心に残る名曲 その九十九 ベートーヴェン その4 ソナタ形式を飛躍的に発展

ベートーヴェンはファイファー(Tobias F. Pheiffer)という宮廷オルガン奏者に師事します。彼の指導によってクラヴィアやオーボエの奏者としても長足の進歩を遂げたようです。宮廷での仕事の中でボンのオペラ劇場の通奏低音奏者となります。1787年にウィーンのボヘミヤ系貴族、ヴァルトシュタイン伯(Ferdinand von Waldstein)と出会います。彼はベートーヴェンの演奏を聴いて献身的なパトロンとなります。ヴァルトシュタインは、ベートーヴェンをモーツアルトの後継者という触れ込みで道をつけていきます。ベートーヴェンは、こうしてウィーンの貴族社会に受けいれられていきます。1790年にはハイドンがロンドンに向かう途中、ボンに立ち寄り、ベートーヴェンの楽譜を見せられ、それが印象に残ったといわれます。後にベートーヴェンはピアノソナタ第21番ハ長調をヴァルトシュタイン伯に献呈したほどです。この曲は「ヴァルトシュタイン」という通称でも知られています。

 聖ステファン大聖堂(St. Stephan Cathedral)のオルガン奏者、ヨハン・アルブレヒベルガー(Johan Albrechtberger)に師事します。アルブレヒベルガーは、古い流儀の対位法に造詣が深く、ベートーヴェンは求めていた幅広い技術を身につけていきます。1795年にウィーンでピアニストとしてデビューします。自作のピアノ協奏曲第二番とモーツアルトの曲を弾きます。1800年には大がかりな公開演奏会を開きます。ピアノ協奏曲第一番、七重奏曲、交響曲第四番などを演奏します。

ベートーヴェンの作品と業績についてです。それまで声楽より劣るとされていた器楽を高い水準に引き上げたのがベートーヴェンです。感情の激しさと曲の構造の精緻さが結合したといわれます。先達から引き継いだ対位法とかソナタ形式を飛躍的に発展させ、特に交響曲と弦楽四重奏曲にその楽曲が顕著に示されているといわれます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

 

心に残る名曲 その九十八 ベートーヴェン その3 「交響曲第三番変ホ長調 英雄」

ベートーヴェンの創作を三つの時期に分類したのがロシアのウィルヘルム・レンツ(Wilhelm von Lenz)という著作家です。ベートーヴェンの作曲活動を知るうえで非常に興味ある話題なので取り上げることにします。

 第一期は、1794年の3つの第一期はピアノトリオを(Piano trio)完成し、1800年の交響曲第一番と七重奏曲を作った時期です。この期の作品は、ベートーヴェンが得意とするピアノによる曲が目だつようです。そこには、2つの特徴である対照的なダイナミックさを個性的に使用することや、クレッシエンドから突然ピアニッシモになるといった工夫がみられることです。これは即興演奏からの技法が次第に入り込んでくるためといわれます。

 

 

 

 

 

 

 

第二期は1801年から1814年頃で、嬰ヘ短調ソナタ「月光」、ピアノ三重奏曲第7番(大公)、交響曲第三番「英雄」(Eroica)やピアノ協奏曲第四番、即興的素材の使用が目立つ時期といわれます。和声は基本的に単純で和声が基本的な拍数との関係で使われます。ストレスとアクセントを使います。その結果、ベートーヴェンの曲はあらゆる作曲家の中で、同じ旋律を繰り返すことが最も少ないといわれます。

第三期は1814年から没年の1827年の時期です。ベートーヴェンはヘンデルに傾倒し、より対位法を本格的に使用するようになります。「英雄」がそうです。第一楽章は複数の主題、緩徐章と呼ばれる第二楽章の展開部は比較的短く叙情的で、第三楽章はスケルツォ(scherzo)、メヌエット(minuet)など舞踏的な性質が特徴で、終楽章の第四楽章は以前よりずっと重要視され、特に主要楽章となり、活気のある優雅さが特徴といわれます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十六 ベートーヴェン その1 「ドイツ3大B」

学校の音楽教室といえば、歴代の作曲家の肖像画がずらりと並んでいたものです。とりわけ、少々「怖い」顔でペンを持ち楽譜に向かうのがベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)でした。ドイツが生んだ三人の作曲家がバッハ(Johann Sebastian Bach)、ブラームス(Johannes Brahms)、そしてベートーヴェンです。「ドイツ3大B」と呼ばれる所以です。

 1770年生まれのベートーヴェンは、楽才では世界的にしられています。特に器楽形式である交響曲を高度に完成させ、作品はウィーン古典派の頂点を示すといわれます。

ベートーヴェンの家は、オランダ南西部からフランス北東部にまたがる地方であるフランドル (Flanders)の出で、祖父の代にボン(Bonn)に移住します。祖父はケルン選帝候(Kurfurst)の合唱団の歌手でやがて楽長の座につきます。息子のヨハンも同じ合唱団にいたようです。当時の音楽家と同じく、音楽を職業とする家で育ちます。6歳のときにクラヴィア協奏曲やトリオを演奏したようです。クラヴィア(Clavia)とは、鍵盤つきの弦楽器のことです。ピアノやハープシコード(harpsichord)を指します。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十五 ヴェーバー その3 「舞踏への勧誘」

ヴェーバーの三回目です。「魔弾の射主」は17世紀半ばのボヘミヤの山村地方が舞台です。題材は自然や民衆的な人間性を要素としています。ヴェーバーの音楽史上での意義は、主としてオペラの領域にあるといわれます。彼の特色が集大成となったのが代表作となったこの「魔弾の射主」といわれます。ドレスデン(Dresden)でもこの曲は大変な人気だったようです。25回に渡って演奏されたといわれます。

 1825年に歌劇オベロン(Oberon)を作曲します。オベロンとは西欧の妖精といわれます。この歌劇はロンドンのコベントリーガーデン(Coventory Garden)劇場の依頼で作られたものです。

ヴェーバーの才能は、オペラ以外にも各種多様な作品を生み出したことに示されます。彼自身がすぐれたピアニストであったため、ピアノ曲、ピアノ合奏曲に注目すべき作品があります。「舞踏への勧誘変ニ長調」(Invitation to Dance)もそれです。誰にも覚えやすい優しくも華麗な旋律です。ロンド形式(Rondo)といって、異なる旋律を挟みながら、同じ旋律であるロンド主題を何度も繰り返す楽曲で知られています。踊りは確かに同じような動作の繰り返しですから、ロンド形式の音楽が必要なのでしょう。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十四 ヴェーバー その2 魔弾の射手

ヴェーバーは11歳で初めてオペラを作曲したというのですから、その才能はうかがい知るべしです。1821年に初演された「魔弾の射手」は3幕のオペラです。ロマン派オペラの先駆的作品ともいわれ、その中でも「序曲」(Overture)、「狩人の合唱」(Chor der Jager)が特に有名です。

 「魔弾の射手」によってドイツ・ロマン派のオペラ様式を完成、そしてワーグナー(Richard Wagner)へと流れを導いた作曲家といわれています。「魔弾の射手」の大成功によって、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てます。この曲によってワーグナーやベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人々が作曲家を志したともいわれています。

「魔弾の射手」や「オベロン」(Oberon)などのオペラのほか、「舞踏への勧誘」(Aufforderung zum Tanz)などの器楽曲も残しています。また、オーケストラの配置を現在に近い形に改め、指揮棒を初めて用いた人としても知られています。

序曲のことです。オペラ,オラトリオ,バレエ,組曲などの初めに導入として演奏される器楽曲で、19世紀にはしばしば独立した演奏会用序曲が作曲されます。メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」(Die Fingals-Hohle),ブラームスの「大学祝典序曲」(Akademische Fest-Ouverture)などの名曲が生れます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十三 ヴェーバー その1 対位

カール・マリア・フォン・ヴェーバー(Carl Maria von Weber)は 1786年生まれで、ドイツのロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニストです。我が国でもたいそう知られた作曲家です。

 ヴェーバーの生い立ちからです。通常、貴族の姓の前につけられるのが「von」ですが、しかし、父祖は製粉業とか農業など地味な家柄だったようです。虚弱な体質で、幼少から座骨を患い、終生足が不自由でありました。父は音楽教育に熱心で、各地で有名な音楽家に息子を師事させていました。10歳にしてすでにハイドン(Franz Haydn)から対位法(counterpoint)を学んでいます。

対位法とは、主旋律に対して和音で伴奏をつけるのですが、伴奏部分も主旋律にすることです。心地良いハーモニーを追求していく中で生まれた理論ともいわれ、基本は3度と6度の和音を使います。旋律と旋律を重ねる方法でもあります。

ヴェーバー家はモーツアルト家と縁戚関係にあったことも幸いしています。17歳でブレスラウ(Breslau)の歌劇場で指揮者兼作曲家として赴任し、音楽家として独立します。1813年にはプラハ(Prague)市立劇場で指揮者となり、さらに1817年にドレスデン(Dresden)宮廷劇場の音楽監督となります。そして1821年にベルリンの王立劇場のこけら落しで、歌劇「魔弾の射手」(Der Freischutz)を自ら指揮をします。そして万雷の喝采を浴び、演奏は大成功だったと記録されています。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十三 グノーと「アヴェ・マリア」

チャールス・グノー(Charles Gounod)の二回目です。ローマ留学を終えて、グノーはパリに戻ります。そして国外伝道会教会の合唱長・オルガン奏者に就任します。宗教音楽の敬虔さと抒情的な表現の調和を込めた沢山の宗教曲を作ります。宗教音楽とはカトリック教会の典礼音楽のことです。

グノーはオペラ「ファウスト」(Faust)も作曲します。この曲はやがてフランスオペラの代表といわれるほど名声を博します。しかし、ドイツではゲーテ(W. Goethe)の劇詩から離れているという理由で「マルガレーテ」(Margarethe)と呼ばれるようになります。

「ファウスト」は5幕からなり、老学者ファウストが自分の書斎で、人生をかけた自分の学問が無駄であったと嘆くのです。そこに悪魔メフィストフェレスが現れ、 ファウストの望みを聞くき、美しい娘マルガレーテの幻影を見せます。「金の子牛の歌」、「宝石の歌」が有名です。「兵士の合唱」は北大男声合唱団にいたとき私も歌ったことがあります。

結びに、グノーといえば「アヴェ・マリア」です。この曲は、バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻の前奏曲第一番ハ長調の伴奏を用いています。 その他、「ロミオとジュリエット」(Romio and Juliet)という作品もあります。音楽事典には「幻想交響曲のベルリオーズ(Hector Berlioz)によって敷かれた音楽復興の基礎を新たな軌道に載せたフランス楽派の祖」といわれます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

に残る名曲 その九十二 グノーとパレストリーナ

フランスの作曲家の続きです。今回はチャールス・グノー(Charles Gounod)です。1818年生まれ。1836年にパリ音楽院に入学し、対位法や作曲法を学びます。太陽王といわれたルイ14世(Louis XIV)が1663年に創設したローマ大賞(Prix de Rome)を受賞し、ローマに3年間留学します。ローマ大賞は、芸術に励むフランス人の若者に対してフランス政府が授与していた奨学金制度で、各部門若手芸術家の登竜門となっていました。

 グノーは、カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」と呼ばれていたパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)に強く惹かれます。少なくとも100以上のミサ曲、250以上のモテットを初めとする数多くの教会音楽を作曲し、イタリア人音楽家として大きな名声を得たのがパレストリーナです。ローマ滞在中はサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)北隣に位置するシスティナ礼拝堂(Cappella Sistina)の礼拝にもにも参列したとあります。

ローマでの作品は宗教曲と歌曲です。合唱とオーケストラのミサ曲も作ります。グノーは聖職者をめざし神学校で聴講しています。その間宗教曲だけを作っていたという記録があります。ライプツイッヒ(Leipzig)の聖トマス教会(Thomaskirche)でメンデルスゾーン(Mendelssohn)のオルガン演奏を聴いたグノーは、深い印象を受けたといわれます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十一 サンサーンス その1 オルガン奏者

フランスの作曲家、オルガン奏者、ピアノ奏者がサンサーンス(Charles Saint-Saens)です。生まれは1835年。2歳半のときからピアノ奏者だった大伯母からピアノの手解きをうけ、5歳のときには、ハイドンやモーツアルトのソナタを弾くまで成長したようです。

Charles Camille Saint-Saens, French composer and music critic, 1835-1921, Portrait (Photo by Popperfoto/Getty Images)

 サンサーンスは音楽と並んでラテン語を学び、ラテン文学の黄金期を築いたラテン語詩人の一人であるウェルギリウス(Publius Vergilius Maro)などの古典を親しんだといわれます。ウェルギリウスは紀元前70年の頃の人で、ローマで修辞学、弁論術、医学、天文学などの教育を受けたといわれます。サンサーンスはそうした影響を受けて、数学や天文学にも関心を持ちます。広範囲の勉学が広い視野と豊かな知識をもたらしたようです。

10歳のとき、公開演奏会を開き、モーツアルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲暗譜で演奏し聴衆を驚かせたといわれます。そのころ同じくフランスの作曲家グノー(Charles Gounod)と知り合い、13歳でパリ音楽院に入学し、作曲活動に入ります。1857年に教会用大合唱作品「荘厳ミサ」を初演します。同年、パリのマドレータ教会(Madreta Church)のオルガニストに就任するのですが、この地位はオルガン奏者にとって羨望の的であったといわれます。「Madreta」とは聖母マリアのことです。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]

心に残る名曲 その九十 ドビュッシーと「月の光」

クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)は, 1862年生まれのフランスの作曲家です。早速ですが、ドビュッシーの音楽といえば、誰もが「月の光」(Clair de Lune)というピアノ独奏曲を想い浮かべるだろうと察します。

 ドビュッシーは、パリ郊外の農村で生まれます。家庭は代々農業や手工業に従事した庶民のこです。経済的にも情緒的にも貧しい少年時代をすごしたようです。パリに移ると家にあった旧いピアノの前で夢想に耽ったとか。

1872年にパリ音楽院に入学し10年余りをすごします。「牧神の午後への前奏曲」という10分ほどの管弦楽品を書きます。それが出世作となります。1884年にフランスの奨学金付留学制度「ローマ賞(Prix de Rome)」を受賞し、イタリアのローマへ1885年から2年間留学しています。「月の光」は「ベルガマスク組曲 」(Suite Bergamasque)の中の第3曲です。「Bergamasque」とはイタリア北部のベルガモ地方のことのようです。

その他、代表作に交響詩の「海」という海の情景を表した標題音楽もあります。「夜想曲」(ノクターン)などにみられる長音階や短音階以外の旋法など、伝統になかった音を生みだそうとしています。「牧神の午後への前奏曲」ホ長調もそうです。その曲想は、印象主義音楽といわれ、自然を音で象徴しようとする音楽の絵画のような雰囲気をかもしています。「印象派」と呼ばれたドビュッシーは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響を与えた作曲家といわれてます。

[contact-form][contact-field label=’お名前’ type=’name’ required=’1’/][contact-field label=’メールアドレス’ type=’email’ required=’1’/][contact-field label=’コメントを歓迎しています’ type=’textarea’ required=’1’/][/contact-form]