アメリカ合衆国建国の歴史 その80 政治の民主化

1820年代から1830年代にかけて、アメリカの政治はますます民主化されていきます。それまで任命制であった地方や州の役職は、選挙制になります。ほとんどの州で選挙権に対する財産権やその他の制限が緩和されたり廃止されたため、選挙権は拡大します。不動産所有者以外の者の選挙権を奪っていた自由所有権の要件は、1820年までにほぼすべての州で廃止され、納税者の資格も、徐々にではありましたが撤廃されます。

多くの州では、それまでの音声投票に代わって印刷投票が採用され、無記名投票も普及しました。1800年には2つの州だけが大統領選挙人の一般選出を規定していましたが、1832年にはサウスカロライナ州だけが依然として立法府にその決定を委ねていました。党の指名を行う機関として、立法府や議会の党員集会(caucuses)での選挙で選ばれた代議員からなる大会が次第に増えていきました。党員集会における選挙によって、秘密裏に会合する派閥(cliques)よる候補者指名制度は、民主的に選出された団体による公開の候補者指名制度にとって代わられていきます。

予備選挙と党員集会

このような民主的な変化は、アンドリュ・ジャクソン(Andrew Jackson)とその信奉者たちによって引き起こされたものではありません。かつてはそう信じられていたのですが、、、ニューヨークやミシシッピーなどの州では、ジャクソン派(Jacksonians)の反対を押し切って行われた改革もあります。政治的民主主義の普及を恐れる人々は、どの地域にもいましたが、1830年代にはそのような懸念を公に表明しようとする者はほとんどいなくなりました。ジャクソン派は、自分たちだけが民主主義の擁護者であり、上流階級の敵対勢力と死闘を繰り広げているという印象を効果的に定着させようとしました。このようなプロパガンダの正確さは、地域の状況によって異なるものでした。19世紀初頭の大きな政治改革は、実際には、どの派閥や政党によっても構想されませんでした。問題は、こうした改革が本当にアメリカにおける民主主義の勝利を意味するのかということでした。

党員集会

小さな派閥や自分たちの立場を固める「集票マシン」が、以前は党員集会を支配していたのですが、やがて民主的に選出された指名大会へと変わっていきます。1830年代には、ヨーロッパ系の一般人がほとんどの州で選挙権を持つようになりますが、指名プロセスは依然として人々の手許に及ばないものでした。さらに重要なことは、各州で競合する派閥や政党が採用する政策は、一般有権者にはほとんど関係のないものでした。

州政治を実質的に動かしていた代表と「連合」の立法計画は、主として政党の信奉者に報い、政権を維持するために作られたものでした。各州の政党は、庶民のためと言いながらも、銀行や交通事業の独占権を内部関係者に与えるような平凡な法案を支持するのが特徴でした。アメリカの政党が高邁な政治理念を掲げる組織ではなく、現実的な集票連合となったのは、この時代に制定された別の一連の改革が大きな要因でありました。選挙制度の改革は、州内の有力な得票者数で州庁を分割する従来の比例代表制とは対照的に、小選挙区の勝者または複数得票者に報いるもので、「単一課題」とか「イデオロギー」政党の可能性を阻み、多人数への対応を試みる政党を強化するものとなりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その79  富と貧困

著名なフランスの政治思想家で法律家であるアレクシス・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、同時代の多くの観察者と同じように、アメリカ社会は驚くほど平等主義的であると信じていました。結社による社会活動が盛んなことにも、トクヴィルはアメリカを旅行して驚嘆しています。フランスでは、結社はたいてい特権集団であり、自由な職業活動の敵でした。ところが、アメリカでは、結社が自由を促進し、デモクラシーを補完していると観察します。アメリカの富豪の多くは生まれながらにして貧しかったと考えられており、「成り上がり者」(self-made)という言葉はヘンリー・クレイ(Henry Clay)が広めたといわれます。社会は非常に流動的で、財産の急激な増減が顕著であり、頂点に立つことは最も謙虚な者以外には不可能であるとされていました。成功の機会は誰にでも自由に与えられると考えられ、物質的財産は完全に平等に分配されてはいませんでしたが、理論的には、社会的階層の両端には少数の貧者と少数の富者しか存在しないほど公正に分配されていました。

Alexis de Tocqueville

しかし、その実態は大きく違っていました。富裕層は当然ながら少ないのですが、1850年までのアメリカには、全ヨーロッパを上回る数の大富豪がいました。ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアには、それぞれ10万ドル以上の資産を有する者が1,000人ほどいましたが、当時、富裕層の納税者は自分達の資産の大部分を税務調査官に秘密にしていました。当時は、年収が4,000ドル、5,000ドルあれば、贅沢な暮らしができるのですから、まさに巨万の富を所有していたということです。

Democracy in America

一般に、都市に住む1パーセントの富裕層は、東北地方の大都市の富の約2分の1を所有していましたが、人口の大部分はほとんど、あるいは全く富を持っていませんでした。「庶民の時代(Age of the Common Man)」と言われて久しいのですが、やがて富豪は貧しい家ではなく、裕福で名声のある家に生まれることがほとんどとなりました。1830年以降、西部の街でも、貧富の差は激しくなりました。庶民はこの時代に生きてはいましたが、時代を支配していたわけではありませんでした。同時代の人々は、富豪は存在せず、アメリカ人の生活が民主的であると思い違いし、新世界でも旧世界と同様に富、家族、地位が影響力を発揮していることに気づかなかったようです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その78  都市の発展と女性の進出

この時代、都市は新旧ともに繁栄し、その人口増加は国全体の目覚しい成長を上回ります。その重要性と影響力は、そこに住む比較的少数の市民をはるかに超えていきました。都市フロンティア(urban frontier) であれ、旧海岸地域であれ、前世紀末の都市は、その周辺地域の富と政治的影響力の中心となりました。世紀半ばに人口が50万人に達したニューヨーク市は、ニューヨーク州ポキプシー(Poughkeepsie)やニュージャージー州ニューアーク(Newark)のような都市とは桁違いの課題に直面していました。

しかし、この時代の変化のパターンは、東部都市でも西部都市でも、古い都市でも新しい都市でも、大都市でも小都市でも驚くほど似ています。その生命線は商業にあり、商人、専門職、地主などのエリートが、町政に経済性を求める古い理想を不本意ながら捨て去っていくのです。そして、新たな問題に対処するために増税が行われ、世紀半ばの都市社会が新たなチャンスを手に入れることができるようになっていきます。港湾の整備、警察の専門化、サービスの拡充、廃棄物の確実な処理、街路の改善、福祉活動の拡大など、これらはすべて改善することが社会的に有益であると確信した資産家たちの政治的手腕と利己心の結果でありました。

都市はまた、教育や知的進歩の中心地ともなりました。「貧困層」や「慈善」学校の汚名から解放され、比較的財政に恵まれた公的教育制度の出現や、技術革命によって可能になった活気ある低価格の新聞「ペニープレス」(penny press)の出現は、最も重要な発展の一つででありました。拡大するアメリカ社会における女性の役割は、相反する考え方によって変化していきます。一方では、解放を後押しする要因も生まれました。例えば、成長する都市では、公立学校で初等教育を受けた少女や若い女性に、事務員や店員として新しい仕事の機会が与えられました。

Dr.Elizabeth Blackwell

さらに公立学校の教師が必要とされたことも、女性の自立への道を開いていきました。より高いレベルでは、マサチューセッツ州サウスハドリー(South Hadley)のマウントホリヨーク(Mount Holyoke)のような女子大学の設立(1837年)や、オハイオ州のオベリン(Oberlin)(1833年)やアンティオキア(Antioch)(1852年)のようなごく少数の男女共学の大学への女性の入学によって、上昇志向のはしごを築くことができたのです。また、近代最初の女性医師とされるエリザベス・ブラックウェル(Elizabeth Blackwell)や、アメリカ女性で初めて宗派を超えた聖職に就いたオリンピア・ブラウン(Olympia Brown)など、稀に専門職に就く女性もいました。

Rev. Olympia Brown

他方、伝統的な教育を受けた上品な家庭の女性たちは、依然として柔らかく艶やかな期待に縛られていました。大衆的なメディアで語られる「女性としての義務」には、夫の財産を守ること、子どもや使用人の宗教的・道徳的教育、装飾品や読み物の適切な選択による高い感性の育成などが含まれていました。「真の女性」とは、多忙な男性が市場の厳しい世界で一日の激務を終えた後に、家庭を静寂と休息の場所とすることが期待されました。そうすることで女性は崇拝されながらも、明らかに非競争的な役割に留まっていました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その77  ユートピア移民のコロニー

次ぎに、新世界に新しい社会を作ろうとした思想家たちのユートピア移民のコロニーにも触れることにします。テネシー州のナショバ(Nashoba)やインディアナ州のニューハーモニー(New Harmony)には、それぞれフランシス・ライト(Frances Wright) とロバート・オーウェン(Robert D. Owen)という2人のイギリス人が入植しました。また、アイオワ州のアマナ(Amana)、ワスプ–テキサス州のニューウルムやニューブラウンフェルス(New Braunfels)には、ドイツ人が計画した入植地(colony)ができました。「明白なる運命」(Manifest Destiny) に代表される物質主義と拡張主義の大胆さが、移民によるアメリカ国民の膨張に一因しているとすれば、これらの共同生活の試みは、アメリカ人の思想を動かしている物質主義的とは違ったものでした。それは、改革の時代における地上の楽園を求めるというパターンに合致するものでもありました。

Robert Owen

北部のアフリカ系アメリカ人のほとんどは、自由以外のものをほとんど持っていませんでした。彼らは、北東部の都市でアイルランドの競争相手の進入に対して戦いを演じてはいました。この2つの集団の間の闘争は、一時的に醜い暴動に発展します。一般社会が自由なアフリカ系アメリカ人に示した敵意は、それほど激しいものではありませんでしたが、同様に絶え間なくみられました。政治、雇用、教育、住宅、宗教、そして墓地までもが差別され、過酷な抑圧体制のなかに置かれました。奴隷と違って、北部の自由なアフリカ系アメリカ人は、自分たちが支配されることを批判し、また請願することができましたが、彼らの状況が悪化し続けるのを防ぐに無駄であることを知っていきます。

Frances Wright

ほとんどのアメリカ人は田舎に住んでいました。機械の進歩によって農業生産は拡大し、農業の商業化が進みますが、独立した農業従事者の生活は世紀半ばまでほとんど変化しませんでした。しかし、一部の農家が発行する機関誌には、「自分たちの努力は社会から評価されていない」と書かれていました。農家の実態は複雑で、多くの農民は、労働に明け暮れ、現金は不足し、余暇はほとんどない生活を送っていました。農民の賃金は微々たるもので、農民の多くは、過酷な労働と現金不足、余暇のない生活を強いられていました。しかし、アメリカでは、自分の土地を持つ農家の割合がヨーロッパよりはるかに多く、世紀半ばになると、農業従事者の生活水準やスタイルが着実に向上していることが、さまざまな事実によって明らかになっていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その76  移民と人口の増加

アメリカ社会は急速に変化していきます。人口増加率は、ヨーロッパ人にとっては驚くべきものでしたが、前世紀数十年間のアメリカの人口増加のペースは、10年で10分の3から3分の1というのが普通でした。1820年以降、人口増加率は全国一律ではありませんでした。ニューイングランドと南部大西洋岸地域は、人口の増加率は低迷します。ニューイングランドは西部保護地域の優れた農地に入植者を奪われ、南部大西洋岸地域は新参者に提供する経済的場所が少なすぎたからです。

1830年代から1840年代にかけての人口増加の特徴は、移民によるものでした。19世紀の最初の30年間に到着したヨーロッパ人は約25万人でしたが、1830年から1850年にかけてはその10倍となりました。移民は、アイルランド人とドイツ人が圧倒的に多く、彼らは、個人ではなく家族単位で渡航し、豊かな労働、土地、食料、自由、そして兵役のないアメリカ生活の驚くようなチャンスに魅了されたのです。

White Anglo Saxon Protestant

しかし、移民に関する単なる統計は、南北戦争前のアメリカにおける移民の重要な役割のすべてを語ってはいません。技術、政治、偶然性が交錯し、また新たな「大移動」が生まれたのです。1840年代には、大西洋での蒸気輸送が始まり、最後の世代のウィンドジャマー(windjammers)と呼ばれた貨物用帆船が帆走速度を向上させたことで、外洋航路はより頻繁に、規則正しく利用されるようになりました。どん欲なヨーロッパ人がアメリカの呼びかけに応じ、農地を占拠し、都市を建設することが容易になっていきます。アイルランド人の移民は、1845〜1849年のアイルランドのジャガイモ大飢饉によって流れを本流に変えていきます。

他方、ヨーロッパでは、民主主義思想の着実な成長が、フランス、イタリア、ハンガリー、ドイツで1848年の革命を生みます。イタリア、ハンガリー、ドイツ3カ国の革命は残酷にも弾圧され、政治難民が続出します。したがって、革命の後に渡航したドイツ人の多くは、自由な理想、専門的な教育、その他の知的資本をアメリカ西部に持ち込んだ難民でした。アメリカの音楽、教育、ビジネスに対するドイツ人の貢献は、統計で測ることはできないほどです。また、アイルランド人の政治家、警察官、神父がアメリカの都市生活に与えた影響や、アイルランド人全般がアメリカのローマ・カトリックに与えた影響も定量化することは難しいといえます。

Potato Famine

アイルランド人とドイツ人のほか、1850年代に農業不況のあおりを受けて、まだ開拓されていない大平原に新しい土地を求めて移住した何千人ものノルウェー人とスウェーデン人がいました。また、1850年代にカリフォルニアに移住した中国人は、苦境を乗り越えて金鉱で新たな機会を得ようとします。これら移民もまた、アメリカの文化に多大な影響を与えていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その75 芸術と出版界

Stephen Foster

アメリカ国内では、ノア・ウェブスター(Noah Webster)の『An American Dictionary of the English Language』(1828年)が、かつてのキングズ・イングリッシュ(King’s English)に取り入れるべき何百もの地方由来の単語を掲載しました。1783年に出版されたウェブスターの青い背表紙の「スペラー」(Speller)、ジェディディア・モース(Jedidiah Morse)の地理の教科書、ウィリアム・マクガフィー (William H. McGuffey)の「エクレクティック・リーダーズ」(Electric Reader)は、19世紀のアメリカの学校で定番のものとなっていきました。

大衆文学では、セバ・スミス(Seba Smith)、ジョセフ・ボールドウィンJoseph G. Baldwin、ジョンソン・フーパー(Johnson J. Hooper)、アルテマス・ワード (Artemus Ward)などの作家が、辺境のほら話(tall tales)や田舎の方言を題材にしたユーモラスな作品を発表しました。成長する都市では、新しい大衆娯楽が生まれ、人種差別をあからさまにした吟遊詩人ショーが行われ、スティーブン・フォスター(Stephen Foster) のバラッドのようなものが作曲されました。P.T.バーナム(P.T. Barnum)の「博物館」やサーカスも中流階級の観客を楽しませ、識字率の向上は、ジェームズ・ベネッ(James G, Bennett)が開拓したニューヨーク・ヘラルド紙(New York Herald)の政治や国際ニュースにスポーツ、犯罪、ゴシップ、トリビアを加えた新しいタイプの大衆ジャーナリズムを支えました。ハーパーズ・ウィークリー』(Harper’s Weekly)、『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパー』(Frank LeslieHarper’s Illustrated Newspaper)、サラ・ヘイル(Sarah J. Hale)が編集した『ゴーディーズ・レディーズ・ブック』(Godey’s Lady’s Book)などの大衆誌も、女性の願いを汲んで、新興の都市アメリカで大活躍しました。これらは、内外からは低俗と言われながらも、ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)が『草の葉』Leaves of Grass(1855年)で声高に歌った生命力を反映し、民主的文化の隆盛をもたらます。

Walt Whitman

アメリカ合衆国建国の歴史 その74 産業革命期の文学界

1861年から1865年にかけてのアメリカの南北戦争(Civil War)前の数十年間、アメリカの文明は旅行者を惹きつけてやみませんでした。何百人もの旅行者が、新しい社会に魅了され、ヨーロッパの人々にアメリカを紹介するために「伝説の共和国(fabled republic)」のあらゆる面について情報を得ようとしてやってきました。旅行者たちが何よりも興味をそそられたのは、アメリカ社会のユニークさでした。旧世界の比較的静的で整然とした文明とは対照的に、アメリカは激動的で、ダイナミックで、絶えず変化し、人々は粗野ですが生命力にあふれ、ものすごい野心と楽観、そして独立心に満ちているようにみえました。多くの教養あるヨーロッパ人は、軽い教育を受けたアメリカの庶民の自己肯定感に驚かされたようです。普通のアメリカ人は、地位や階級を理由に誰かに従うことはしないようにみえました。

Nathaniel Hawthorne

1800年代初頭、イギリスの風刺作家が「世界の至るところで、誰がアメリカの本を読むのか」と問いかけたことがあります。もし、そうした風刺作家が「ハイカルチャー」の枠を超えたところに目を向けていたなら、多くの答えが見つかっただろうと思われます。実際、1815年から1860年の間に、ヘンリー・ロングフェロー(Henry W. Longfellow) やエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の詩、ジェームズ・クーパー(James F. Cooper)の小説、ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne) の小説、ラルフ・エマーソン(Ralph W. Emerson)のエッセイなど、今では世界中の英語散文・詩の学習者に知られている伝統的文学作品が溢れんばかりに生み出されたのです。これらはすべて、アメリカらしいテーマを表現し、ナッティ・バンポ (Natty Bumppo)、ヘスター・プリン(Hester Prynne)、エイハブ船長(Captain Ahab)など、今や世界のものとなったアメリカらしい登場人物が描かれています。

Edgar Allan Poe

それはさておき、ナサニエル・ボウディッチ(Nathaniel Bowditch)の『The New American Practical Navigator』(1802年)、マシュー・モーリー(Matthew F. Maury)の『Physical Geography of the Sea』(1855年)、ルイス・クラーク探検隊 (Lewis and Clark Expedition) やアメリカ陸軍工兵隊による西部開拓、そしてアメリカ海軍南極観測隊のチャールズ・ウイルクス(Charles Wilkes)による報告書は、世界中の船長、自然科学者、生物学者、地質学者の机上に置かれることになりました。1860年までには、国際的な科学界はアメリカの知的存在を認めるようになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その73 産業革命の黎明期

経済、社会、文化の歴史を相互に切り離すことはできません。アメリカの「工場システム」の創設は、将来への期待、移民に対する一般的に歓迎される寛容さ、労働力の不足に関連する豊富な資源、イノベーションに対する前向きな考えなど、いくつかの特徴的なアメリカの国力における相互作用の結果でした。

たとえば、先駆的な繊維産業は、発明、投資、慈善活動の提携から生まれました。モーゼス・ブラウン(Moses Brown)は後にロードアイランド大学の創設者となり、後にブラウン大学(Brown University)に改名されます。彼の一族は、商売で得た財産の一部を繊維事業に投資しようとしました。ニューイングランドの羊毛と南部の綿を使った繊維事業は、ロードアイランドの急速に流れる川からの水力とを用いことができました。手工芸産業を機械ベースの産業に転換するのに欠けていたのは、機械そのものだけでした。

A machine Invented by Eli Whitney

イギリスで使用され始めていた紡績と織機は、厳重に輸出が禁じられていました。やがて、必要な機械の設計を彼の驚異的な記憶に残した若いイギリスの機械工であるサミュエル・スレーター(Samuel Slater)は、1790年にアメリカに移住するとともにブラウンの野心と彼の機械への関心に気づきます。スレーターはブラウンや他の人々とパートナーシップを結び、重要な設備を再現し、ロードアイランド(RhodeIsland) に大きな織物工場を建設しました。

時には、独学のエンジニアによって考案された地元アメリカ人の独創的な才能も利用が可能でした。その顕著な例は、1780年代に全自動製粉所を建設し、後に蒸気機関を製造する工場を設立したデラウェア州のオリバー・エバンズ (Oliver Evans) でした。もう1人は究極のコネチカットヤンキーであるイーライ・ホイットニー (Eli Whitney) でした。彼は綿繰り機の父であるだけでなく、組み立てラインで交換可能な部品を組み合わせてマスケット銃を大量生産するための工場を建設しました。ホイットニーは、大規模な調達契約によって、協力的なアメリカ陸軍から支援を受けました。産業開発に対する政府の支援はまれでしたが、そうした補助が始まると、たとえ控えめであってもアメリカの産業化にとって重要でした。

1811年にマサチューセッツの町に繊維工場を開設したフランシス・ローウェル(Francis C. Lowell) は、後に彼にちなんで名付けられ、父性主義的なモデル雇用者として画期的な役割を果たしました。スレーターとブラウンは家に住む地元の家族を使って工場に働き手を提供しましたが、ローウェルは地方から若い女性を連れてきて、工場に隣接する寮に入れました。 ほとんどが10代の女性は、農家の娘よりも負担が少ない60時間の労働時間で数ドルを支払われて喜んでいました。彼らの道徳的行動は婦人によって監督され、彼ら自身が宗教的、劇的、音楽的、そして学習グループを組織しました。こうしたアイデアは、イギリスやヨーロッパの他の場所の惨めなプロレタリアとは全く異なり、アメリカの新しい労働力となっていきました。

Labour in the Lowell Cotton Mills

ローウェルの繊維工場は、国内外から視察にくる訪問者を驚かせました。やがて、業界内の競争力がより大きな作業負荷、長時間労働、低賃金によって、当初のようなの牧歌的な性格を失っていきました。 1840年代から1850年代には、ヤンキーの若い女性が当初のような組合を結成してストライキを起こすと、彼らはフランス系カナダ人とアイルランド人の移民に取って代わられます。それでも、初期のニューイングランドにおける産業主義は、アメリカの例外主義を意識したものとなりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その72 運河と鉄道

運河と鉄道は、外輪船に較べてもアメリカが起源ではありませんでした。イギリスとヨーロッパ大陸の18世紀の運河は、かさばる荷物を低速で安価に移動するための単純ではありましたが便利な手段でした。アメリカ人は、流れる川を接続することによって国の水輸送システムを統合していきます。五大湖とオハイオ-ミシシッピ川の谷がある大西洋に向かう水運です。最も有名な導管であるエリー運河 (Erie Canal)は、ハドソン川と五大湖を接続し、西部とニューヨーク市の港を結んでいました。ペンシルベニア州、メリーランド州、オハイオ州の他の主要な運河は、オハイオ川とその支流を経由してフィラデルフィアとボルチモア(Baltimore) に合流しました。

Erie Canal

運河の建設は1820年代から30年代にかけてますます人気が高まり、州や州と民間の努力の組み合わせによって資金が提供されることもありました。しかし、多くの建設された運河も、賢明でない運営の運河プロジェクトは消滅しました。そのような憂き目にあった州は、運河事業に対してより警戒するようになりました。

運河の開発は、鉄道の成長によって追い抜かれていきました。ミシシッピ川を越えた西部で不可欠な長距離をカバーするのには、鉄道は道路システムに較べてるかに効率的でした。アメリカで最初の鉄道であるボルチモアとオハイオ線の工事は1828年に開始され、大規模で爆発的な建設により、1860年までに国の鉄道網はゼロから50,000 kmに達しました。鉄道網は、急成長するシステムの運用の他に、政治的および経済的に大きな影響を及ぼしました。

Canal boat

ジョン・アダムズ(John Adams) は、「国内海外振興」擁護の最たる政治家でした。連邦政府が支援した高速道路、灯台、浚渫および水路の開墾作業です。どれも商取引を支援するために必要な開発です。強力なナショナリストで経済を近代化する計画、特に産業を保護する関税、国立銀行および運河、港湾と鉄道を推進する内陸部の改良の指導的提唱者、ヘンリー・クレイ (Henry Clay) もいました。クレイは、国内の改善と関税の賦課を通じて、製造品をアメリカの農業製品と交換する産業部門の成長を促進し、それによって国の各分野に利益をもたらすシステムを提案しました。しかし、クレイらの計画に内在するコストと拡大された連邦支配に対する多くの農本主義者の強い反対は、民主党と共和党の間の長い闘争を生み、南北戦争中の共和党における自由民主派(Whig) 経済主義の勝利まで続きました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その71  流通革命

あらゆる面における工業化進展の鍵である輸送の改善は、アメリカでは特に重要でした。発展途上のアメリカ経済の根本的な課題は、国の地理的広がりと貧弱な道路網の状態でした。五大湖、ミシシッピ渓谷、湾岸と大西洋の海岸を単一の国内市場に組み込むという幅広い課題は、航行可能な河川の豊かなネットワークに蒸気船を投入することによって最初に解決されました。

蒸気船


早くも1787年、ジョン・フィッチ(John Fitch) はフィラデルフィアの人々に実用的な蒸気船を公開しました。数年後、彼はニューヨーク市でもその業績は受け入れられました。政府の資金援助がないため、蒸気船の発明を完全に実用化するには民間の支援が必要でありました。その結果、最初の蒸気船の実用化を実現したのはロバート・フルトン(Robert Fulton) でした。彼は、1807年に最初にハドソン川(Hudson River)を外輪船(paddle wheeler) クレルモン号(Clermon)で走らせるための資金を得て、何度も運転していきました。その時点から、内陸では蒸気が王様であり、その最も壮観な船はミシシッピ川の外輪船でした。これは、浅い急流の川で航行ことができる船を作ることに挑戦した海洋技術者のユニークな作品となりました。

Robert Fulton

海洋技術者は、貨物、エンジン、乗客を喫水線の上の平らなオープンデッキに置くように設計します。これにより、「父なる川」(The Father of Waters)と呼ばれた浅瀬の多いミシシッピ川流域の大部分の温暖な気候で航行が可能でした。ミシシッピ川の蒸気船は、アメリカの象徴となっただけでなく、いくつかの法律にも影響を与えました。ギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)という係争(1824)で、マーシャル裁判長(Chief Justice Marshall)は、州間を流れる川の交通を規制する連邦政府の排他的権利を認める判決をだします。

潜水艦Nautilus号

「ギボンズ対オグデン」という裁判事例です。アーロン・オグデン (Aaron Ogden)の会社に、ニューヨーク州は州内の水域における蒸気船の独占航海権を与えていました。ところが、連邦法によって航海の許可を受けていたトーマス・ギボンズ(Thomas Gibbons)は、ニューヨーク州法を無視し、ニュージャージー州からニューヨーク州に蒸気船を航海させるビジネスを始めました。そこでオグデンは訴えを提起しますが敗訴します