心に残る名曲 その百七十九  ヴァンゲリス 「炎のランナー」

ギリシャ人作曲家ヴァンゲリス (Vangelis)については、詳しいことがわかりません。小さい時からピアノを弾き、作曲もしたようです。高校時代からジャズバンドでピアノを弾き、音楽学校ではなく美術学校で映画と美術を学んだようです。

Vangelis

1981年に作られた映画「炎のランナー」(Chariots of Fire)の音楽を担当したヴァンゲリスは、1982年にアカデミー賞作曲賞を受賞します。ヴァンゲリスの音楽の特徴としては、旋律はシンプルで美しいことです。それだけに強く印象に残るものとなっています。この楽風は、ギリシャや地中海東部地域に古くから伝わる五音階旋法に基づいているようです。五音階旋法とは「ド」から「ソ」への飛躍とその逆です。この手法を好んで使うことが多いのは「炎のランナー」の序奏部分にそれがよく表れています。ヴァンゲリスはシンセサイザーを使うのも得意としていたようです。

「炎のランナー」は1924年のパリオリンピックを目指すイギリス青年の生き方を描きます。二人の陸上選手がオリンピックに出場します。その古い時代のエピソードを素材とした映画なのですが、現代的な楽譜にそってテーマ曲が流れます。

心に残る名曲 その百七十八 ポール・サイモンと「Bridge over Troubled Water」

ポール・サイモン(Paul Simon)といえば「Bridge over Troubled Water」でしょうか。1953年にサイモンとアート・ガーファンクル(Art Garfunkel)はニューヨークのブロンクス区(Bronx)の小学校で出会い、やがて親友同士となり 「Tom & Jerry」という名でデュエットを組みます。二人の最初にヒットした曲が「Hey Schoolgirl」です。1965年にサイモンは「The Sound of Silence」を作曲します。この曲は、電子ギターとドラムで弾かれていたのですが、やがてラジオやビルボード誌で爆発的な人気を得ます。特に思春期の初々しい心情を込めた調べで、学生や若者の心をとらえます。

1970年、ゴスペル調で讃美歌のような曲「Bridge over Troubled Water」を発表し、これも大ヒットします。ガーファンクルのテノール歌手のような歌い振りが特に受けたようです。「スカボロ・フェア」(Scarborough Fair)や「ボクサー」(The Boxer)のようなシンプルでフォーク調の曲は、ボブ・ディランの影響を受けたようなところもあります。サイモンは1970年にガーファンクルと別れ、シンガーソングライターとしてアフリカや南米などの伝統音楽をモチーフとした曲を作っていきます。

ガーファンクルと親交のあったマイク・ニコルズ(Mike Nichols)という監督が「卒業」(The Graduate)で「The Sound of Silence」を主題歌として採用します。この映画でこの曲はさらに広まりました。「卒業」は、ダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)主演で共演はキャサリン・ロス(Katharine Ross)の青春映画でした。ホフマン演じる大学生ベンジャミン・ブラドックが故郷へ帰ってくる空港のシーンで流れてくるのが「The Sound of Silence」です。映画の最後には、結婚式の礼拝堂から恋人だった花嫁と一緒に逃げる場面がありました。

「The Graduate」から Mrs Robinson

心に残る名曲 その百七十七 ディランとエスニシティ

ボブ・ディランの生き方の下敷きとなっている宗教とかエスニシティ(ethnicity)を振り返り、このシリーズを終わりとします。エスニシティとは、「民族性」とかある民族に固有の性質や特徴のことです。ただ、この話題は少々微妙なところがあります。ディランの個人的な信仰や民族的な背景は複雑です。もしかしたら、彼の歌詞の語り手の原点にかかわることかもしれません。

ディランの祖父母はウクライナ(Ukraina)のオデッサ(Odessa)の出身で、その家族はアルメニア(Armenia)やコンスタンチノープル (Constantinople)に住んでいたユダヤ人です。19世紀後半からロシアで起こったポグロム(pogrom)というユダヤ系の人々に対する計画的な集団虐殺から逃れてアメリカに移住し、ミネソタ州ダルース近くのヒギンス(Higgins)という町に定住します。ミネソタに定住してからディランの父母は親族を呼び寄せたといわれます。ヒギンスにも反ユダヤ主義は強かったようです。ですがディランは当然ながら、ユダヤ法を守る宗教的・ 社会的な責任を持った成人男性となる儀式、バーミツワ(Bar Mitzvah)を受けます。

アメリカに移住した人々は、しばしば主流社会の人々から偏見を持たれてきました。こうしたエスニックなルーツを持つことにディランはどのような態度で音楽活動に臨み、そのエスニシティが音楽に顕れたが気になります。ディランの元の姓は「Zimmerman」でしたが、これを意図的に改姓するのです。自己否定とはいわないまでも、彼の屈折した態度が改姓に顕れているような気がします。アメリカの主流社会に同化しようとしたのかもしれません。

ディランの歌詞を読んでみると、アメリカ主流の福音的な人々などの聴き手が容易に共感できるような語り口でないようなところも感じます。「意味不明」という世評です。ですがディランは、特定の宗教やエスニシティに即した感情や思想を持とうと持つまいと、あまり憶することなく歌うという姿勢が感じられます。たとえ仏教徒でもカトリック教徒でもイスラム教徒でも、黄色人種でも黒人でも受け入れられているような気がします。

通常、歌詞の語り手は、エスニシティを特定できるように自己を提示することはしません。多くのアメリカ人が共鳴できる、特定不能な超越的な自己による語り手を目指すものです。ディランの歌には、反体制的な志向とか若者文化へ寄り添うような歌詞はそう多くはないといわれます。社会の規範や道徳に対して、あからさまに挑戦するような歌い手でもないようです。放浪者のイメージや抑圧や拘束を嫌う自由人のイメージはありますが、アメリカ主流社会の感性をなで切りにするものでもありません。それが世界中から彼の歌が受け入れられている理由のようです。

心に残る名曲 その百七十六 ディランの歌詞と翻訳の難しさ

英語を母国語としない私は、英文を翻訳するときも日本文を英文にするときも苦しみます。ディランの歌詞を把握するのにはもっと大きな壁があります。翻訳するときはいくら文章を直訳しても、歌詞の響きや連想される他の言葉や印象は伝わらないのです。歌詞には韻を踏むという修辞も翻訳を難しくします。さらに難しくするのはディランの歌詞には、英語としても「意味不明」なものがあることです。それは言葉の表面的な意味だけではなく、その言葉が思い起こさせるイメージや感情などが秘められているだろうからです。そこが解明できなく居心地が悪いのです。

Half wrecked prejudice leaped forth
Rip down all hate,” I screamed
Lies that life is black and white
Spoke from my skull I dreamed

このような意味不明さと預言のような歌詞を前にして、それを翻訳しようとするのは容易ではありません。訳したとしても自分は意味がつかめないのです。そのときは開き直るほかありません。「言葉によってディランを理解する必要はない」というようにです。わたしたちが葬儀でお経を聴くとき、その言葉や内容を理解できなくても、死者への弔いの言葉であることが分かるのと同じです。

Bob Dylan

幸いにして、「Blow in the Wind」の歌詞には戦争の空しさと同時に自由への憧れが伝わり、時空や文化を超えた普遍性や預言者のようなメッセージを感じます。「Forever Young」という歌詞には祈りが込められています。誰が歌っても不自然にきこえません。小さな子どもでも年寄りが歌ってもよいようです。「We Are the World」もそうです「正しく、勇気を抱いて強くいきることが若さだ」というのです。Blow in the windとForever young の歌詞です。

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, ‘n’ how many times must the cannon balls fly
Before they’re forever banned?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind

 May you grow up to be righteous
  May you grow up to be true
  May you always know the truth
  And see the light surrounding you
 May you always be courageous
  Stand upright and be strong
  May you stay forever young
  Forever young, forever young
 May you stay forever young.

心に残る名曲 その百七十五  ボブ・ディランとウディ・ガスリー

ミネソタ州のダルース(Duluth)はカナダの国境近くにありスペリオル湖(Lake Superior)の側にある小さな町です。ディランは、この地で育ちフォークソングライターであったウディ・ガスリー(Woodrow Guthrie)の音楽の中に、一生でも歌い続けることができると感じるほどの大きな衝撃を受けます。

ディランは「曲作りを通して社会を変革しようと考えたことは一度もない」と云っています。彼の目的は、それまでのロックスターと違い、ヒットチャートで成功を収めることではありませんでした。「ぼくはひたむきに打ち込むアーティストを賞賛し、彼らから学ぶ」というのです。ウディ・ガスリーはアメリカの理想と現実の隔絶を自分が体験し、それを歌にして雄弁に語ります。ディランは続けます。「ガスリーの歌はいちどきにたくさんのことを語る。金持ちと貧乏人、黒人と白人、人生のよいときと悪いとき、学校で教えていることと実際におこっていることの違いについて歌う。ガスリーは歌の中ですべてを語り尽くしているとぼくは感じる。なぜそう感じるかはわからない。」

ディランの歌詞(lyrics)について、「なにを云いたいのかがわからない、独りよがりのただのことば遊びのようだ」と批判する者もいます。例えば、1960年代の半ばに作られた「Just like a woman」の歌詞の出だしは次のようです。

Nobody feels any pain
 Tonight as I stand inside the rain
  Ev’rybody knows
   That Baby’s got new clothes
  But lately I see her ribbons and her bows
   Have fallen from her curls

【直訳】
自分は今夜、雨の中に佇んでも誰も傷みを感じない
 誰もがその赤児が真新しい服を着ているのを知っている
  だがリボンと蝶々結びが髪の毛から落ちてくる

心に残る名曲 その百七十四 ウディ・ガスリー 「Dust Bowl Refugee」

ボブ・ディランに大きな影響を与えたフォーク歌手・作詞家・作曲家がウッドロウ・ガスリー(Woodrow “Woody” Guthrie)です。1912年オクラホマ(Oklahoma)州生まれ。14歳の時母親が死去し一家は離散し、17歳頃に彼はアメリカ中を一時雇いの労働者として放浪します。1930年代はアメリカは大恐慌(Great Depression)の時代です。その放浪のなかで、貧困や差別などに翻弄される労働者らの感情を歌にします。ボブ・ディランはウディ・ガスリーについて次のように云っています。
「ぼくにとってウディ・ガスリーは究極だ、」クラブハウスやコーヒーショップを回っていた頃、ディランは「ウディ・ガスリーのジュークボックス」とあだ名されるほどガスリーの作品を歌っていたといわれます。

Woody Guthrie

ガスリーは19歳のときにテキサスへも行きます。そしてダストボウル(Dust Bowl)が襲ってきます。ダストボウルとは、干ばつと原始的な耕作のために起こる大規模な砂塵嵐のことです。ダストボウルは広い耕地から土をさらい、近くの農場や牧場、遠く離れた州まで土地は砂塵となって舞い上がります。こうして凶作によって、多くの小さい農家が揃って州から逃れざるを得なくなります。砂塵嵐により、周期的な激しい干ばつが襲うのです。土地を追われた農民らは、カリフォルニアに移住するのです。こうしたオクラホマ州の人々はオーキーズ(Okies)と呼ばれ、放浪者(hobo)とか季節労働者となります。ガスリーも1937年にオーキーズの一人としてテキサスに彼の家族を残して、ヒッチハイクをしたり貨物列車に乗り、ロスアンジェルスへ旅立ちます。世界恐慌のいわば真っ直中の頃です。

Dust Bowl

ガスリーは、バーや労働者のストライキの時の組合の集会などにかかわって小銭を稼ぎます。若い時の旅で見た貧困は、のちのガスリーの作品に大いに影響を与ます。ガスリーは生涯、社会主義者かつ労働組合活動家であり、デイリー・ワーカー紙(Daily Worker)という小さな新聞で投稿したりします。1940年にガスリーは彼の最も有名な歌「我が祖国」(This land is your land)を書きます。この曲は彼の放浪中の経験にそっています。このメロディーは、1930年頃にカントリー / ブルーグラスのグループであるザ・カーター・ファミリー(The Carter Family)によって歌われ、最もよく知られたゴスペル「世界が燃える時」(When the World’s On Fire)に基づいています。「Oh, My Loving Brother」、「Hard Traveling」、「Dust Bowl Refugee」など彼の歌の多くが労働者階級が直面する姿を描き、やがて人々を惹き付けていきます。

心に残る名曲 その百七十三  ボブ・ディラン 「風に吹かれて」

2016年10月、「アメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手としては初めてノーベル文学賞したのがボブ・ディラン(Bob Dylan)です。1941年5月、ミネソタ州の北にあるダルース(Duluth) で生まれます。アシュケナージ系(Ashkenazim)で旧姓はロバート・ツィマーマン(Robert Allen Zimmerman)といいました。1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなります。ミネアポリス(Minneapolis)でフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時にボブ・ディラン(Bob Dylan)と名乗り始めます。

風に吹かれて」(Blowing in the wind)、「時代は変る」(The Times They Are a-Changin)、「ミスター・タンブリン・マン」(Mr. Tambourine Man)、「ライク・ア・ローリング・ストーン」(Like a Rolling Stones)、「見張塔からずっと」(All Along the Watchtower)「天国への扉」(Knockin’ on Heaven’s Door) 他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大な影響を人々に与えてきました。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」(Never ending tour)と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍しています。グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしています。また2008年にはピューリッツァー賞特別賞を受賞し、長年の活動により2012年に大統領自由勲章を受章します。そうした名声の陰でディランは云います。

「大衆文化は多くの場合、短い時間ですたれる。葬り去られる。ぼくは、レンブラントの絵画と肩を並べるようなことをしたかった。だが、真似をするだけでは駄目だ。誰かの作品が好きならば、その人が接してきたあらゆるものに接することが大切だ。シンガーソングライターになりたい者はできるだけ、たくさんのフォークミュージックを聴いて100年前から続く音楽の形態や構造を学んだほうがいい。ぼくはスティーブン・フォスター(Steven Foster)までさかのぼる」

Joan Baez & Bob Dylan

心に残る名曲 その百七十二 エルマー・バーンスタインと「荒野の七人」

エルマー・バーンスタイン(Elmer Bernstein)は、1922年にニューヨークで生まれた作曲家です。東欧ユダヤ系移民出身で父親はウクライナ人、母親がハンガリー人です。子どもの頃からダンサーや子役として活躍していたようです。やがて音楽に傾倒するようになり、奨学金を得てピアノを学びます。最初はピアニストになるという希望を持つのですが、アメリカ陸軍に徴兵されそこのラジオ局で作曲を始めます。

退役後、1950年にニューヨークから映画産業の中心地ハリウッド(Hollywood)へ移り、映画音楽を手掛けるようになります。やがて200以上の映画音楽を作曲していきます。映画そのものより主題曲のほうが人気があったともいわれるほど親しまれる作品を残します。「十戒」(The Ten Commandments)、「黄金の腕」(The Golden Arm)、「荒野の七人」(The Magnificent Seven)、「大脱走」(The Great Escape)などを作っていきます。

1967年の「モダン・ミリー」(Thoroughly Modern Millie)ではアカデミー作曲賞を受賞します。「荒野の七人」に出演していたのは、Yul Brynner、Steve McQueen、Charles Bronson、Robert Vaughn、Horst Buchholz、James Coburnといったそうそうたる俳優でした。懐かしの男優です。黒澤明の「七人の侍」版というふれ込みでした。

大脱走とスティーブ・マックイーン

心に残る名曲 その百七十一 ジョン・ウィリアムズとE.T.

ジョン・ウィリアムズ(John Williams)はニューヨーク生まれ。E.T.やインディ・ジョーンズの映画音楽を作った作曲家です。ジャズ・ドラム奏者を父として生まれます。1948年に家族はロスアンジェルス(Los Angels)に移住します。そこでテデスコ(Mario Castelnuovo-Tedesco)という人から作曲法を学びます。カリフォルニア大学ロスアンジェルス校(UCLA)でも学び、その後アメリカ空軍に徴兵され、そこでバンドの編曲や指揮をします。

除隊するとニューヨークに戻り、ジュリアード音楽院(Juilliard School of Music)でピアノを学びジャズピアニストとしてナイトクラブで働いたりレコーディングをします。そのときの師匠はレビン(Madame Rosina Lhevinne)という女性です。さらにロスアンジェルスに向かい、ハリウッドのスタジオでピアニストとして働きます。

1970年になるとスピルバーグ(Steven Spielberg)監督映画の主題曲を作曲していきます。 1975年の「ジョーズ」(Jaws)、 1977年からの「スターウオーズ」(Star Wars)、1981年からの「インディ・ジョーンズ」(Indiana Jones)、1982年の「E.T.」(The Extra-Terrestrial)、1993年の「ジュラシックパーク」(Jurassic Park)、そして1998年に作られた戦争映画の「プライぺート・ライアン」(Saving Private Ryan)、2001年からの「ハリー・ポッター」(Harry Potter)などの主題曲です。

「スター・ウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」 などでは華々しく、かつロマンティックで陽気なサウンドを生み出す「ジュラシック・パーク」、「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)、「プライぺート・ライアン」では映画の内容に相応しい重厚な、といいいますか、冷静な旋律を作っています。

ウィリアムズは、1980年にボストン・ポップス・オーケストラ(Boston Pops Orchestra)の第19代の指揮者として迎えられます。前任者は絶大な人気を誇ったアーサー・フィドラー(Arthur Fiedler)でした。そのほか、クリーブランド・オーケストラ(Cleveland Orchestra)、シカゴ交響楽団(Chicago Symphony Orchestra)、ニューヨーク・フィルフィルハーモニー(New York Philharmonic)なども指揮しています。

心に残る名曲 その百七十  バーナード・ハーマンと「めまい」

懐かしい映画を振り返るようなブログになっています。その映画には忘れられないサウンドトラック音楽が脳裏にあります。映画と音楽は一体です。淋しいことには、最近は映画館にでかけないことです。どうしても観たいというのが探しきれていません。

バーナード・ハーマンの出生名マックス・ハーマン(Max Herman)。ニューヨークのブロンクス(Bronx)でロシア出身のユダヤ移民一世の家庭に生まれます。後に、ファーストネームをHermanと改め、姓をドイツ語読みに習いHerrmannと改めたといわれます。

Alfred Hitchcock

ニューヨーク大学(New York University)で作曲学や指揮法を学びます。ジュリアード音楽院を卒業後、1934年には当時アメリカ最大のラジオ曲CBSで編曲者として雇われ、CBS交響楽団の指揮者ともなります。その間、自作を含めて多くを制作し録音します。クラシック作品における自作もステレオで録音していきます。交響曲やクラリネット五重奏曲、オペラ「嵐が丘」、さらにはカンタータなどを残すという多彩な才能を発揮します。

1941年にはオーソン・ウエルズ(Orson Welles)作の「市民ケーン」(Citizen Kane)の音楽を担当します。さらにアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)作の「サイコ」(Psycho) 、「北北西に進路をとれ」(North by Northwest)、「めまい」(Vertigo)などの映画音楽も作曲して有名になります。

ヒッチコックの映画でハーマンは電子音を使うという革新的な試みをします。テルミン(theremin)というロシアで作られた電磁波を使った電子楽器での音楽です。テルミンの醸し出す少々不気味なサウンドで映画史で最も効果的な演出をしたのがヒッチコックといわれます。