公認遊廓
日本の売春の歴史は、その時代の社会構造、政治権力、そして経済的な背景と深く結びつきながら変遷してきました。宗教的な意味合いを持つものから、国家による統制、そして戦後の禁止に至るまで、大まかな流れがあります。その一大問題となったのが慰安婦問題です。
日本の古代から中世にかけては、特定の区画に縛られたものではなく、交通の要衝、問えば宿場や港を拠点とする漂泊の芸能民や交易者が主体でした。古代の売春は、巫女のような神事や呪術的な要素、あるいは歌舞音曲といった芸能とつながる側面がありました。
平安時代後期から鎌倉や室町時代にかけて、現在の大阪府周辺などの港町や宿場町に「遊女」や「傀儡子(くぐつ)」と呼ばれる人々が集まりました。傀儡子とは、中国語の「傀儡」が「操り人形」を意味することから、現代では「自分の意志を持たず、陰で他人に操られてその通りに動いている人」を比喩的に指す言葉として使われます。この時代はまだ国家による厳格な統制はなく、比較的自由に行き来していました。
江戸時代に入ると、幕府は治安維持と冥加金という税収の確保、そして社会のコントロールを目的に、売春を特定の区画に隔離して公認する「公認遊廓」の制度を整えました。そして1617年、幕府は江戸の日本橋近くに吉原の設置を許可しました。後に浅草の新吉原へ移転します。同様に、京都下京区の日本最古といわれる花街の島原、大坂の新町遊郭など、主要都市に公認の遊廓が作られました。
遊廓で働く遊女の多くは、貧困により親などが受け取る契約金を理由とした人身売買に近い形で拘束されていました。一方で、高級遊女である「太夫」や「花魁」は、和歌、書道、茶道などの高い教養を求められる文化の担い手という側面もありました。
公認遊廓の外でも、宿場町の「飯盛女」や、街中の「岡場所」と呼ばれる非公認の売春地帯が数多く存在し、幕府は寛政の改革など度々取り締まりを行いましたが、完全に根絶することはできませんでした。明治維新によって近代化が進む中でも、江戸時代のシステムを引き継ぐ形で「公娼制度」が維持されました。それと同時に女性解放運動も始まりました。
1872年にマリア・ルーズ号事件(María Luz)が起こりました。横浜港に停泊中のペルー船籍の船から、清国人の「苦力」が脱走して保護を求めた人道問題です。日本政府は彼らを解放しましますが、この人道的措置に対し、ペルー側は国際法違反であるとして損害賠償を要求し、両国はロシア皇帝アレクサンドル2世(Alexander II) に仲裁裁判を委ねました。1875年、ロシア皇帝は「日本側の処置は正当である」という裁定を下し、日本は全面勝訴をおさめました。
横浜港での人身売買という国際問題をきっかけに、明治政府は「芸娼妓解放令」を出しました。これにより前借金による人身拘束は無効とされましたが、実質的には呼び名や貸座敷と自由廃業といった形式を変えただけで、公娼制度は実質的に存続しました。











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