ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューヨーク州・The Empire State

注目

ニューヨーク州(New York)のナンバープレートには「The Empire State」と印字されています。戦後しばらく、世界一高い建物といわれたEmpire State Buildingの影響があるようです。なんでも世界一が好きなアメリカのことです。ニューヨークは確かにそのような風格と内容を備えてはいますが、少々いかつい印象もぬぐえません。

License Plate of New York

ヨーロッパの植民地化以前は、アルゴンキン族(Algonquian)とイロコイ族(Iroquois)がこの地域に住んでいました。1524年、ジョヴァンニ・ヴェラッツァーノ(Giovanni Verrazzano)がニューヨーク湾(New York Bay)にやってきます。1609年に、ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)とサミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)がニューヨーク湾を探検し、やがてオランダ人らが入植を開始します。1664年、ピーター・スタイヴェサント(Peter Stuyvesant)によってオランダの植民地ニューネザーランド(New Netherland)が作られます。しかし、その後やってきたイギリスに降伏し、ニューヨーク湾を放棄します。そしてニューヨークと改名されます。

オランダ人の上陸

フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)が起こり、ニューヨーク北部と中部で小競り合いが始まり、この地域におけるイギリスの支配が確立します。アメリカ独立戦争では、タイコンデロガ(Ticonderoga)やサラトガ(Saratoga)など多くの戦いの舞台となります。ベネディクト・アーノルド(Benedict Arnold)によるウェストポイント(West Point)もイギリスへの謀反の舞台となりました。

最終氷河期(Ice Age)の間、後退する氷河が現在のニューヨークの地形を削り出しました。ハドソン川(Hudson River)とモホーク川(Mohawk River)の渓谷の形成により、キャッツキル山脈(Catskill Mountains)とアディロンダック山脈(Adirondack Mountains)を突破するL字型の通路が形成されました。ハドソン川の河口から旅をしていた初期の探検家や入植者は、五大湖やその先へ行くためにこの道をよく利用しました。このルートの大部分を利用して、エリー運河(Erie Canal)が19世紀初頭に建設されました。この運河はハドソン川とエリー湖を結びました。1825年の開港後、貿易が発展し、ニューヨークがアメリカ商業の最前線に立つことになります。

Map of New York

ニューヨークは17世紀初頭のオランダ人入植後、すぐにアメリカ大陸への主要な玄関口になります。1840年代以来、ニューヨーク市はアメリカのるつぼ(melting pot)として膨張し、ヨーロッパ全土から、後にはラテンアメリカ(Latin America)、アジア、アフリカ、その他の世界の地域からの何百万人もの移民にとって機会の場所となってきました。港にあるリバティ島(Liberty Island)には、自由の像(Statue of Liberty)、自由の女神が立っています。

なにを取り上げても話題の尽きない州です。最大の都市はニューヨークですね。州都はニューヨークから300キロも離れた人口10万人足らずのアルバニー(Albany)。ニューヨーク州は正三角形に近い形をしています。ニューヨーク州の境界には五大湖のうちの2つのエリー湖(Lake Erie)とオンタリオ湖(Lake Ontario)があります。カナダのオンタリオ州とケベック州(Quebec)と国境を接し、コネチカット州、ヴァモント州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、そしてとペンシルベニア州と隣接しています。

1800年代後半から1900年代初頭にかけて、エリス島(Ellis Island)は合衆国の主要な移民ステーションとなりました。この島はアッパーニューヨーク湾(Upper New York Bay)にあり、ニューヨーク市の一部であるマンハッタン島の南西約1.6 km、ニュージャージー海岸(New Jersey shore)のすぐ東にあります。

Statue of Liberty


この島は、1770年代に島を所有していたマンハッタンの商人サミュエル・エリス(Samuel Ellis)にちなんで名付けられました。1808年、ニューヨーク州はこの島を連邦政府に売却します。やがて移民センター(immigration center)は1892年に開設されます。それから1924年までの間に1,200万人以上の移民がエリス島に上陸し、そこで医師による検査を受け、入国手続きを受けました。ほとんどの人は入国が許可されますが、重病人や障害者は拒否されました。拒否された移民は祖国に送り返されました。

エリス島は、1924年に移民をより厳しくする法律が議会で可決されると、この島の重要性が低下します。1943年に移民の受付がニューヨーク市本土に移された後も、エリス島は移民問題を抱えた人々の収容所として機能し続けます。やがて1954年にエリス島のセンターは閉鎖されます。この島は1965年に自由の女神国定公園(Statue of Liberty National Monument)の一部となり、1976年に観光客に再開されました。1980年代に政府は島の建物を修復し、現在はエリス島移民博物館(Ellis Island Immigration Museum)となっています。

Ellis Island

今やニューヨークは合衆国50州の中で傑出した地位を占めています。その大都市であり港であるニューヨーク市は、アメリカ最大の都市です。長い間この国の文化的および金融の中心地となるこの街は、新生した国の最初の政治的な首都でした。伝統によれば、1784年、ジョージ・ワシントン(George Washington)が初代大統領としてニューヨーク市に就任する5年前に、ニューヨークを「帝国の本拠地」(seat of empire)として構想し、その結果、エンパイア ステート(Empire State)というニックネームが生まれたとも言われています。

1789年に合衆国が共和制になったとき、ニューヨーク州は人口で州の中で5位にランクされました。 新しい国の初期の数年間、この州は急速に成長し、1820 年の国勢調査では第一位に躍り出ました。ニューヨーク州は1960年代半ばまで人口で州のトップであり続けましたが、その後カリフォルニア州に追い抜かれました。それでも、ニューヨークは全米で最も人口の多い州にランクされており、1年間に生産される商品とサービスの合計額州総生産は、一部の国を除くすべての国を上回っています。

Central Park

ニューヨークの人口のほとんどは都市に集中しています。歴史的に、都市化はエンパイアステートに繁栄だけでなく問題ももたらしました。都市部の混雑した状況により、時には困難な生活環境がもたらされることがあります。現在の社会的不平等に対する州の対応としては、労働者の権利を守る強力な法律、少数派を保護するプログラム、巨額の福祉手当などが挙げられています。

1777年にニューヨークが最初の州憲法を採択し、1797年には州都がニューヨークからアルバニーに移転します。1825年にエリー運河(Erie Canal)が開通し、州西部の開発に拍車がかかります。19世紀にはニューヨーク市でタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党の政治団体の影響力が強まり、票の買収操作による政治腐敗によって市と州との間に緊張が走ったこともあります。かつてはバッファロー(Buffalo)、ロチェスター(Rochester)、シラキュース(Syracuse)など各都市の製造業が経済の中心でありました。現在はニューヨーク市に集中するサービス業が中心となっています。

Niagara Falls


北東部の森林に覆われたアディロンダック(Adirondack)斜面、中央および西部地域のなだらかな丘陵地帯、セントローレンス川(St. Lawrence River)とオンタリオ湖とエリー湖の草原が、州の大部分の田園風景を形成しています。エリー湖からオンタリオ湖に流れるところにナイアガラの滝(Niagara Falls)があります。この辺りはニューヨーク州とカナダのオンタリオ州との国境になっています。19世紀の終わりまで、ニューヨークは国の主要な農業州でありました。乳製品や果物、野菜の生産では依然として上位にランクされていますが、21世紀の州経済ではサービスと製造業が農業をはるかに上回っています。

ニューヨーク市は世界経済、商業、コミュニケーションの中心地です。多くの企業の本社がここにあります。またショービジネスなど娯楽産業の中心でもあります。年間4700万人の観光客が訪れます。国際連合はじめ公共機関も沢山あります。9・11の影響がいまだに続いてはいますが、急速な回復はニューヨークのバイタリティを感じます。公共交通網も張り巡らされ、多くの交通機関は24時間運行となっています。ニューヨーク市のニックネームは「Big Apple」。その由来は、大恐慌時代に失業者が市内でリンゴ売りをしていたとか、ジャズマンが使い始めたとか、1800年代に街には一番美味しい「リンゴ」(隠語で売春婦)がいたという説などです。

Rockefeller Center

ニューヨークではBBQを賞味したいものです。シシカバブ(shish kebab)です。もともとはトルコからの移民がもたらした料理ですが、ニューヨークにもすっかり定着しました。市内にはたくさんのBBQレストランがあります。私にとってのニューヨークですが、私はセントラルパーク(Central Park)を走り、家内はメトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum- Met)へ、院生はミュージカルを楽しんだようです。友人の教員がBBQレストランに連れて行ってくれたのが思い出です。
(投稿日時 2024年3月3日)

アメリカ合衆国建国の歴史 その72 運河と鉄道

運河と鉄道は、外輪船に較べてもアメリカが起源ではありませんでした。イギリスとヨーロッパ大陸の18世紀の運河は、かさばる荷物を低速で安価に移動するための単純ではありましたが便利な手段でした。アメリカ人は、流れる川を接続することによって国の水輸送システムを統合していきます。五大湖とオハイオ-ミシシッピ川の谷がある大西洋に向かう水運です。最も有名な導管であるエリー運河 (Erie Canal)は、ハドソン川と五大湖を接続し、西部とニューヨーク市の港を結んでいました。ペンシルベニア州、メリーランド州、オハイオ州の他の主要な運河は、オハイオ川とその支流を経由してフィラデルフィアとボルチモア(Baltimore) に合流しました。

Erie Canal

運河の建設は1820年代から30年代にかけてますます人気が高まり、州や州と民間の努力の組み合わせによって資金が提供されることもありました。しかし、多くの建設された運河も、賢明でない運営の運河プロジェクトは消滅しました。そのような憂き目にあった州は、運河事業に対してより警戒するようになりました。

運河の開発は、鉄道の成長によって追い抜かれていきました。ミシシッピ川を越えた西部で不可欠な長距離をカバーするのには、鉄道は道路システムに較べてるかに効率的でした。アメリカで最初の鉄道であるボルチモアとオハイオ線の工事は1828年に開始され、大規模で爆発的な建設により、1860年までに国の鉄道網はゼロから50,000 kmに達しました。鉄道網は、急成長するシステムの運用の他に、政治的および経済的に大きな影響を及ぼしました。

Canal boat

ジョン・アダムズ(John Adams) は、「国内海外振興」擁護の最たる政治家でした。連邦政府が支援した高速道路、灯台、浚渫および水路の開墾作業です。どれも商取引を支援するために必要な開発です。強力なナショナリストで経済を近代化する計画、特に産業を保護する関税、国立銀行および運河、港湾と鉄道を推進する内陸部の改良の指導的提唱者、ヘンリー・クレイ (Henry Clay) もいました。クレイは、国内の改善と関税の賦課を通じて、製造品をアメリカの農業製品と交換する産業部門の成長を促進し、それによって国の各分野に利益をもたらすシステムを提案しました。しかし、クレイらの計画に内在するコストと拡大された連邦支配に対する多くの農本主義者の強い反対は、民主党と共和党の間の長い闘争を生み、南北戦争中の共和党における自由民主派(Whig) 経済主義の勝利まで続きました。