旅のエピソード その47 「U-Hall」

U-Hall。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。引越の際は、車で引っ張るトレーラーに家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Hallです。移動が好きなアメリカ人にはU-Hallは馴染みのものです。

U-Hallの大きさは様々です。今もU-Hallをとりつける連結器がついた大型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Hallの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。U-Hallには車の電源から流れて点滅するテールランプが付いています。

大型のU-Hallは自分で運転して家財を運びます。このとき、大型U-Hallに自分の車を取り付けて移動するのをよく見かけます。運転手が一人ですむという案配です。U-Hallをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Hallは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Hallは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Hallは切っても切り離せません。自分のことは自分でやる(Do It Yourself: DIY)という考えがU-Hallの発展にみられます。

旅のエピソード その46 「ニシンと窓口のイチゴ」

私が10歳のときです。「ヘルシンキ・オリンピック」(Helsinki)の様子がラジオや新聞で報道されていました。1952年に開かれた第15回オリンピックです。日本にとっては、敗戦から立ち直りつつある時代です。ヘルシンキはフィンランド(Finland) の首都です。フィンランドのフィンランド語での正式名称はスオミ(Suomi)。語源は「湿地」を意味する「suomaa」です。フィンランドは湖や森に覆われているのでこの語源も頷けます。

このオリンピックでは石井庄八という選手が、レスリングのフリースタイルバンタム級にて戦後初の金メダルをとります。このときの報道はすごかったのを覚えています。もう一つ、当時のチェコスロバキア(Ceskoslovensko)のエミール・ザトペック(Emile Zatopek)という選手が陸上競技で3つの金メダルをとります。その頃、彼は「人間機関車」と呼ばれていました。

私にとっては、ヨーロッパを知ったきっかけはこのオリンピックであり、ザトペックであり、ヘルシンキなのです。どこの街よりも思い出に残る地名です。そして、1995年頃学会の発表でこの街を訪れることになりました。ダウンタウンにある小さなホテルを宿にしました。丁度7月で白夜でした。午後11時になっても、外では若者がサッカーをするのが見えました。

宿の朝食にはニシンのマリネが並んでいます。稚内の生活時代、ニシンは飽きるほど食べていましたが、その後ニシンはぷっつりと獲れなくなり、長い間食べていませんでした。懐かしくて毎食マリネをたらふくいただきました。

ヘルシンキでは学校や障害者施設を訪ねました。どこへ行っても受付のカウンターにはイチゴがバスケットに盛られています。もちろん訪問者をもてなすためです。市場では山のように並べられたイチゴが売られています。イチゴがこんなに採れるものとは知りませんでした。フィンランドの豊かさの一端を味わったときです。今や通信設備メーカーのノキア (Nokia)や航空会社のフィンエア(Finnair)が国の代名詞になっているようですが、豊かな教育や福祉の水準もそれに劣りません。この国の豊かさは、バスケットに盛られたイチゴにあるのではないかと感じるくらいです。

旅のエピソード その45 「ロンドンの駅にて」

ロンドン中心部の少し北にユーストン(Euston)という主要な鉄道駅があります。ロンドンで6番目に乗降客数が多いといわれるターミナル駅です。この駅は、ロンドンからウェスト・ミッドランド(West Midland)、ウェールズ(Wales)、そしてスコットランド(Scotland) への向かう際の玄関口です。別名、頭端式ホームといわれるように発着駅であり終着駅です。「東京駅」とは違い「ロンドン駅」というのはありません。ロンドン駅グループの一つがユーストン駅です。この駅には16のトラックがあります。

ユーストンからバーミンガム(Birmingham) へ向かうときです。バーミンガム市の小学校を見学にいくことになっていました。そこで案内してくれるのはバーミンガム大学(University of Birmingham)の先生です。バーミンガムは人口100万人ほどの工業都市です。首都ロンドンに次ぐ第2の大都市です。最初の蒸気機関を発明したジェームズ・ワット(James Watt)の出身地です。

ユーストン駅には切符売り場があちこちにあります。鉄道会社がいくつかあるからです。運賃は乗り降りする時間帯によって違います。ラッシュアワーが最も値段が高く設定されています。切符を購入して目指す電車に乗ろうとして改札口へいきますと、大勢の乗客が出発時刻表を眺めています。皆、自分が乗る電車がどのホームに入ってくるかを注目しているのです。ようやくホームの番号がでると、人々は小走りにホームに向かいます。もちろん座る席を確保するためです。我々はグリーン車に近い切符を買っていたのでゆっくりと歩きだしました。

乗りたい電車が何番ホームに入るかは、出発直前になるとわかることを始めて経験しました。通常、どのホームからはどの路線の電車がでる、という習慣で育ってきたからです。しかし、空いているホームに電車が入って出て行くという合理的な考えに納得したものです。

旅のエピソード その44 「天井画から考えたこと」

人間が創造したものとは思われない絵画、彫刻、建物を目の前にして、くらくらするような体験をしました。茫然自失というのはこうした状態なのか、と思いました。ヴァティカン美術館 (Musei Vaticani) のシスティーナ礼拝堂(Sistine Chapel)での出来事です。まさに神がかりとしかいいようがない作品で一杯です。一体、なぜ、どのようにして、人間はこのような造形物を思いついたのか。床に座ってじっと30メートルは続くような天井画を眺めます。いつまでも飽きない時間が過ぎます。そして自問自答をしました。

「自分が絵画に惹きつけられるのでなく、絵画が自分を惹きつける」。天井画の画家は、不自然な姿や格好で何年も何年も描き続けたにちがいない。横に寝そべって描いたのではないだろうか。パレットの絵具を筆につけ、頭を持ち上げる、絵を描く、それを繰り返し繰り返しやったのだろう。いや、もしかしたら地上でパネルに描いてそれを組み合わせて完成させ、それを天井に張り付けたのかもしれない。しかし、天井画のどこを眺めても張り合わせたような痕跡は見つからない。とすれば、やはり寝そべって完成させたのか。

もう一つの憶測。それは大勢の画家が分業して完成させたのかもしれないということだ。ある画家は女性だけを描き、他の者は男性だけを描き、別な者は静物などの背景を描く。そうすれば絵全体の調和はとれるはずだ。しかし画家はそんなことをするだろうか。一人の画家が一つの作品を作るのが普通だろう。一つの絵画に複数の画家の名が並ぶ話はきいたことがない。だが、天井画には画家の名前は見あたらない。もしかして、画家は誰にも見えない箇所に、しかも小さな文字で「Michelangelo」と書き残したのかもしれない。自分の命は絶えても、誰もが名前を残したくなるものだから。
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旅のエピソード その43  「シカゴ美術館で知人とばったり」

2010年秋に横浜美術館でドガ展(Edgar Degas)が開催されました。ドガで思い出すのは、娘たちとパリのオルセー美術館(Muse’e du Orsay)、ロンドンのテート美術館(Tate Britain)を訪れたとき、そしてシカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)に立ち寄ったときです。それまでは絵画の鑑賞にはあまり興味が無かったのですが、だんだん美術館に惹かれるようになりました。ですが私には絵の鑑賞眼などは未だにありません。

シカゴのダウンタウン、ミシガン通り(Michigan Avenue)にシカゴ美術館があります。隣は美しいグランドパーク(Grand Park)があり、その東にミシガン湖(Lake Michigan) が広がります。そこから少し南に下がるとシカゴ・ベアーズ(Chicago Bears)の本拠地ソルジャー・フィールド(Soldier Field)があります。

ネットでこの美術館を訪ねると、印象派作品が充実しているとあります。モネ(Claude Monet) の「睡蓮」連作は大きさも種類も充実しています。ゴーギャン(Eugene Gauguin)、セザンヌ(Paul Cezanne)、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir) などの作品が多いようです。シカゴ美術館は全米の3大美術館の一つといわれます。ニューヨークのメトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)、そしてボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)です。アメリカの美術館には、日本から購入した多くの古典作品が所蔵されています。残念ながら明治時代に日本から流失したものです。

ドガは、印象派の画家といわれています。アトリエの中で制作した裸婦像や家族などの作品から、劇場の舞台の踊り子や歌い手、パリの町中の人々、田舎で描いた馬など親しみのある作品で知られています。それぞれの一瞬の動きを切り取っています。日本人に好まれる印象派の特徴である明るく詩情あふれる世界がカンバスに展開しています。

シカゴの郊外で長男の結婚式があり、その帰りにシカゴ美術館を訪ねたくなりました。看板では、毎週木曜日の午後5時以降は入場無料と書いてあります。通常は18ドルですから、なかなかのサービスではあります。ドガ展を観てからショップでドガのポスターを3枚購入しました。よく知られる踊り子や女性像などのものでした。ふと目を上げると、かって飯田橋のルーテル教会で一緒に活動した家族が居るではありませんか。お互いにぽかんとしてしばし見つめ合い、そして「ヤア、ヤア、、」です。そして、「ポール、こんなところで会うなんて、、、」、「シーボ、元気か、、」とお互いの名前がすぐ浮かんできました。

旅のエピソード その42 「空が広い」

旅の楽しみ一つは景色と空気です。特に田舎へ行くと景色とともにその薫りも漂ってきます。今回はイタリア中部の話題です。周りをぐるりと見渡すと日本の景色と違うことに気がつきます。空が違うのです。どこへ行っても空は同じはずです。しかしどこか広いのです。

車で田舎道を走るとなだらかな丘陵にぶどう畑とオリーブ畑が見渡せます。その間に背の高い松が並んで植えられています。「これがローマの松(Pini di Roma)か」とブツブツつぶやきながら、「さて”ローマの松”の作曲家は誰だったっけ、、」 それを考えるのですがなかなか思い浮かびません。1時間くらいでようやく思い出します。レスピーギ(Ottorino Respighi) です。

イタリア中部のオルヴィエート (Orvieto) やサン・ジミニャーノ( San Gimignano) は城塞に囲まれた街です。教会の尖塔に混じって四角な塔のような建物が林立しています。大勢の観光客とともに大きな門をくぐると、「中世ってこんなところだったのか」という思いがこみあげてきます。狭い道と石畳、石造りの建物がぎっしり並んでいます。ところどころの窓際に洗濯ロープが向かいの建物の窓にむすばれ、洗濯物がぶら下がっています。花のポットもつり下げられています。時間がゆったりと流れるような風情です。

中世では明かりをオリーブ油でとっていたことがわかります。今も街には電柱は一本もないのです。この街には電気はきているのか、そんなことを考えながら小高い丘のてっぺんから緑のしたたる景色をぼんやりと眺めます。不思議ですが、どこを見渡しても高圧線や電信柱はないのです。空が広く感じたのはそのせいです。昔から下水道が発達していたので、電線は地下を走っているのです。

旅のエピソード その41 琉球と風疹の流行

幼児教育を始めるようにとの指示で、私が沖縄に派遣されたのは本土復帰の2年前の1970年でした。まだ、パスポートと予防接種が義務づけられていました。沖縄が琉球と呼ばれていた頃です。

琉球にやって来て知ったことの一つに「風疹 (rubella)」が流行り、聴覚障害の子どもが多く生まれていたことでした。私はそれまで免疫のない妊娠初期の女性が風疹にかかると、聴覚や視覚に障害のある子どもが生まれることは知りませんでした。

風疹は「先天性風疹症候群」という長い名前ですが、「3日ばしか」とも呼ばれています。私も小さい時に「3日ばしか」にかかったことを親から教えてもらいました。今は1歳の時と小学校に入学する前年度の2回、ワクチン予防接種を受けることが決められています。

琉球で風疹が大流行したのは1965年です。続々と聴覚障害の子どもが生まれ、1968年は沖縄小児科専門医会と那覇保健所が九州大学との協力で風疹の発生調査をします。すると琉球本島と石垣島、西表島で282人の子どもになんらかの聴覚障害があることをつきとめます。琉球政府は日本政府に援助を要請し、1969 年より日本と琉球政府による調査・医療・教育対策が開始されます。風疹によると思われる疑いのある子どもの実態調査の結果、出生数の2%にあたる408人が聴覚障害と診断されます。その後、難聴および白内障、そして心臓疾患が風疹による三大症状であることが明らかになります。

風疹の被害が世の中に知られるのようになったのは、「風疹による聴覚障害児を持つ親の会」が結成されてからです。1969年には沖縄県内各地に風疹難聴学級として幼稚部学級が開設されます。本土復帰後、沖縄県は当時の風疹障害児のための学校を新設することを計画します。さらに、風疹障害児のために独立した学校を新設することを計画し、1978年に沖縄県立北城ろう学校、分校である宮古分校、八重山分校を設立します。1984年3月に全生徒が北城ろう学校を卒業し当校は役目を終えて、今は沖縄県立沖縄ろう学校となっています。

北城ろう学校は甲子園とのつながりがあります。高校野球にあこがれる生徒が困難を乗り越え硬式野球部を作り、甲子園を目指します。ところが、都道府県の高等学校野球連盟に加入できなかった北城ろう学校は、甲子園への道を阻まれるのです。これを取り上げた映画が「遥かなる甲子園–聴こえぬ球音に賭けた16人」です。高校野球に熱い夢を賭ける生徒と教師の姿を描いています。

旅のエピソード その40 「成熟と運転」

だんだん齢を重ねるにつれ、周りから「車の運転に注意しなさい」と言われるようになります。おまけに、「免許証を返上しては」というお節介が入ります。記憶が少しずつ衰え、反射神経と動作が鈍くなるからでしょう。しかし、運転技能というのは若いときの運転と比べて上達するということを言いたいのです。それはどういうことかといいますと、運転というのは単なる車の操作技能だけではないということです。

多くの車の事故はスピードの出し過ぎ、脇見運転などの不注意によるものです。運転中の事故は24歳までの初心者ドライバーに多いことも報告されています。運転手はたいがい、自分の車の空間が外界とは隔離した自由な世界だという錯覚に陥りがちなのです。ですから、運転中の車線の変更などで、周りからみていると危なかしく、まるで傍若無人のような追い越しをするのです。実に迷惑このうえない運転です。

An positive older woman sitting in a car showing a thumbs up

アメリカには、高齢者のドライバー用のクローバーマークやシルバーマークなどはありません。運転する時、前方の車両の動作を見ながら「あの運転手はお年寄りだな、」と感じ、余り側に寄らないとか、ゆっくりついていくという運転をします。それと、サイドミラーやリアミラーを頻繁にみながら、状況を把握するように努めるのです。

サイドミラーとリアミラーに後ろの車全体が写ったときは、車間距離をとっている状態です。このとき、車線変更をするのです。これはマナーというよりも安全運転の大事な原則です。アメリカで免許をとるとき、このことをきちんと教えられました。若いときにくらべて、危機を予測できるという成熟による智恵がついています。私は自分の運転は若いときに比べて格段に向上していることを断言できます。

旅のエピソード その39 「車がスピンした朝」

ウィスコンシンの2月は真冬の真っ盛りです。高速道路を運転していたときです。路面が凍結している時間帯でした。アメリカの高速道路は、大きく分ければインターステイト (Interstate) とUSハイウエイ(US Highway) の二種類があります。USハイウエイは、通常四車線で広い中央分離帯があります。

速度は40マイルですから60キロを少し超えた程度です。突然車がスピンしてブレーキが効かなくなりました。強く踏みすぎたためです。そのときスピンした方向とは逆にハンドルを回した記憶があります。路上で一回転してようやく停まりました。幸い前後に車はありません。心臓が止まるほどの経験です。気持ちを切り替えてゆっくりと車を回転し、その場を離れることができました。

こうした冬の運転の反省ですが、第一は冬の路上は凍結していることを忘れないことです。道路管理局は、夜中に砂と塩化カルシウムの混じった融雪剤を散布します。それでも体感温度(Wind Chill)が低くなって路上が凍結するのです。

Mandatory Credit: Photo by Uncredited/AP/Shutterstock (11746693a)
This image provided by the Iowa Transportation Department from a traffic camera shows a massive pileup on Interstate 80, west of Newton, Iowa. A snowy section of Interstate 80 was closed Thursday afternoon in central Iowa, after the massive crash involving roughly 40 vehicles. Iowa authorities closed the eastbound lanes of the interstate west of Newton after the chain-reaction crash
Interstate Pileup Iowa, Newton, United States – 04 Feb 2021

第二は制限速度より20%下げて運転することです。スピードの出し過ぎほど怖いものはありません。スノータイヤでも凍結している路上ではどうにもならないのです。

第三はブレーキをこまめに踏むことです。これによって滑りを防ぐとともに、ブレーキランプで後方車に自分の位置や車間距離を知らせるのです。

Cross-country skier skiing along snowy 1st Avenue in downtown Seattle, Washington State, USA, Seattle_Snowfall-36

第四は昼間でもライトをつけて走ることです。バッテリーは走行中に充電されるので、節約する必要は全くありません。夜、交差点でライトを消す習慣はアメリカにはありません。車社会のアメリカから今も学ぶべきことは沢山あります。

旅のエピソード その37 「ドルの話 その二 100ドル札」

那覇東ローターリークラブの国吉昇氏は、私をロータリーインターナショナルの奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。1977年頃ですから200万円くらいです。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブからも1,700ドルの奨学金が提供されました。これにはルーテル教会の宣教師が仲立ちしてくれました。勉強してから沖縄の幼児教育に寄与することが期待されたようです。お陰で1978年に家族を連れてアメリカに向かうことになりました。

この頃になると、為替レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ(Filet Mignon) の部厚いステーキが4〜5ドルくらいで、1,300円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに2,000円、3,000円へ値上がりしていきました。沖縄の人は長い間ドルで生活していたので、所持していた相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍に上がりました。

沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。復帰によって本土からさまざまな人と物、法律や組織が入ってきました。中央省庁から役人がやってきて、沖縄は完全に本土並となりました。国家権力がいかに凄いか、恐ろしいかを思い知ったといわれました。

ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。100ドル札を見たことがないのか、偽札を心配したのかです。通常買い物で100ドル札を出す人は全くいません。皆小切手を使います。大学の授業料を支払うときも現金は受け付けません。わたしの現金と小切手の見方が変わった出来事といえます。