アメリカの学校は今 Intermission その二十七 Cultural Studies

_mg_0145 landscape-1464097810-bob-dylan-jerry-schatzberg a8fbef631640965b845ac4e3cd88f747あまり聞き慣れない研究の分野に「Cultural Studies」というのがある。文化学研究とでもいえようか。「地域へと広まっていった文化一般に関する学問研究の潮流を指している」 とある。ハイカルチャーだけでなくサブカルチャー(大衆文化)の研究を重視するようだ。

サブカルチャーという用語を最初に使ったのはアメリカの社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)である。彼は「孤独な大衆」(The Lonely Crowd)という著作の中で、社会的性格は伝統指向型から内部指向型とか他人指向型へと変化すると論じている。リースマンは、伝統指向型の社会的性格は、はっきりと慣習が伝統によって体系化されているため、恥に対する恐れによって人々の行動は動機付けられると考える。

さらにリースマン曰く。内部指向型や他人指向型の社会的性格では、人は行動の規範よりもマスメディアを通じて、他人の動向に注意を払う。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安とか寂しさによって動機付けられるのだと。この考えは仮説だろうと察するが、一考に値する。

ハイカルチャーを享受するには相応の教養や金と時間が必要であった。だが、大衆が実力を持つのは20世紀。大衆社会においては、高等教育を受けた人々が増加し、ハイカルチャーも一般の人々が楽しむことができるようになった。絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書などで見られるし、音楽も演奏会に行かなくともラジオ・テレビ・CD・インターネット上で気軽に楽しむことができるようになった。現代は、いわばハイカルチャーの大衆文化時代といえる。要は、Cultural Studiesとは以上の現象をもっと難しく研究する分野のようだ。

Bob Dylanの歌詞は大衆文化の典型のように分かりやすい言葉を使っている。だが、その歌詞の意味は誠に深い。ノルウェー・ノーベル委員会はそれを評価したのだろう。

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アメリカの学校は今 Intermission その二十六 文化の回帰ということ

hqdefault p01gd62s imgres images4Bob Dylanの話題から、過去のブログで綴った「文化の回帰」という拙文を読み起こしています。以下は2014年8月に掲載した駄文であります。ご笑覧くだされば幸いです。

大衆文化と呼ばれるサブカルチャーのメインカルチャーへの挑戦は至るところに現象として現れた。1960年代である。当然のようにメインカルチャーと考えられた歴史とか古典に対する強い関心と畏敬は、サブカルチャーの側からすると一種の審美的文化観とされて、時に「マニア」、「おたく」といった独特な行動様式として揶揄されることもある。しかし、おたくの本人は「伊達や酔狂」と自負するようなところがあって、こうした人々はむしろ孤高のような存在感を楽しむようなところもあるようだ。

サブとメインの境界が曖昧になったということは、その逆転現象がうまれてきたということかもしれない。例えば、活字文化は今もそうかもしれないが、メインカルチャーの旗頭であった。だが、なにもかも電子媒体としてメディア界に急速に広がるのが現在。書籍の売り上げた伸びないのは、電子媒体の流通と普及と逆相関があるようだ。多くの書類、卒業論文、研究論文は電子媒体で提出しなければならない。悔しいことだが、手書きの論文は受け付けてくれない。

「子供たちは夏目漱石や森鴎外を読まないのではない。読めないのだ」ともいわれる。漢字能力の低下が一因だというのである。手書きできない。それで電子辞書を使い携帯電話サイトから「ケータイ小説」を作る。「書く」のではない。漢字が書けなくても小説が書けるという時代になった。「話し言葉が中心なので親近感があり、一文一文が短く読みやすい」という新しい文化観もそこにある。

技術革新に伴う諸々の変化は、もはや後戻りができない。革新が続くだけだ。だが、電子媒体にも寿命がある。記録したデータを保持できる期間は有限である。読み込みの処理がなくとも経年により媒体は劣化していく。そしてデータが読めなくなったり消失したりする。自分もその苦い経験はある。もっとも機械的な寿命の問題だったが、、、、

活字文化がサブカルチャーか、メインカルチャーかという議論はなにか不毛な感じもする。だが分かっていることは、サブとメインの逆転、そのまた逆転も起きうることである。今や「アングラ」も「ヌーヴェルヴァーグ」という表現に出会うことはない。文化の論争は意味がなくなっているからだろう。文化の回帰現象は、統計で使うように平均とか元の状態に近づく、あるいはそれを繰り返すということであるようだ。

活字文化プロジェクトが各地で盛んになり、活字文化推進会議とか活字文化推進機構もできた。電子媒体文化とのせめぎ合いのようだが、両者が共存することも文化ではないかと思うのである。
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