ユダヤ人と日本人 その26 スターリンによる大粛清 その5 医師団陰謀事件

「知られざるスターリン」には、戦前から戦後にかけての極めて赤裸々なソ連の全体主義国家の内部が描きだされている。

話題は少し遡る。共産党指導部に向けられた包括的な「シオニストの陰謀」は1948年の始め、スターリンによって計画された。それは1946年に始まった反コスモポリタンキャンペーン(Anti-cosmopolitan)に続くものとされている。1948年の反セミティズム(Anti-semitism)キャンペーンで逮捕された者は数十人に及ぶが、そのほとんどがソ連の「ユダヤ人反ファシスト委員会」のメンバーであったといわれる。

医師団陰謀事件という悪名高いでっちあげがある。この事件は、クレムリン(Kremlin)病院のユダヤ人医師が次々と逮捕される事件である。「誤った治療法によりソビエト要人の命を縮めることを目的としたテロリスト医師グループが保安局によって摘発された」ということに始まる。ユダヤ主義を掲げるシオニスト(Zionist)の仕業であると捏造されたのである。

事件は1952年のスターリンの主治医であったウィノグラード(Winograd)の逮捕をきっかけに始められている。アメリカ人シオニストの手先として陰謀をはかったという大規模なつるし上げが始まる。ウィノグラードがイギリスの諜報機関の手先であったとか、国際ユダヤ人組織「ジョイント」(American Jewish Joint Distribution Committee)に雇われていた、としてユダヤ人医師が摘発されるのである。「ジョイント」は1914年に設立され、本部はニューヨーク市にあって70か国にわたる活動をしていた。

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ユダヤ人と日本人 その25 スターリンによる大粛清 その4 スターリンとイスラエルの関係 

この原稿は「知られざるスターリン」という本に基づいている。作者はジョレス・メドヴェージェフ(Zhores Medvedev)、ロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedev)という兄弟である。本のはしがきによれば、前者は生化学者で歴史家であり、後者は歴史家、政治家である。二人ともソ連時代に民主化運動、反体制運動、人権擁護運動に関わったとある。特にロイ・メドヴェージェフはゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)やエリツィン(Boris Yeltsin)の顧問となった。

この本は五部から成るが、その中でもスターリンの死の謎、陰謀事件、後継者争い、原爆や水爆の開発、原子力収容所、スターリンと科学、スターリンと電撃戦、そしてスターリンとソ連のユダヤ人などが興味深い内容となっている。

ロイ・メドヴェージェフは次のように回想している。「歴史家にとって最も複雑になっていることは、スターリンがユダヤ人に対してとった政策とイスラエルに関してとった政策との間に際だった違いがあるということでである。」 1947年の国連総会で、スターリンが明確に親イスラエルの立場を表明する。それは同総会においてイスラエル国の樹立に賛成したことである。さらにイスラエルに対して戦闘機や大砲などを集中的に供与したのである。この援助がなければ1948年と1949年の二度にわたるアラブとの戦争に勝利しなかっただろうといわれる。

ところが、イスラエル独立後1949年1月の選挙の結果、親米政権がイスラエルに誕生する。イスラエルを衛星国にしようとしたソ連の目論みは完全に外れてしまうのである。スターリンの親イスラエル姿勢がなんであったにせよ、大多数のユダヤ人は、スターリンほど熱烈な反ユダヤ主義はいなく、その残酷さはヒットラーに次ぐと思われているのである。それが「医師団陰謀事件」であり、ユダヤ人反ファシスト委員会の弾圧である。
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ユダヤ人と日本人 その24 スターリンによる大粛清 その3 人民芸術家ソロモン・ミホエルス

2015年2月27日にロシアの野党指導者ボリス・ネムツォフ(Boris Nemtsov)が何者かに射殺された。これまでネムツォフはプーチン首相の政治手法を厳しく批判していた。彼はエリツィン時代に第一副首相でもあった。政府の発表では、治安部隊の元副隊長らの犯行というのだが、それを指示をしたのは首相府であろうと察する。ネムツォフの両親はユダヤ人である。もしやしてユダヤ人を根に持つ者の仕業かと勘ぐってしまう。だがそんな単純な動機ではないだろう。

以下は「知られざるスターリン」にある記述である。諜報機関による医師団陰謀事件に巻き込まれたのが、1940年代後半に活躍したソロモン・ミホエルス(Solomon Mikhoels)というソ連の舞台監督であり俳優であった人民芸術家である。ミホエルスは初代モスクワ国立ユダヤ人劇場を設立し、1929年にその芸術指導者となった。役者ミホエルスを最も有名にしたのが「屋根の上のヴァイオリン弾き」の主人公酪農家のテヴィエであったという。1941年にはモスクワ劇場学校の教授ともなる。その間、人民芸術家としてスターリン賞やレーニン賞を受賞する。

その後ミホエルスは、「全世界のユダヤ人人民大衆のファシズムとの闘争への参加」のために創設されたユダヤ人反ファシスト委員会の初代議長となった。1944年2月には、ユダヤ人反ファシスト委員会はミホエルスが筆頭者とって「クリミヤ・メモ」(Crimea Memo)をソ連政府に提出する。このメモの中心はクリミアに「ユダヤ人ソビエト社会主義共和国」を建設するという提案であった。

1948年の末、ユダヤ人反ファシスト委員会から粛正のために逮捕者が出始めると「ユダヤ人ソビエト社会主義共和国計画」が告訴の理由となる。これが「シオニストによる陰謀」として糾弾される。このあたりの経緯は誠におぞましく陰険である。

国家保安省の陰謀によりミホエルスは1948年1月に交通事故にみせかけられて殺される。ネムツォフもひき殺された。この殺害は芸術家本人の不注意から起きた「不慮の事故」として計画されたという。この著名な社会活動家で国民的な芸術家の抹殺は、「反ソビエト・ユダヤ民族センターの指導者としてアメリカからの指示にもつづいて反ソ破壊運動をしたスパイ」というでっち上げによるのである。
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ユダヤ人と日本人 その23 スターリンによる大粛清 その3 原爆製造と軍事機密

第二の原爆製造センターはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)の北方80キロのエニセイ河畔(Yenisei)に建設されることが決まる。この計画「クラスノヤルスク45」と名付けられた。ここにクラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。

このセンターはほぼ地下400メートルのところにいくつかの原子炉とプロトニウム製造の放射化学工場が造られることになる。そのために集められた囚人は最大2,700名にもなる。建設が終わり収容所が解放されたのは1963年という。

ソ連の核兵器の生産は、スターリン型の国家政治と経済、収容所その他の強制労働が可能にしたといわれる。原爆工場での悲惨な事故とそれに従事した労働者はいわば放射能の人柱となって工場の後片付けをしたことが「知られざるスターリン」に書かれている。1986年4月に起きたチェルノブイル(Chernobyl)原発事故と同じような事故が過去に何度もあったようだ。

亡くなった叔父のことに戻る。彼は樺太の小さな駅の助役をしていたときに捕虜となった。死亡したといわれるのがクラスノヤルスクというのであるから、鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したというの妥当な推理だと思うのである。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。であるから、よしんば叔父が生きていたとしても帰還できたかは疑問である。

1945年前後のソ連におけるスパイ諜報活動と原爆製造という特殊任務は熾烈であったようである。ドイツからの戦利品のような科学者の獲得やウランの取得はソ連の原子物理学の発展に大きく寄与し、やがてソ連を超大国に押し上げたといわれる。
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ユダヤ人と日本人 その22 スターリンによる大粛清 その2 「異国の丘」

1950年代、吉田正が作曲した「異国の丘」がラジオから流れていた。彼はかつてシベリア抑留兵の一人であった。「ハバロフスク小唄」というのも流行っていた。林伊佐緒という歌手が歌っていた。

今日も暮れゆく、異国の丘に
  友よ辛かろ、切なかろ
   我慢だ待ってろ、嵐が過ぎりゃ
    帰る日も来る、春が来る    「異国の丘」

日ソが国交を回復し、1947年から1956年にかけて、抑留者47万あまりの帰国事業が続いた。その中には11年間抑留された者もいたという。収容所では思想教育が行われた。日本に帰国(ダモイ–domoy)して共産主義を広める活動をするという念書を出し、早期に帰国した者達もいたという。そうした中には舞鶴港に着くと、ソ連を罵倒する者も大勢いたことがドキュメンタリーフイルムで放送されていた。

新聞には、興安丸や高砂丸といった引き揚げ船が舞鶴港に着くのが大きく掲載されていた。特に興安丸はナホトカ(Nakhodka)と舞鶴を何度も往復し抑留者を運んだ。ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくるであろう息子の帰りを待つ母親を歌った「岸壁の母」は、当時は大きな話題であった。二葉百合子という歌手がいた。南方からも抑留者が帰りつつあった。成田家も肉親の帰りを待っていた。

スターリンによる粛正である。ソ連共産党内における幹部指導者の排除に留まらず、一般党員や民衆にまで及んだ大規模な政治的抑圧とされる出来事である。粛正の一環は民族の強制移動である。強制移住させられた場所はシベリアや中央アジアであった。旧日本軍捕虜や筆者の叔父のような民間人もそこでの「地獄」のような重労働に駆り出されたはずだ。

共産党内の権力争いやさまざまな粛清から、スターリンの胆力や胆略は計り知れないものであったことが、既に紹介した「知られざるスターリン」という本に克明に記されている。この本から、叔父のシベリア、クラスノヤルスクでの死が必然であることを知った。原子力コンビナートが建設された場所である。
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ユダヤ人と日本人 その21 スターリンによる大粛清 その1 原爆製造とスターリン

筆者の叔父は1950年代に、クラスノヤルスク(Krasnoyarsk)あたりで死亡したことを厚生省から伝えられた。かつてロシア帝国時代、クラスノヤルスクは政治犯らの流刑地であったことがWikipediaに記載されている。今やクラスノヤルスクはソ連の大都市である。

1946年、ソ連の各地でウラン鉱山が発見される。さらに続いてプルトニウムとウラン爆弾の製造に着手する。原子力コンビナートの建設も始まり、工業用原子炉が造られる。しかし、さまざまな原因で引き起こされた事故によって頻繁に建設は停止した。原子炉全体の解体と新しい組み立てが必要となった。このときの修理の際に施設で大勢の労働者が汚れた作業に従事し、数千人規模で被爆したといわれる。福島第一原発事故とその後始末と同じ状況である。

プルトニウムのコンビナートから出る放射性廃棄物は施設の中に流れる川に流されていた。そのため、コンビナートから数10キロに渡って深刻な汚染と地域の農民に多くの放射性疾患を引き起こした。

1949年にソ連は最初の原爆実験に成功する。この原爆製造計画はスターリンの指導によるものである。さらにスターリンは第二の原子力コンビナートを計画する。原子炉を含めた原爆・放射化学工場、原爆製造センターの建設である。こうしたセンターの建設は軍事機密であったはずである。

当時は、冷戦の真っ直中、米ソは競って核兵器の開発にしのぎを削る時代である。従ってこの計画は国の安全保障を著しく高めることになる。アメリカはソ連が予想以上に早く核兵器の保有国になったことに驚いたといわれる。ソ連の原爆製造の基本情報はアメリカ人やイギリス人などのスパイによってソ連にもたらされたといわれる。ローゼンバーグ夫妻(The Rosenberg)も逮捕される。
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ユダヤ人と日本人 その20 スターリンによる大粛清 その3 「知られざるスターリン」

2009年7月には東京新聞が「シベリア抑留76万人の新資料発見」と題して、日本軍捕虜がシベリアの奥地で受けた過酷な生活を報告している。シベリヤ抑留の事実は多くの証人が書いたものが残っている。例えば、元陸軍軍医中尉であった高木俊一郎氏が書いた「シベリア・ラザレートに生きる」という本もそうだ。軍医からみた捕虜収容所の姿が描かれている。復員後、大阪教育大学や上越教育大学で教鞭をとられた。

もう一冊、現代思潮新社から出版されたメドヴェージェフ兄弟(Roy Medvedev &
Zhores Medvedev)著の「知られざるスターリン」(久保英雄訳)である。共産党政権内の権力争い、強引な民族政策、原水爆の生産、スパイや原子力収容所の実態、科学など学問上の論争への介入、ソ連のユダヤ人排斥や粛正などが描かれている。

ロシア革命時には、ユダヤ人はかなり多くの者が革命の功績をたて、スターリン独裁が確立されるまでは政治の世界でも活躍の場を持っていたといわれる。1930年代には党の地方委員会にもユダヤ人がいた。スターリンの台頭により、共産党内部のユダヤ人支部は1930年後半にことごとく廃止された。党指導部での権力抗争のなかで、スターリンとその支持者は、ボルシェヴィキの中から着々とユダヤ的要素を除去し、意図的に反ユダヤ主義(Anti-semitism)のスローガンを掲げた。

スターリン独裁が確立した後の状況では、ユダヤ人問題は、特別な社会の病理現象として受けとめられるようになってくる。「ユダヤ人は労働者階級とはなんら共有するものはない、小市民的インテリだ」と中傷されるのである。結局、スターリン時代になると政治の檜舞台からユダヤ人指導者は一掃されていく。

スターリニズム(Stalinism)のテロ、すなわち1930年代の「大粛清」の犠牲となって倒れたユダヤ人も数え切れなかった。とくに学問や芸術の分野からは多くの犠牲者が出た。比較的高い地位の公職についているユダヤ人や、新経済政策の時期に蓄財した投機家や利得者のなかに混じっていた多くのユダヤ人に対して、底流として存在していた人びとの不信感が利用された。

東京外国語大学教授であった亀山郁夫氏が、2003年4月7日に朝日新聞の「21世紀を読むというコラム」の上で「2003年はスターリン没後50年 忘れるな独裁者の恐怖」という文を寄せている。そこでは、「珍種の植物を育てるのを趣味とした独裁者スターリンは、人間社会の改造という野心にとりつかれた大の学問好きだった」というスターリンの一面も紹介している。
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ユダヤ人と日本人 その19 スターリンによる大粛清 その2 新聞報道

1953年代の新聞記事を調べると、そこからスターリンの政治活動とその死がどのように報じられたかがわかる。新聞社の姿勢と戦後間もない時代の思想上の混乱が感じられる。

1953年3月7日、 朝日新聞夕刊の「こども欄」に、スターリンの追悼記事が掲載された。タイトルは「なくなったスターリン首相、子供ずきなおじさん、まずしかった少年時代」とある。記事の内容だが、「貧しさの中に育ったので、早くから、貧乏な人たちに対する暖かい同情があった」というスターリン像を掲載している。誠に驚くべき記事である。

言うまでもなくスターリンは、日ソ中立条約を一方的に破棄し、対日参戦の成果によって南樺太を占領し、さらには北海道の東半分の割譲を連合国に迫ったという史実がある。極度に中央集権化された全体主義国家を率いた指導である。「貧乏な人たちに対する暖かい同情があった」などという記事がどうして書かれたのか。その見識を疑う。

読売新聞は1992年6月3日朝刊で「日本軍捕虜50万人を移送せよ」というスターリンの命令に関する資料を掲載している。同じく読売新聞2000年12月に元玉川大学教授若槻泰雄氏のコラムを次のように報じている。「シベリア抑留は戦争、特に負け戦が国民に強いる悲惨さを如実に示す史実だ。引き揚げに伴い旧満州で死亡した邦人は20万人以上で、原爆による犠牲者にも匹敵する。その多くは旧ソ連軍の国際法を無視した犯罪行為もといえる蛮行によるものだが、今日にいたるまで旧ソ連はその全容を明らかにしていない。旧満州とシベリアの惨状は、旧ソ連と共産主義に対する日本人の嫌悪、不信を決定的にしている。」

スターリンは史上、例のない完全独裁体制を築き上げ、情報をすべて掌握し、科学から哲学にいたる全ての分野に対して具体的な指示をして全てを決定したといわれる。ヒットラー(Adolf Hitler)と共に稀有な独裁的な権力者であった。同時にソビエトの近代化を進めたという点で、国内での貢献も非常に高いという評価を受けてもいる。史家の評価は異なっている。
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ユダヤ人と日本人 その18 スターリンによる大粛清 その1 叔父の死

数回にわたり、ロシアの民族主義に反する者を徹底的に潰し迫害したと同時に、極度に中央集権化された全体主義国家、工業の発達した軍事大国にしたといわれるスターリン(Joseph Stalin)とユダヤ系ロシア人、そしてシベリアで逝った親戚のことを取り上げる。

スターリンの名前を知ったのは1952年頃である。なぜかというと、父親の弟である筆者の叔父がシベリアで抑留されているのをきいていた。そしてソビエト大使館より当時の厚生省を通して死亡通知が父親のところに届いた。死亡した場所はクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)とあった。その頃新聞では盛んにモロトフ(Vyacheslav Molotov)、マレンコフ(Georgy Malenkov)などの政治家の名前がでていた。そしてブルガーニン(Nikolai Bulganin)といった名もあった。

講和条約の締結によってGHQ(General Headquarters)が廃止されて間もない1953年3月6日の朝日新聞朝刊には、スターリンが死去しニキタ・フルシチョフ(Nikita Khrushchev)が葬儀委員長となること、スターリンの後任にはマレンコフが選ばれことなどが紹介されている。だがマレンコフは9日で失脚し、フルシチョフが共産党第一書記となりブルガーニンを首相として指名する。内政面では1956年党大会で非スターリン化を推進した。この間の共産党内の権力闘争は熾烈なものであったことが報道されている。

本格的にスターリンの行動や人となりを知ったのは高校で世界史を勉強したときだ。第二次大戦の末期、ヤルタ会談とかポツダム会議で大戦後の情勢を協議したのだが、スターリンは必ずその中にいた。やがて、1949年に北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)とワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization)が結成され、冷たい戦争が始まったのである。スターリンはこの両方の機構の成立には欠かせない人物である。スターリンは意外にもイスラエル国家の樹立に賛成していることも最近知った。
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ユダヤ人と日本人 その17 「The Yiddish Language」 その2 言語研究

イディッシュ語はヘブル語やドイツ語から派生してものである。その語彙の三分の二はドイツ語からもたらされたが、ヘブル語からも引用している語彙も多い。その他、アシュケナジムが住んでいた地方からの語彙も使われていたのが特徴とされる。なにはともあれ言語の大切は云うまでもない。

以下は、「Judaism 101」にある”Yiddish Language and Culture”からの引用である。http://www.jewfaq.org/yiddish.htm

イディッシュ語の文法であるが、独特な形式を有する。表記はヘブル語のアルファベット文字を使う。研究者の中には、イディッシュ語はゲルマン語の一部と主張する者もいて論争が続けられている。

イディッシュ語はアシュケナジムによって使われたと述べたが、セファルディック(Sephardic Culture)というユダヤ人の間では使われなかったということがある。セファルディック系のユダヤ人とは、スペイン、ポルトガル、バルカン半島、北アフリカ、中東に住んでいたユダヤ人を指す。

セファルディック系ユダヤ人は、「Ladino」とか 「Judesmo」という独特の言語を持っていたとされる。Ladinoの語源は「Latin」とされる。 「Judaeo-Spanish」とも呼ばれ、宗教書や世俗文学、歌などで使われた。イタリア、フランス、イギリス、その他、オスマン帝国(Ottoman)であったバルカン諸国、トルコ、中東、北アフリカでセファルディック系ユダヤ人によって使われた。

「Judeo-Christian」という単語があるが、この意味は、ユダヤ教とキリスト教の教義上の共通した文化性のことである。であるから「Judaeo-Spanish」というのは、ユダヤ人とスペイン人の融合した文化を意味すると考えられる。

イディッシュ語は、20世紀には世界中にいる1,800万人のユダヤ人うち、1,100万人の間で主要な言語として使われたと云われる。しかし、ユダヤ人の同化や迫害によって使用は激減した。それ例であるが、最も多くのユダヤ系アメリカ人が住むニューヨークですら25万人の位の人がイディッシュ語を理解しているといわれる。多くはかたことのイディッシュ語を使うが公式の場で使われることはないそうだ。

イディッシュ語の研究の中心は、オックスフォード大学(Oxford University)とコロンビア大学 (Columbia University)である。両大学ともイディッシュ語の研究学科を有している。オックスフォード大学では16世紀からヘブル語や文学の研究(Yiddish studies programme)が行われているという。コロンビア大学では1952年にYiddish Studies Programが始まったという。この大学はニューヨーク市内にある。
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