心に残る名曲  その百十 トマス・ルイス・デ・ビクトリア 「アヴェマリア」

トマス・ルイス・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria)は1548年の生まれ。黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人です。パレストリーナやラッソらと並ぶルネッサンス宗教音楽の大家の一人です。

 少年時代にマドリッド郊外にあるアビラ(Avila)大聖堂の聖歌隊に入ります。フェリペ二世(Felipe II)の奨学金を得てローマに行きイエズス会(Society of Jesus)の会士となります。神学、音楽、ラテン語などを学び、その間パレストリーナの知遇を得たといわれます。イエズス会の修道院で一連の楽長職を務めたのち、1575年に司祭として叙階されます。

1586年にスペインに帰国し、マドリッド(Madrid)のデスカルサス・レアレス女子修道会(Monasterio de las Descalzas Reales)の一員となります。ビクトリアは終生、この修道会にとどまり、司祭・作曲家・歌手・合唱指揮者・オルガニストなどの役割を務めます。

ビクトリアは後期ルネサンス においては最もすぐれた宗教音楽の作曲家といわれます。数多くの評者がビクトリア作品に、「神秘的な烈しさと直接に感情に訴えかけてくるものがある」と云っています。これらの特徴は、ビクトリアの偉大な同時代のイタリア人作曲家、パレストリーナの作品には見当たらないようです。

様式的にみるとビクトリア作品は、多くの同時代の作曲家と同様の凝った対位法は遠ざけて、単純な旋律とホモフォニックな楽想を好んでいるようですが、それでもなお多種多彩なリズムの変化や、驚くほどの明暗の対比を表現しています。旋律の構成や不協和音の使い方はパレストリーナよりもずっと自由のような印象を受けます。

ビクトリアの最も美しく、かつ最も洗練された作品の一つが「死者のためのミサ曲」です。この作品は、皇太后マリアの葬礼のために作曲されたとあります。1編の世俗曲を手懸けなかったほど、独自の作風を備えた楽曲は特筆されます。

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心に残る名曲  その百九 グレゴリオ・アレグリ 「ミゼレーレ」

アレグリ(Gregorio Allegri)は1582年生まれのイタリアの司祭、歌手、そして作曲家です。聖歌隊の一員として音楽を学びます。やがて誓願をたててアドリア海に面するフェルモ大聖堂(Duomo di Fermo)より聖職禄にあずかります。誓願とは、神に清貧、貞潔、従順の三つの誓いをたて聖職に就くことです。フェルモにおいて数多くのモテットやその他の宗教曲を作曲します。やがてヴァティカン(Vatican)のシスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)聖歌隊にコントラルト(contralto)歌手の地位を得て1629年から没するまでその地位に就きました。コントラルトとはテノールよりも高い音域のことです。

 彼の作品には、5声のための教会コンチェルト、6声のためのモテット集、声のシンフォニア、その他ミサ曲や預言者エレミア(Jeremiah)の哀歌、さらに没後発表された沢山のモテットがあります。教会コンチェルトとは、オルガン伴奏などの楽器伴奏による宗教的声楽曲のことです。モテットは、イタリア初期バロック音楽の影響のもとで通奏低音を伴い、少人数での歌唱で歌われます。

アレグリは弦楽合奏のための作品を作曲した初期の作曲家の一人といわれます。また弦楽四重奏曲の初期における重要な作曲者とも考えられています。システィーナ礼拝堂聖歌隊のために書いた声楽作品は、パレストリーナ様式を受け継いではいますが、単純な様式とはいえ一切の装飾が排除されています。

群を抜いて有名なのが「ミゼレーレ(Miserere mei Deus)」です。アレグリの傑作といわれます。「神よ我を憐れみたまえ」という旧約聖書の詩篇第51篇(Psalm)から採られています。「ミゼレーレ」では、合唱の一方は4声、もう一方は5声からなる二重合唱のために作曲されています。合唱団の片方が聖歌の「ミゼレーレ」の原曲を歌うと、離れたところに位置するもう一つの隊員が、それに合わせて装飾音型で聖句の「講解」を歌います。

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心に残る名曲 その百八 ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ 「教皇マルチェルスのミサ曲」

16世紀後半、最大の教会音楽家がパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)です。パレストリーナは北ヨーロッパのポリフォニー様式の影響下にあった音楽家の世代に属します。イタリアにおけるルネサンスの時期、音楽は今のオランダやベルギー、北フランスのフランドル(Flandre)が中心でありました。ローマ教皇庁の音楽隊にもフランドルの音楽家を招くという有様でもありました。ところが、パレストリーナはイタリア人音楽家として大きな名声を得て教皇庁も無視できない存在となります。やがて、イタリアでポリフォニー様式が支配的地位を得ていく理由は、前述した作曲家ジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez)の影響によるところが多いといわれます。

 パレストリーナ作品の大部分をなす教会音楽は、均整のとれた構成、静かに流れるおおらかな旋律、荘重で厳粛な典礼性を有しています。グレゴリオ聖歌に次ぐ典礼音楽の模範となっています。作品はミサ曲105曲、モテット375曲、マニフィカート35曲、宗教的マドリガル50曲、世俗的マドリガル90曲に及びます。ほとんどの作品が無伴奏合唱音楽の形態を持ち、4〜5声部が一般的です。

初期の作品は、一般にフランドル楽派の技巧的対位法を駆使しています。中期には歌詞の理解、楽曲の構成に高い統一がみられます。これがパレストリーナの独自の形式となります。後期になるとマドリガルの適用で2重唱の技法が輝かしい響きとなり、ラッソのような主観的で激情的な表現をしません。

パレストリーナの音楽の基礎は、ルネッサンス期の声楽ポリフォニーにおける模倣対位法の技法です。自然に流れる全音階的な美しさで知られます。旋律はきわめて厳格な声部進行の原則を保っています。跳躍も長・短3度、完全4度、5度、8度までとなっています。数多くの教会音楽を作曲し、中でも「教皇マルチェルスのミサ曲」(Missa Papae Marcelli)は彼の代表作とされています。

一種の抑制された静観的な雰囲気は、彼の言葉に対する信仰から発していると思われます。新しい表現の分野や様式を開拓するのではなく、あくまで伝統的な技法によって声楽ポリフォニーの理想を追い求めているかのようです。

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心に残る名曲 その百七 ジョスカン・デ・プレ 「祝福されし聖処女のミサ」

ルネサンス最盛期のフランスの作曲家、声楽家がジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez) です。フランドル楽派の音楽形式を確立し、ヨーロッパ中に広げた功績があります。


 デ・プレは1474~79年までミラノのスフォルツァ公(Ludovico Maria Sforza)の聖歌隊の歌手を務めたのち,1486~94年頃までローマ教皇礼拝堂の聖歌隊員となります。1489年にノートル・ダム教会(Notre-Dame)及びサント・メール( Saint Omer)教会、サン・ギラン(Saint Ghislain)教会、1493年にはバス・イトル(Basse Yttre) 教会及びエノーのフラーヌ(Frasnes)教会 、1494年には、カンブレのサン・ゲリ( Saint Gery) 教会の聖職禄を認められており、1494年にはカンブレで実際に聖職に就いた記録が残されています。

1503年にはパトロンであったフェララ (Ferrara)のエステ公エルコレ1世(Ercole I d’Este)の楽長に任ぜられ,その後ハプスブルク家(Haus Habsburg)の皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I)の保護を受け,経済的に保障され作曲活動の晩年を送ります。

ミサ曲,モテト,シャンソンなど多くの作品を残しますが,ミサ曲「祝福されし聖処女のミサ」(Missa de beata virgine)、「パンジェ・リングァ」(Pange Lingua)、「平安を与えたまえ」,「ミゼレーレ」(Miserere mei Deus)などが特に有名です。

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心に残る名曲 その百六 オルランド・ディ・ラッソ その2 「マトナの君よ」

 ラッソの作品約1,200曲の中の一つが「マトナの君よ」(Matona, mia cara)です。フランドル楽派(Flemish School)の伝統である対位法を基礎にとしながら劇的な情緒表現がこの作品に顕著にみられます。フランドル楽派とは、15〜16世紀のルネッサンス期(Renaissance)にヨーロッパで活躍した楽派です。フランドルとは、今のオランダ、ベルギー、そして北フランスを含む低地地方です。この楽派はモテット(Motet)やミサ(Mass)などの教会音楽、さらにシャンソン、マドリガルなどの世俗的な音楽の分野で活躍し、主として声楽ポリフォニー様式によっています。


 モテットはラッソの作品中でもっとも重要なジャンルとなっています。彼の音楽語法のすべてが示されているといわれます。モテットの語源ですが、言葉を意味するフランス語の「Mot」に由来します。モテットは、中世およびルネッサンス時代の最も重要な楽曲形式です。16世紀に完成した「通模倣様式」(through-imitation style)による多声部分による教会用ポリフォニー、いわゆる多声唱曲がモテットです。

 通模倣様式とは、ルネサンス音楽期における作曲技法です。 各声部がまったく均等な関係で模倣を行う多声作曲様式のことです。いずれかの声部が定った旋律を保持し,他の声部がそれに対位する定旋律を歌います。ルネッサンス期のモテットは4声部が一般的ですが、ラテン語による典礼歌詞では4〜6声部の合唱曲が主流となります。ラテン語の宗教詩とフランス語の恋愛詩が一緒になり、宗教的要素と世俗的要素が共存していきます。

 ラッソは、当時のルネッサンス人文主義の影響を受けたようです。ルネッサンスとはギリシアやローマの文化を復興しようとする文化運動で、14世紀頃にイタリアに始まりヨーロッパに広がります。「文芸復興」とも呼ばれます。人文主義運動とも云われます。音楽と言葉の結びつきに強い関心を示し、歌詞に対する絵画的な、あるいは劇的な感情表現を強く打ち出したのがラッソです。「マトナの君よ」は、田舎者の兵士がマドンナをくどく歌です。強弱のメリハリがきき、主旋律が4回繰り返され、毎回どこかの音を変えている複雑な音程です。

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心に残る名曲 その百五 オルランド・ラッソ その1 「シビュラの予言」

少し時代を遡って、中世のヨーロッパに転じます。15世紀から16世紀の時代です。後期フランドル楽派(Flemish School)最大の作曲家といわれるのがラッソ(Orlando di Lasso)です。ラッスス(Orlandus Lassus)とも表記されます。後述するパレストリーナ(Giovanni Palestrina)と共に、後期ルネッサンスを代表する巨匠といわれます。

 後期ルネサンスでは最も多作な世界的作曲家であったのがラッソといわれます。全部でゆうに1,200あまりの作品を書き、ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語の声楽曲があらゆるジャンルにわたって作曲しています。その内訳は、4曲の受難曲(Passion)、540曲のモテット(Motet)、100曲の聖務日課のための曲、200曲のマドリガル(Madrigal)とヴィッラネッラ(Villanella)、150曲のシャンソン(Chanson)、90曲のリート(Lead)です。ラッソ作の器楽曲が存在するかは厳密には分かっておりません。

マドリガルとはイタリアの世俗声楽曲で 5 声部無伴奏の合唱のことです。ヴィッラネッラも同じくイタリアの田舎風の声楽曲で3声部から成ります。ラッソの代表作の一つに「シビュラの予言」(Prophetiae Sibyllarum)があります。半音階的手法などの大胆な和声的工夫によって、劇的な表現力が見事に発揮されています。

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心に残る名曲 その百三 サラサーテ その8 「ツィゴイネルワイゼン」

スペイン生まれのヴァイオリニストでもあったサラサーテ(Pablo Martín de Sarasate)が作曲したものです。「ツィゴイネルワイゼン(Zigeunerweisen)」は非常に知られた管弦楽伴奏付きのヴァイオリン独奏曲です。別名は「Gypsy Airs」とも呼ばれています。ツィゴイネル(Zigeuner)がドイツ語で「ジプシー」、 ワイゼン(Weisen)は 「歌とか旋律」という意味です。

Pablo de Sarasate (1844-1908), violonist and Spanish composer. RV-338439

 スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込む曲風で、国民楽派の音楽家と呼ばれるのがサラサーテです。その代表的な作品がロマ(Roma) 、別称ジプシー(gypsy) 民謡による「ツィゴイネルワイゼン」です。作曲家としてのサラサーテの作品は、ほとんどヴァイオリンと管弦楽もしくはピアノのための作品です。

サラサーテは、8歳のときに初めて公演し、10歳のときにスペイン女王イサベル2世(Isabel II) の前で演奏を披露したといわれます。その後パリ音楽院で学び、13歳のときヴァイオリン科の一等賞を得ます。1860年代ごろから演奏家としての活動を始め、やがて知己となったサン=サーンス(Charles Camille Saint-Saens)と演奏旅行をします。サン=サーンスはサラサーテに「序奏とロンド・カプリチオーソ」を献呈しています。サラサーテはまた、ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo)の「スペイン交響曲」、ブルッフ(Max Christian Friedrich Bruch)の「ヴァイオリン協奏曲第2番」、「スコットランド幻想曲」の初演者であり献呈先でもあります。サラサーテの華麗な名人芸は、ブラームス(Johannes Brahms)やチャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)の作曲活動に影響を与えたといわれます。

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心に残る名曲 その百二 ベートーヴェン その7 「月光ソナタ」

ベートーヴェンの作品で最もポピュラーな曲がこのピアノソナタ第14番嬰ハ短調です。別名「月光ソナタ」(Moonlight Sonata)です。ベートーヴェンが30代のときの作品です。

 「月光ソナタ」という名称は、ドイツの音楽史家で詩人であったレルシュタープ(Ludwig Rellstab)のコメントからつけられています。1832年といえばベートーヴェンの死後5年が経過した年です。レルシュタープはこの曲の第1楽章の印象を指して「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と語ったことに由来しています。

ピアノソナタ第14番は三楽章からなります。第一楽章は、「Adagio sostenuto」といってアダージョより少しテンポを抑え気味にという調子です。第二楽章は「Allegretto」という少し速い速度で演奏されます。第三楽章は、「Presto agitato」とあるように、極めて速く興奮気味に演奏されます。嵐のような情景が浮かびます。

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心に残る名曲 その百一 ベートーヴェン その6 「フィデリオ」

ベートーヴェン唯一の歌劇がフィデリオ(Fidelio) です。完全に聴覚を失った1816年に作られたようです。この歌劇は、主人公レオノーレ(Leonore)がフィデリオという名で男性に変装し、牢獄に潜入し、政治犯として拘留されている夫フロレスタン(Florestan)を救出する物語です。

ベートーヴェンは「フィデリオ」への序曲を作曲するにあたり、何度も推敲を重ねたようです。そして「フィデリオ序曲」とか「レオノーレ序曲」などs4曲を書いています。ベートーヴェン自身は自由主義思想への強い共感を抱いていて、英雄を崇拝するような作風が強く反映されているといわれます。男声合唱による政治犯達の自由を謳う力強い囚人の合唱、フロレスタンをレオノーレが助けにやってきて救出する場面、そしてフィナーレの合唱は第九番の合唱を思い起こすほどです。

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心に残る名曲 その百 ベートーヴェン その5 交響曲第三番、交響曲第五番、交響曲第六番

「楽聖」と呼ばれるベートーヴェンの作品で、交響曲は作品の華といえるものです。
交響曲第三番変ホ長調についてです。1804年、ナポレオン(Napoleon Bonaparte) はフランス帝国の皇帝であることを宣言します。ベートーヴェンは皇帝への畏敬を表しながらも複雑な思いでこの曲を作ります。自分より一歳年上のナポレオンの超人的な指導力に恐れと敬意を抱いたようです。やがてナポレオンへの独裁政治に幻滅を感じながら、「英雄(Eroica)」を作曲します。交響曲の中でも最も壮大にして華麗な曲です。第二楽章は「葬送行進曲」(Funneral March on the Death of Eroica)とよばれ、演奏者たちはこれまで聴いたことのない曲にいかに演奏するかで、数週間のリハーサルで戸惑ったといわれます。後世の評論家は、「最も独創的、荘厳、かつ深遠な響きの音楽」と讃えています。

 次ぎに、交響曲第五番ハ短調です。ベートーヴェンの作品で最も知られた曲です。冒頭、半拍を置くシンコペーションによって曲が始まります。出だしの四つの音符が、この曲の類い希な人気を示しています。第一楽章の「Allegro con brio」は輝きをもって速く、第二楽章の「Andante con moto」は歩くような速さでしかも躍動感を示し、第三楽章の「Allegro」は陽気でしかも快活に、そして第四楽章の「Allegro – Presto」快速さという構成となっています。作曲したのは、1805年頃といわれますが、1808に第六番と一緒にウィーンで初演奏されたというエピソードがあります。通称「運命」と呼ばれています。

第五番とともに双璧といわれる交響曲第六番ヘ長調は、1808年に作られます。ベートーヴェンは自然と親しみ、ウィーンにいたとき田舎を長い時間をかけて散歩したといわれます。ベートーヴェン自身が、絵画的な描写というよりも感情の表現をあらわす曲であるといっています。古典派交響曲としては異例の五楽章で構成されています。第一楽章の「Allegro ma non troppo」はなはだしくなく速く、印象的な旋律です。第二楽章の「Andante molto moto」は、散歩する情景を表します。鳥の鳴き声も聞こえます。第三−四楽章の「Allegro」は文字通り嵐の描写です。そして第四楽章の「Allegretto」は嵐の後の喜ばしい感謝の気持ちの牧歌となり、聴く者をしてあたかも「田園」を散策しているかのように誘います。

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