ナンバープレートから見えるアメリカの州ニューメキシコ州・Land of Enchantment

注目

ニューメキシコ州(New Mexico)のナンバープレートには「Land of Enchantment」(魅了してやまない地)とあります。晴天に恵まれた気候と風光明媚な観光スポットが観光客を惹きつけます。山々や高原にはバケーション・リゾート(Vacation resorts)がたくさんあります。カールスバッド洞窟(Carlsbad Caverns)やホワイトサンズ国立公園(White Sands National Parks)では、ユニークな自然の驚異が見られます。史跡や手つかずの自然が広がる地域は、他の国立公園地域や州立公園、国定記念物に保存されています。

License Plate of New Mexico

この地域への人類の定住は、おそらく1万年前に及ぶといわれます。15世紀にナバホ族(Navajo)とアパッチ族(Apache)がやってくる前に、プエブロ(Pueblo)インディアンの農耕文明が灌漑システムや断崖住居を発展させます。その遺跡が州内の至る所に残っています。16世紀にメキシコからのスペイン人がこの地域をスペイン領とし、1540年にフランシスコ・バスケス・デ・コロナド(Francisco Vazquez de Coronado)が探検してきました。最初の入植は1610年のサンタフェ(Santa Fe)だったようです。

Map of New Mexico

ニューメキシコ州は最も若い州の1つですが、米国西部で最も古い白人入植地です。ヴァジニア州(Virginia)ジェームスタウン(Jamestown)の設立から3年後の1610年、スペイン人入植者がサンタフェを設立します。スペイン人は16世紀に征服したメキシコから北に来て、リオグランデ川(Rio Grande)の北の土地を「ヌエボ メキシコ」(Nuevo Mexico)、またはニューメキシコ(New Mexico)と呼びました。「メキシコ」という呼び名は、スペイン人が到着したときにそこを支配していたアステカ族(Aztec)の別名である「メキシカ」(Mexica)に由来しています。

1600年代にはキリスト教の宣教師が活躍します。1821年にメキシコの一部となり、米墨戦争(Mexican-American War) 終結後の1848年にアメリカに割譲されます。ニューメキシコ準州は1850年に連邦議会によって設立され、1912年にアメリカの47番目の州となり、フロンティアのイメージを保持していきます。第二次世界大戦は経済と社会の変化に拍車をかけ、ロスアラモス(Los Alamos)を含む研究施設ができます。今日の経済は原材料の輸出と連邦政府の支出に大きく依存しており、石油と天然ガスも重要となっています。観光業はニューメキシコの主要産業となっています。

Santa Fe

ニューメキシコを訪れた人の多くは、再びそこに定住し、ネイティブアメリカン、ヒスパニック系(Hispanic)アメリカ人、アングロアメリカンといった多様な人口構成となり、3つの文化が融合しています。この州は、英語とスペイン語の2つの公用語がある唯一の州です。しかし、この巨大な州には依然として人口がまばらです。面積では50州中5位ですが、人口密度では45位にすぎません。

平野の大部分は牛や羊の放牧に使用されています。国土の約5分の1が森林となっています。水が利用できる場所では、ニューメキシコ州の支えて非常に肥沃な土壌がトウモロコシや小麦などの生産を支えています。しかし、重要なダムや灌漑プロジェクトが完了したにもかかわらず、水の保全は依然として州にとって大きな問題となっています。

Los Alamos

この州の最大の都市はアルバカーキー(Albuquerque)です。今では伝説的となりましたが、かつてビル・ゲイツ(Bill Gates) がパソコンのOSを開発した町です。現在、人口の45%がヒスパニックです。加えて、今でもネイティブ・アメリカンが全米で第三位を占める位、多く住んでいます。ですが面積からするとアメリカで最も人口密度が低い州といわれています。州都は、かつてメキシコの総督府が置かれていたサンタ・フェです。歴史・芸術・文化の豊かな州都です。観光はサンタ・フェの経済を支えています。温暖な気候や、冬のスキー、夏のハイキングなど野外活動の機会に恵まれています。

芸術の町サンタフェには、ジョージア・オキーフ美術館(Georgia O’Keeffe Museum)があります。アメリカを代表する画家の一人です。彼女は高校時代をウィスコンシンのマディソン(Madison)で育ち、その後シカゴとニューヨーク市で美術を学ます。そこで写真家のアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)と結婚しました。1920年代初頭までに、『Black Iris』(1926年)などに代表される、非常に個性的な画風を示します。

Georgia Okeefe

オキーフの主題は、動物の頭蓋骨やその他の骨、花や植物の器官、貝殻、岩、山、その他の自然の形態の拡大図などでした。遠近感のない空間を背景にした彼女の神秘的で暗示的な骨や花のイメージは、エロティック、心理的、象徴的なさまざまな解釈にインスピレーションを与えてきました。彼女の後期の作品は、1946年に夫の死後に移住したニューメキシコ州の澄んだ空と砂漠の風景を称賛しています。批評家からは、彼女は最も独創的で重要なアメリカの芸術家の一人とみなされており、彼女の作品は一般大衆の間でも非常に人気があります。

Museum of Art

サンタフェのダウンタウンの歴史地区、特に総督府に隣接するプラザ(Plaza)にはメキシカンフードの人気レストランが立ち並んでいます。町並みは日干しの土で作られた建築物アドービ(Adobe)です。砂、砂質粘土とわらなどの素材でつくられる建材です。熱を吸収してもゆっくりと放出するので建物の中は涼しく、ニューメキシコのような暑くて乾いた地に適しているといわれています。ニューメキシコ州は、そびえ立つ山々、赤い岩、不毛の砂漠が広がる風光明媚な高地です。その自然の美しさの中に、歴史的なアメリカ先住民の村、スペインの伝道所、そして初期の祖先プエブロ族が残した素晴らしい崖の住居があります。

Downtown Santa Fe

ナバホ、プエブロ、アッパチインディアンが住む居留地で作られる民芸作品、各地にある大小の博物館の展示物、そして大自然が観光客を魅了しています。ネイティブ・アメリカンとメキシコの文化と芸術を最も身近に接することができる州といえましょう。これらの観光スポットは観光産業の繁栄を支え、この州の「魅惑の国」というニックネームを不動のものとしています。

ニューメキシコは日本にとって忘れることのできない州です。砂漠のど真ん中にある町、ロスアラモスは巨大な研究都市です。国防総省が武器を開発しています。ここで製造された原子爆弾(Little Boy)が博物館に展示されています。複雑な思いのする場所です。私はこれまで二度ニューメキシコ州を訪れました。ウィスコンシンから家族を呼んで再会した所でもあります。
(投稿日時 2024年3月2日)

車社会の風景 その二十三 国鉄とモータリゼーションと路面電車

「車社会の風景」の最終回です。北海道育ちの私には自動車よりも鉄道に思い出が多くあります。親父が長年国鉄に勤務し、鉄道官舎での生活が続きました。官舎といっても長屋のようなものです。共同浴場には毎日行きました。美幌はそうでした。旭川鉄道管理局の大半が赤字路線となり次々と廃線に追いやられます。相生線が最初です。JR北海道に転換後も、深名線、天北線、名寄線、羽幌線、美幸線が廃止となります。最近では、留萌駅~増毛駅間が廃止となり、やがて留萌線が全線廃線となります。

地方の鉄道の衰退は「モータリゼーション」(motorization) によります。「車社会化」とか「自動車化」と呼ばれる現象です。モータリゼーションにはその下敷きとなった国有鉄道経営の実態があります。赤字経営のため度々運賃が値上げされますが、他方では労使対立による現場の綱紀の乱れやストライキや遵法闘争が起こります。それによって運行の不安定化を招き客の足が遠のくのです。親父は組合との交渉で相当苦労したようです。

こうして、地方における鉄道機関の衰退は加速します。鉄道は路線バスに替わります。タクシー業者は存在するものの、規模が小さく営業時間が短いという実情から日常の足として使用するには不便です。地域の公共交通機関において貴重な収入源となる生徒や学生ですらも、公共交通機関ではなく、身内や知人の車による送迎に頼ることになります。通勤や買い物もそうです。

私がかつて働いていた大学は、兵庫県の真ん中より少し南にありました。公共交通機関はJR加古川線ですが、無人駅から大学までは8キロもあり、1時間に鈍行が2本しか運転しません。学生の円滑な登下校には全く役立ちません。大学は広い無料の駐車場を用意し自動車による通学を認めています。そうでないと学生は集まりません。

このように過度に車社会化の進んだ地域では精力的に道路が整備されたにもかかわらず、通勤や帰宅ラッシュ時、登下校時間帯は道路の混雑が慢性的に発生しています。そのため路面電車が各地で復活しています。

車社会の風景 その二十二 「遊び」と「あそび」

人の一生は「遊び」に始まり「遊び」に終わります。誰も子供の頃は、ごっこ遊び、ビー玉、面子、パッチをしました。やがてサッカーや野球、スキーなどのスポーツをします。大人になると麻雀やパチンコ、飲酒や喫煙をし、高齢化すると囲碁や将棋で余暇を楽しみます。私は今、囲碁にはまっていて、八王子市内の二つの小学校で子供に囲碁の手解きをし、さらに二つのシニア囲碁クラブをお世話しています。

「遊び」を「あそび」と表記すると別な使われ方となります。それは「ゆとり」となります例えば、私たちが毎日乗る車にも「あそび」が組み込まれています。エンジンのスイッチから、ハンドルやブレーキ、アクセルの「あそび」です。急に曲がったり急に停まらないように、少しのゆとりが設定されています。自転車もそうです。この「あそび」は、命にかかわるほど大事な設計となっています。

ロジェ・カイオワ (Roger Caillois)という人が「遊びと人間」という本を書いています。この本には、「遊び」を面白く分かりやすく説明しています。カイオワは「遊び」は自由な活動であるといいます。誰かに強制されれば、遊びはたちまち魅力的で愉快な楽しみというものを失ってしまうのです。

「遊び」では先に結果が分かってはならないといいます。勝ち負けは時の運であり、やってみなければわからないところに「目眩」や興奮があるのです。「遊び」の中には参加者の創意や工夫があり、こうした自由が必ず参加者になければならないのです。

さらに「遊び」とは仕事とか職業ではないことです。パチンコをして少しは儲けても、それによって財産やお金を貯えても失ってもならないのです。「遊び」を商売とするのはいけないのです。ただ、カルタやビー玉のように参加の間で物が行き交うのは認められます。

おしまいに「遊び」は規則とかルールのある活動のことです。約束ごとに従うのが大事なのです。規則とは、いつ始まっていつ終わるとか、参加者になにかの役割があったりそれを交代するといったルールです。参加者は誰もが支え合っていくことによって遊びが成り立ちます。

車社会の風景 その二十一 自分でメインテナンスを

アメリカに車検制度はありません。そのせいでしょうか、走っている車には大分くたびれているのを見受けます。車というのは資産でなく、足だと考え走りさえすればよいのですから、自分でメインテナンスしたくなります。彼らは代々、自分で車の整備をやってきたので、その仕方を教わっています。オイルやエレメント、ラジエータ液の交換は初歩的なこと。ブレーキシュー (brake shoe) まで取り替える人もいます。当然ですが、整備の道具はガレージに備えてあります。古いオイルはサービスステーションで捨てることができます。

車の生命線ともいうべきブレーキのことです。ブレーキは「ドラム式ブレーキ」と言い、そこに装着されているブレーキパッドを「ブレーキシュー」と呼びます。ドラムブレーキは、ブレーキパッドをタイヤと一緒に回転するドラムの内側から油圧で押し付けることで減速します。長い間運転したり、高速時に急激にブレーキをかけたりすると摩滅します。このパッドを買って自宅で取り替えたり、ブレーキオイルを交換するというのですから相当のマニアです。この交換作業では二人がかりでやります。一人は運転席でブレーキを踏み空気を抜き、もう一人は車体の下にもぐり油圧ボルトを締めるのです。実に器用です。

自分でこうした作業をすることを「Do It Yourself (DIY)」といいます。自動車に限らず、家の内装や外装、配管、配線まで、できることは自分でやるというのが伝統なのです。ですから工具の種類と数は驚くほどです。ホームセンターの一つ、「Home Depot」という会社は住宅リフォーム、建設資材、工具類を販売しています。その規模は驚くほどです。自分で何かを作るとか修理する能力は非常に高いのは羨ましいことです。

車社会の風景 その二十 「ねずみとり」とワイン

交通違反の取り締まりはどの国でも似たようなものです。どこかで違反車を待っています。これは通常「ねずみとり」(mousetrap)です。速度の出やすい路線で物陰に隠れて速度測定を計るいわば罠を張る交通取り締まりの俗称です。八王子市内では、間違って車線変更しやすい箇所で警官が堂々と待っています。黄色線で車線変更禁止のところです。これも「ねずみとり」ですね。

高速道路 (Interstate) では、この「ねずみとり」を見たことがありません。ただし、一般道では路肩や道脇で待機して獲物を待つパトカーを何度も見たことがあります。彼らはスピードガンで待ち構えています。

アメリカの話です。酒場(saloon)の駐車場にパトカーが停まっています。しかし、酒場からでてきた者が運転するのを取り締まることはありません。速度違反や事故などを起こさない限りOKなのです。よく小さな街には酒場がありますが、車でないと酒場までこれないのです。いわば商売が成り立たないので警察も大目にみているふしがあります。どうして家で飲まないのか?という疑問ですが、酒場には常連客がいて会話を楽しめるからのようです。

ニュージーランドでのエピソードです。ホエールウオッチング(Whale watching)帰りのドライブは快適でした。葡萄畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指しました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス二杯までは飲んでよい。」 なんと粋な計らいなのだろうと感心しました。

車社会の風景 その十九 前向き駐車

アメリカで駐車場を見回してみると気付くことに、99%の人が前向きで駐車していることです。「前進しながら駐車する」のが前向き駐車です。前向き駐車は、多くの場合住宅地にある駐車場で義務付けられています。アメリカ人は後ろ向き駐車をする概念が無いのです。逆に日本では大半の人が後ろ向き駐車です。外国人は、ほとんどの車が後ろ向きで駐車場に駐車していることに驚いています。これも文化の違いです。

後ろ向き駐車には次のような事情があります。
第一は、駐車スペースが広く、頭から進入しやすいこと、さらにバックでの出庫に十分なスペースがあるです。第二は後ろ向き駐車には手間がかかります。基本的に面倒なことは嫌いなのがアメリカ人です。第三は、食料品などの買い物量が多いので、カートで運んでトランクに詰め込みやすいのです。第四に、後ろ向き駐車は植栽や建物に排気ガスがかからないからです。第五は後ろ向きの駐車は衝突しやすことです。車や建物を傷めがちです。第六は免許の教習では後ろ向きの駐車練習がないことです。

「郷に入っては郷に従え」。外国では前向き駐車を心掛けるべきです。

車社会の風景 その十八 自転車専用レーンが危ない?

1月31日の新聞記事からです。都内の各地に自転車専用レーンがつくられています。国土交通省もこの設置を後押ししています。東京オリンピックとパラリンピックが近いことも自転車専用レーン設置の追い風となっています。

ところがこの自転車専用レーンが自転車を運転する人も歩行者にも危ないというのです。自転車専用レーンに車が止まり荷物の積み卸しをするからです。そのために、自転車は歩道や車道に入り歩行や車の運転の妨げになるのです。この荷物の積み卸し停車は、都会の日常化した情けない有様です。

自転車専用レーンは通勤や通学のために利用されるのが期待されます。従って朝は7時から9時まで、夕方の4時から7時までは停駐車禁止といった規則を作る必要があります。反則した人には切符を渡すのです。河川敷や海岸に自転車専用がレーンつくられていますが、今後も自転車専用レーンのさらなる延長と罰則規定を設けることです。

車社会の風景 その十七 コンバーティブル

1870年代、最初に造られた自動車は蒸気自動車で、基本的にすべて屋根がありませんでした。いわばオープンカー (open car)です。Open carは和製英語です。正しくはコンバーティブル(convertible)となります。

当時の主たる乗りものは馬車でした。やがて幌が付き始めます。自動車も同様で箱型の客室ではなく、後部座席のうしろに幌がつきはじめます。この理由はエンジン出力にまだ制約があったために重量の少ない簡単な幌が採用されたようです。自動車の育ての親はヘンリー・フォード (Henry Ford) 。1908年に最初に発売されたのが「T型フォード」(Ford Model T)という水冷式のものです。

やがてエンジンの性能が上がり必要なだけの馬力とスピードが確保できるようになります。そして車内の居住性にも配慮できるようになり、頑丈なフレームの屋根で被われた箱形が車の主流となります。一般家庭にも自動車が普及することになります。

自動車が普及するにつれて、さまざまな車種が登場します。コンバーティブルもそうです。贅沢品としての車です。雨が少ないカリフォルニアとかハワイ、アリゾナ、ニューメキシコなどでは、真夏に屋根のない車を運転するのはさぞかし爽快なはずです。一種の社会的なステータスを謳歌する気分だろうと察します。

私が始めて乗ったコンバーティブルはホノルル市内です。院生等と学校視察で出掛けたときです。二台のレンタカーに分乗しました。私は通常のセダンを運転し、院生の一人がコンバーティブルを運転しました。学校から宿に戻る途中、スコールがやってきました。私はバックミラーでコンバーティブルを確認していました。院生等は幌を広げようと苦心しているようでした。幌の広げ方やたたみ方をショップで確認しなかたったのがミスでした。しばらく雨の中を苦闘し、ようやく閉じてはしゃぐ様子が伝わりました。

車社会の風景 その十六 Sedonaへの旅

アリゾナ(Arizona)の州都で最大の都市がフェニックス (Phoenix) です。半導体産業や観光、保養都市として発展しています。この街の学校を5名の院生とで訪問したことがあります。学校の訪問には、必ず誰かの紹介で出掛けます。アメリカもコネが大事な国なのです。アリゾナ州立大学(Arizona State University) で学位をとった友人を頼ってフェニックスの学校区へと出掛けました。この人は今はハワイ大学の教授となっています。名前はCurtis Ho氏です。

さて、仕事は学校視察なのですが、当然ながら週末には日帰りの観光を旅程に組み込みます。フェニックスから車で片道三時間のところにセドーナ(Sedona) があります。もちろんCurtis Ho氏から強く奨められていた観光地です。

一口にセドーナといえば、砂漠と奇岩と峡谷の観光地といえましょう。響きの良いセドーナという名は1800年代後半にやってきた最初のキリスト教会牧師、Theodore C. Schnebly師の夫人であったSedona Schneblyをとったとされます。その経緯はわかりません。

1300年代に最初にセドーナにやってきた放浪者 (Nordic) は、ヤヴァパイ(Yavapai)とかアパッチ(Apache) などの部族です。乾燥した灼熱の岩山を好んで根城にし野生の動物などを食料にしていたようです。テーブル状の台地、メサ (mesa)に住む平和の民と呼ばれるホピ族 (Hopi)、アドビ (Adobe)と呼ばれる日干しレンガで作られた家で知られるプエブロ族(Pueblo)もアリゾナに今も多く住んでいます。

セドーナではヴァーデ峡谷(Verde Valley)に代表され、鉄分を含んだ砂岩でつくられた一大景観を楽しませてくれます。グランド・キャニオン(Grand Canyon) の南部に位置するセドーナには、沢山のハイキングコース、マウンテンバイクのコースがあります。Cathedral Rockという巨大な奇岩の間にそびえるのが1956年に建てられたChapel of the Holy Crossです。

車社会の風景 その十五 高齢者の運転

アメリカは高齢者の運転が目だちます。日本のように「免許状の返納を!」といったかけ声は聞いたことがありません。「余計なお世話はするな、!」という気分なのです。自分のことは自分で責任をとるという気概が感じられます。

運転していると、ドライバーが高齢者かどうかが大体分かります。大抵は長閑と運転するせいか、スロウなのです。こういう場合は、後ろにつかないことです。何が起こるかわかりません。相手も後ろにつかれないほうが安心するはずです。急いだり、急かしたりしてはいけないのです。

アメリカには高齢運転者標識のシールなどもありません。電車にも高齢者や障害者の優先席のシートもありません。日本はなんて親切で気配りのある国かと感じるときです。しかし、考えてみますとこうした標識がまだまだ必要なところにこの国の未成熟な一面が現れているともいえます。本当に高齢者や障害者を大事にしているのかといえば、混雑する電車内を見渡すと決してそうではありません。中には若者がデンと坐わり、大人が眠ったふりをして坐っています。