旅のエピソード その24 「マウントバーノン」

「マウントバーノン」。なんとものんびりする響きです。英語ではMount Vernonというスペルです。全米各地にマウントバーノンという街が沢山ありますが、その中でも最も知られているのが、ワシントンDCの南、車で1時間のバージニア州(Virginia)のアレクサンドリア(Alexandria)にあるマウントバーノンです。

マウントバーノンは、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の農場(Plantation) や邸宅があります。邸宅は、新古典主義ジョージア調建築様式と呼ばれる木造の建物です。ジョージア調建築とは、建物がシンメトリー(左右対称)を基本としていることです。その東側にはポトマック川 (Potomac River) が控え、周りは広い農場が広がります。いまは国が定めた歴史的建造物として保存され、全米からの観光客が訪れるところです。

マウントバーノンは年中無休。祝日やクリスマスでも開放されています。わたしたちはワシントン家の邸宅、納屋、物置、奴隷用宿舎、台所、厩、温室など見てあることができます。案内人がついています。この農場内の庭園や森の小道を散策することができます。当時は100人あまりの黒人奴隷が働いていて、この農場を開拓したことがわかります。

ここにワシントン夫妻の墓所があります。奴隷の記念碑や墓地もすぐそばにあります。2度目にこの墓所を訪ねたときです。なにか、得体の知れない匂いがこのあたりに漂っていました。もしかして、ワシントンのお墓から、、、などという不遜なことを考えました。実のところ、この匂いは農場に撒いている鶏糞かなにかの腐った匂いなのです。

旅のエピソード その23 「ミニットマンとチップ」

ボストン(Boston) の西20kmにレキシントンとコンコード(Lexington-Concord)という街があります。周りは静かな農村地帯です。この小さな街で1775年の4月に独立戦争(Independence War)における最初の大規模な戦いが植民地軍とイギリス軍とで繰り広げられます。植民地軍は正規の兵士と民兵によって組織されていました。民兵の多くは農民です。農作業や狩猟をしながら、召集されると数分(minute)で駆けつけるというので、ミニットマン(minute man)と呼ばれていました。民兵には狩猟をしていた者が多数いたので、狙撃手としても活躍したようです。

毎年7月4日の独立記念日や夏の週末になると、レキシントンとコンコードのあちこちで観光客を相手にしたツアーがあります。地元の高校生がミニットマンに扮して、観光客をガイドします。こうした高校生は、歴史を学びスピーチの仕方を覚え、やってくる人々をもてなす術を学び観光客に披露します。観光客をいかに話に乗せるか、これが勝負所です。まさにエンターテイナー(entertainer)です。その演技の出来ばえはすぐに表れます。

ミニットマンのスピーチや演技に皆引き込まれていきます。ツアーの最後には、「我々に自由と独立を、そして勝利を!」と皆で絶叫し、かぶっていた帽子をとって観光客の中に回すのです。人々は皆ニコニコして1ドルから10ドル札のチップ(tip)を入れて帰ります。チップを渋る観光客はいません。実に秀逸で飽きを感じさせない、なんとも気持ちの良いツアーです。

旅のエピソード その22 「ボストン・ティーパーティ」

ボストン(Boston) は味わい深い町です。アメリカの短い歴史にあって、歴史が始まった場所でもあります。ボストンには「Freedom Trail」という市内の歴史的な建造物や場所を訪ね歩くコースがあります。自分で地図を見ながら歩いて市街を巡るのです。

ダウンタウンのど真ん中には、グラナリー墓地(Granary Burying Ground)があります。政治家のサミュエル・アダムス(Samuel Adams)、コモンウェルスの初代知事となったジョン・ハンコック(John Hancock)らが眠っています。その隣にある公園がボストン・コモン(Boston Common)という広大な公園です。多くの人々が散歩しています。小高い丘、バンカーヒル(Banker Hill) は、1775年6月に起こった植民地軍とイギリス軍の戦跡です。植民地軍は激戦の末に敗れるのですが、そこでの頑強な抵抗精神はその後の戦いに受け継がれていきます。
ボストン・コモンから歩いて10分位のところにボストン・ティーパーティ(Boston Tea Party)が起こったという波止場にきます。1773年12月に、地元の人々がアメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷であった紅茶箱をボストン湾に投棄した事件です。いわば独立戦争前のゲリラ戦で、アメリカ独立革命の象徴的な出来事とされています。

ティーパーティの場所には小さな船が係留されていて、そこで入場料を払って乗り込みます。案内の人は、観光客に対して当時の人々が紅茶を投げ捨てるという演技を求めます。「イギリスは出て行け!」、「われわれのお茶を盗むな!」、「われらに自由を!」こうしたスローガンを大声で叫びます。そしてお茶箱にみたてた袋を海に投げ捨てるのです。このように観光客に歴史の瞬間に引き戻そうとする趣向と仕掛けは、どの観光地でも見られることです。

旅のエピソード その21 「プリマスとメイフラワー号」

ボストン(Boston) の南東、車で1時間のところにプリマス(Plymouth)という街があります。港町です。ここには1620年にイギリスのブリンハム(Bringham)という港から大西洋を渡ってきたメイフラワーII(Mayflower)号のレプリカ(replica)が停泊しています。

メイフラワー号にある説明によると、清教徒(Puritan)らが長く苦しい航海を続けて、やってきたことがわかります。ヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて新大陸を目指した人々の心意気も伝わる船です。

このプリマスから5キロのところにプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)という開拓村が保存されています。1627年に人々が入植した場所です。インディアンの攻撃から護るために作られた木の柵で囲まれた広大な部落です。住居、ベーカリー、鍛冶屋、店、教会、学校、畑が点在しています。

ここで働く人々は開拓当時の服装といういでたちです。この開拓村はすべて1600年代という設定なのです。使っている道具、家財も当時を復元しています。ですから、観光客もその時代に遡って、そこで働く人々と会話することが期待されます。

「このお土産品は何ドルですか?」と観光客がたずねます。そうすると店員は「ドルって何ですか?」と逆にきくのです。さらに客が「私は日本からきた」とか「このプランテーションをインターネットで知ってやってきました。」というと店員は「日本ってどこにあるのですか?」「インターネットって何ですか?」と惚けるのです。そこで始めて観光客は、「ああそうか、、ここは1600年代なんだ、、」とわかるのです。珍妙な会話が楽しめるところでもあります。

旅のエピソード その20 「フットボールは情報合戦」

秋にアメリカへ行くときは是非カレッジ・フットボール(college football)を観戦していただきたいです。週末はかならずといってよいほど、どこかで試合をやっています。入場料は20ドルくらいです。

スタジアムへ行きますと、駐車場ではグリルでハンバーグやホットドックを焼いて景気をつける人々がいます。学生寮の側を通ると、ラジカセやCDプレーヤーのボリュームを一杯に上げて試合前の雰囲気をあおっています。学業からしばし解放された若い学部生がなにかを叫んでは気勢を上げています。いやがおうでも興奮が高まります。

フットボールは情報合戦のスポーツです。高いスタンドには偵察チームが陣取り、攻撃や守備のコーチに相手チームの弱点や強みを無線で教えるのです。戦争でいえば衛星を使って戦場を監視するようなものです。ラン(run)でいくかパス(pass)でいくか、キック(kick)で陣地を挽回するか、あるいはギャンブルするかなどの決定に必要な情報を与えるのです。

クォーターバック(QB)はチームの司令塔、いわば前線の指揮官です。それを動かすのが偵察チームからの情報であり、それに基づいてQBにプレイを指示するのが攻撃(offece)コーチや守備(defence)コーチです。一つひとつのプレイについて、コーチからの指令を受けたQBは円陣を組んで選手にそれを伝えます。この円陣のことをハドル(huddle)といいます。

選手は勝手な行動は許されません。一つ一つのプレイがこうした偵察チームからの情報によって決められます。戦争遂行の作戦と同じです。プレイのパタンはさまざま。それを組み合わせるのです。相手チームも同じように作戦を立てます。いかにして相手の裏をかくか、意外なプレイをするかをスタンドで予測するのがフットボールの醍醐味といえます。

旅のエピソード その19 「フットボールとビジネスモデル」

アラバマ州(Alabama)の小さな街タスカルーサ(Tuscaloosa)にアラバマ大学(University of Alabama)の本校があります。1831年に創立された州立の総合大学です。タスカルーサのあたりは、南部の南部、Deep Southと呼ばれます。街を歩くと白人はあまり見かけません。なんとなく寂しさが漂う街です。「南部に来た」という気分になります。

アラバマ大学はカレッジ・フットボールでは強豪として知られています。かつてポール・ブライアント(Paul Bryant)というヘッドコーチ(監督)の指揮により、計13度にわたり全米チャンピオンとなっています。このコーチのニックネームは「ポール・ベア(Paul Bear)」として親しまれました。トム・ハンクス(Tom Hanks)主演の映画「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)/一期一会」はアラバマ大学フットボール部がモデルとなっているほどです。

アメリカのカレッジ・スポーツでは、フットボールが稼ぐ収入と貢献度は突出しています。多くの大学では全スポーツからの収入の6割前後をフットボールで占めるくらいです。収入の多いスポーツとしてはバスケットボール、アイスホッケーなどが続きます。それだけにフットボールのヘッドコーチの年収も桁外れです。その額は大学の総長をはるかに凌ぎます。

フットボールチームのコーチで最も高い契約金をもらっているのが、アラバマ大学のニック・セイバン(Nick Saban)で約8億5000万円、第二位はミシガン大学のジム・ハーボー(Jim Harbaugh)で約8億4000万円をもらっています。大学で最もスポーツからの収入が多いのはテキサス大学で約98億円、第五位のウイスコンシン大学も約77億円の収入があります。これが収入のない他のスポーツ活動の運営を支えています。選手達の奨学金にも振り分けられています。

カレッジ・フットボールは全米に放映され、その広告料は膨大なものです。フットボールは大学のビジネスモデルの典型です。「”ポール・ベア”・ブライアント」はビジネスモデルを全米に知らしめた偉大なコーチとして今も語り草になっています。

旅のエピソード その17 「真っ青になった経験とスリ」

私も忘れ物で真っ青になったことが二度あります。大学の同僚とでバージニア州(Virginia) の学校や教育委員会を回り、ある調査を依頼したときです。調査のほうは幸い先方が極めて協力的で、質問紙を丹念に検討してくれて 「これでいいだろう」 ということになりました。

翌日は気分良く電車に乗って、ワシントンDCのモール(Mall)にあるスミソニアン(Smithonian)の博物館巡りにでかけました。スミソニアン協会は17の直営博物館や美術館を運営する世界一の組織です。いくつかを回り終えて、おしまいはアメリカ・インディアン博物館(American Indian Museum)へ入りました。そこの小さな講堂でビデオを観ての帰り、椅子にパスポートやカード、現金、カメラをいれたバックバックを置き忘れました。忘れ物に気がついたのは博物館をでて30分くらいです。その瞬間、目の前が真っ白になりました。急いて戻り、係員にきくと預かっているというのです。

二度目は台北に行ったときです。ホテルの食堂でビュフェスタイルの朝食をとり、手洗いにいきました。パウチをはずしてフックにかけ用をたしたのです。そして部屋に戻りましたが、キーがないのに気づきました。その間5分くらいでしたが、、急いで戻るとトイレにパウチがありません。受付にありました。掃除婦が届けてくれたというのです。その方にお礼を渡そうとしましたが、受け取りません。持ち物は、椅子に置いてはいけない、肌身外さず持て、という教訓でした。

持っていたパウチは、スペインのバルセロナの電車内でスリ(Pickpocket) に遭いそうになりました。腰の辺りで変な感覚がしたので、見ると隣の男の指がパウチのジッパーをはずそうとしていました。ズボンのジッパーでなくてよかったです^_^; 平和や安全ぼけは日本にいる間だけ通用するようです。

旅のエピソード その16 「州の鳥はモスキート」

旅のエピソードにはこのジョークやユーモアを何度も取り上げています。アメリカ人との会話では、ジョークが頻繁にでてきます。

ミネアポリス(Minneapolis) には頻繁に行きました。必ずなにか話題が生まれるところです。実は、私に洗礼を授けてくれたルーテル教会の牧師先生がミネアポリスの郊外に住んでいました。かつて札幌で長く働いていた方で日本語もたいそう流暢です。一度家族でこの方を訪ねました。1980年頃です。夕食でいただいたのは初めてのラザーニア(Lazanya)でした。

道で立ち話をしていると蚊にバンバンくわれるのです。実はミネソタ州には11,000以上の湖があるのです。氷河が残したのです。自動車のナンバープレートには”The Land of 10,000 Lakes”と印字されているくらいです。道路はそのため湖を巻くように走ります。迂回せざるをえないのです。この大小たくさんの湖が蚊を「育てている」のです。

始終手で蚊を追い払わなければなりません。ミネソタ州の鳥は「蚊:モスキート」であるというジョークを教えてもらいました。どこにでもいて、いつでもみられる最も厄介なものというのを皮肉っています。

旅のエピソード その15 「ルートビアと長男の誕生」

私が始めて海外に行ったのは1968年5月。マレーシア(Malaysia)のクアラルンプール(Kuala Lumpur)です。ここでキリスト教の学生会議がありまして、幸い派遣されて出かける機会を得ました。生まれてはじめてパスポートをとり、 東京のマレーシア大使館でビザをもらいました。

宿舎となったのは、クアラルンプール郊外のペタリンジャヤ(Petaling Jaya) という地区にあったセミナーハウスでした。宿舎の郊外にA&Wという、いわゆるファーストフードのレストランがありました。ここで始めてハンバーガーを知りました。飲み物ででたのは「ルートビア」(Root beer)です。これは、アルコールは含まれておらず、約14種類以上のハーブを原料としたドリンクです。正露丸に似たような実に不思議な飲み物だな、と思いました。今飲んでみますと、コーラとクリームソーダを足したような味がします。

3日間の会議は、今もってなにを討議したのかは覚えていません。会議の内容を理解するには英語力が低すぎました。討議に参加するどころではありませんでした。しかし、この会議を機に英語の理解力をつける必要があることを痛感して帰りました。これが唯一のお土産です。

マレーシアからの帰り際に、北海道で地震があったことを報道で知りました。家内が臨月だったのでどうなったかが心配でした。札幌に戻りますと長男が無事生まれていました。忘れられない海外初旅行です。

旅のエピソード その14 「簡易トイレ」

オランダ(The Netherland)はアムステルダム(Amsterdam)での話題です。中央駅を中心に市内に網の目状に運河が広がります。17世紀の豪商の邸宅などが運河に沿って並びます。アンネ・フランク(Anne Frank)の隠れ家が今は博物館となっています。中央駅から徒歩5分にある飾り窓(Red-light zoon)も運河に沿いにあります。

オランダは自転車の国です。アムステルダムの中央駅付近には巨大な駐輪場があります。車道と歩道の間に自転車専用路が設けられています。アムステルダムでは、約50%の市民が自転車で通勤通学するのだそうです。エコを最も先取りしている国の一つといえましょう。

オランダといえば東インド会社 (East India Company) が知られています。創立は1602年。世界初の株式会社といわれています。東インド会社の発展によってオランダ本国は17世紀に黄金時代を迎えます。日本でも長崎において交易を許されていたのはご存じの通りです。しかし、欧米の国々がアジアに次々と進出するにつれてオランダの影響は衰退していきます。17世紀には3回にわたるイギリスとの戦、フランスとの戦いで国力を消耗していきます。第二次大戦中、ジャワ諸島は日本に占領されオランダは撤退します。しかし、オランダは戦後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を仕掛けますが、敗れてアジアから完全に手をひくという歴史をたどります。

前置きが大分長くなりました。「簡易トイレ」の話題です。アムステルダムのダウンタウンで夕食をして、広場をブラブラしていました。そこに警察らが簡易トイレを設置していくのです。男性用だけです。四角い形をしていて四人が小用を足すことができるものです。ところが扉はなく、周りから丸見えなのです。これも文化なのだなーと、同行者とで変に感心することしきりでした。