イスタンブルとソフィアの旅から その5 オスマン帝国の栄枯盛衰

オスマン帝国(Ottoman Empire)のことです。ブリタニカ百科事典によりますと、オスマンとういう言葉には人種的な意味はないとあります。帝国の始祖とみられるオスマン一世(Ottoman I)の名に由来する王朝名です。11世紀末以来、中・東部アナトリア(Anatolia)において優勢であったトルコ人が、残存していたビザンチン帝国のアジア領の大部分を奪取し地中海沿岸へと西進してできた国です。

15世紀には東ローマ帝国をほろぼして、その首都コンスタンチノポリスを征服し、イスタンブルと改称します。スレイマン一世(Suleiman)の治世である1520年から1566年がオスマン帝国の最盛期で、アジア・アフリカ・ヨーロッパにまがたる大帝国を築きます。

いつの時代も国の繁栄を持続するのは難しいようです。栄華を極めたオスマン帝国も例外ではありません。19世紀になると、オスマン帝国の各地では、エスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義の考えによるナショナリズム(nationalism)が台頭します。民族主義とか愛国主義(patriotism)とも呼ばれる運動です。そして次々と諸民族が独立してゆきます。

詳しい歴史ははしょりますが、オスマン帝国は第一次世界大戦の敗北によりイギリス、フランス、イタリア、ギリシャなどの占領下におかれ完全に解体されます。ギリシャは、多数のギリシャ人居住地の併合を目指して旧オスマン帝国の領土であったアナトリア内陸部へと進出します。

ところでアナトリアは文明の発祥地と呼ばれ、ヒッタイト文明(Hittites)、フリギア文明(Phrygians)、古代ギリシア文明(Greece)が栄えたところといわれます。特にヒッタイトは高度な製鉄技術によりメソポタミア(Mesopotamia)を征服します。ヒッタイトは鉄器文化の発祥といわれています。今のトルコ領土の中心はアナトリアです。

イスタンブルとソフィアの旅から その4 ビザンチン帝国とイスタンブル

鯖サンドを売る広場の波止場から、またトプカプ宮殿(Topkapi Palace)の丘から金角湾が望めます。「アジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝と知られるようになったのは、天然の良港である金角湾にある」とWikipediaに記されています。宿のバルコニーからも金角湾上に沢山の船が見えます。金角湾を出た東にはボスポラス海峡(Bosphorus)があり、ここに2013年に日本の企業等が造った海峡を横断する鉄道トンネルがあります。

歴史の教科書を調べてみます。330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世(Constantine the Great)が、古代ギリシア(Greece)の植民都市ビュザンティオン(Byzantion)の地に建設した都市、これが今のイスタンブルです。ローマからビュザンティオンに首都を移し、ここを「新ローマ」と名付けます。ローマ帝国の東半分の帝国は、この地名にちなんでビザンチン帝国(Byzantine Empire)と呼ばれました。

イスタンブルの旧名はコンスタンティノポリス(Constantinopolis) とかコンスタンティノープル(Constantinople)と呼ばれました。イスタンブルの旧市街とはこのコンスタンティノープルのことです。コンスタンティノポリスは、コンスタンティヌスの町という意味です。ポリス(polis)という言葉は都市とか街のことです。ギリシャのアテネ(Athens)にあるアクロポリス(Acropolis)は、丘の上にある街(city at the top)とあります。誰もがアクロポリスついて高校の世界史でも習いました。

イスタンブルとソフィアの旅から その3 金角湾と鯖サンド

イスタンブル滞在中は、イスラム教のお祭りである「いけにえを捧げる日」、犠牲祭で、街は人々でごったがえししていました。足が棒になるくらい歩きながら、人々の表情を観察できました。家族連れで、有名なジャーミーのモスクやトプカプ宮殿(Topkap Palace)などの世界遺産を訪れる者、田舎から出てきて買い物をする人々で一杯でした。祝祭日とは民族の違いを超えて人々の暮らしに憩いと潤いを与える時です。

案内してくれた日本人学校の教師M.K.氏が面白いところへ連れて行くというのです。金角湾の波止場にある露天のファーストフードです。船縁では、ひらいた鯖を焼いています。それをパンにタマネギやキャベツを添えてサンドイッチにして売っています。坐るところをようやく探し鯖サンドをほおばります。ほとんどが家族連れで、周りはすべてこれを食べています。一個250円位。まことに手頃な値段ですが、数年前に比べて30%も値上がりしたようです。金角湾にかかるガラタ橋(Galata)の上では大勢の人々が釣りをしています。

国民の90%がイスラム教徒(Muslim)。アルコールは巷では買えません。イスタンブルの人々が魚と鳥を大いに食する気分を味わいながら、”ビールがあればもっとよいのにな” と思いました。アルコールはレストランでは注文することができます。トルコはワインでも知られ、その味もよいです。

ガラタ橋を渡るとカラキョイ地区(Karakoy)です。しばらく歩くと高さは67メートルの石造りのガラタ塔(Galata Tower)に着きます。”ビザンチン帝国(Byzantine Empire)時代の528年、アナスタシウス帝(Athanasius)が灯台として建設させたのがその始まり”とWikipediaにあります。塔にに登るのを待つ大勢の観光客を見て、下から塔を見上げることにしました。

イスタンブルとソフィアの旅から その2 電車でウル・ジャーミへ

私は、昔からいわゆる団体パック旅行はしません。旅の自由度が制限されるという偏見があるからです。ネットや旅行会社の窓口で航空券やホテルの値段を聞いて、その情報をネット上でも調べて比較し、いつも値段の一番安いのを選びます。あまり空港やダウンタウンから遠い宿は避けるようにします。タクシー代は馬鹿になりません。

空港からホテルへは、地下鉄や電車、バスを利用して出費をケチります。乗り放題の券を買うと小銭を使って切符を求める手間が省けます。イスタンブルやソフィアでも、もっぱらこうした公共交通機関を利用しました。

イスタンブルから、オスマン帝国(Ottoman Empire)の最初の首都ブルサ(Bursa)という街へ行ったときです。高速船に乗り、次ぎにバスで電車駅まで向かい、そこからブルサ市街に電車を利用しました。バスや電車に乗るときは乗り放題の券が使えます。目指す電車に乗り込むと、座席はほぼ一杯。だが、青年が二人さっと立って席を譲ってくれました。もちろん、使い始めた「ティッシュキュル(Tesekkur)」 ”ありがとう”を使います。降りる駅を聞くと英語が通じません。側に立っていた若い女性が流暢ではないが、綺麗な英語で加勢してくれました。

1326年から1365年までにオスマン帝国が首都として選んだところがブルサです。帝国初期のスルタン(Sultan)の廟が残り、緑が溢れる街です。ブルサにある由緒あるモスク(Mosque)、ウル・ジャーミ(Ulu Camil)が目当てです。現地ではジャーミー(Camil)と呼ばれます。木製の説教壇の細工や内部の壁にあるイスラム書画(カリグラフィ)が美しいと本に書かれています。駅で出会った英語のできる女性にそのモスクへの行き方をきくと、彼女はトルコ語のメモを書いてくれ、”これを歩行者に見せるといい”と言ってくれました。

“ウル・ジャーミへ行きたいのですが” Ulu camiye gitmek istiyarum.
“オルハン・ガージィー・ジャーミへ行きたいのですが”  Orhan Gazi camil gitmek istiyarum.

女性にどこで英語を学んだかを尋ねますと、大学の看護学部で学んだそうです。今は、イスタンブルの病院で看護師をしているとのこと。この清楚で親切な女性から渡されたメモのお陰で、歴史的な遺産を存分に満喫できました。

イスタンブルとソフィアを行く その1 人々の言葉と笑顔

外国に出掛けて意思が伝わらないのは、なんとも歯がゆいものです。例えば、親子が電車やバスの隣の席に座っているとき「何歳になりましたか」と保護者にききたいのですが、英語圏以外の言葉でそのフレーズがでてきません。私は、これまで英語圏の国々への旅がほとんどでした。ドイツ語も1年半勉強したり讃美歌や歌曲、合唱曲を歌ってきたので会話はできます。ハングルも自前で数年間勉強し、簡単な読み書きや会話はできます。

言葉に関して、トルコ(Turkey)とブルガリア(Bulgaria)に行ったときの経験を記してみます。トルコ語(Turkish)とブルガリア語(Bulgarian)には少々難渋しました。ネットや「〜の歩き方」の本で一夜漬けの勉強したのですが、フレーズを一度使い10分もするとそれが出てこないのでメモに目をやるのです。幸い、イスタンブル(Istanbul)やブルガリアの首都ソフィア(Sofia)では大学生に英語で道を聞いたり、質問すると英語で答えてくれました。さすがに大学生です。大抵ビジネスマンやウーマンも英語は通じます。グランドバザールや店の経営者らしき人も、ほとんど英語はたどたどしいながら習得しています。観光客が多いので商売では英語は必須です。

それぞれの国の言語には方言もあり、そうたやすく習得できるものではありません。しかし、人々の笑顔や挙措から、言葉では通じない暖かさを感じとることができるのは万国共通です。これからトルコとブルガリアの旅にお付き合いください。

成田滋のアバター

総合的な教育支援の広場

キリスト教音楽の旅 その31 日本のキリスト教と音楽  「教会福音讃美歌」

日本福音ルーテル教会の教会讃美歌委員会が編纂した「教会讃美歌」は、長い歴史があります。特にご年配の方には凝縮された古語の歌詞を懐かしく感じて歌っておられるようです。前回とりあげましたが、今は教会の礼拝様式や歌い方が変わりつつあります。それは現代的というか、コンテンポラリーな讃美歌、創作的な曲、さらに黒人霊歌などを取り入れ、しかも合唱、独唱、バンド演奏などさまざまなスタイルで歌われるようになりました。

歌詞のなかの言葉の意味をよく知らないまま讃美歌を歌っている方が大勢います。私もそうです。特に初めて教会に来る人にとっては、賛美が古臭いとか、長閑しすぎた歌い方だと思う人もいるでしょう。もっと活気のある礼拝にするために、さまざまな工夫がされています。それは讃美歌自体を見直すという試みです。

こうした教会の動向にそって、創作讃美歌を多数収録した歌いやすい讃美歌集『教会福音讃美歌』が2015年に作られました。全部で506曲の讃美歌集です。インマヌエル讃美歌、聖歌の他に海外の優れた讃美歌、現代日本の創作讃美歌を多数収録したものです。その中のひとつ、「一つのもとい、ただ主に置き (The Church’s one foundation)」という歌詞は次のようなものです。

  一つのもとい ただ主に置き
    水とことばで 建て上げられ
     十字架の血にて 贖われた
      主の教会は 主の花嫁

キリスト教音楽の旅 その30 日本のキリスト教と音楽  讃美歌の変遷

教会や礼拝で歌われる讃美歌の傾向を取り上げます。「主よ 御許に近づかん(Nearer, My God, to Thee)」は、クラッシック讃美歌320番です。歌詞を紹介しましょう。

 主よ御許に近づかん
  登る道は十字架に
   ありともなど悲しむべき
    主よ御許に近づかん
  Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee!
   Even though it be a cross That raiseth me;
  Still all my song shall be,

この讃美歌の歌詞は大分意訳されています。死の絶望に直面した人に力を与える讃美歌として歌われるものです。日常会話では使われない古い言葉や造語があります。「御許」、「ありとも」、「悲しむべき」といった表記です。讃美歌271番では、「勲なき我を 血をもて贖い」という歌詞となっています。キリスト教の専門用語も含まれています。意味が分からないで歌う人々もいます。

そこで歌いやすく理解しやすい讃美歌をという声が生まれます。それがポップス讃美歌を使い青少年や家族向けで人気を集める礼拝が行われるきっかけとなります。その一つの例が映画「天使にラブ・ソングを」(Sister Act)で歌われる聖歌隊の曲です。主演はメアリーを演じたウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)。指揮をしていたメアリーは、退屈な聖歌をモータウン(Motown)の楽曲の替え歌にアレンジして派手なパフォーマンスを繰り広げ、厳格な修道院長と対立します。ですがモータウン風の歌は、一躍町中の人気者になります。初めは疎んじていた院長やシスターらも、若い者が教会にやってくると音楽の意義を認めポップス讃美歌に賛同していくのです。実に楽しい映画でした。

今、多くのルーテル教会はポップ讃美歌をどんどん取り上げて礼拝で歌っています。時代の変化が教会にも大きな影響を与えているのです。教会は音楽の流行を生み出すところともいえます。

キリスト教音楽の旅 その29 日本のキリスト教と音楽 ミズリー派ルーテル教会

ミズリー・シノッド・ルーテル教会(The Lutheran Church–Missouri Synod: LCMS)は, しばしばミズリー派ルーテル教会と呼ばれます。保守的で伝統的な教義と実践の一致を大事にする教会といわれます。シノッドとは「会議」という意味です。ドイツからの移民を吸収して1847年にシカゴで結成され、ドイツ福音ルーテル教会としてミズリー州、オハイオ州、ウィスコンシン州、ミネソタ州、イリノイ州などで急速に成長し地域教会を設立していきます。国内で200万人の信徒を擁しアメリカではアメリカ福音ルーテル教会(Evangelical Lutheran Church in America)に次ぐ規模といわれています。

St. Peter–Immanuel Lutheran Church and School, Indiana

ミズリー派教会の憲章によりますと、教会は宣教における調和を重んじ讃美歌や音楽、礼拝そして宣教を重視します。讃美歌は聖書や信仰告白に基づく歌詞として位置づけられます。礼拝は、式文や讃美歌を用い、奏楽にはオルガンやピアノを用います。賛美歌集は「Lutheran Hymnal 」、式文は「Lutheran Worship」と呼ばれ、伝統的な儀式を受け継いでいます。「Lutheran Confessions」という信仰告白書も用意されていて整然とした礼拝様式を守り続けています。聖書とルター派信仰告白を厳密に解釈するために、しばしば他のルター派諸教会とも衝突してきました。

しかし、20世紀にはいり、多くのミズリー派教会の地方教会は新しい礼拝形式を取り入れていきます。たとえば、青少年が好むより現代的なポップス的な曲とかギターやバンドを使い賛美するやり方です。伝統的な讃美歌はあまり歌わないようになります。危機感を抱いたミズリー派教会の本部は、声明をだし伝統的な音楽と現代的な音楽との共存を指摘しつつも、ルーテル教会は会衆による賛美と聖歌隊による歌を継承すると表明します。新しい教会の運動に対して、保守的な姿勢にしがみつくことが困難になってきたからです。多くのルーテル教会は毎月一度は、こうしたポップス的スタイルの礼拝を採用して若者や家族が一緒に礼拝に参加できるように配慮しています。

キリスト教音楽の旅 その28 日本のキリスト教と音楽 ノルウェー・ルーテル伝道会

日本におけるルーテル教会の宣教が始まったのは1949年です。ノルウェー・ルーテル伝道会(Norwegian Lutheran Mission-NLM)のルーテル教会は1891年に中国伝道会を設立し、同年8名の宣教師を中国に派遣したことから始まります。ノルウェーではルーテル教会は国教です。人口500万人余りの国がアジアに宣教師を送ることは、なんという心意気なのかと感じ入ります。

Hans Nielsen Hauge

第二次大戦を経て、中華人民共和国が成立するとNLMの宣教師は大陸からの退去を余儀なくされます。その後、アメリカを経て1949年6月に宣教師は日本に到着します。そのとき西明石に住んでいた賀川豊彦師の別荘で最初の伝道の働きを始めるのです。やがて神戸で聖書学院を創設するために2人の引退牧師ウィンテル師(Rev. Jens Mikael Winther)、スタイワルト師(Rev. A.J. Steiwalt)に指導を依頼するのです。そのときウィンテル師は75歳、スタイワルト師は70歳でありました。このお二人は聖書学院の働きで計りがたい貢献をされます。

ノルウェー・ルーテル伝道会(NLM)は、日本の農村での伝道を重視します。この理由は、NLMの創始者であったハンス・ハウゲ(Hans Nielsen Hauge)は農民の子であったことが影響しているといわれます。宣教師たちは1950年頃から松江で働きを始めます。岡山の蒜山高原などで酪農も奨励していきます。ルーテル伝道会は、信者の一人一人が積極的に教会に関与することを大事にし、素朴で熱心な敬虔主義 (Pietism)の流れを伝統としています。

蒜山高原

キリスト教音楽の旅 その28 日本のキリスト教と音楽 長老派教会

長老派教会のことです。長老派はカトリック教会の教皇権や聖職制度を認めず、聖書を重視するという広い意味で、宗教改革にも貢献した清教徒(ピューリタン, Puritan)の一派とされます。イングランドのチャールズ1世(Charles I)の専制政治に反対したクロムウェル(Oliver Cromwell)らが、議会派を勝利に導く清教徒革命の担い手としても知られる人々です。

長老派教会(プレスビテリアン)では、一般信者で経験の深い指導者として宣教長老を選び、教会を運営すべきであるという長老主義を主張します。長老と代表信徒の合議で教会を運営するのです。これは長老制度と呼ばれます。プレスビテリアンは特にスコットランドのプロテスタントに多かったようです。その指導者はスコットランド人のノックス(John Knox)です。チューダー王朝(Tudor dynasty)でメアリー (Mary I of England)が王位に就くと、彼女はローマ・カトリックを再建します。そのためノックスは大陸に亡命を余儀なくされます。

John Knox

ノックスははジュネーヴ(Geneva)でカルヴァンに学び、改革派神学と長老制の体験と知識を得て、新しい礼拝式文も作成していきます。やがてその式文はスコットランド宗教改革の教会において採用されていきます。16世紀から17世紀にかけてピューリタン運動の主力となる神学を形成したのがノックスといわれます。清教徒は新大陸に渡り、その後アメリカ各地でキリスト教の布教に大きな役割を果たしていきます。

キリスト教音楽の旅 その27 日本のキリスト教と音楽 カルヴァン主義

カルヴァン(Jean Calvin)は宗教改革初期のフランスの神学者です。神の主権を強調する神学体系を提唱し、クリスチャン生活の実践を指し示す考えを提唱した指導者です。改革派神学(Presbyterian Theology)と呼ばれるカルヴァンの教えでは、礼拝を儀式とせず、聖書の解き明かしを中心とする簡素な様式に改め、またラテン語を使わず自国語を使うことです。伝統的な礼拝形式や教会暦をやめるのも特徴となっています。

ルター派のコラールのような会衆歌唱の重要性を認めますが、聖書尊重の立場から創作讃美の使用も避けるという徹底さです。礼拝ではフランス語韻文訳の詩編歌のみを使用することとし、1539年に最初の詩編歌集を出版するほどです。カルヴァンはルターに比べ、芸術とか文化に関心が低かったようで、音楽そのものも改革派の教会では広がらなかったといわれます。

カルヴァンの名声によって、改革派教会の教理はカルヴァン主義(Calvinism)と呼ばれるようになります。カルヴァン主義者はフランスではユグノー(Huguenot)、オランダではフーゼン(Fusen)、スコットランドでは長老派、プレスビテリアン(Presbyterian)と呼ばれ広くヨーロッパに浸透していきます。

キリスト教音楽の旅 その26 日本のキリスト教と音楽 聖公会

以前、ロシア正教会の歴史や音楽などに触れました。キリスト教音楽は教派の執り行う礼拝形式と深い繋がりがあることにも触れました。例えばルーテル教会の礼拝では個人の信仰を重視し、それに表現を与えることに熱心でした。それがコラールを生むことにつながりました。音楽を尊重したことから、16世紀から18世紀にかけてコラールの聖歌隊用の編曲が無数に作られました。後年のブクステフーデ(Dietrich Buxtehude)、パッヘルベル(Johann Pachelbel)、クーナウ(Johann Kuhnau)らの作曲家です。こうした音楽家の業績はバッハ(Johann S. Bach)によって集大成され、テレマン(Georg Telemann)によって近代的に味付けられたといわれます。

ルーテル教会と同様に、比較的ローマ・カトリック教会に近いといわれる聖公会の音楽はどうでしょうか。聖公会は英国国教会(The Church of EnglandとかAnglican Church)といわれます。アメリカでは監督派教会、The Protestant Episcopal Churchと称します。ただ、監督派は必ずしもこの教派だけの呼び名ではありません。The Church of Englandはイギリスにおける宗教改革に端を発して英国国教会となった経緯があります。ローマ教会に対する国民的な反感が起こります。ただ、教理上ではローマ教皇の権威を認めないことを除けば、カトリック教会の教理を継承しています。

聖公会は、ローマ教会、ルーテル教会、東方正教会と同様に成文祈祷や典礼書が備わっていて、教理、信仰、典礼、音楽に関してはローマ教会に近く、他の要素ではプロテスタント教会に近いのも聖公会の特徴といえます。例えば典礼では自国の言葉を使うのもそうです。ローマ教会はラテン語を使用します。

キリスト教音楽の旅 その25 日本のキリスト教と音楽 讃美歌

教会の会衆によって神への感謝や祈り、癒し、励ましなどの意味がこめられた歌の総称です。自分の信仰を告白し、民衆への証し的な性格が歌詞に埋め込まれています。特にプロテスタントを中心として、西ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派で用いられる宗教歌が讃美歌(hymn, anthem)です。

新約聖書のマタイによる福音書26章30節では、最後の晩餐の光景が記されています。晩餐の後「一同は賛美歌を歌うとそこを出て、オリーブ山に向かいました」とあります。この時の讃美歌は日々の糧への感謝です。使徒パウロは、新約聖書エペソ人への手紙5章15-21節で「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と説いています。ここでの「詩」とは詩篇(Psalm)、「賛美」は詩篇以外の旧約の歌、そして「霊の歌」は初代教会の信徒よって作られた讃美歌というように分類されるのが定説のようです。初代教会では、自分たちの信仰体験を表明するために讃美歌を創作していたといわれます。

讃美歌の分類には、霊歌とかスピリチュアル(spiritual)もあります。黒人奴隷の中に広がったキリスト教から、アフリカ独特の音楽的な感性が融合して生まれた歌、黒人霊歌を指すこともあります。教会讃美歌にくらべて、より生活に根ざした歌詞が歌われます。スピリチュアルに似たのが「ゴスペル」(Gospel)です。ゴスペルとは福音とか良き知らせという意味です。これも黒人教会文化が生んだ魂の歌ともいわれ、教会で会衆が総立ちになり、手を叩いたりステップを踏み体を揺らして歌うのです。

「ゴスペル」にはハーモニーやリズム、インプロといった特徴があります。もとの故郷アフリカの文化が色濃く反映されているようです。聖書の言葉に自分たちなりの意味を持たせて歌ったのでしょう。聖書には「自由」「解放」という言葉が多く出てきますが、これは彼らにとって「奴隷制からの解放」を意味し、自由をもとめて仲間と共に歌うことで悲惨な境遇を耐え忍んだのでしょうか。
“Let Us Break Bread Together”


キリスト教音楽の旅 その24 日本のキリスト教と音楽 ミッション・スクール

明治時代に再来したカトリック教会は、新しく布教を開始したプロテスタント教会に比べて聖歌集の数が少ないといわれます。それには理由があります。もともとカトリック教会では、ミサで聖歌を歌うのは司祭および聖歌隊など特定の人でありました。会衆は静かにそれを聴いていたのです。外国人宣教師の中に聖歌集の編纂に携わるに音楽家はいなかったことにも原因していたようです。

他方、プロテスタント教会ですが、16世紀の宗教改革運動は、ドイツ語聖書と信仰問答書と讃美歌によって進められたともいわれます。ルター(Martin Luther)から始まるコラール(Choral)という会衆賛美歌が礼拝で歌われるようになり、バッハ(Johann S. Bach)をはじめ有名な作曲家によって数々の宗教音楽が作られ今に至っています。そこから会衆が歌うという伝統がつくられたのです。会衆が歌うことによって多くの歌が生まれ、宗教的な民謡の普及も広まり、19世紀以降の讃美歌は、聖書的表現と伝統的な教理を結びつけることにより歌詞が福音的な内容になっていきます。

カトリック教会では日本語聖歌がミサの中心となることはありませんでした。ただ歌によるミサが行われたのは都市部の限られた教会で、ミサ以外では集会や日曜学校で歌われたようです。通常、朗誦ミサがほとんどを占めていたのが日本とカトリック教会です。西洋の音楽を日本人が習得するまでに、またカトリックの作曲家を生むまでにかなりの時間を要したようです。日本人によるカトリック聖歌が現れたのは、昭和初期時代になってからといわれます。時代を経て1970年代に入って新しい聖歌集「典礼聖歌」を作ます。そしてプロテスタント教会の賛美歌のように会衆も歌うようになります。

キリスト教音楽の旅 その23 日本のキリスト教と音楽 「Jesus loves me」

キリシタン禁制の高札が撤去される前年の1872年に聖書翻訳委員会を設置しようとして、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜の居留地にあるジェームス・ヘボン(James Curtis Hepburn)宅で開かれます。当時来日していた宣教師たちが日本伝道の方策を練り、教派間の友好協力を深めるための集いです。ヘボンはアメリカの長老派教会の医療伝道宣教師で、後に明治学院大学を創立した人です。ラテン文字を使って日本語を書き表す方法のヘボン式の提唱者としても知られています。

会議には長老派、改革派、会衆派、バプテスト派、聖公会、ユニオン・チャーチ、日本基督公会からの宣教師が参加します。この会議では、各教派の違いを乗り越えてプロテスタント教会の設立を提唱した宣教師もいました。しかし、各教派宣教師の主張が激しく対立したといわれます。

明治学院大学ヘボン館

この会議で、改革派教会のバラ(James H. Ballagh)という宣教師により日本語に翻訳された讃美歌が披露されます。これが英語による讃美歌の初めての日本語訳といわれます。その一つは“Jesus loves me, this I know”です。当時アメリカの日曜学校で歌われていた讃美歌です。日本基督公会の信徒によって訳されたもので「主われを愛す」という題名で、その後最も愛唱された賛美歌です。こうした翻訳を契機に英語の讃美歌の日本語翻訳や編集、出版が始まったといわれます。

Jesus loves me! This I know,
 For the Bible tells me so;
   Little ones to Him belong,
   They are weak but He is strong

キリスト教音楽の旅 その22 日本のキリスト教と音楽 キリスト教信仰の回復

日本におけるキリスト教信仰の自由が回復すると、カトリック教会と正教会、そしてプロテスタントの諸教会の多くの宣教師たちが続々と来日します。改革派、会衆派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニオン派、フレンド派などです。宣教師はまずは学校作りなどの教育活動を始めて、人々の信頼を得ていきます。西洋文明を日本に伝え、だんだんと聖書と聖歌および讃美歌を日本人に伝えていこうとしました。

パリ外国宣教会は慈善事業や社会福祉事業に力を注ぎ、貧しい人々への宣教活動をしたことで知られています。御殿場に療養所を設立し、ハンセン氏病患者を収容します。熊本にも同じような療養所をつくります。1880年に孤児院を開設したのもパリ外国宣教会です。長崎の西出津町に女子救助院というのを設立して授産活動を始めます。そこに修道女となった者は、フランスからのもたらされた技術によって織布、編物、そーめん、マカロニ、パン、醤油の製造などを行い自給自足をしていきます。こうした働きの中心に立ったのは、マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)という宣教師です。

1888年には築地教会の近くに後の雙葉学園の前身となる高等仏和女学校が開かれます。プティジャン司教は、フランスの女子修道会からも修道女の派遣を依頼し、来日した修道女らは1877年には、神戸で後の大阪信愛女学院となる孤児院と学校を創設します。

キリスト教音楽の旅 その21 日本のキリスト教と音楽 オラショと津和野

潜伏キリシタンは、仏教や神道などの信者として振る舞いながら、祈祷を意味する「オラショ」(Oratio)を密かに伝承していたといわれます。しかし、踏み絵を踏んだ者や密偵などによりキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件は「浦上一番崩れ」とか「四番崩れ」と呼ばれ、捕縛されたキリシタンには弾圧は拷問や磔、流刑が待っていました。例えば、島根県の津和野の町です。長崎からキリシタン153名がこの町に流刑され改宗が強要されて、そのうち37名が殉教した地です。津和野は文豪森鴎外の出生地で静かな谷間にある町です。どうしてこの地にキリシタンが送り込まれたのかは、私は訪れた時に調べませんでした。

キリシタンが歌ったオラショは、土着の風俗や習慣と混ざり正統的な聖歌ではありません。オラショを唱えるのは禁制だったので、本などの形にするのははばかられ、ほとんど口伝えでありました。キリシタンは聖母マリアやイエス・キリストをはじめ、聖女などが彫られた様々なメダイ(medalha)とかアヴェ・マリアを繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具ロザリオ(rosario)、聖像聖画、十字架クルス(Cross)を秘蔵していました。

潜伏キリシタンは、やがてパリ外国宣教会によってカトリック教徒として復帰します。宣教師プティジャン(Bernard-Thadee Petitjean)らが執り行ったミサでは、また、新しく入信したカトリック信者は、馴染みのない西洋の音階による歌を歌うのが難しかったようです。そこで宣教師たちは正統的な聖歌を伝えるために、旋律を伴わない朗誦によってミサを唱えたといわれます。朗誦は、オラショに似た響きがあり、祈祷であると同時に神との対話であったといったほうがよいでしょう。オラショを聴きますと、長らく禁制の下で堂々と唱えることはできなかったことがその響きから伝わります。

キリスト教音楽の旅 その20 日本のキリスト教と音楽 大浦天主堂

久しくカトリック聖歌の声が消えて200 有余年、鎖国時代が終わります。禁教、海禁体制の終わりです。しかし、明治新政府は文明開化を目指しながらも、キリスト教禁止政策を継承します。長崎では肥前浦上信徒らへの激しい弾圧を続けます。これは「浦上教徒事件」といわれました。こうした弾圧に対して外国使節団は激しく抗議し、また1871年の岩倉具視らの遣欧使節団から、この弾圧が不平等条約改正の障害となっていることを指摘されます。1873年に新政府はキリシタン禁制高札を撤去し、西日本諸藩に送り込んだキリシタンを帰村させます。

少し時を遡り、禁教令の廃止に至る歩みです。19 世紀に入るとローマ・カトリック教会を母体としてアジアおよびアメリカ大陸で宣教活動を展開します。それまでキリシタン時代を築いたイエズス会に代わり、パリ外国宣教会(Missions Etrangeres de Paris)が東洋布教の任務につきます。その理由はイスパニアやポルトガルの衰退による列強からの脱落です。東洋布教を主導した同宣教会は、日本上陸と再伝道の準備を始めます。

日本へは1844年にフランス人宣教師フォルカード(Theodore Augustin Forcade)らがフランス軍艦で琉球に到着します。1858年に日仏修好通商条約が締結されます。1859年にはジラール(Prudence Seraphin Girard)がフランス総領事一行とともに、禁教以後はじめての公認されたカトリック宣教師として江戸に入ります。1862年にはプティジャン(Bernard-Thadee Petitjean)などが開港地の長崎や横浜に来航します。1862年、横浜には在日居留外国人のための横浜天主堂が、1865年には長崎にはフランス人と日本二十六聖人たちに捧げるために大浦天主堂が建設されます。その中心となった宣教師がプティジャンです。大浦天主堂の正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」といいます。1953年、国宝に指定された歴史的な建造物です。

キリスト教音楽の旅 その19 日本のキリスト教と音楽 その4 天正遣欧使節のもらたらしたこと

天正遣欧使節は、正使が 13歳の伊東マンショ、13歳の千々石ミゲル、副使が13歳の原マルチノ、そして14歳の中浦ジュリアンです。こうした名前は洗礼名です。セミナリオでの成績が優秀で、音楽にも長けていたことが想像されます。宣教師ヴァリニャーノらに付き添われて1582年2月に長崎を出航します。風向きを考慮してこの時期を選んだものと思われます。旧ポルトガル領であったマカオ、マラッカ、インドのゴア(Goa)を経て、南アフリカ最南端の喜望峰を回り、1584年8月ポルトガルのリスボン(Lisbon)に到着します。帆船による2年以上の船旅は若者には大変辛い経験だったろうと察します。なにせ風任せの航海です。船員の中には病気による死者もでたとあります。

遣欧使節の航路

天正遣欧使節は1584年11月にスペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世(Felipe II)に、1585年3月にはローマでローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII)に謁見するという光栄に浴したようです。グレゴリウスはグレゴリウス暦を制定したといわれます。4人は日本の正装でローマ教皇に会見し、ラテン語で大友宗麟ら大名の親書を読み上げたということが宣教師の記録にあります。

1587年に秀吉は筑前箱崎にて「伴天連追放令」を出してキリスト教の禁止に転じます。ポルトガル語で「神父」を指す「padre 」から、伴天連とかバテレンが生まれます。秀吉は宣教師の退去と貿易の自由を言い渡します。1590年7月に一行は 長崎に帰港し、翌年3月聚楽第において豊臣秀吉の前でジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez)の曲を演奏します。彼らが伴天連追放令の解除を願い出るも、やがて一行をはじめ信徒は過酷な運命をたどります。伊東マンショは宣教師となるも若くして病死、千々石ミゲルは棄教、原マルチノはマカオに追放、中浦ジュリアンは殉教します。

キリスト教音楽の旅 その18 日本のキリスト教と音楽 その3 セミナリオと音楽

1605年に長崎で「司祭用サクラメンテ」(Sacramenta Ecclesiae Ministranda)という司祭によって執り行われる典礼の解説書が出版されます。ここには各典礼で用いられる聖歌が指示されています。五線譜(ネウマ)付きのグレゴリオ聖歌19曲が納められています。これは日本最古の洋楽譜ともいわれ、キリシタン音楽を語る唯一の資料といわれます。「サクラメンテ」とはカトリック教会では秘跡とか聖礼典と呼ばれています。

「司祭用サクラメンテ」に収録されるグレゴリオ聖歌19曲のうち、13曲は葬儀用となっています。日本人が葬儀を大事にしていたことを伺わせるものです。残りの6曲は各地を訪問するときの行列や典礼の入場のときに歌う曲といわれます。

少し遡りますが、1551年にザビエルが周防山口で大内義隆に献じた土産品に鍵盤楽器があります。13本の糸が張られた楽器です。これは「Cravo」とか「Clavicordia」と呼ばれていました。オルガンが普及する前はこのCravoが典礼で使われていました。1580年、島原の有馬と近江の安土にセミナリオが開かれます。セミナリオは日本人聖職者を養成する神学校です。ラテン語、日本文学、キリスト教教義のほか音楽や工芸なども教え,修学期間は3〜4年であったといわれます。

セミナリオの課程にある音楽とは、「唱歌と音楽」のことで、生徒の中には「Cravo」や「Clavicordia」を学ぶ者もいたようです。典礼では音楽は欠かせない要素ですから、音楽に力をいれたことは容易に想像されます。1558年、織田信長が安土のセミナリオを訪問したことが、臣下であった太田牛一の記した「信長公記」にあります。音楽で信長をもてなしたかもしれません。