心に残る名曲 その五十九 チャイコフスキーと日本人 その五 ロシア革命とシベリア出兵

ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、特に帝政期の国会であったドゥーマ(Duma)には停会命令を出します。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側につきます。1917年2月、労働者や兵士は、民主主義革命をめざすべきであると主張する少数派のメンシェヴィキ(Men’sheviki)の呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエト(Petrograd Soviet)を結成し、ドゥーマの議員は国会議長である十月党のもとで臨時委員会をつくって新政府の樹立へと動きます。

Constituent Assembly propaganda in Teatralny proezd.


メンシェヴィキという穏健派に対抗したのが、ボルシェヴィキ(Bol’sheviki)です。その指導者はレーニン(Vladimir Lenin)です。ボルシェヴィキとは多数派という意味です。ボルシェヴィキは、暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制を叫びます。その伝統は、やがてソビエト連邦共産党へと引き継がれていきます。

1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア(Czechoslovakia)軍団が革命軍に対して反乱を起こします。これに乗じてアメリカや日本がシベリアに出兵します。日本は。12,000名の将兵をウラジオストクに派遣します。「囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分だったのですが、ロシア革命に対する干渉戦争でもあり、社会主義を封じるという狙いもあったようです。ですが実際には帝国時代の外国債券や露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いがあったのがシベリア出兵でした。

【ウラジオストックでの連合軍の行進ーシベリア出兵】

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心に残る名曲 その五十八 チャイコフスキーと日本人 その四 ロシア革命と領土拡大政策

ロシアの歴史です。広大な国土、さえぎるもののない平原、長くゆったりと流れる大河、厳しい気候と国民性は関連しています。音楽もそうだろうと思われます。

1991年に解体したソビエト連邦は地球上の全陸地面積の1/6を占め、アメリカの1.8倍、世界一の広さです。8割はウラル山脈(Ural Mountains)の東側、シベリアと極東です。ウラル山脈によって東西に分かれ、この国が広いユーラシア平原(Eurasian Steppe)にまたがることが異民族との絶えざる戦争を引き起こしてきました。18世紀末にはアリューシャン列島(Aleutian Islands)からアラスカ(Alaska)まで領土を拡大します。

ロシアが世界の大国として登場するのは、18世紀前半のピュートル1世の時代です。北欧の雄、スエーデンを破りロシアは帝国となり、バルト海のほかにサンクト・ペテルブルグ(Sankt Peterburg)を築いて、念願であった海への出口を獲得するのです。

18世紀後半には、エカチェリーナ(Ekaterina)2世の時代に、クリミア(Crimea)半島にあったモンゴル地方政権のクリム・ハン国(Krym Khanstvo)を滅ぼし、さらにポーランドの分割を行い領土を拡大していきます。19世紀初めに、世界最強を誇ったナポレオンの大軍を破りヨーロッパの列強に加わります。

しかし、膨大な軍備への支出にあわせ、国民の中に食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求やデモが盛んになり、各地でストライキが起こります。1917年2月にはペトログラード(Petrograd)で国際婦人デーにあわせて女性労働者がストライキに入り、デモを行います。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がります。デモ隊の要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大していくのです。革命はすぐそこに迫ってきます。
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心に残る名曲 その五十七 チャイコフスキーと日本人 その三 ロシア革命と講和条約

日露両国はアメリカの第26代大統領のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日ポーツマス条約(Treaty of Portsmouth)に調印し講和します。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置されます。ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されることになります。

ロシア帝国はヨーロッパ各地でも領土の覇権を巡る戦いを続けています。日露戦争は極東におけるいわば小さな戦いともいえるものでした。しかし、満州や朝鮮、南樺太の利権を手放し、海軍の弱体化と相まって、帝国の衰退が始まるのです。革命への機運が労働者や農民の中から高まっていきます。

1912年4月、バイカル(Baikal)湖北方のレナ(Rena)金鉱でストライキが起こり、労働者に対して軍隊が発砲し、多数の死者がでます。レナ金鉱事件と呼ばれました。全国に抗議ストが広がり、労働運動は活性化していきます。1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると愛国主義が高まり、弾圧も強まって労働運動はいったん収まるのですが、戦争が生活条件の悪化をもたらし始めると労働運動は復活していきます。

復習ですが、ロシア革命とは1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称とされます。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味し、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味するとブリタニカ国際百科事典にあります。
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心に残る名曲 その五十六 チャイコフスキーと日本人 その二 ロシア革命と日露戦争

日露戦争は、1904年の2月から1905年9月に、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部、及び日本海を主戦場として起こった当時としては未曾有の大戦争です。

新生日本にとっては、のるかそるかの戦いだったのですが、ロシアにとってはアジアの片隅で起こった領土争いという意識だったようです。その裏側では、戦争遂行に膨大な物資の輸入が不可欠であった明治政府の厳しい苦悩がありました。なぜなら、日本の勝利を懐疑的に見守る当時の国際世論の下にあって、戦費となる外貨調達に非常に苦心したのです。調達に奔走したのは日本銀行副総裁の高橋是清です。

先の日清戦争によって、多くの戦費を使い海外に流失します。戦争ほど金のかかるものはないのです。この時点で日銀の保有正貨は5千2百万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかったといわれます。外国公債の募集には担保として関税収入を当てることにします。期間10年据え置きで最長45年、金利5%以下の条件で公債の募集を始めます。当時は、世界中の投資家が、日本の敗北を予想して資金が回収できなくなると判断したようです。

こうした苦境のなかで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げるとことし、日本の関税収入を抵当とする好条件でイギリスの銀行家たちから外債引受けの成算をえるのです。さらに、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフ(Jacob Henry Schiff)の知遇を得て、ニューヨークの金融街から500万ポンドの外債引き受けに成功します。

ロシア国内では、反ユダヤ主義(Antisemitism)が高まっていきます。そのことによってユダヤ系の人々への大迫害ーポグロム(pogrom)が吹き荒れます。帝政ロシアにおける組織的なユダヤ人の大虐殺の事態をシフは知ったようです。
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心に残る名曲 その五十五 チャイコフスキーと日本人 その1 ロシア革命と「坂の上の雲」

「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」 司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、この文章で始まります。日本とロシアの関係を調べるとき、日露戦争は日本の近代国家の形成にどのような影響を与えたかを知る貴重な材料となります。

「坂の上の雲」は、日露戦争の開戦から講和にいたる歴史小説です。司馬が云うのですが、明治の時代は日本がまだきわめてまともな時であったと書いています。明治維新から日露戦争までの30余年を「これほど楽天的な時代はない」とも評しています。近代化によって日本史上初めて国民国家が成立し、「庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代」とさえ司馬は云うのです。

「坂の上の雲」の主人公は、日本陸軍の騎兵部隊の創設者である秋山好古、その実弟で海戦戦術の創案者である秋山真之、真之の親友で明治の文学史に大きな足跡を残した俳人正岡子規の3人です。3人とも四国は松山の出身であります。秋山兄弟や子規に代表される若者達は新興国家の成長期に青春時代を送ります。なんとかして高等教育を受け、「個人の栄達が国家の利益と合致する昂揚の時代」に生きるのです。

維新から日露戦争までの30余年を「これほど楽天的な時代はない」と云ったのは、若い人々が、血縁や身分や貧富の差に縛られることなく、自らが国家を担う気概を持ち、政治や軍事、学問など各々の専門分野において邁進できた時代です。
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心に残る名曲 その五十二  チャイコフスキーと日本人 その四 弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11

弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11は、ロシアの作曲家チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)によって、1871年2月に作曲された弦楽四重奏曲です。第2楽章「アンダンテ・カンタービレ(Andante cantabile)」の冒頭は有名です。いろいろな編曲家によって用いられムード音楽でも使われるくらい有名で親しまれています。「アンダンテ・カンタービレ」はチャイコフスキーがウクライナ(Ukraine)で聴いた民謡に題材を得ているとされます。

TCHAIKOVSKY
Pyotr Ilyich Tchaikovsky
7 May 1840 ? 6 November 1893
Russian composer of the Romantic era
Credit: Peter Joslin / ArenaPAL

第1に続いて第2の旋律も有名です。そして第1の旋律に戻ります。弦楽四重奏とはヴァイオリンが二台、そしてビオラとチェロ加わります。アンダンテ(andante)とは速度記号のことで、ゆったりとした歩くくらいの速度で弾かれます。カンタービレ(cantabile)とは「流れるように」という意味の音楽記号です。五分ほどの短い曲ですが、しみじみとした感傷が残る曲です。
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心に残る名曲 その五十三 チャイコフスキーと日本人 その四 交響曲第6番 「悲愴」

1893年に書かれたチャイコフスキー(Tchaikovsky)の最後の交響曲です。初演は1893年10月28日、作曲者自身の指揮によって演奏されたとあります。本人が語るように、レクイエム(requiem)的な暗さで序奏部が始まります。序奏部は主部の第1主題に基づいたものである。やがて第1主題がヴィオラとチェロの合奏でなされ、両パートの奏者の半分のみでどこか弱弱しく演奏されます。第1楽章はアダージョで始まり、暗いため息の序奏が流れます。その後速度を増して第1主題の切迫感を印象付けると、ゆるやかなテンポになり、美しい第2主題が登場する。チャイコフスキーの作品の中でも特に親しまれている名旋律の一つです。その第1句は五音音階による民族的な響きで、甘美でやるせなく、また切ない印象を与えます。

「悲愴」と「悲壮」は意味が違うようです。「悲愴」「悲しくも痛ましい」、「悲壮」は「悲しくも勇ましい」となるようで、フランス語「Simphonie Pathétique」から日本語「悲愴」への翻訳も適当なような印象を受けます。
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心に残る名曲 その五十 チャイコフスキーと日本人 その二 ロマノフ王朝

チャイコフスキーは、1860年代の革命思想の高揚の時代と、それに続く反動的な悲観的時代に生きた作曲家です。音楽院時代は、ルビンシュタインの家に寄宿し、ルビンシュタインが主宰する芸術家サークルを中心に、作家、詩人、音楽家、俳優、学者らと知遇をえます。彼の作曲の出版を引き受けたのがロシア最大のクラシック音楽の楽譜出版社ユルゲンソン(Pyotr Yurgenson)との出会いも幸いしたといわれます。

交響曲第4番と5番は「宿命」の主題に貫かれながらも、民族的な楽曲の喜びに達したといわれます。第4番の第一楽章(first movement)は暗さのなかにロシアの将来を暗示するかのような劇的が印象を与えてくれます。

晩年のチャイコフスキーは次々と作品を残します。1887年の組曲第4番、1888年の交響曲第4番、1889年の眠れる森の美女、1890年のオペラ、スペードの女王、1892年のくるみ割り人形、1893年の交響曲第6番「悲愴」などです。ロシア革命がひたひたと迫る頃です。

心に残る名曲 その四十九 チャイコフスキーと日本人 その一 音楽院時代

今回はロシアの作曲家チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)の話題です。チャイコフスキーといえば「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」、「眠れる森の美女」などのバレー音楽が知られています。明るく軽やかな印象を受ける曲です。それが日本人にはチャイコフスキーが親しみやすい作曲家として定着している理由でしょう。しかし、チャイコフスキーの曲想はバレー音楽のように華やかではありません。実は絶望と歓喜というロシア独特の風土によって揺れ動いた作曲家なのです。

小さいときから家庭教師について音楽を学び、ピアノと音楽理論に触れます。母親も美しい声の持ち主で、チャイコフスキーもピアノでの即興演奏を試みていたといわれます。

1852年にチャイコフスキーは、ロシア帝国の首都であったペテルスブルグ(St. Petersburg)の法律学校で学びます。卒業後は法務省の九等文官となります。1861年にロシア音楽協会が新設した音楽学校に第一期生となり、職業音楽家の道を歩み始めます。1863年に音楽学校は音楽院(Moscow Conservatory)として改組され、音楽院の院長はルービンシュタイン(Anton Rubinstein)というピアニストで作曲家でありました。

ルービンシュタインらからは管弦楽法を学びます。その後音楽院の教師となりハンガリーの作曲家リスト(Liszt Ferenc)やフランスのベルリオーズ(Louis Berlioz)などの影響を受け、大きな楽器編成の曲を作り始めます。しかし、あまりに異端的な技法であるとして、音楽院の教師らからは不評であったようです。まだ音楽院ではそうした技法は許されていなかったからです。

心に残る名曲 その四十八 「Blockflöte」

楽器の話題を取り上げます。ブロックフレーテ(Blockflöte)、フルート(Flute)などの呼び名の管楽器です。小学生も学校で学んでいるリコーダ(Recorder)のことです。私も下手ですが、リコーダを吹きます。

リコーダという楽器は西欧諸国、特にルネッサンスからほぼ18世紀中期まで重要な位置を占めていました。フルートと比較して違う点は、全面に7つ、背面に1つの指孔数があることです。

私の使うリコーダの管材はローズウッド(rosewood)です。他に楓、ツゲが多く用いられます。梨、杏、桜、りんご、さらにポプラなど緻密で硬質の木材も用いられます。バロック以降は、象牙、ガラス、べっこう、大理石で作られたリコーダもあります。

一般のリコーダは、バロック型といって全体を3分して作られたものです。大小さまざまなリコーダがありますが、大雑把には4種類といわれます。ソプラノ(デカント)、アルト、テナー、そしてベースです。楽譜ですが、テナー以上は高音部記号を、ベース以下は低音部記号を使います。持ち方と運指ですが、左手が上方、右手が下方と固定されています。

リコーダにはタンギング(double and triple tonging)という技術があります。「ティキティキ、、」という具合に文字通り舌の使い方のことです。これは舌と指の使い方により、いろいろな音を作る「アーティキュレーション(articulation)」といわれます。リコーダは強弱や音質変化の幅が限られています。従って、アーティキュレーションのニュアンスは他の楽器に以上に重要な意味を持ちます。