ナンバープレートから見えるアメリカの州ハワイ州・Aloha State

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ハワイ州(Hawaii)のナンバープレートには「Aloha State」と印字されています。「いらっしゃい」、「こんにちは」、「お元気ですか」、というのがAlohaですね。外国旅行をしたことがない人でも一度は行ってみるところがハワイです。言葉が通じ、食べ物が豊富で美味しく、景色がエキゾチックで、気候が温暖なのですから人気が高いのもうなずけます。誠に手頃な観光地です。ですが文化や歴史の多様な姿もまたハワイの魅力です。

License Plate of Hawaii

ほとんどの人類学者(anthropologists)は、ハワイへの最初の定住は、西暦4世紀から7世紀にかけてマルケサス諸島(Marquesas Islands)から北西に移住したポリネシア人(Polynesians)によるもので、その後、9世紀または10世紀にタヒチ(Tahiti)から移民の第2波がやって来たと考えています。1970年代に始まったハワイでの航海用カヌー(voyaging canoe)と伝統的な航行方法(navigation methods)の使用の復活によって実証された知恵と技能から、島々が最初の植民地化の後、かつて考えられていたほど孤立していなかった可能性があることを示しています。実際、ハワイと遠く離れたポリネシアの島々との間には、かなりの意図による航海があったと思われています。それでも、ハワイ人とその親戚であるポリネシア人との間には、言語や文化において依然としてかなりの類似点があるにもかかわらず、ハワイは独自の文化を発展させていきます。

Map of Hawaii

元々のハワイ人は漁業と農業に高度な技術を持っていました。18紀後半までに、彼らの社会は、首長と司祭(chiefs and priests)によって定められた厳格な法体系を持つ複雑なものになりました。人々は、神通力でも古代ギリシャのオリンポス山(Mount Olympus)の神々とは違った神々を崇拝し恐れていました。

ジェームズ・クック船長(Captain James Cook)は1778年にこの島々を訪れ、サンドウィッチ諸島(Sandwich Islands)と呼びます。その後40年間、ヨーロッパとアメリカの探検家、冒険家、猟師、捕鯨者が新鮮な物資を求めてハワイ諸島に立ち寄り島民に大きな影響を与えます。これらの影響の中でも特に重要なのは、東洋と西洋の両方からの病気の侵入です。島民はそれまで事実上病気にならず、自然免疫を持っていませんでした。性病(venereal disease)、コレラ(cholera)、麻疹(measles)、結核(tuberculosis)はすべて先住民の人口の減少をもたらし、その人口は1世紀ほど後の1890年代までに約30万人から4万人未満に減少します。

Captain James Cook

19世紀初頭、カメハメハ大王(King Kamehameha)がハワイ諸島を統一します。1820年にはニューイングランドの宣教師が続き、西洋の影響が島々を変えていきます。1851年、カメハメハ三世はハワイをアメリカの保護下に置くこととします。ですがアメリカの砂糖利権を巡って起こされたクーデターにより王政は倒され、1893年にハワイ共和国(Republic of Hawaii)が樹立されます。

King Kamehameha

その間、日本から多くの人々が移民しました。主としてオアフ島やハワイ島(Big Island)でのサトウキビ、パイナップル、珈琲栽培のためです。琉球からの移民が目立ちました。ハワイに到着すると、早速土地を開墾しサトウキビ栽培に従事していきます。今も琉球の名前を持つ人々がハワイの各地に大勢住んでいます。

1898年に新共和国とアメリカは併合に合意し、1900年にハワイはアメリカ領となります。1941年の日本軍による真珠湾(Pearl Harbor)爆撃をきっかけに、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、ハワイは主要な海軍基地となります。1959年8月21日にハワイはアメリカ50番目の州となります。最大の産業は観光業です。マウナケア山頂(Mauna Kea)には望遠鏡があり、世界の天文学研究(World Astronomy Center)の中心地となっています。

ハワイ州は、大小100位の島々から成ります。これらは海底火山によってつくられました。州都ホノルルのあるオアフ島は最も知られていますが、是非訪ねたいのはハワイ島(Hawaii)やカウアイ島(Kauai)、後述するモロカイ島(Molokai)などです。ハワイ島には日系移民によって開発された一番大きな町、ヒロ(Hilo)があります。そこに日系移民博物館があります。驚くことに、館内の展示物には神武天皇をはじめ、代々の天皇の写真が飾ってあります。日系移民の日本に対する郷愁と深い想いがこめられているのを感じます。

先住のハワイ人やポリネシア系が約10%なのに比べ、日系人は17%を占めます。政治、経済、社会における活躍は目覚ましいものがあります。日系人の活躍としては、戦時中の志願兵の活躍が特筆されます。ハワイで生まれの若い日系アメリカ人の多くは、志願兵として祖国に対する忠誠心を示し合衆国陸軍の大隊に入ります。この部隊は第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)と呼ばれ、真珠湾攻撃後、日系アメリカ人の兵役が禁止されていた時期に結成されます。この部隊は日系人だけで組織され、やがてイタリアやフランスなどのヨーロッパ戦線にて戦果を上げます。この戦闘団のモットーは「Go for Broke」といって「当たって砕けろ!」でした。オアフ島の真珠湾に浮かぶ戦艦アリゾナ記念館(Arizona Memorial)や戦艦ミズーリ号(Missouri)などを訪れると太平洋戦争の歴史が身近なものとなります。

The 442nd RCT

マウナケア山頂付近は、国立天文台が設置したすばる望遠鏡があります。周りには世界各国の天文台も並んでいます。ここに兵教大の院生とで天文台内部を見学する許可を得て訪ねました。ついでに山頂へも登ったのですが、酸素が薄くて息が苦しかったのを覚えています。ハワイ島のキラウエア(Kilauea)火山からの熔岩流は今も蒸気を上げています。そして虹が地平線から地平線まで見事なアーチを描きます。一行の中にいた中学理科の教師にはたまらない見学ツアーとなったようです。

Mauna-Kea

ハワイの高校には二つの有名な私立学校があります。カメハメハ・スクール(Kamehameha Schools)とプナホウ・スクール(Punahou School)です。カメハメハ・スクールは1887年に、カメハメハ家のバーニス・パウアヒ・ビショップ(Bernice Pauahi Bishop)の遺産によって設置されました。カメハメハ・スクールではプリスクール、1~12年生までの教育を行っており、英語で教えて大学への入学へ備えます。ハワイ語とハワイ文化も十分教えて、ハワイ人としての教育にも重点を置いています。バラク・オバマ元大統領の母校でもあるプナホウ・スクールは1841年の創立で、幼稚園から高校までの生徒3750名が通うアメリカ国内でも最大規模の学校です。プナホウ・スクール卒業生の大学進学率はほぼ100%という名門校となっています。
(投稿日時 2024年3月26日)

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十七 グアム–Gateway to Micronesia

グアム(Guam)は、太平洋にあるマリアナ諸島南端の島でアメリカ合衆国の準州となっています。1898年のアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争によって合衆国の海外領土となります。主都はアガーニャ(Hagatna)で、公用語は英語、チャモロ語です。

大航海時代の1521年に、ポルトガル出身のスペインの航海者マゼラン(Ferdinand Magellan)がヨーロッパ人として初めてグアム島に到着します。マゼランの探検は、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海したポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gam)の影響を受けています。ガマの大航海によってポルトガルは当時の海上帝国を築いたといわれます。

Island of Guam

グアムの現地の人々、チャモロ族(Chamorro) は、約3500年前にグアムにやって来たようです。ミクロネシア(Micronesia)のマリアナ諸島(Mariana Islands)の先住民といわれます。スペインがグアムを植民地化したのは1668年です。16世紀から18世紀にかけてグアムは、大型帆船にとってスペインとフィリピンを結ぶ大事な寄港地となります。

1944年にアメリカ軍が日本軍を追放し、アメリカの統治化となります。それ以降、この島の経済は、巨大な空軍基地からの投資によって潤います。観光業、農業、漁業が主要な経済基盤ですが、近年は観光業が産業の大部分を占めています。

チャモロ文化の中にはチャモロ語の他、チャモロ料理、チャモロ音楽、チャモロダンスなどがありますが、代表的な遺物といえば「ラッテ・ストーン」(Latte Stones)です。グアムやサイパンなどの北マリアナ諸島に残されている巨大石柱群です。ラッテ・ストーンの遺跡が島々にあります。大昔、チャモロ族が柱の上に家を建て、そこを人々の集会所にしたという説や、人々の埋葬の場所としていたという説もあります。後者の証拠として、動物の骨、魚、壺などが発見されたことです。

チャモロ料理の代表的なものは、レッドライスやケラグエン(Shrimp Kelaguen)とか、ココナッツミルクを使った料理も多くあります。甘さ・辛さ・酸っぱさのいずれかが濃厚に現れているのがチャモロ料理の特徴です。大家族社会であるグアムでは、各料理は大量に作って各自で分ける大皿料理スタイルが主流となっています。バーベキューとともにローカルのパーティーには必ず登場するのが大皿料理です。

主都アガーニャには、チャモロ・ビレッジ(Chamorro Village) があります。チャモロ文化を紹介するために作られた街です。スペインの植民地時代に持ち込まれた赤レンガの屋根に白壁の建物が並び、チャモロ料理のお店やお土産物屋が揃っています。是非立ち寄りたいところです。

横井庄一氏の帰国

1972年1月に、28年間に及ぶグアム島のジャングルで生きていた横井庄一氏が発見されました。満57歳で日本に帰還したのは大きな話題となりました。