心に残る名曲 その七十九 ショスタコーヴィチ その2 「ユダヤ音楽への傾倒」

フィンランドのシベリウス(Jean Sibelius)、ロシアのプロコフィエフ(Sergei Prokofiev)と共に、マーラー(Gustav Mahler)以降の最大の交響曲の作曲家といわれているのがショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)です。交響曲だけでなく、多くの弦楽四重奏曲を残し、20世紀最大の作曲家の一人という評価を受けています。「交響曲第5番ニ短調」など、曲全体が暗く重い雰囲気のものが多い印象を受けます。

それでも、交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」は、第二次大戦中にナチスドイツがレニングラードを包囲したそのさなかで作曲され、ファシズムに対する戦いと「宿命的勝利」が表現されています。明るい未来や希望を託したような印象を受ける曲です。

ショスタコーヴィチは、マーラーへの興味をはじめとして 交響曲第5番などでユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律を引用したりしています。ユダヤ音楽へ傾倒していたことが伺われます。例えば、交響曲第7番の第1楽章終わりでは、クレズマー旋律(Klezmer)が使われています。クレズマー旋律とは、イディッシュ(Yiddish)とよばれる東欧系ユダヤ、アシュケナジム(Ashkenazim)の民謡をルーツに持つ音楽ジャンルのひとつです。19世紀後半からアシュケナジムの移民と、第二次世界大戦前後に東欧やドイツを逃れたユダヤ人らが婚礼などの儀式を通して継承してきた音楽のことです。

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心に残る名曲 その七十八 ショスタコーヴィチ その1 交響曲の作曲家

ロシアの作曲家、音楽家といえば19世紀のチャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)、そして20世紀はショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)といえるでしょう。もちろん他にも民族主義的な芸術音楽の創造を志向した「ロシア5人組」といわれた音楽家がいます。リムスキー・コルサコフ(Nikolai Rimsky-Korsakov)もその一人です。民族色豊かなオペラとか色彩感あふれる管弦楽曲を数多く作曲しています。音楽の特徴として、反ヨーロッパ、反アカデミズムを標榜したとされます。それは、ロシアの地からの題材やロシア民謡の要素に基づき親しみやすい作品を書くといった考えです。

ショスタコーヴィチは1919年にペテログラード音楽院(Petrograd Conservatory)に入学します。そこでピアノを学ぶと同時に作曲学の講義を受けます。1927年にはショパン国際コンクール(Chopin International Competition)で高い評価を得ます。しかし、ピアノ奏者としてではなく、作曲活動に邁進していきます。

1937年にはレニングラード音楽院(Leningrad Conservatory)で作曲部門の教師となります。1941年にドイツ軍に包囲されているレニングラードで交響曲第七番を作曲します。一時レニングラードを脱出し、そして1943年にモスクワに居を構えて本格的な作曲活動に入ります。モスクワ音楽院(Moscow Conservatory)とレニングラード音楽院の教師として復帰します。

しかし、作曲活動は容易ではなかったようです。それはソビエト政府が決める音楽のスタンダードに添った作品を書かなければならなかったからです。それでも15の交響曲、多くの室内楽曲や協奏曲などを書いています。

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心に残る名曲 その七十七 グスタフ・マーラー その3 「1,000人の交響曲」

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の三回目です。アメリカには大勢のユダヤ系の人々が住んでいました。ヨーロッパからのユダヤ系の移民も多かったからです。皆、反ユダヤ主義の迫害を逃れてきた人々です。マーラーにとって異国とはいえ、安らぎを覚えた国であったに違いありません。

 マーラーの作品は交響曲と歌曲に二分されます。テノールとアルトのための歌曲集と云われるのが「大地の歌」です。これはマーラーの晩年の傑作で6つの楽章から成るものです。

さらにマーラーは後年、10の交響曲を作曲します。交響曲第2番から4番では独唱や合唱、そして管弦楽のための大カンタータを作曲します。交響曲第8番変ホ長調ではオーケストラに加えて2つの混声合唱団、児童合唱団、8人の独奏者、そしてパイプオルガンが加わります。その規模を指して「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。1時間半の「半端ではない」演奏です。

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心に残る名曲 その七十六 グスタフ・マーラー その2 反ユダヤ主義の台頭

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の二回目です。1880年頃から指揮者としてチェコの地方劇場で演奏します。得意のレパートリーとしていたのがワーグナー(Richard Wagner)やモーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)です。1891年にはハンブルグ市立歌劇場(Hamburgische Staatsoper)の首席指揮者となり、ハンブルグ管弦楽団(Philharmoniker Hamburg)を率いて演奏します。さらに1897年には、ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper )の総監督に就任。ヨーロッパ音楽界の最高の地位に就きます。

その頃からヨーロッパでは反ユダヤ主義が急成長していきます。反ユダヤ主義者がウィーン市長になると、マーラー批判を繰り広げていきます。マーラーはユダヤ人であることを意識しながら、ワーグナーの反ユダヤ主義の政治思想から距離をとっていきます。そして、ユダヤ教からカトリックに改宗するのですが、反ユダヤ主義者は、「ゲルマン文化の冒涜者」としてマーラーをウィーン宮廷歌劇場の総監督の座から下ろすのです。

マーラーは後年、10の交響曲を作曲するのですが、どれもウィーンの古典派の伝統に基づきながらも、その伝統を新しい角度から見直して斬新な音楽の世界を開拓するという意図が反映されているといわれます。交響曲第8番はその代表です。「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。しかしながら、芸術上の冒険をあまり好まないウィーン市民の気質との確執で、マーラーはウィーンを離れることを決心したようです。

反ユダヤ主義者に攻撃されたマーラーは、1907年12月にニューヨークへ渡ります。そしてメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)やニューヨークフィル(New York Philharmonic)の指揮者として活躍し始めるのです。

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心に残る名曲 その七十五 グスタフ・マーラー その1ユダヤの家系

オーストリアの作曲家にグスタフ・マーラー(Gustav Marhler)がいます。1860年生まれです。20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカで活躍した指揮者であり作曲家です。

オーストリア帝国に併合されていたボヘミヤ(Bohemia)の寒村カリステ(Kalischt)で、ブランデーの製造を営むユダヤ人家庭で育ちます。4歳のころからピアノを学び音楽の才能を示します。その後、イグラウ(Iglau)tという街にあるギムナジウム(Gymnasium)に入学します。ギムナジウムというのは中高一貫校のようなものです。

その頃から、彼は、もともとチェコ人(Czech)でありながらドイツ語を話し、国籍がオーストリア人でありながら、ユダヤ人であるという人種の葛藤を経験します。それが後の作曲活動や作品にも影響を与えることになります。

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心に残る名曲 その七十四 アントニエッタ・ステッラと二人のライバル 

ステッラは、1950年代から1960年代に活躍したイタリアの代表的な歌手です。彼女の活躍した時代には、二人の巨星といわれるソプラノ歌手がいました。マリア・カラス(Maria Callas)とレナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)です。少し割を食ったのが、ステッラを含めた同じ世代のソプラノ歌手といえそうです。ステッラは、NHKイタリア歌劇団公演で3度にわたり来日しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

女性の声の種類は、ソプラノ、メゾソプラノ、そしてアルトに分けられます。ソプラノにはいくつかの種類があります。よく聞くのがコロラトゥーラ(coloratura)で、歌いが速くコロコロと転がすような装飾が付くのが特徴です。もう一つはスピント(spinto)といって、情熱的で激しい感情をあらわす声のソプラノです。スピントのソプラノ役柄は例えば、「カヴァレリア・ルスティカーナ」(Cavalleria Rusticana)、「トロヴァトーレ」(Trovatore)、「ドン・カルロ」(Don Carlo)といった歌劇でしょう。

ステッラもマリアカラスもスピントの歌手といえそうです。19世紀中頃からのロマン派オペラから多く現われています。ヴェルディ(Giuseppe Verdi)やプッチーニの歌劇での歌唱で知られています。

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心に残る名曲 その七十三 歌手アントニエッタ・ステッラ

1960年代の学生時代に僅かの小遣いを使って、中古のLPレコードを始めて買いました。手にしたのが、『ラ・ボエーム』(La Bohème)という歌劇のレコードです。ジャコモ・プッチーニ(Giacomo A. Puccini)の作曲した4幕オペラで、最もよく演奏されるイタリアオペラです。ジャケットに美しい女性が載っていました。それがイタリアのソプラノ歌手アントニエッタ・ステッラ(Antonietta Stella)です。

 19世紀、パリのカルチェラタン(Latin Quarter)には、貧しい学生や芸術家が多く住んでいます。主人公のミミ(Mimi)もその一人です。貧しいお針子(seamstress)です。そこのアパートに一緒に住んでいたのが詩人・ロドルフォ(Rodolfo)です。彼も貧しく火の気の無い部屋で仕事をしています。暖炉に入れて売れ残りの原稿をくべて寒さに耐えています。二人ともボヘミア(Bohemia)からの移民のようです。 「Bohème」とはボヘミア人という意味です。

あるときミミがロウソクの火を借りにロドルフォの部屋のドアをたたきます。ロドルフォが開けると、ミミはめまいがして床に倒れ込むのです。介抱されたミミは火を借りて礼を言い、戻ります。そのときミミは鍵を落としたことに気がつき戻ってきます。戸口で風がローソクの火を吹き消してしまいます。暗闇で二人は鍵を探すのです。ロドルフォが先に見つけそれを隠してミミに近寄ります。それから彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人だと云って聞かせるのが「」冷たい手を(Icy cold hand)」です。続いてミミも自己紹介をして歌うのが「私の名はミミ(They Call Me Mimi)」です。

やがて二人の愛情のこもった二重唱で幕がおります。

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心に残る名曲 その七十二 グリークと「ピアノ協奏曲イ短調」

グリーグによる唯一のピアノ協奏曲(Concerto in A minor)です。1868年デンマークのSollerodに訪問している時に作曲されたグリーグ初期の傑作といわれます。たった一曲のピアノ協奏曲とは珍しいことです。我々日本人の琴線に触れる旋律がこの曲にはあります。色彩豊かな旋律、金管楽器の壮麗な演奏、ピアノ奏者でもあったグリークは繊細なメロディをピアノに添えています。

第一楽章 Allegro molto moderatoは、やや早めの楽想です。ティンパニーに続いてピアノが響き、そして管弦楽でテーマが演奏されます。ソナタ形式のよりテーマが繰り返されます。甘い旋律のテーマはしびれる程です。第一楽章は12分の演奏です。第二楽章Adajoは北欧の自然や村、フィヨルドを思い起こさせるような優雅な曲です。第三楽章Prestは、文字通り軽快で速い演奏です。終章には新たな抒情的なテーマ曲がピアノで演奏されます。管弦楽が国歌とも思えるメロディを奏でて終わります。

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心に残る名曲 その七十一 グリークと「抒情小曲集」

グリークはライプツイッヒ音楽院での留学後、帰国してベルゲン(Bergen)でピアニストや作曲家として活躍します。次第にドイツやデンマークのロマンティックな語法から離れ、やがてノルウェーの国民主義的形式に向かいます。故郷の民俗音楽的要素に基づく作曲活動をしていきます。ノルウエーの民俗音楽に創作の原典を見いだし、やがて種々の編曲を通じて国民的な音楽の基礎を築きます。そして母国の民謡や舞曲を芸術的なものに高めるのです。

 グリークは1871年に音楽協会を設立します。グリークの作曲の特徴は、小規模な歌曲やピアノ曲において最も発揮されているようです。1867年から1903年にかけて作曲した全66曲からなる「抒情小曲集」第3集があります。その中の「春に寄す」という曲は、春の息吹とノルウェーの美しい情景が目に浮かぶ抒情的な作品です。「2つのノルウェー民謡による即興曲」、「ノルウェーの踊りと歌」といったピアノ独奏曲もあります。歌曲では「山とフィヨルドの思い出」、合唱曲アルバムでは「ノルウェー民謡による12曲」が知られています。

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心に残る名曲 その七十 グリークとドイツロマン派音楽 

先日、鬼籍に入った囲碁仲間がいます。入院している病院に見舞いに行ったところ、前日の早朝に亡くなられたとか。もう少し早めに見舞うべきでした。

ペール・ギュント(Peer Gynt)の物語に放蕩息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)の死の曲があります。管弦楽の荘重な響きが悲しみを伝えています。葬送曲といえばいろいろなジャンルがあります。代表的なものはレクイエム(Requiem)がです。鎮魂歌ともいわれ、死者の安息を願うミサ曲です。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「レクイエム ニ短調」が有名です。葬送行進曲もあります。葬儀に死者を運ぶときに使われます。ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲第3番「英雄」の第2楽章が知られています。

さて、グリークの作品の特徴です。彼の両親はスコットランド系とドイツ系で、母親はピアノを弾いていたのでその薫陶を受けます。1858年にライプチッヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)に4年間留学します。この音楽院は、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)によって創立されたとあります。そこで和声対位法、作曲法などを学び、特にシューマン(Robert Schumann)らのドイツロマン派音楽の影響を受けます。1868年、グリークがデンマークで25歳のときに作曲した「ピアノ協奏曲イ短調作品16」はロマン派音楽の香りが濃く漂います。

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