初めに言葉があった その4 「この子らを世の光に」

滋賀県湖南市に近江学園という知的障害児等の療育や訓練、そして医療を行う複合的な施設があります。この施設が始まったのは1946年といますから、戦後のドサクサで大量の孤児が路上に溢れていたころです。その子供達を収容することから始まった活動です。この運動に関わったのは糸賀一雄、池田太郎、田村一二という人々です。当時としては先駆的な出来事です。

この三人の精神は、「この子らを世の光に」というフレーズに表れています。「この子らに世の光を」をいうのが当初のモットーだったようです。彼らは「を」と「に」の使い分けによって意味は全く違うこと、「に」を使うとこの子どもたちは憐れみを受ける対象となることに気がついていきます。「を」を使うと子どもは回りの人々に、広く社会に向かって自分の生命という光を放つ素晴らしい人格ということになる、と主張したのです。光輝く存在であるということを「この子らを世の光にする」ということばに込め、それを宣言したのです。

「この子らを世の光に」というフレーズには、実は下地があります。それはマタイによる福音書(The Gospel according to St. Matthew)5:13-16に「あなたがたは地の塩であり、世の光である」という聖句です。ここでの「世」とは「地」とか「闇」ということです。ほっておけば汚染され腐敗するのが「世」であり、「地」や「闇」は光を必要としているというのです。World English Bibleという聖書を見ますと、「あなたがたは地の塩であり、世の光である」を”Ye are the salt of the earth.”Ye are the light of the world.”とあります。「塩」と「光」に定冠詞 ”the” が使われているのは、特別なもの、かけがいのないものであることを示唆しています。

糸賀一雄はその著書のなかで次のように語ります。
「この子らはどんな重い障害をもっていても、だれと取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。人間と生まれて、その人なりに人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。(「糸賀一雄著作集3」より引用)

「を」と「に」という一字から生まれる文章の意味は、天と地ほどの違いがあります。「この子らは、、、」でも同じ意味となります。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

sc23026a 054-12

初めに言葉があった その3 「飾り気ない仕草、優しい言葉」

二週間あまりの「里帰り」を終えて長女と家族がマディソンへ戻りました。孫と毎日戯れたことを思いおこしながら、ビリビリに破られた障子の張り替えも済ませました。

長女から無事戻ったというメールが届きました。その中に本シリーズの話題に関連するフレーズがありました。短い滞在中に観察し感じた彼女の文章です。それは日本人の態度と言葉です。「機内でも空港でも駅でもバスでも店でも人々の態度と言葉はアメリカと違う」というのです。

家の近くにある、今はあまり見かけなくなってきた小さな八百屋の前を通ったとき、焼き芋の匂いが漂ってきました。長女は懐かしそうに、食べたいというので一包みを求めました。応対したのは七十過ぎの店主です。孫の頭をなでながら、芋を新聞紙に包んで孫に手渡しました。孫は「Hot!、」と大声を上げました。孫と長女と見比べてその店主は「あんたに似ていないな、、」と話しかけてきました。

翌日、散歩がてらまたその店に焼き芋を買いに行きました。店主の奥さんも出てきて「これは私が作った煮豆だよ、」と勧めてくれました。白と黒の煮豆と焼き芋を買って帰りました。長女はこの老夫婦とのやりとりと会話にいたく感じ入ったようでした。飾り気ない仕草、優しい言葉が印象に残ったようです。

帰りの便は日本のJ社だったようです。フライトアテンダントの接待やサービスがアメリカのとは全然違っていたとも書いてありました。「おもてなし」という言葉は英語では「Hospitality」といわれますが、英語圏では家に訪ねてきたお客様に対して使う言葉なのです。しかし、日本では接客のサービス全般に「おもてなし」が使われます。長女はそのことに気がついたようです。

前回、神学者のアウグスティヌス(Augustinus)が、時間の三様態を「記憶、知覚、期待」と云ったことを述べました。長女の八百屋での体験は、「記憶、知覚、期待」という彼女なりの時間意識ではなかったかと思われるのです。普段何気なく過ごしている日常に思いがけない体験と回想があるのだな、と思った次第です。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

img_5907 6a01156e9a3d93970c01310fab7514970c-pi d5644-100-278986-0

初めに言葉があった その2 「すべてのわざには時がある」

このブログの中心的なテーマの一つが「時」「とき」ということです。この話題をいろいろな角度から考えながら、どう味付けし咀嚼したらよいかと考えるのですが、なかなか手強く難しいです。「時」という概念は古代宗教や古代ギリシャ神話、そして現代の哲学者や科学者が取り組んできました。私たちも「今日という一日を大切にして生きる」というとき、そこには時間があり、それを意識しています。古代ギリシャ人も私たちも同じことを考えながら生きてきました。

広辞苑によりますと時間とは、「空間と共に人間の認識の基礎を成すもの」とあります。「あらゆる出来事の継起する形式で不可逆的な方向を持ち、前後に無限に続き、一切がそのうちに在ると考えられ、空間と共に世界の基本的枠組みを形作る」ともあります。Wikipediaにも「出来事や変化を認識するための基礎的な概念が時間である」という記述があります。

宗教的な立場からの時間の概念です。永遠から生じ、永遠に期するとされ、厳正の時間は有限の仮象である、とあります。神学者のアウグスティヌス(Aurelius Augustinus)は、時間の三様態である「過去、現在、未来」から、時間というのは被造物世界に固有のものであるし、人間の時間意識を「記憶、知覚、期待」と仮定します。「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」ということで一応ここでは納めることにします。

私たち人間が経験する具体的な現実、特に意識に直接与えられる事実をとらえているのが時間ということです。普通、人々は時間を時計の文字盤の目盛りによって測ったり、ある感覚が他の感覚の何倍も強いとか弱いとかで示します。悲しみの時は長く、喜びの時は短く感じられるように、わたしたちにとっては具体的な時間とは、かなり主観的な側面があり、さらに等質的とか量的なものではなく、重ねたり比較することもおよそ不可能であることがわかります。

以下、列記した時に関する現象とは、現在といういろいろな出来事の瞬間であることがわかります。たとえば「入学する時」の記憶にある瞬間と「卒業する時」の瞬間が比較されるので、そこに時の意味が回想されます。そうしますと、私たちは、瞬間瞬間をより高みを求めようとし、より深く生きることがよりよく時間を過ごすことになるのではないかと考えるのです。

旧約聖書の伝道の書(Ecclesiastes)3:1-8を引用して本稿を終えます。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生きるる時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

800px-Wooden_hourglass_3 710efd066e781aa72ece5f1a55ef0900

初めに言葉があった その1 ロゴス(Logos)

年頭にあたり、「初めに言があった」というフレーズを考えています。英語のアルファベット(alphabet)はギリシャ語から生まれています。ギリシャ語の最初はアルファ(α-alpa)、そしてベータ(β-beta)と続き、最後がオメガ(omega-Ω)です。聖書のヨハネの黙示録1:7(Revelation)に「今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。」という有名な聖句があります。

冒頭に引用したのはヨハネによる福音書1:1にでてきます。「初めに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった。」(口語訳聖書)という記述です。この箇所は、キリストについて述べたものと講解され、三位一体(Trinity)という教義の成立に関わっています。三位一体説によれば、「ロゴス」とは「父」の言である「子」、つまりイエスを顕すとされます。ロゴスとはキリストの別称なのです。

他方で、思考や理論の論理という「ロゴスの学」、すなわち論理学があります。ギリシャの哲学者アリストテレス(Aristotle)によって綜合された古代のロゴスの学といわれます。ラテン語ではロゴスは「logica」と呼ばれます。論理学は、思考のつながりや推理の仕方、論証の仕方の形式とか法則を極めようとする学問です。弁証法などの理論につながる学問です。論理学は中世においては神学の基礎科目の一つとされ、神学校では幾何学などともに教えられたという記録があります。

アリストテレスは高校の教科書にもでてきます。彼は、人間の本性は「知を愛する」ことだと主張しました。この有りようをギリシャ語ではフィロソフィア(Philosophia)と呼ばれています。フィロ(philo)は「愛する」、ソフィア(sophia)は「知」を意味します。やがて日本ではこの言葉が「哲学」(philosophy)と訳されました。物理学(physics)という言葉も哲学から派生しています。

私たちが使っている英語の単語には、古代ギリシャ語を語源とするものが沢山あります。Logicに関する単語ですが、Psychologyなどに見られる「logy」は英語の大事な接尾辞の一つとなっています。この接尾辞に出会うと、単語の意味が類推できます。「〜学」、「〜説」、「〜論」、「〜話」、「〜科学」などを意味するからです。たとえば 論理(logic)はもとより、 科学技術(technology)、イデオロギー(ideology)、生理学(physiology)、生物学(biology)、腫瘍学(oncology)、そして蛇足ながら類義語の無用な反復(tautology)など枚挙にいとまがありません。ついでながらギリシャ語の「cracy」を接尾辞とする単語には民主主義(democracy)、貴族体制(aristocracy)などもあります。

普段、「論理的に話したり書いたりする」ということをよく言います。三段論法、帰納法と演繹法、仮説検証など私たちが意識しないでも、問題解決の方法として取り入れています。説明や文脈を明確にし結論に導くことです。論理と思弁を重んじることにより、「語られる力ある言葉」にする知的作業といえます。このように論理学は、人間の思考や表現などあらゆる分野において重要な役割を果たしています。

新しい一年も、ロゴスの持つ力を頂戴しながら本欄で書き綴っていきたいです。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’ウェブサイト’ type=’url’/][contact-field label=’コメントをお寄せください’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

platon1 1215
Aristotle