、選挙と政権交代がカギといわれます。政権と大学の対立の今後を左右する最大の要因は、大統領選の行方です。仮にトランプ氏が続けば、大学や移民への締めつけが強まる可能性が高いです。

 結論として、今後も短期的には政権と大学との法廷闘争が続くと思われます。大学側は議会や世論と他大学の支持を集めて巻き返しを図るでしょう。トランプ政権側は政治的パフォーマンスとして移民対策や留学生などへの締め付けという「強硬姿勢」を貫くことによって、岩盤といわれる層の支持を受けていくだろうと考えられます。トランプ政権とハーヴァード大学などとの対立は、単なる大学の問題にとどまらず、アメリカの移民政策、教育政策、そして国際関係のあり方をめぐる根本的な対立を象徴しているといえそうです。

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トランプ政策と名門大学の抵抗と服従 

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アメリカ東部にある名門私立大学でアイビー・リーグ(Ivy League)の一つ、ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania) は2023年12月9日、エリザベス・マギル(Mary Elizabeth Magill学長とスコット・ボク(Scott Bok)理事長の辞任を発表しました。マギル氏は大学内で強まる反ユダヤ主義への対応を巡り、批判されていました。連邦政府は、全国の大学への数十億ドル規模の資金の流れを停止すると脅迫しており、多くの大学は司法省から保健福祉省に至るまで、様々な機関からの調査に直面している。しかし、トランプ政権の大学に対する懲罰的なアプローチは、アイビー・リーグの大学で最も深刻に表れています。昨春、ガザ紛争に反対するキャンパスでの抗議運動の中心地となった同大学は、反ユダヤ主義的行為を容認し無法状態を蔓延させたという非難と学術的・政治的言論を抑圧したという非難に、数ヶ月にわたって対峙してきました。

 トランプ政権が非難のターゲットとしているのは、こうしたアイビー・リーグの大学です。名門ハーヴァード大学(Harvard University)との対立も続いています。政権はハーヴァード大学に対して外国人留学生の受け入れ資格停止を通告し、反発した大学側との法廷闘争に突入しています。背景には「リベラルの牙城」と呼ばれるハーヴァード大学を狙い撃ちすることで他の大学にも「改革」を迫り、さらには中国共産党など外国の影響力を排除する意図が潜むようです。ハーヴァード大学の歴史で最初の黒人学長だったクローディン・ゲイ学長(Claudine Gay)は2024年1月2日に辞任します。その後、就任したアラン・ガーバー学長(A)lan M. Garber)はトランプ政権の政策に訴訟を起こし毅然として立ち向かっています。すなわち、トランプ政権が大学に対し課してきた一連の制裁措置、すなわち連邦研究費の凍結、留学生プログラムの停止、税制優遇の剥奪検討などに対し、訴訟を起こしています。

コロンビア大学エンブレム

 マンハッタン(Manhattan)北部にある同じくアイビー・リーグ大学の一つ、コロンビア大学(Columbia University)は、今年、学生デモで混乱に陥り、結束バンドや暴動鎮圧用の盾を持った警察官が、親パレスチナ派の抗議活動参加者が占拠していた建物に突入する場面もありました。同様の抗議活動は全国の大学キャンパスに広がり、その多くが警察との激しい衝突や数千人の逮捕に至りました。この発表の数日前には、大学当局が、ユダヤ人の生活と反ユダヤ主義に関するキャンパス内での議論中に3人の学部長が中傷的なテキストメッセージを交換したとして辞任したと発表したばかりでした。

 コロンビア大学のミヌーシュ・シャフィク学長(Minouche Shafik)は2024年8月に、イスラエルとハマスとの戦争(Israel-Hamas war)をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応をめぐり、短期間で波乱に満ちた在任期間を終えて辞任しました。ニューヨークの名門大学である同大学の学長は、この間、イスラエルとハマスとの戦争をめぐる抗議活動やキャンパス内の分裂への対応について厳しい批判にさらされてきました。

 次いで暫定学長に就任したカトリーナ・アームストロング(Katrina Armstrong)も、2025年3月までに学内対策に応じた結果、トランプ政権による資金凍結などの圧力からの批判を引き受け、2025年3月28日に辞任発表します。同日に、学長代行としてクレア・シップマン(Claire Shipman) が指名されました。彼女は“学問の自由と開かれた探究を守る”姿勢を表明していますが、下院教育委員会などによる調査も受けてきました。シップマン学長代行も自分の発言でユダヤ人協会から批判され、大学の人事は混迷しています。

University of Virginia

 さらに、ヴァジニア大学(University of Virginia)のジャームズ・ライアン学長(James Ryan)が2025年6月28日に辞表を表明します。ライアンが退任を急いだ決断は、ヴァジニア大学に対する連邦政府の監視が強化されている時期に行われました。ライアンは退任の手紙の中で、「自分が学長職に留任していた場合、大学は多額の資金を失うリスクがあったことを認めます。自分の地位に留まり、連邦政府の資金削減のリスクを冒すことは、空想的なだけでなく、職を失う何百人もの従業員、資金を失う研究者、そして奨学金を失ったりビザを差し押さえられたりする何百人もの学生にとって、利己的で自己中心的に見えるだろう」と述べて辞任するのが最上であるという判断をしたのです。

 コロンビア大を含む、アメリカ東部の八つの有名私立大で構成されるアイビー・リーグのうち、学長が辞任したのは昨年10月以来、ペンシルベニア大学とハーヴァード大学で3例目です。いずれも、中東情勢をめぐる抗議デモの対応で追及を受けています。

インクルーシブ教育への疑問

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統合(インテグレーション)と「完全な包括(インクルーシブ)」には違いがあります。インテグレーションでは、障害のある子どもは、同世代の障害のない仲間たちと隣同士で学習します。合衆国では、1975年に制定された全障害児教育法(PL94-142)の下で特別な支援教育を受ける権利を認められる子どもは、1週間のうち3分の2以上を通常学級で学習することができます。子どもたちは、終日通常学級にいなければならないというわけではなく、作業療法、理学療法、言語療法などの支援を受けるために「取り出し」(pull-out)の対象になることもあります。1990年に全障害児教育法は個別障害者教育法(Individuals with Disabilities Education Act : IDEA)へと名称が変更されます。

 他方、完全な包括の下では、個別障害者教育法の対象となる子どもたちは、文字通り1日中、通常学級に在籍することになります。必要な応対は「入り込み」(pull-in) を通じて行われます。つまり、専門家が教室にやってきてそこで支援を行うのです。完全な包括ではありませんが、障害のあるほとんどの子どもたちにとって妥当な取り組みであると考えられている節があります。中には自閉症、知能障害、難聴の子ども、複合障害児などの子どもたちの中には、こうした環境では適切な教育を提供できないかもしれません。

連邦政府の教育省のエンブレム

 通常学級に在籍することは、人権の尊重であるという考えが根強くあります。高等学校まで学校は障害のあるすべての子どもたちに完全な包括を提供できるように再構築するべきであると考えるのです。連邦政府の教育省によれば、個別障害者教育法の実施に関する最新の調査では、該当する子どもの約半数がほとんどの時間を通常学級で過ごしているといわれます。ただし、障害種別に見ると、その割合は非常にばらつきがあり、言語障害の子どもの90%以上が包括的な教室に在籍しています。しかしその一方で、通常学級に通う自閉症の子どもたちは、わずか29%に留まっています。つまり、教育的対応は、子どもがどこに在籍するべきかではなく、それぞれの子どもに固有な必要性によってなされるべきであるという考え方があるからです。

 インクルーシブ教育に反対する人々もいます。特別支援学校・学級を「分離教育」と捉え、障害のない子どもと同じ教室で受けさせることが正しいとする立場への反対です。障害ない子と障がいのある子を同じ教室で教えることが正しいと考える人々を批判するのです。何でもかんでも両方を一緒に教育する、という考えには反対するのです。「多様な個性の子どもが同じ場で学び、子どもは主体的に授業に参加するのが正しい」という考えを「ポリティカル・コレクトネス的」 (politically correct)として批判するのです。次稿では、「ポリティカル・コレクトネス」という話題を取り上げます。

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インクルーシブ教育と私の経験

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今でこそインクルージョン(inclusion)やインクルーシブ教育という用語は珍しくありません。もとはといえばメインストリーミング(mainstreaming)とかインテグレーション(integration)という用語と同義に近いものです。我が国では統合教育と呼ばれました。かつて私は那覇で設立した「丘の上幼稚園」で障がいのある幼児を受け容れたことがありました。そのことで沖縄が本土復帰して2年後の1974年、当時の文部省から幼児の統合教育の実践で研究指定を受けたのです。インクルージョンの「さきがけ」だったのではないかと密かに自負しています。

 ウィスコンシン大学での研究を終えてから、国立特殊教育総合研究所に就職してからも欧米のインクルージョン実践の経緯は、逐次調べては論文にまとめていきました。アメリカの個別障害者教育法もインクルージョンを全面に押し出していました。ですが、我が国の普通学校と特殊教育諸学校の分離体制は堅固であり、インクルージョンは大分先になるように考えておりました。その間、欧米の先進的な取り組みを現地で調査したり、合衆国が発表する年次報告書などを紹介することによって、分離教育に風穴を開けることができるのではないかと考えていきました。文部省の特殊教育課長補佐と一緒にアメリカのナッシュビル(Nashville)やカナダのトロント(Toronto)などの学校を訪問しては、インクルージョンの実践を調査したものです。

No Child Left Behind Act signed.

 もう一つは、裁判事例によって保護者や親の会を味方につけることでした。1986年頃だった記憶しますが、北海道は留萌市の中学校において、新設の固定学級(特殊学級)への配属を拒否した保護者と生徒が市教を相手に訴訟を起こした事例があります。原告の保護者は、娘を通常学級で学ばせたいという要求でした。留萌市教育委員会は、「原告の主張する親の選択権は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由に認められる権利というべきであって、心身障害児をどの学級に入級させるかという教育措置については、親にこれを選択する権利はなく、当該校長の権限に属する事項である」と反論したのです。

 この裁判の経過は北海道新聞の記者から聞いておりました。記者からの電話を受けながら裁判の進行は気を揉む展開となりました。そして判決は原告の敗訴。その記者より判決内容についてコメントを求められました。そこで「生徒と保護者の意思を無視する固定学級での学びを強いるのは、時代錯誤、時代遅れの判決である」と記者に伝えました。

 その私のコメントが、文部省の役人と筑波大学のM教授のものと一緒に翌日の北海道新聞に掲載されました。もとより文部省の立場は、判決は妥当なものであるというものです。M先生のコメントは中庸な内容だったと記憶しています。それを読んだ北海道教育庁の役人が、文部省の特殊教育課に知らせたらしいのです。そして文部省から研究所にそのことで問い合わせがあったようです。翌日私は研究所の上司から呼び出されて聴取を受け、その経緯を説明させられました。「時代に逆行する判決である」と伝えたと答えました。文部省直轄機関の一研究員が「お上」に逆らったのです。その聴取では、今後は報道機関からの問い合わせには事務を通すようにという軽躁なものでした。お咎めも始末書もありませんでしたが、しばらくは蟄居を余儀なくされました。時はインクルージョンの情報がじわじわ浸透し、研究所もこの趨勢に抗うことが困難であると判断していたようです。

 2013年3月に川越市が脳性麻痺の子どもを特別支援学級で受け容れると発表しました。その顛末というのは、埼玉県教育委員会が、保護者の要求に対して、「特別支援学級では医療行為ができない、もし受け容れるとすれば保護者の同伴を要求する」というものでした。しかし、保護者は、共働きでなければ生活が成り立たないと主張します。川越市教育委員会は、すでに就学が2年も遅れている実情に鑑みて、2人の看護師をつけその子どもを受け容れるということになりました。一体、特別支援教育とはなんなのか、という問題提起をする事案でありました。

 どうも私には権威に対するアレルギーのようなものがあります。苦労して勉強してきたこと、ヤワな鍛えられ方をしてこなかったという自負と自信も強く、前例とか組織の体質には疑問を抱くのでどうしても上司とは軋轢を生みがちになるのです。保護者と子どもの側に立つのが教育の基本ですから、どのような強圧的な指導が入っても終局的にはそれを論破していくことができる自負がありました。行政というのは慣例や慣行に対して内からも外からも疑問を差し挟むことが困難な体質があります。留萌の裁判事案がそうでした。多くの学校管理者などにある「つつがなくお勤めを果たす」という内向きの姿勢が、時代の趨勢に応じて変化することを難しくしているのです。

 保護者が就学が遅れたことを理由に都道府県教育委員会を訴えるとすれば、恐らく被告は敗訴するはずです。これがもしアメリカで起こった事案とすれば教育委員会は100%、間違いなく敗訴します。それほど保護者や子ども権利は法律で保護されているのです。

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