奥多摩の山や谷間を徘徊していて考えることがある。山裾まで小さな家が身を寄り添うように建ち、本当に小さな集落をつくっている。斜面にありながら田んぼがある。その隣は里山、森林と連なっている。おそらく、人々は稲作をしながら、野菜をつくり、イノシシや鹿の侵入にそなえて柵を作り、枝払いなどの森林の手入れをしているのであろう。人は自然を相手にしてなんでもやりがら生きている。凄い知恵を有している。こうした人々は知的労働者といってもよい。
世の中には知的な活動に従事する者、肉体の働きにかける者に一応は分けられる。その適性によって比重がどちらかにより重くかかるのはやむを得ないにしても、みなが様々な知恵や経験知を発揮して、それぞれの役割をわきまえ、生産に関わっている。知的労働といっても、実は単純な作業が多いのである。学校でも大学でもさしてその内容は変わらない。毎日、結構同じ事の繰り返しが続く。運転手でもパイロットでも同じだ。毎日同じことをやっているに過ぎない。操作の手順に従えば、あとは黙って機械がやってくれる。
知的労働と肉体労働を完全に分離するのは、自然に反する人間の不幸と思える。要はあくまで人間の存在のあり方にあり、どういう存在のあり方が幸福で生き甲斐を覚えるかにある。文化的な営みも、その者が生活を無視し、生産から遊離するならば、どうして文化本来の役割を果たしうるのか。学者、芸術家、文学者らの知的生産者といわれる者も、自然からの恵による物作りの現場から全く遊離してはならないと思うのである。
雑踏する市場で魚を商いする者、赤ん坊を負ぶって夕食の品を選ぶ若い母親、自分の畑でとれた泥のついた野菜を市場で売っている老婆、公衆トイレでモップを操る高齢者、廃品回収のスピーカーとともに街を回る人、食堂兼酒場で飲んでいるサラリーマンの姿に、この社会の体制の意味や景気回復の成否が示されているように思える。いろいろな公の調査によらなくても、己の姿や庶民の姿や見つめることにより、今の社会が人を幸せにする仕組みとなっているかがわかってくるのではないか。
教師の心の病も心配ですが、一人暮らしの人々や病院が消えた田舎で住む人々の悩みも尽きません。
(2024年12月8日)