一人のおちこぼれのない教育を

このところ、いろいろとおかしいと思うことが多いです。特に広く「教育」ということに、「ちょと待てよ、」と立ち止まっては「なぜこんなことが」とか「どう見てもつじつまが合わない」ことが多いです。それは学校というところと「おちこぼれ」です。

基礎的な学力はどうなっているか
子どもの教育で社会的な問題となっていることは、子どもに基礎的な学力がついているかどうか、学力が本当に下がっているかということです。国際比較の学力調査結果がいくつか公表されていますが、巷でいわれるほど国際的には悪くないようです。ただ、10年前や20年前の子どもの学力に比べてどうなのか、他の国の子どもの学力も上がっているのか、下がっているのかが知りたいところではありますが、、、学力の懸念を振りかえるためには、どうしても次のことを話題としなければなりません。つまり、子どもが学校に規定の日数だけ通ったかではなく、子どもに学力がついたかどうかで、学校は卒業を認定しないということです。

今の教育制度は、子どもが小学校や中学校の課程を履修したかであって、習得や習熟したかを問わないことです。ですから、子どもの学籍はどこにあるのか、適応指導教室に通った日数も学校へ通ったこととして出席日数をカウントするか、フリースクールはどうか、、などなどあまり大事でないことを議論しているのが今の教育です。教師は、「自分たちは、生徒を教えた」とか「生徒は学んだ」といいます。しかし、どのような学力がついたかを評価しません。彼等にとって大事なことは、文科省が定めた指導要領にそって教えたか、であって生徒に学力がついたかを問われないところに落とし穴があります。履修したことで学年が進むのは、年齢にそって学年が自動的に進行することです。きちんと学習したことが定着しないうちに学年が上がるのですから、ますます学ぶ内容がわからなくなっていくのです。おちこぼれを再生産しているのが、今の日本の義務教育なのです。

2002年に新しい指導要領がでたとき、学力の低下を心配する声が国中に広がりました。そこで文科省の役人さんが言いました。その発言は、原文どおりではありませんが、「この指導要領は、最低限の学ぶべき基準です。指導要領にうたっていないことを教えるのは一向にかまいません。」といった内容でした。そうした指導の形態は「発展的な学習」というのだそうです。発展的な学習を大いに進めるためには、最低限の基礎学力をつけるべきである、というのです。基礎学力さえ学ぶことの困難な子どもには、ゆっくり教え、個別に指導し、補習してやることが必要です。また、学力の高いこどには、発展的な学習によって、さらに学力を伸ばしてやることが教育です。この考え方は理解できますね。

子どもたちに、基礎的な学力をつけのが義務教育の責任だと思うのです。指導要領は最低限度の学力を保証するのだとすれば、誰一人とし落ちこぼれがないのが理想です。指導要領が定着して4年がたちますが、依然として、ついていけない子どもが大勢いるのはどうしてでしょうか。「履修主義」をやめて「習熟主義」に戻り、すべての子どもが最低限の学力をつけるまで、卒業させないことです。「そんなことをしたら、学校はおちこぼれで溢れかえる」ということになるでしょう。そうした状況をわたしたちが目の当たりにすることによって、いかに履修主義という考えが、子どもの学力に目をつむり、「ところてん」のように子どもを押し出してきたのかという実態を理解できるのです。

学校というところは
学校というところは、外側にいるとわからない奇妙なシステムがあります。いくつか例をあげましょう。このところ、自治体の予算は厳しくなっているようで、教育上の支出にもいろいろ工夫しています。特別支援教育の教師や管理職には、特別な手当てが支給されています。従って養護学校長の退職金は、普通学校の校長の退職金に比べて多くなります。そこで教育委員会は、退職が間近い校長は、養護学校の校長として退職させず、普通学校の校長に戻して退職させるのです。こういう人事をやりますので、本来なら特別支援教育の専門性をもっと発揮してもらいたい校長がいても、退職金の関連で移動させるという措置が最近多くなっています。それにもまして、なぜ養護学校や特殊学級の教師、養護学校の管理者だけに特別な手当が出ているのかが不思議です。

学校は、いまや危機管理に敏感になっています。登下校や校内やでの子どもの安全対策として、「危機管理のマニュアル」が作られています。そうした対応はうなずけるのですが、マニュアルのなかに奇妙な事項が入っています。それは、学校に持ち込まれる保護者のクレームや苦情にどのように対応するか、という事項が危機管理のマニュアルに入っているのだそうです。保護者は、学校に対して説明の責任を求めることができます。今はそうした時代です。保護者は学校に教育をお任せする時代ではありません。教師と一緒になって子どもの成長を支えるために参与しなければなりません。

多くの保護者が、自分の子どもの教育について学校任せであったこと、学校も権威や専門性をかさにして保護者の意見をないがしろにする傾向がありました。ところが保護者の中には、相当過激な要求や理不尽な要望をする例が多くなっているので、管理職と教師はそれにどのように対応するかが話題となるのです。しかし、保護者の不満や要求はでてくるのが当たり前と考えるのが教育委員会の姿勢でしょう。

保護者の「子どもの教育をお願いします、お任せします」というのは過去のことなのです。保護者の多くは、担任教師と話し合ってもらちがあかないと思っています。それで、直接学校長や教育委員会に申し立てるのです。このような保護者からの要望はいつでも受け付けるという仕組みが必要です。「危機管理のマニュアル」で警戒するという姿勢は、学校が受け身であることを物語っています。

話題は変わります。発達障害のことです。この定義には、LD, AD/HD,高機能自閉症があります。どの学校のどの学級にも一人や二人はこうした子どもがいるといわれています。この子どもたちは、これまでは教室の中にいるだけで、十分な指導を受けてきませんでした。教師もこうした子どもの対応に配慮しようとしてきたのですが、なにぶん30名以上の生徒の指導が先で、個別の対応が困難でした。新学期が始まる前に、発達障害の子どもがいるクラスにどの教師を配属するかでは、教師は非常に緊張するようです。自分がそうした子どもの担任になることへの不安なのです。このクラス自ら引き受けようとする教師は少ないのです。

発達障害についての知識や経験が不足しているのですから、そうした不安もうなずけます。経験の不足の他に、大学の教員養成課程で基礎的な素養を身につけてこなかったのがそもそもの不安の原因です。特殊教育の免許もありません。保護者もそうした教師に子どもが指導されるのは不安で仕方ないでしょう。今、研修が学校やセンターで開かれ、ようやく軽度発達障害児の教育に向き合おうとしています。教師と保護者でつくる学習会が、草の根のように広がりつつあるのも良いことですね。

一人のおちこぼれのない教育を
2000年にアメリカは、「一人のおちこぼれのない教育を」というスローガンを掲げて教育の改革をしようとしました。子どもに学力がついたかどうかを測るために、学力検査を徹底しようとしたことです。この改革が成功するかどうかに多くに人々が疑問を持ちました。私の友人たちの多くもそうでした。なぜならば、テストの結果を重視するために、子どもの真の学力はなんであるのか、という議論が吹き飛んでいるというのです。アメリカの子どもの学力は、人種の多様さや貧困層の、我が国の子どもに比べて平均うすると低いのは当たり前です。しかし、「ところてん」のような学年の進行は極めて少ないのです。保護者は、基礎学力がついていないのに、学年を上げるということに対しては、訴訟で戦うでしょう。まだまだ、外国の実践から学ぶことは多いです。
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