ユダヤ人と日本人 その16 「The Yiddish Language」 その1 消滅の恐れーアイヌ語

ユダヤ人の文化や言語を調べていくとイディッシュ語に出会う。筆者には全く知らなかった言葉である。ヘブル語は少しながら知ってはいたが、それも聖書に触れてきたお陰だ。そこでイディッシュ語の存在を知って俄然好奇心が湧いてきた。消滅の危機にある言語といわれるようである。

北海道出身の筆者には、アイヌの地名がついた町や村に慣れ親しんできたのでアイヌ語について考えることはあった。当て字とはいえ、札幌や稚内、美幌、名寄に住んだ筆者には北海道の地名は読める。知床などは読者に読めるだろう。弟子屈、音威子府、標茶、和寒、厚岸、長都、問寒別、納内、野幌、歯舞、厚岸などは大分読めるだろう。発寒、忍路、大楽毛、相内、比布、占冠、訓子府、興部、足寄は如何?輪厚が読めたらたいしたものだ。

アイヌ語は「孤立した言語」とされている。ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻な消滅の危機にある言語」と指定された。その理由はアイヌ語が文字を持たないために伝承が難しいのである。今では完全なアイヌ語で会話ができる人は10人も満たないという説もある。そうした人は皆、高齢者であるといわれる。

母校の北海道大学には、わが国唯一のアイヌ・先住民研究センターがある。今は6人の専任スタッフを抱えるまでになった。今後の研究が待たれるが、なんとでもしてアイヌ語が深まるような研究とともに普及活動を願いたい。

そこでイディッシュ語だが、かつてはアシュケナジムによって使われた国際的に通用する言語の一つだったといわれる。繰り返すが、アシュケナジムとは東、中央ヨーロッパに住んでいたユダヤ人の呼称である。
kuna4 ainu-print アイヌ紋

ユダヤ人と日本人 その15 「屋根の上のヴァイオリン弾き」 その3 ショーレム・アレイヘム

今回は、 「屋根の上のヴァイオリン弾き」の作者「ショーレム・アレイヘム」とはどのような「アシュケナジム」であったかという話題である。彼は1859年、ウクライナのキエフ(Kiev)近郊の町で生まれた。当時はロシア帝国の統治下にあって、両親は商売で成功し富裕な家庭に育ったようである。

15歳のとき、小説ロビンソン・クルーソ(Robbinson Crusoe)に感化され小説を書くきっかけとなったといわれる。1883年に著した小説「Two Stones」の中では、イディッシュ語で擬似語である”Sholem Aleichem”という表現を使った。この語は、ヘブル語の”shalom aleichem” つまり「平和がありますように」(Peace be with you)という挨拶語にあたるものであった。その後、アレイヘムはこの擬似語をしばしば使ったといわれる。そして1913年に刊行したのが「テヴィエと娘たち」(Tevye and His Seven Daughters)である。ロシア語でオデッサ(Oddessa)の新聞やロシア系ユダヤ人が経営する最も大きな出版社であるVoskhodなどに投稿する。

1905年に南ロシアでユダヤ人に対する集団的迫害行為:ポグロムが起こる。このポグロムを目撃したアレイヘムは、翌年キエフを発ってニューヨークに移住する。ポグロムはユダヤ人の国外脱出の引き金となりやがてシオニズム運動(Zionism)へと発展していく。こうした脱出は、出エジプト記に源流があることを既に述べた。

一つのエピソードがある。アレイヘムはしばしば「ユダヤ人のマーク・トウェイン(Mark Twain)」と呼ばれた。彼ら二人は類似した文章スタイルやペンネームを使っていた。この二人は同じ人物や子どもを描き、各地で講演活動をしていた。ある時、トウェインはアレイヘムが「ユダヤ系のマーク・トウェイン」と呼ばれているのを聞いて、「今度彼に会ったときは俺は”アメリカ系のショーレム・アレイヘムだ”と伝えてくれ」というエピソードが残っている。1914年、アレイヘムは家族と共にニューヨーク市のマンハッタンにやってくる。
Postage stamp Russia 1959 Sholem Aleichem, Yiddish Writer Sholem Aleichem
Mark_twain2 Mark Twain

ユダヤ人と日本人 その14 「屋根の上のヴァイオリン弾き」 その2 イディッシュ文化

「屋根の上のバイオリン弾き」はもともとは「テヴィエと娘たち」あるいは「酪農家テヴィエ」という劇作であることは前回述べた。さらに「アシュケナジム」が東欧に住みついたユダヤ人の呼称であることも記した。こうした人々が作り上げた文化がある。それがイディッシュ文化(Yiddish Culture)である。

Wikipediaによると、イディッシュ文化はドイツ以外のドイツ語圏の方言であるイディッシュ語を母語とする人をはじめとする文学・音楽・演劇などとある。9世紀から12世紀にかけてラインラント(Rheinland)と呼ばれるライン川沿岸の一帯を指す地方に興り、11世紀以上の大規模なアシュケナジムのポーランドやリトアニアへの移住により、このあたりがイディッシュ文化の中心となったといわれる。

「屋根の上のバイオリン弾き」に戻る。この作品にはウクライナ地方の村でユダヤ人家族が助け合った生きる姿が描かれている。作家ショーレム・アレイヘムはユダヤ教徒の純粋さを描いてユダヤの同志愛の必要性を促したともいわれる。離散した民族がいかにして幸福な生活をおくることができるかは、ユダヤ人としての誇りや文化を大切にすることであることをアレイヘムは訴えたかったのだろう。

アレイヘムは、イディッシュ語をその文化の中心に据え、この言葉こそがユダヤ人の言語であると熱心に喧伝した。ヨーロッパの他の言語と同じように比類のない伝統や特徴を有するがゆえに、誇りうる言語であると叫んだのである。イディッシュイズム(Yiddishism)と呼ぶにととどまらず、この文化性はイスラエル文化の復興運動であるシオニズム(Zionism)に通じるといわれる。
yiddish-alive3  アシュケナジムの子孫234 アシュケナジムの集会

ユダヤ人と日本人 その13 「屋根の上のヴァイオリン弾き」 その1 ショーレム・アレイヘム

ミュージカル好きの読者なら「屋根の上のバイオリン弾き」はご存じのはず。だがこの作品がウクライナ地方の村アナテフカ(Anatevka)にいたユダヤ系ロシア人の家族の生活を描いていることは、意外と知られていない。

「屋根の上のバイオリン弾き」の原作は、「テヴィエと娘たち」(Tevye and his Seven Daughters)であり、別に「酪農家テヴィエ」(Tevye the Dairymanとも呼ばれている。1913年に書かれ、1919年にイディッシュ語(Yiddish)で発表された。1950年代後半に、アメリカでロジャース(Richard Rodgers)やハマースタイン(Oscar Hammerstein)らによってこの原作をもとにしたミュージカルが企画されたようだ。

どうして 「テヴィエと娘たち」が「屋根の上のヴァイオリン弾き」となったかの経緯はわからないが、ローマ時代の虐殺の際に屋根の上で平然とヴァイオリンを弾いていたユダヤ人がいたという。ヴァイオリン弾きhは、冷静で沈着なユダヤ人の魂を象徴しているというのである。テヴィエの家族もそのようなユダヤ人であることを示唆している。こうした聖書理解によって邦文タイトルをつけた人の慧眼に感じ入る。

以上の劇作はともかくとして、この作家はショーレム・アレイヘム (Sholem Aleichem)と呼ばれるユダヤ系のロシア人である。後年はアメリカ国籍を取得するのだが、ユダヤ系のロシア人と呼んだほうが、失礼な響きにもなりそうだがぴたりとくる。それにはわけがある。

ショーレム・アレイヘムはウクライナ生まれのアシュケナージ系ユダヤ人である。何度も述べるようだが、アシュケナジム(Ashkenazim)とは、離散したのユダヤ人のうち主として東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫の呼び名である。ついでだが、中東系ユダヤ人を指す語として「セファルディム」(Sephardim)がある。筆者にはその基本的な違いは分からない。

やがてアレイヘムはユダヤ人のみならず、世界の人々に与えた影響を考えるのである。それはアシュケナージ系ユダヤ人の独特な文化といわれるイディッシュ文化(Yiddish Culture)を世界に知らしめたことである。ユダヤ系のロシア人としてイディッシュ文化の熱心な唱道者となるのである。「屋根の上のバイオリン弾き」の作品はその一翼を担っているように思える。
2_masterworks_fiddler_cast__800x646 テヴィエと娘たちHw Yiddish

ユダヤ人と日本人 その12 ツァーリズムと新たなExodus

前回の話題から少し戻る。「屋根の上のヴァイオリン弾き」を観た人も多いかと察する。主人公テヴィエ家(Tevye)のウクライナ(Ukraine)の農村からの追放が主題である。家族と村人はユダヤ系のロシア人であった。帝政ロシア時代のウクライナであったことだ。

16〜20世紀初まで続くロマノフ朝(The Romanov)を中心とする絶対君主制がツァーリズム(Tsarism)である。ツァーリ(Tsari)とは皇帝を指す。農奴制を基礎にし,厳格な身分秩序と官僚制機構を骨格とした。ロマノフ朝は1613年から1917年までロシアに君臨したロシア史での最後の王朝とされる。

「ユダヤ人の歴史」によれば、ロシアは、ヨーロッパ列強の内で最もユダヤ人に対して非寛容的態度をとっていた。帝政ロシアの揺籃期である15〜16世紀では国民の間にユダヤ教へ改宗の散発的な運動が起こった。しかし流血によって鎮圧された。その後に続く女帝は全て小ロシアからユダヤ人を追い出す勅令を出している。特に1727年に皇位についた女帝(Sophie Yekaterina)は、三度にわたるポーランドの分割により、ポーランドの最も恵まれた部分をロシアに併合する。こうしてロシアは、ユダヤ人口のうち他国の全ユダヤ人人口に優るほどの支配権を有した。

ツァーリの政策であるが、ユダヤ人を新しく獲得した西部のポーランド、いわゆる「居住の枠」に閉じ込めて、帝国内の他の部分に拡がらないようにすることであった。1855年に即位したのはアレクサンドル二世(Nikolaevich Alexander)は、西欧化を試み始める。富裕なユダヤ人商人、大学卒業者、技術者を登用し司法官の道も開いた。

1881年にアレクサンドル二世が暗殺される。それとともにユダヤ系ロシア人に対する激しい迫害が起こる。ユダヤ人襲撃といわれるポグロム(pogrom)である。ちなみにホロコスト(holocaust)は組織的なポグロムである。ウクライナのキエフ(Kiev)、オデッサ(Odessa)で大規模な争乱が続いた。ツァーリは、罪人の処罰ではなく、犠牲者を断固抑圧する方針をとる。その結果悪名高い「5月法」と呼ばれる反ユダヤ法が施行される。その内容は以下の通りである。

1 町以外におけるユダヤ人居住の禁止
2 町以外におけるユダヤ人の商業活動、および土地賃貸の禁止
3 ユダヤ人の日曜日(キリスト教祭日)の商業活動の禁止

村に居住しているユダヤ人の村間の移動が禁止される。ポグロムが起こる。彼らの唯一の希望は逃亡にあったといわれる。ポグロムが爆発するごとに、避難民の波が国境へ向かった。どの列車も船も亡命者で一杯となる。新たなExodus(エジプト脱出)が絶え間なく続いたといわれる。

帝政ロシア、ツァーリにおけるユダヤ人政策は、5月法によってその完成をみる。ユダヤ人の商業活動と都市進出に注目し、それをロシアに同化させ利用しようとした試みも失敗し、最後には差別政策を押し出さざるを得なかった。その背景の一つとしてユダヤ人迫害の伝統のあるウクライナを中心とする民衆運動が、政府に影響を与えたことは無視できない。
img_0 125791221627316321625屋根の上のヴァイオリン弾き

ユダヤ人と日本人 その11 ロシア革命

日露戦争の終結は、ロマノフ家(the Romanovs)のロシア帝政=ツァーリの弱体化が大いに起因していたといわれる。日本の陸・海軍が優勢であったとはとても思えない。へとへとで戦っていたと司馬遼太郎は「坂の上の雲」で書いている。戦争は、総力戦であるから足下に内紛といった火種を抱えていては勝てない。その内紛の一つがツァーリにおけるユダヤ人を含む深刻な民族問題であった。

1917年10月、首都ペトログラード(Peterograd)における労働者や兵士らによる武装蜂起を発端とした革命が起こる。これはロシア革命、あるいはボリシェヴィキ革命(Bolsheviki)と呼ばれる。ペトログラードは今はサンクトペテルブルク(Saint Petersburg)となっている。

ロスの「ユダヤ人の歴史」によれば、ロシア革命直後における共産党員の民族別構成比の統計には次のような記述がある。それは、ユダヤ人の党員中の割合がかなり高いということである。ユダヤ人は知識人の革命家も実に多く存在していたといわれる。トロツキー(Leon Trotsky)、カーメネフ(Lev Kamenev)、ジノヴィエフ(Grigorii Zinoviev)、ラデック(Karl Radek)、さらに、社会主義右派勢力のメンシェヴィキのマルトフ(Yuliy Martov)など革命指導者のほとんどは、優秀なユダヤ系ロシア人であったとされる。

1917年頃は、ユダヤ人によって創立された労働運動の母体であるリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟「ブント(Bundt)」、また、シオニスト社会主義労働者党、ユダヤ人社会主義労働者党、社会民主主義労働党などの、ユダヤ人による社会主義、民主主義諸政党も盛んに活動していた。

ロシア革命以後、ユダヤ人は教育機関など公職における役職、企業の管理部門、その他重要なポストに昇進した。しかし、これは彼らの敵対者の憎悪を呼び起こし、”コミュニストはユダヤ人だ”、ないしは”ユダヤ人はコミュニストだ”というスローガンを助長することになった。こうした革命とユダヤ人の活動、やがて襲う粛正のことは、トロツキーの「ロシア革命史」に詳しい。

戦艦ポチョムキン
Knyaz'Potemkin-Tavricheskiy1905 Soviet_Union,_Lenin_(55)ウラジミール・レーニン

ユダヤ人と日本人 その10 日露戦争とジェイコブ・シフ

毎週、再放送されている「坂の上の雲」を観ている。司馬遼太郎の文章もいいが、ビデオもいい。日露戦争の緊張が伝わる。この戦争は日本の命運を賭けた一大事件ともいえるものである。なぜヨーロッパの大国ロシアを相手に戦いを挑んだのか。戦争を遂行するだけの国力や財があったのかが知りたくなる。調べていくとそこにユダヤ人と日本との関わりがあったようだ。

アジアにおける帝国主義は、とりわけ日本とロシアの関係に緊張をもたらす。ロシア帝政=ツァーリの満州や朝鮮への進出が日本の権益とぶつかるのである。当時日本は、欧米列強にくらべ経済力でも軍事力でも大きく立ち後れていた。にも関わらずロシアとの戦争を予想していた。そのためには戦時国債として1,000万ポンドを調達する必要があった。

日銀副総裁であった高橋是清が外債募集のためアメリカにわたる。だが交渉は失敗に終わる。次に日英同盟が結ばれていたイギリスにわたり、そこでユダヤ系のアメリカ人銀行家であったジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)に会う。そして彼の経営するクーン・ローブ社(Kuhn Loeb)から500万ポンドの融資交渉に成功する。シフらの支援を受けて、残り500万ポンドの国債もイギリスの金融機関から引き受けて貰うことになる。

こうして1904年5月、日本は戦時国債を発行することができた。今でいえば200億円くらいの調達額にあたる。以後、日本は3回にわたって公債を募集する。シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)やニューヨークのウォール街(Wall Street)における日本の資金調達に尽力する。こうしたシフの日本への強力な資金援助は、日露戦争における日本の勝利と帝政ロシア崩壊のきっかけをつくることになったといわれる。

Wikipediaによれば、シフの日本に対する融資の理由は、ロシアでのユダヤ人迫害といわれるポグロム(pogrom)に示されるツァーリによる反ユダヤ主義(Anti-semitism)に対する反対であったようである。特に1903年、今のモルドバ(Republica Moldova)の首都であるキシナウ(Kishinev)で発生した大規模なキシナウ・ポグロム(Kishinev pogrom)にシフは唾棄しそれへの痛烈な非難を向けたいう。

シフのツァーリ打倒運動は、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資をしてきたことに示される。さらに1917年にレーニン(Vladimir Lenin)、トロツキー(Leon Trotsky)に対して資金を提供してロシア革命を支援した。ついでだがトロツキーはユダヤ系ロシア人であった。

日露戦争が終わり、1905年のポーツマス条約の締結によって南樺太が日本に割譲される。これにより国策により大勢の移住者に混じって筆者の父方の成田家、母方の吉田家も南樺太へ向かう。筆者は樺太生まれである。
cfd6ac01e70baa4c43114dc3c7ddda6a Treaty_of_Portsmouth ポーツマス講和会談

ユダヤ人と日本人 その9 ユダヤ人と金融資本の成立

誠に根拠が稀薄なのだが、なぜかユダヤ人はずる賢いとか守銭奴といわれてきた。ユダヤ人は周りからそのように仕立てられてきたと、哲学者、サルトルは云う。だがユダヤ人の商取引における傾向とは、銅貨や金貨や紙幣に対する愛着からではない。貨幣のような手にとって確かめられるものは、実は危ういものだということを知っていたのである。このあたりの感覚はユダヤ人の特徴のようだが、なにがそのように敏感にするのかが、筆者にとって驚きなのである。

彼らにとって大事なものは、債券とか小切手とか、銀行預金とかの抽象的なものである。ユダヤ人が執着するのは、金の感覚的なものというよりはむしろ抽象的な形象である。それは誰もが持つ購買力という普遍的なものとされる。購買において、買い手はどのような人種であってもよい。買い手の特質によって商取引が変化することもない。

例えば武器は敵も味方も欲しがる。購買力とはそのようなものである。ユダヤ系のアメリカ人銀行家であったジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)がかつて日露戦争の戦費調達のために、日本の国債を引き受けたり、ロシア革命政府に資金援助したことはそういうことである。物品の値段はどのような買い手にも向けられている。ただ、シフの行動は反ユダヤ主義への抵抗や日本軍の士気の高さがその動機であった点が通常の取引とは異なるようだ。シフのことは後日触れることになっている。

やがて金融資本というのがひろまる。資本主義が帝国主義の段階に入った段階に出現したといわれる。ユダヤ人は、世の中の動きを情報網から正確に集めてきた人種といわれる。19世紀末から20世紀にかけ、資本の蓄積が進行する一方において、ヨーロッパの諸銀行が競争によって淘汰され、少数の巨大銀行が多額の貨幣資本を有する状態となった。株式会社制度の発展とも重なり、産業資本家の持つ産業資本は銀行資本と重なる。銀行資本も産業資本へと転じるようになる。

銀行と企業のつながりは、筆者には複雑だとは思われない。それはそうだろう。銀行はその業務として企業の実態を把握し、人を送り込んで産業を支配する。産業もまた銀行株を所有して銀行経営に携わる。かくて銀行資本は産業資本に転化し、産業資本は銀行資本の担い手となるという構図である。日本でもどこでもこのような現象はみられる。だが、ウェルズ・ファーゴ(Wells Fargo)、ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)、ソロモン・ブラザーズ(Salomon Brothers)といった世界規模の企業にいかにしてユダヤ人は発展させたのか、そこが知りたいのである。

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ユダヤ人と日本人 その8 サルトルの反ユダヤ主義への批判

フランスの哲学者、サルトル(Jean Paul Sartre)は、「ユダヤ人」(岩波新書)の中でユダヤ人迫害の原因を指摘する。聖書に始まりホロコストに至るまで、反ユダヤ主義とか反セミティズム(Anti-semitism)は、すべての社会悪の責任をユダヤ人になすりつけ、選民的全体主義をつくる手段であるという。

「もしユダヤ人が存在しなかったなら、反ユダヤ主義者はそれに代わるものをつくりあげただろう。それは黒人であり有色人種であったりする」。そしてサルトルは、反ユダヤ主義にあっては、被害者側にはその理由は見あたらず、加害者側にあったことを断言する。

反ユダヤ主義に耽溺する者は、ユダヤ人から金銭と暗さを連想する。シェイクスピア(William Shakespeare)の「ヴェニスの商人」(The Merchant of Venice)に登場する守銭奴のシャイロック(Shylock)のような陰険な存在、フリーメーソン(Free Mason)をはじめとする秘密結社を結ぶ反社会的勢力と考えがちである。

呪われたユダヤ人は、呪われながらも欠くことのできぬ職業についていた。土地をもつことも軍隊に加わることもできなかった彼らは、金銭の取引を行っていたが、それはキリスト教徒が近寄ることのできぬ職業だったからである。伝統的な宗教的嫌悪という呪いに加えて、経済的な呪いが加わったのである。こうした金銭に関する職業という非生産的な職業についていることを反ユダヤ主義は軽蔑し非難するが、反ユダヤ主義者こそがユダヤ人に対して、全ての職業を禁じたからに他ならない。「キリスト教徒がユダヤ人を創造した」とサルトルは云う。

不幸にして、こうしたユダヤ人に対する否定的な概念は、物理学者のアインシュタイン(Albert Einstein)やオッペンハイマー(Robert Oppenheimer)、小説家のカフカ(Franz Kafka)、作曲家や音楽家のガーシュイン(George Gershwin)やスターン(Isaac Stern)、俳優や映画監督のチャップリン(Charles Chaplin)やスピルバーグ(Steven Spielberg)、哲学者アーレント(Hannah Arendt)といった輝かしい人物をもってしても拭い去ることは困難なほどである。

日本にまでこうした否定的な反ユダヤ主義が染み込んでいるのは、論理的、経験的な理由からではない。日本はどうか。戦争中、中国人や朝鮮人に対してどのような態度でどのように臨んだかを考えてみる。果たしてどのような根拠があって大東亜共栄圏なるものを作りあげたのか。決して反ユダヤ主義は人ごとではないことがわかる。反ユダヤ主義は理性的な思想とは全く別物である。むしろ情熱であるとサルトルは云う。
2401667   The Merchant of VeniceFrench Philosopher and Novelist Jean-Paul Sartre  Jean Paul Sartre