日本にやって来て活躍した外国人 その十九  ジョシュア・コンドル

品川区の五反田にある旧島津家本邸であった清泉女子大学本館や、台東区池之端にある旧岩崎邸庭園は、見事な西洋建築の建物です。イギリスの建築家ジョシュア・コンドル(Josiah Conder)の設計による建物です。ロンドン大学(University of London)で学び、ビクトリア時代の芸術的なゴシック建築の権威、バージェス(William Burges)の設計事務所で腕を磨きます。そして明治10年、日本政府の招聘を受け24歳で来日します。

Josiah Conder

やがて現・東京大学工学部建築学科の前身、工部大学校の教授となります。工部省に属して上野の博物館や鹿鳴館など政府関係の諸施設を設計していきます。明治23年にはコンドルは三菱の顧問になり、丸の内にロンドンのような近代的ビジネス街を建設することになります。工部大学校時代の教え子を招き、三菱の管事らとで丸の内オフィス街の基本構想し、約15メートルの三階建て赤煉瓦造りとし、その上に急勾配のスレート葺き屋根を付けることになります。三菱一号館は明治27年に竣工し、以後、二号館、三号館と続き、一丁倫敦と呼ばれるロンドン風のオフィス街が形成されていきます。三菱一号館は、老朽化のために昭和43年に解体されましたが、平成22年にコンドルの原設計に則って復元されます。明治期の設計図や解体時の実測図の精査に加え、各種文献、写真、保存部材が使われたといわれます。

三菱一号館
清泉女子大学

コンドルはその後、神田のニコライ堂、横浜山手教会、港区三田の三井家迎賓館(現綱町三井倶楽部)、北区古河虎之助邸(現古河庭園)などを手掛け、岩崎家ないし三菱関係のものも数多くの建物を設計します。

日本の近代建築に果たしたコンドルの足跡は図りしれませんが、その最大の功績は工部大学校での教育・人材育成といわれます。日本銀行本館や東京駅、奈良ホテル本館、みずほ銀行京都中央支店、大阪市中央公会堂などを設計した辰野金吾、赤坂の迎賓館、奈良国立博物館本館、京都国立博物館特別展示館、鳥取の仁風館などを設計した片山東熊、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣」を手掛けた曽根達蔵などそうそうたる建築家を育てていきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十六 ヨーゼフ・ローゼンシュトック

日本で活躍した外国人にポーランド人が何度も登場します。今回もそうです。日本のクラッシク音楽界で忘れてはならない指揮者がいます。ポーランドに生まれ、ドイツとアメリカ、日本で活動した指揮者のヨーゼフ・ローゼンシュトック(Joseph Rosenstock)です。私もラジオから流れる音楽演奏のときに、この指揮者の名前が放送されていたのをよく覚えています。

Joseph Rosenstock

最初にローゼンシュトックを紹介するならば、NHK交響楽団の基礎を創り上げたユダヤ系の指揮者ということです。彼は、後に「斎藤メソッド」のモデルとなった指揮者の一人ともいわれます。「斎藤メソッド」とは、指揮者で音楽教育者として活躍した音楽家の齋藤秀雄の指導法のことです。日本のクラシック音楽を伸ばすためには、科学的根拠に基づく子どもたちへの早期教育のように基礎知識を施すしかないと主張した音楽家です。弟子の一人に小澤征爾がいます。

今や日本を代表するのはNHK交響楽団ですが、その前身は、新交響楽団と呼ばれ近衛秀麿が育ててきました。後任となる常任指揮者の候補に挙がったのがローゼンシュトックです。1936年頃のことです。ヨーロッパにおけるナチス・ドイツの台頭により、ユダヤ系の音楽家や芸術家はヨーロッパを離れて、安全な国へ移住しようとしていました。招聘を受けてローゼンシュトックはシベリア鉄道を経由して、1936年8月日本にやってきます。新交響楽団による歓迎演奏会を開いた後、同交響楽団の170回から第232回までのすべての定期演奏会を一人で指揮します。

小澤征爾と齋藤秀雄

ローゼンシュトックは、新響の楽員に基本的な奏法を中心とする厳しいトレーニングを徹底的に課したようです。楽員をして「過酷」と言わしめつつ、半アマチュア気分が抜けていなかった楽員の力量を向上させます。戦後は、日本を離れ、ニューヨークなどで演奏します。そして1951年5月にアメリカの音楽使節として再来日します。新交響楽団は日本交響楽団と改名し、さらにNHK交響楽団となっていきます。やがてローゼンシュトックはNHKから名誉指揮者の称号を贈られます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十六  マクシミリアン・コルベ

Encyclopedia Britannicaから引用します。1894年、ポーランド(Poland)のツズンスカ・ボラ(Zdunska Wola)に生まれます。信心深いポーランド家庭で育ったコルベ(Maksymilian Kolbe)は、少年の頃から通う教会内部の柱に常に聖母マリアの姿を見ていたといわれます。そしてイエズス会(Societas Iesu)付属の学校に通います。

Maksymilian Kolbe

1910年、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられます。1912年、彼はクラクフ(Krakow)に送られ、そしてローマへの留学生に選ばれます。ローマで彼は哲学、神学、数学および物理学を学びます。1915年に教皇庁立であるグレゴリアン大学(Pontifical Gregorian University)で哲学の博士号を、そして1919年に教皇庁立聖ボナベントゥラ大学(Pontifical Bonaventura University)で神学の博士号を取得します。

やがて日本の地に宣教師として赴きカトリック信仰の布教を終生の願いとするようになります。当初は中国での布教活動を考えていたコルベ神父ですが、阿片戦争(Opium War)など、政情の不安定さを心配した友人の提案で上海を経て日本に向かうことになります。

1930年4月長崎に上陸したコルベ神父は、翌月には大浦天主堂下の西洋館に聖母の騎士修道院を開き、印刷事業を開始します。カトリック司祭であった早坂久之助司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願います。司教はコルベが哲学博士号を持っていることを知ると、教区の大浦神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可します。1931年に「無原罪の聖母の騎士」日本語版を一万部発行し翌年には聖母の騎士修道院を設立します。神学校で教鞭をとりながら聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念します。

1938年にポーランドに戻ると、カトリック教会出版部の責任者となります。カトリックのラジオ局も立ち上げます。しかし、1941年にコルベ神父は、ユダヤ人や地下運動を支援したというかどでワルシャワ(Warsaw)で逮捕され、その後アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に収監されます。囚人の身代わりを申し出て1941年8月に亡くなります。アウシュビッツにおけるコルベ神父の態度は長く言い伝えられています。

日本にやって来て活躍した外国人 その十五  お雇い外国人のこと

これまで14人の「日本にやって来て活躍した外国人」を紹介してきました。さらに紹介していきますが、一旦休憩して「お雇い外国人」のことに触れてみます。日本の近代化において、「お雇い外国人」と呼ばれた宣教師、技術者、外交官、役人、商人、芸術家、ジャーナリスト、学者等の果たした貢献は、形容し難いほどすぐれたものです。私の出身、北海道開拓の歴史を振り返りますと、大学の開校、鉄道の敷設、道路建設、農業技術の普及、水産加工の伝播、アイヌ文化の研究などで活躍した外国人のことを忘れるわけにはいきません。

前列左 Horace Capron

私個人、北海道大学の教養部時代にHerr Orpitzというドイツ人からドイツ語を学ぶことができました。ドイツ語の授業のことです。札幌の郊外に手稲山という低い山あります。Orpitz先生は、山のことを「Berg」という説明がありました。私はBergとはヨーロッパのアルプスのような高い山だと思ったので、「Hugelではないでしょうか」と反論しました。 Orpitz先生は、手稲山はBergであるという答えでした。今も忘れられない授業の思い出です。

Josiah Conder

明治当初、ヨーロッパに派遣されていた留学生は、日本の「近代化」の必要性を感じて帰国します。そして、積極的にアメリカやヨーロッパ諸国から様々な分野の専門家を日本に招くことを政府に進言します。当時の日本人にとっての近代化とは西洋化のことであったのはやむを得ないことでした。1868年から1898年くらいまでの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の先生や技術者の「お雇い外国人」を招くのです。開拓が必要だった北海道から日本全国にわたり、こうした外国人は日本のあらゆる分野で献身的に活躍するのです。

William Burton

主にイギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制を、アメリカからは外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓などを、ドイツからは医学、大学設立、法律など、フランスからは陸軍制、法律を、イタリアからは絵画や彫刻といった芸術がもたらされます。キリスト教の布教のために医学や農学、工学を専門とする人々もやってきました。教育や福祉の発展に寄与した人々のことも忘れることができません。日本を海外に紹介するため取材に訪れたジャーナリストは、やがて日本文化をヨーロッパに紹介し、日本学という学問分野を紹介していきます。

Edward Mors

日本にやって来て活躍した外国人 その十四 ゼノ修道士

広島県福山市沼隈町に社会福祉法人「ゼノ少年牧場」があります。障がいのある子どもたちの楽園をつくろうとゼノ・ゼブロフスキー(Zenon Zebrowsk)が呼びかけてできた施設です。ゼノは、ポーランド出身のカトリックの修道士です。後に「蟻の街の神父」として知られ、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れます。日本人から「ゼノ神父」と呼ばれていたようです。実際は司祭(神父)ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会(Ordo Fratrum Minorum Conventualium)の修道士です。

ゼノは1925年5月に聖フランシスコ修道会に入会し、1928年に修道誓願を立てゼノ修道士となります。1930年4にマキシミリアン・コルベ(Maksymilian Kolbe)神父ら共に来日します。長崎でコルベ神父らとともに、布教誌「聖母の騎士」の出版と普及に力を入れます。ゼノ修道士は全国各地に赴いていきます。長崎市で活動を続けていたとき被爆します。

戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、東京は浅草の「蟻の街」の名で知られるバタヤ街で支援活動を行います。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれたようです。献身的な社会福祉活動に、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られます。1981年2月に来日したポーランド出身教皇ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)は、ゼノ修道士の入院先を訪問します。そして教皇はポーランド語で語りかけ、長年の活動に敬意を表します。

ゼノ修道士に影響を受けた女性で、貧者への献身的な活動に身を投じて若くして散った「アリの街のマリア」と呼ばれた北原玲子がいます。ゼノ修道士を介して隅田川の言問橋周辺、現在の隅田公園の界隈にあった通称「蟻の町」のことを知ります。「蟻の町」とは廃品回収業者の居住地のことです。自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合うことを実践していきます。ゼノ修道士や彼女らの行動によって1951年5月に「蟻の街の教会」が建てられます。教会を拠点として、「蟻の町」の子どもたちの教育環境は段々と整えられていくのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その十三 マシュー・ペリー

横須賀は久里浜海岸にペリー(Matthew Perry)提督上陸の碑があります。1852年11月にペリーは、東インド艦隊司令長官に就任し、日本開国へ向けて交渉するようにとの指令を与えられます。合衆国大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)の親書を携えてバージニア州(Virginia)ノーフォーク(Norfolk)を出航します。

1853年7月8日(嘉永6年)、浦賀に艦隊は入港します。7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸します。浦賀奉行であった戸田氏栄と海防掛であった井戸弘道に大統領の親書を手渡します。浦賀では具体的な協議は執り行われず開国の要求をします。ペリーは、幕府から翌年まで回答の猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあって琉球へ寄港します。

戸田氏栄

1854年2月に、ペリーは旗艦サスケハナ号(Susquehanna)など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に停泊し、早期の条約締結を求めます。サスケハナ号は「黒船」という呼ばれます。木造の船体に塗られた防水・腐食防止用のピッチが黒色だったからです。3月31日に神奈川で全12ヶ条からなる日米和親条約を締結します。下田と函館を開港し、アメリカは食料や燃料などの物資供給を受けることができるなどが定められます。日米和親条約は後に不平等条約と呼ばれるように、アメリカの都合のよい条約内容となっています。

日米和親条約の目的です。アメリカは太平洋航路を開拓し、東アジアとの貿易の拡充を狙っていました。そこで燃料の補給のため、日本の港が必要だったのです。そしてもうひとつの理由として、アメリカが北太平洋で捕鯨をおこなっていたことがあります。産業革命によりアメリカ国内では機械の潤滑油やランプなどに使用するクジラの油が大量に必要だったのです。