木枯らしの季節 その十七 オランダの友人や知人

2004年にオランダのトゥウェンテ大学 (Universiteit Twente) から兵庫教育大学に客員教授を招き、一年間いろいろとお世話をさせていただきました。Piet Kommersという教授で教育工学という分野の研究者です。Pietという名前はもともと英語のPeter、日本ではペテロと呼ばれます。Kommersは英語のSolicitude、日本語では「憂い」にあたります。私はこれまで多くの外国人研究者の派遣申請をして採用されました。お陰で友人や知人を得た勲章のようなものです。

9c5e098d-c364-4aef-b6cc-fb554da6903d muzikale-omlijsting umn1彼が兵庫教育大学に赴任したとき教授会である工夫をしました。彼はヴァイオリンの奏者でもあったので、モーツアルト (Wolfgang Amadeus Mozart) のソナタ (sonata)を弾いて貰いました。学長が挨拶で「教授会でヴァイオリン演奏を聴くのは初めてだ」と喜んでいました。

トゥウェンテ大学の創立は1961年。当初は工学系の大学でしたが、現在はビジネス、教育、コミュニケーション科学、心理学等、多様な分野の研究をしています。エンスヘーデ (Enschede) というドイツ国境のノルトラインーヴェストファーレン州 (Nordrhein-Westfalen)沿いにあります。私が同僚とトゥウェンテ大学を訪問したのは2005年でした。Kommers教授は私の唯一のオランダ人の友人です。

オランダ系のアメリカ人のことです。ミネソタ大学ツインシティ校 (University of Minnesota, Twincities)の教育心理学教授のアイセルダイク (James Ysseldyke) という研究者です。名前からしてオランダ系です。「dyke」とはオランダ語でダムとか堤防、運河の干拓といった意味です。祖先は恐らく干拓工事などに従事していたのかもしれません。背が高く堂々としています。この教授も1995年に国立特殊教育総合研究所のセミナーで招くことができました。私はウィスコンシン大学時代、彼の著書を教育測定と評価の勉強で使い、そのお陰でミネソタ大学には何度も伺い研究協議ができました。多額の研究費を連邦政府から獲得して研究する姿勢に大きな影響を受けたものです。

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木枯らしの季節 その十六 オランダ領ニューギニアと南進論

ヨーロッパ諸国、とりわけオランダの東方進出は日本にいろいろな影響を与えました。蘭学は言語、医学、航海技術、造船技術などなど当時としては先端的なことばかりだったはずです。地図の投影法であるメルカトル図法を創案したのは、オランダ人のメルカトル (Gerardus Mercator) です。1569年に彼は1.32×1.98メートルの世界地図を作ったというのです。大航海はこうして可能になりました。択捉島と得撫島をヨーロッパ人では初めて発見したのもオランダの探検家です。オランダが東洋に進出したのは、こうした科学技術に支えられた自由貿易と植民地支配という国家の方針にあります。その前衛となったのがオランダ東インド会社でした。

willem_blaeu_-_nova_totius_terrarum_orbis_geographica_ac_hydrographica_tabula c0011649_6113954 map_of_new_guinea_islandオランダによるインド西海岸の州であるゴア (Goa)、ジャワ島 (Java)、ニューギニア (New Guinea)などの植民地化は海上覇権を確立したことによります。当時の植民地化の考え方は、先住民が居住していてもいずれかの国が「先占する」ことで領土化するという原則です。しかし、20世紀以降、「先占の原則」は認められなくなりました。

領土権は国の方針の根幹に関わることです。「先占の原則」から「どのような民族が住んでいるか」へと変遷し、「領土の購入」という方法も生まれます。戦前、日本は南進論が盛んになり1934年にはオランダ領であったニューギニアを買収しようとする建議が起こります。さらに「委任統治」という方法もできます。1920年には国際連盟によってマリアナ諸島 (Mariana Islands)が日本の委任統治にはいります。それによりサイパン島 (Saipan) を中心に日本人によるサトウキビを中心とする糖業が盛んになります。沖縄から多くの人々が移住した地であります。ですがマリアナの原住民はチャモロ族 (Chamorro) であります。現在はアメリカの自治領(Commonwealth) となっています。

領有権のあるなしにかかわらず、A国がB国の土地に多数住むようになった場合、それを口実に、A国が自国の領土であると主張する可能性は大いにあります。マリアナの地に日本人が多数住むようになそれを口実に日本が終戦まで統治した経緯もこれにあたります。

北方領土問題に戻ります。かつて樺太はロシアと日本人が混住することで、互いに領土権を主張しないというで折り合いがつきました。千島列島のうち国後島や択捉島には日本人が住んでいたのですから日本固有の領土でありました。敗戦によってロシアが実効支配という植民地化時代のような帝国主義的な手法で支配を主張している現状は大いに憂うべきことです。

オランダの東洋進出は太平洋戦争によって終わります。インドネシア独立戦争を経て1949年にオランダはインドネシアの独立を認め、オランダ領だった西ニューギニア (West New Guinea) は1975年にパプアニューギニア (Papua New Guinea)として独立国となります。

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木枯らしの季節 その十五 国防と間諜

間宮林蔵の北方探査は、今に至る北方領土問題に関わっていると考えられます。それを今回取り上げます。前回記した日露和親条約締結には、林蔵の千島や樺太の調査が役立ったといわれます。林蔵は1806年より択捉島で地図を作成する仕事を始めます。そこには「国防」 というテーマが林蔵にはあったと考えられます。外国との交渉には、島々を正確に地図に表しておかなければならないという危機感があったのです。

赤羽栄一の「間宮林蔵 北方地理学の建設者」という本によると、1807年、林蔵が択捉島にいたとき、ロシア人の一隊が樺太から択捉島の紗那という村を急襲したとあります。北方の国防ということについて林蔵は大きな緊張を強いられたはずです。そして島の特徴や地図の作成が急務であると考えます。こうして林蔵は忍者や間諜のように島々の探検を続けます。

pc140301 cimg1539 nivkh_people間宮海峡の発見から林蔵は、樺太北部に居住していた少数民族のギリヤーク人 (Gilyak)やオロッコ人 (Orokko) から中国大陸の黒竜江 (アムール川)下流地域に清国の会所が存在するという情報を得ます。さらにロシア探検隊の動向を調べるのです。その記録を 「東韃地方紀行」 として幕府に提出します。なおギリヤーク人はニヴフ (Nivkh)ともいわれニヴフ語を使っていました。やがて黒竜江付近で清と南下するロシア帝国との間の紛争が黒竜江を境に起こります。これが1995年まで続いた黒竜江、およびその支流の中にある多くの島や中州の領有権を巡る中ソ国境紛争です。

さて、林蔵はシーボルトが江戸に来たとき最上徳内に紹介されて会っています。この時シーボルトは、林蔵に樺太踏査時の情報提供を依頼しました。その後も手紙によっても林蔵に情報提供を願っています。樺太や千島、黒竜江付近の探査から情報の重要性を林蔵は理解していたはずです。シーボルトの行動に対し林蔵は慎重だったと推察されます。二人とも政府と幕府を代表する間諜、スパイのような役割を果たしていたのです。小谷野敦の「間宮林蔵 隠密説の虚実」という本にこの二人の駆け引きが書かれています。

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木枯らしの季節 その十四 間宮林蔵と川路聖謨

私は樺太(Sakhalin)の真岡生まれ。真岡は間宮海峡に面する不凍港です。今はホルムスクと呼ばれています。間宮林蔵も真岡を通過し北上して、やがて間宮海峡を発見します。タタール海峡(Straight of Tartary)とも呼ばれています。

data11 bankokuzenzu1816 hokkaidou_1024px_069江戸幕府にとって蝦夷の開拓は北方の国防にかかわる重要な任務でありました。日本とロシア、清の勢力範囲の確認が急務となっていました。そのため蝦夷周辺の樺太や千島列島、さらには黒竜江付近の地図を作成すること必要がありました。特に樺太一帯の詳しい調査が必要となってきました。林蔵は樺太踏査を幕府に願い出ます。

江戸時代、測量技術や移動手段が貧弱でなおかつ北方に関する知識も皆無という当時、林蔵の探検は苦難の連続だったことは容易に想像できます。Britannicaによりますと林蔵は、伊能忠敬を度々訪問し天体観測による緯度、経度の測定法を中心とする測量の最新技法を学んだことが記されています。忠敬は測量技法を林蔵に教えるだけでなく、彼が使用していた最新の測量器具を林蔵に譲り与えます。

江戸幕府の勘定奉行であった川路聖謨 (かわじとしあきら)も林蔵の北方に関する知識を重要視していたようです。聖謨は1853年に阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱えます。また同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチン (Jevfimij Putjatin) との交渉にも臨みます。そして1855年の日露和親条約締結が林蔵の北方に関する知識に助けられ、日本側が交渉を有利に進めたといわれています。外交交渉の成否は情報の有無が鍵を握るという例であります。

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木枯らしの季節 その十三 シーボルトと高橋景保と情報交換

北方四島の返還とか竹島、尖閣列島の帰属問題などを考えるとき、昔からいかに領土を巡る緊張やそこに関わった人々の気概が伝わってきます。国の統治や発展のために各国が地政学や地理学、生物学、民俗学、植物学などに強い関心を示してきたかもわかります。江戸時代、遠いオランダからやってきたきたシーボルト (Philipp von Siebold)もその一人です。

sibukawa hazama-s 0d000750000000000シーボルトはドイツの医師で博物学者でありました。文政年間といえば1800年の前半。シーボルトは生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集しオランダに移送しています。そうした行為は江戸幕府によって禁制されていました。今でいえば国家の機密を漏洩した、という行為です。オランダはシーボルトが日本で収集した情報を非常に重視していたことがわかります。シーボルトは間諜でもあったようです。

少し時間を戻します。シーボルトはオランダ、ドイツ、ロシアの情勢を伝える書物を持参して日本にやってきます。医学のみならず植物、地図などの洋書です。それを江戸幕府のお抱え学者らも関心を示したのは当然です。江戸幕府の天文方奉行で天体観測、測量、天文関連書籍の翻訳をしていたのが高橋作左衛門、本名は高橋景保です。彼は、シーボルトから紹介された地誌並びに洋書を解読して揃えれば幕府のお役に立つと普段から考えていたようです。

高橋景保は、シーボルトがロシア人著述の書籍や新しい世界地図を持っている事を通訳の吉雄忠次郎から聞きます。この書類を入手し解読して幕府に献上したいと熱心にシーボルトに頼みます。しかし、シーボルトは容易に応じません。そこで景保は交換条件を打診します。シーボルトも日本並びに蝦夷地の良い地図であれば提供できると伝えます。地図を異国人へ渡す事が国禁であるのは景保はもちろん承知しています。しかし、彼は交換しなければ貴重な誌書の入手機会を失うと考えたのです。

シーボルトは最上徳内の訪問も受けたといわれています。徳内は蝦夷地や樺太など北方探査を行った探検家です。彼はシーボルトと何度か会見して学術や北方事情などを話題に対談します。日本研究に熱心なシーボルトに協力し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えたほか、アイヌ語辞典の編纂事情をシーボルトに紹介します。やがて地図などの交換が発覚し、シーボルトが帰国する以前に地図その外が幕府によって押収されます。国禁とされた情報を提供し代償として洋書類を翻訳し役立てようとした気概が大胆な行為につながったと言えるでしょう。

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木枯らしの季節 その十二 風車から帆船へ

皆越尚子氏の『オランダ雑学事始』には、「オランダ人は ”世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った”と自負している」と書かれています。国土全体の30%が海面下にあるというのです。干拓に邁進したオランダ人の知恵と努力は、まさにオランダ人がオランダを造ったといえるのでしょう。

300px-kurofune c0188700_1813284 kanrinmaruオランダといえば、そのシンボルが風車です。それはポルダー (polder)と呼ばれる干拓地の造成に活躍します。ゾイデル海(Zuider) の干拓は有名ですが、風車は排水作業などで大きく貢献したといわれます。そのために風のエネルギーを動力に変える風車のメカニズムは様々に研究されてきたとあります。風車の羽根に張る帆布と角度、方向固定のための滑車、動力を伝達のための心棒や歯車がいろいろと工夫され改善されたようです。

こうした技術は、大型帆船の建造に役立ちました。風車はそのまま帆船の不可欠の部品となって使われ船舶技術に応用されたのです。海洋王国オランダを支える技術の原点はこの風車の発明によるようです。帆船はやがて蒸気船に取って代わられます。

最初の頃の蒸気船は外輪船でありました。水深が浅くても走れるため穏やかな河や沿岸を航行するに便利でした。今も観光目的の外輪船は見られます。蒸気機関を備えた汽帆船もが多く造られました。さらにより推進力のある高速のスクリュー船が造られます。

蒸気船が日本を訪れたのは、1853年の黒船来航最初です。黒船に日本人が驚いたことは頷けます。外輪蒸気船のフリゲート艦「サスケハナ (Susquehanna)」など四隻です。その後、オランダで建造され長崎海軍伝習所の練習艦として1857年に就役したのが咸臨丸。蒸気機関を備えた汽帆船でありました。汽帆船からスクリュー船への転換によって大航海の貿易や戦争の様が大いに変わります。このように、オランダの諸技術が後の日本の産業発展に果たした貢献は計り知れないものがあります。

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木枯らしの季節 その十一 寒風とミッフィ

木枯らしの寒さが真っ最中の話題です。今回は「ふわふわ うさこちゃん」というオランダの童話です。

images tumblr_nc7j49alhb1qa6cy0o1_250-1 img_5651efc580a207e71c5734dc19dc55af152798駐日オランダ大使館のサイトに面白い記述があります。
「日本で最も知られているオランダ人はおそらくミッフィ (Miffy)でしょう。ウサギの女の子、この小さな漫画のウサギはオランダのアーティスト、ディック・ブルーナ (Dick Bruna)により生み出され、老若問わず世界中で愛されています。」

オランダでは、ミッフィのことを「ナインチェ・プラウス」 (Nijntje Pluis) と呼ばれています。 「Nijntje」は、ウサギを意味するオランダ語「konijn」に、可愛いとか小さなという「-tje」を合わせた造語で「Pluis」とはふわふわしたとか毛羽立ったというオランダ語です。

1960年の英語版の出版に際して、「Nijntje Pluis」はミッフィ (Miffy) という名が付けられたと福音館書店のサイトにあります。「ふわふわ うさこちゃん」は石井桃子が翻訳し福音館から発行されます。「ミッフィ・バニー」という名前は講談社から刊行されているものです。ちなみに、福音館は、戦前カナダのメソジスト教会の宣教師が伝道を目的として設立した出版社が前身となっています。

寒さのなかで、暖かい雰囲気を醸し出すミッフィです。
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木枯らしの季節 その十 和蘭陀と日本

ブリタニカ国際大百科事典(Britannica International Encyclopaedia) を参考にしながら、オランダ (和蘭陀) と日本のつながりを考えます。

1600年3月16日。オランダの商船リーフデ号 (Liefde)が九州は豊後国、臼杵のあたりに漂着します。これが日本とオランダの最初の接触です。リーフデ号はロッテルダム (Rotterdam)にあった世界最初の株式会社といわれる東インド会社 (East India Company) の船で、極東を目指す航海の五隻の船団の一隻でした。一行は太平洋上で暴風雨に遭遇し、うちリーフデ号だけがかろうじて日本に着いたのです。

s1293-05-g07 30751_fullimage_voc_overwinning_560x350_560x350 thmb-001当時大坂にいた徳川家康はリーフデ号の乗組員を保護し、日本滞在を許します。その間、造船術、航海術、天文学、数学などを教授してもらいます。1609年にはオランダの使節が駿府で家康と謁見し、通航と貿易を許可する朱印状を得ます。そして1613年には平戸に商館を設置します。それまでは宗教、文学、制度、法律などのソフトを中国や朝鮮から習得してきたわけですが、江戸時代になるとオランダから様々な科学技術などハードを学び応用していくことになります。

徳川幕府は1633年から1639年にかけて五回にわたり鎖国令を発し、切支丹弾圧を行います。ところがプロテスタント国であったオランダは弾圧を免れ、長崎は出島に商館を移します。ヨーロッパ諸国でオランダは唯一、通航や貿易を許されるのです。鎖国がその後の日本の発展に与えたネガティブな影響は計り知れないほどですが、一本の糸のようなオランダとの接触は、オランダ語を通しての蘭方医学やオランダ語研究に進展していきます。そして解剖図表といわれる「Tabulae Anatomicae」を「解体新書」として翻訳します。

レンブラント (Rembrandt  van Rijn)の「テュルプ博士の解剖学講義」 (The Anatomy Lesson of Dr. Nicolaes Tulp) は1632年に描かれたといわれます。この絵を見ますと、杉田玄白や前野良沢、中川順庵らが講義に加わっていたらどんなに興奮しただろうかと想像します。

オランダの東インド会社のことです。この会社は最盛期に150隻の商船、40隻の軍艦、そして10,000余りの兵員を擁していたといわれます。それが東方貿易を支えていました。軍艦はもちろん商船を守る任務です。商船には大砲を積み、兵員も乗り組んでいたといわれます。

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木枯らしの季節 その九 「和蘭陀」の感謝祭とPieterskerk

「感謝祭の原形はライデンから」を振り返っています。駐日オランダ大使館のサイトによりますと、オランダは、「森の地」とか「窪地」を意味するHoltlandからきています。Hollandという呼び方もありますが、「西海岸にある“ホラント”と呼ばれる一部の地域の呼称」ともあります。

leiden_pieterskerk_postcard bollenveld-klein san-pedro-y-san-pablo_672-458_resizeオランダの正式国名は「Kingdom of The Netherlands」。「低地の王国」といってもよいでしょう。したがって「Netherlanders」 とは「低い土地の人々」となります。13世紀以降に海面下地帯の干拓を進め、国土の20%が干拓地です。オランダは漢字による当て字で和蘭、和蘭陀と表記されます。ともあれホラントに韻を踏んだ「蘭」が割り当てられたようです。

司馬遼太郎の「街道をゆく〈35〉オランダ紀行」は、興味あることがいろいろと紹介されています。堤防を造り、風車で水をくみ上げてつくられた土地は極めて平坦ですが、司馬はユーモアを交え、この国の平坦さや自転車の普及を表現しています。オランダは農業生産物の世界三大輸出国の1つでもあります。

・「南に下れば八百屋さんの店先に一盛二百円ほどの山はある。」
・オランダ人は茶目っ気がある。海抜101メートルの山を「マウンテン」と読んでいる。」
・ 「トラック一杯の薬よりも、一台の自転車」

アメリカの感謝祭の起源はオランダにあることは既に触れました。ライデンでは毎年、感謝礼拝が行われます。場所は1100年に建てられたSt. Peter’s Churchというゴシック様式 (Gothic)の教会です。この教会はオランダ語では「Pieterskerk」と呼ばれています。Pieterとはペテロ、St. Peterです。kerkはドイツ語のKirche、英語はもちろんChurchにあたります。St. Peter’s Churchには初代のピリグリム・ファーザー(Pilgrim Father)の指導者であったJohn Robinson牧師が埋葬されています。

日本のプロテスタント教会やカトリック教会の神学者によって1987年に刊行された新共同訳聖書では、Peterに「ペテロ」が使われています。ヨハネによる福音書1章42節でイエスはペテロを 「ケファ(Cephas)」、岩のかけら、石という意味で呼んでいます。「私はこの岩の上に私の教会を建てる」という言葉に由来しています。Cephasはアラム語(Aramaic language)という古語だそうです。

木枯らしの季節 その八 感謝祭がアメリカ引き継がれる

多くのアメリカの人はオランダで感謝祭が始まったことは知りません。巡礼始祖ーピルグリム (Pilgrims)のイングランドからオランダのアムステルダム(Amsterdam)を経由してライデン(Leiden)への移住、ライデンのスペイン軍の包囲からの解放、そして感謝礼拝の挙行といった歴史のことです。

embarkationofthepilgrims3 31b1c1862369c999e9bd7378f9dab925 cape-cod-1100301_960_720_pixabayロンドン市内のカルヴァン派教会の牧師で著作家であったロビンソン(Rev. John Robinson)は1619年頃、35名の会衆、そして無信教の者など66名などとメイフラワー号(Mayflower II)に乗り込みイングランドのスクロービィ(Scrooby)を出発してオランダのアムステルダムとライデンに渡り、そして新大陸のニューヨーク(New York)へと航海します。メイフラワー号がマサチューセッツ(Massachusetts)のケープカッド(Cape Cod)の先端に到着したのは1620年、節季は11月です。ところがこの地が農業に適していないことがわかり、プリマス(Plymouth)付近に開拓地コロニーをつくります。「Plimoth Plantation」です。

新大陸での最初の収穫と感謝祭は1621年であったと記されています。幸い1621年は豊作だったようです。プリマスの辺りに住んでいたWampanoag部族というネイティブアメリカンとの交流が始まり感謝祭に一緒に参加したといわれています。

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