留学の奨め その18 マサチューセッツ州アムハースト大学(Amherst College)

米国の大学の学部に留学するときは、リベラルアーツ大学(College of Liberal Arts)を選ぶことを勧める。なぜなら、少人数のきめこまかい指導を受けることができる。基礎学力もつく。綜合大学では孤立感を深める心配がある。望むならプリメッド(pre-medical)という課程の科目を履修し、その後医学部への進学テストであるMedical College Admission Test (MCAT)を受けることもできる。大学院へ行きたいときは総合大学を選べばよい。

今回はリベラルアーツ大学の話題である。マサチューセッツ州(Massachusetts)にはハーヴァード大学(Harvard University)やマサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology: MIT)など名だたる総合大学に混じって、多くの私立単科大学がある。どれも1700年から1800年代に創立された由緒ある大学である。人々や基督教会は、当時人材の育成が課題で高等教育の大切さを意識していたことがわかる。そこでリベラルアーツ大学がどんな伝統や特徴があるかをマサチューセッツ州にある大学を例に紹介していくことにする。

札幌農学校の初代教頭で「少年よ大志を抱け」の言葉で知られるウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)が教鞭をとっていたのがアムハースト大学(Amherst College)である。長男宅から車で1時間のところのアムハースト(Amherst)という田舎町にキャンパスがある。創立は1821年。同志社大学創立者の新島襄や思想家の内村鑑三が学んだところでもある。クラークはやがて、同じくアムハーストにあるマサチューセッツ大学( University of Massachusetts)の第三代学長となる。

アムハースト大学は、「US ニュース・アンド・ワールド・レポート”(US News and World Report)」によれば、アメリカのリベラルアーツ大学としてこれまで10度も第1位の評価を受けている。2014年は、同じくマサチューセッツ州にあるウィリアムズ大学(William College)に続いて第2位となっている。大学の評価は、教官への満足度、教官一人当たりの学生数、一クラスの学生数、卒業率、基金額(endowment)など様々な観点からなされる。2012年度の志願者倍率は12倍となっている。それだけではない。年間の授業料と生活費の合算は$48,526というように極めて高い。クラスの89%は30人以下、クラスの平均は16人、教官と学生の比率は1: 8である。留学生は54カ国からきている。

もう一つ、アムハースト大学がなぜ注目されるかである。私と家族が学んだウィスコンシン大学のマディソン校は、創立が1848年。研究中心の総合大学である。2009年に大学理事会によって多くの候補からマディソン校の学長に選ばれたのがキャロライン・マーティン(Dr. Carolyn “Biddy” Martin)である。しかし彼女は、2011年にアムハースト大学からの招聘を受けて、ウィスコンシン大学を去った。学生数43,000人の総合大学学長を辞して、学生数1,785人リベラルアーツの単科大学へ移るというのは実に珍しいことで話題となった。アムハースト大学がウィスコンシン大学より創立が25年以上も古く、伝統のある魅力的な大学であるかを物語る。

Amherst+College   Amherst CollegeChaplin Hall, Amherst College HDR - Amherst, Massachusetts, USA

留学の奨め その17 ThanksgivingとSarah Hale

筆者の長男の嫁ケイト(Kate)は小学校の教師をしながら童謡を書いている。まだ作品は出版されたことがないようだが、、。かつて彼女から米国の女性作家であるサラ・ヘイル(Sarah J. Hale)のことを聞いたことがある。ケイトはヘイルを私淑しているようである。ヘイルは米国のThanksgivingの歴史では忘れられない女性である。今回はThanksgivingのしめくくりとしてサラ・ヘイルに触れる。

ヘイルは、1800年代に沢山の作品を書いた作家である。その代表作は”Mary Had a Little Lamb”という童謡(nursery rhyme)である。童謡はマザー・グース(Mother Goose)とも呼ばれ、英米を中心に親しまれている童話の総称である。

ヘイルが最初に発表した童話は”A New England Tale”。この作品の主題は奴隷制度を扱ったもので、この作品により最初の女性作家の一人と呼ばれるようになった。”A New England Tale”はニューイングランド(New England)の美徳や伝統を信奉し、国の精神的な富として大事にすることを主張した。しかも、当時いた黒人奴隷をリベリア(Liberia)の地に戻すということも主張し、この作品を一躍有名にしたとされる。

この本の二版の序文の中でヘイルは、奴隷主というのは奴隷の兄弟であり、使える者でもあること、そして博愛の精神が正しいことを求め悪を憎むということ、それを忘れていると警告したのである。奴隷制度がいかに非人道的なものであるか、人の道徳的な成長を阻害していることも書いたのである。

1828年、ある聖職者からの招きでヘイルはボストンに移り、ある雑誌の編集長になる。編集長として、彼女は女性が高等教育の機会に浴する必要性を主張し、教育によって女性一人ひとりが知的で道徳的に成長することを説いた。

前置きが相当長くなったが、ヘイルがThanksgivingにいかに関わったかである。彼女は米国で最初にThanksgivingを国民的祝日として主張した女性である。もともとThanksgivingはニューイングランドでは祝われていた。各州でも10月とか1月に設定されてはいた。彼女は歴代の大統領にThanksgivingの祝日とするように要望する手紙を出していた。そしてようやく1863年にアブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)の支持により国の祝日とする法律が制定されたのである。

Thanksgivingは、南北戦争で疲弊し分断された国を統合する象徴と考えられた。それまでは、国民の祝日だったのはジョージ・ワシントン誕生日と独立記念日だけであった。ヘイルはワシントンD.C.の郊外にあるマウントバーノン(Mount Vernon)にあるワシントン邸と農場を記念館にすることやボストンにあるバンカーヒル記念塔(Bunker Hill Monument)の完成のために多額の寄付金集めに奔走した。作家として、また運動家としての彼女の活躍は米国の歴史に記されている。
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留学の奨め その16 Thanksgivingの晩餐

留学生がThanksgivingを楽しく過ごすには普段から心掛けておくことがある。例えば大学の寮などで生活しているときは、米国人の学生らと親密になっておくことである。彼らはThanksgivingの週末には親元に帰って過ごす。友達づきあいをしておくと、必ず「一緒に行かないか、、」と誘ってくれる。

もし普通のアパートを借りていても隣近所の人々と仲良くしておくことだ。一緒にパーティをしたりBBQなどの会合には顔を出して会話することを心掛けておくことが大事だ。またキリスト教会などの礼拝に出席していると、必ず声をかけてくれる。自分からも飛び込むことである。求めると与えてくれるのである。毎日、独りぼっちで生活するのはいけない。

Thanksgivingは、人々が最も旅行する時期である。道路も空港も大混雑する。だが市営バスは本数を減らして運行する。学校、官庁、会社、その他の機関も4日間の休みとなる。多くの町や村ではパレードが行われる。子供も大人にも楽しみな行事である。家族や親戚、友人が集まって宴の晩餐を囲む。

料理の中心は七面鳥(turkey)である。そのほか、グランベリーソース(cranberry sauce)、パンプキンパイ(pumpkin pie)、ジャガイモ(potatoes)、スタッフィング(stuffing)、グレービー(gravy)が卓上に並ぶ。マッシュポテトにグレイビーをかけたものはアメリカ料理の定番のようだ。鳥肉料理にも欠かせないソースである。

宴の前には、必ず家の主が感謝の祈りを捧げる。招かれた者は勝手に皿をとって料理に手を伸ばしてはいけない。テレビでは寒さのさなか、フットボールが中継されている。Thanksgivingが終わるとクリスマスの待降節ーアドベント(Advent)が始まる。

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留学の奨め その15 感謝祭と植民地

Thanksgivingの頃の気候は誠に厳しい。木々の葉はすっかり散り、雪が冷たい風に吹かれて舞う。それだけに家の中の人々の高揚した雰囲気は格別なものがある。祝いの飾り付けも綺麗だ。家の主人はエプロンを着て張り切っている。

マディソンにいた頃、ミルウォーキー(Milwaukee)に住むかつての宣教師ご一家の晩餐に招かれたことがある。インターステート90(Interstate 90: I-90)を車で飛ばした。I-90は、シアトル(Seattle)からボストン(Boston)に至る4,990キロの全米で最も長い州間高速道路である。途中、シカゴ(Chicago)やクリーブランド(Cleveland)、シラキュース(Syracuse)などを通過する。道路際の至るところに「鹿に注意」の看板がでている。

午前中は教会でThanksgivingの礼拝が執り行われる。説教の題となるキーワードは平和、愛、捧げ、喜び、感謝、恵みなどである。例えば詩篇106章の1節では、
「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
“Give thanks to the Lord, for He is good. His love endures forever.” と読み上げられる。

ボストンの南東にある半島はケープコッド(Cape Cod)と呼ばれる。ヨーロッパからの漁民が鱈を求めてきたところのようである。そこに移民しようとした人々は、砂地で水がないことからケープコッドをあきらめプリマスのあたりに植民地:コロニーをつくったとある。移民の中には干ばつや飢饉により多数の餓死者がでるほど、苦しい生活を強いられたようである。それだけに豊穣な収穫に対する感謝がThanksgivingにつながったといわれる。
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留学の奨め その14 感謝祭(Thanksgiving)の由来

苦しい留学生活にもつかの間の寛げる時がくる。9月に始まった学期に一息つける時である。勉強に相当疲れた頃にやってくるのが留学の奨め その14 感謝祭(Thanksgiving)の由来(感謝祭)の休暇である。11月の最終木曜日。今年は11月27日である。翌日はBlack Friday。大抵の州ではこの週末は4連休となる。

1598年に今のテキサス州(Texas) のエルパソ(El Paso)でThanksgivingが祝われたといわれる。1619年には、ヴァージニア植民地(Virginia Colony)でThanksgivingが執り行われたという記録がある。1621年にはマサチューセッツ(Masachusettes)のプリマス(Plymouth)という港町で収穫に感謝する祝いが開かれた。これが現在のThanksgivingの原型だといわれる。

しかし歴史家には別の主張をする者もいる。1623年の植民地に干ばつが長く続いた。その後に雨が降り、幸い作物を収穫できたことを人々は感謝したという。そして祝いの宴(feast)ではなく感謝の礼拝(worship service)が行われたのが原型だというのである。これもなるほどと頷ける。

11月最終木曜日が国民の祝日となったのは1789年である。そのときの大統領は初代のジョージ・ワシントン(George Washington)。すべての州がThanksgivingを祝日としたのは1863年である。

しかし、国民誰もがThanksgivingを祝うわけではない。1970年以降、一部の先住民族であるネイティブアメリカン(Native American)とその支援者は、この日を「全米哀悼の日」(National Day of Mouring)として抗議の日としている。プリマスにあるプリマスロック(Plymouth Rock)の前で記念式典を開いている。また、この日は「アメリカインディアン遺産記念日(American Indian Heritage Day)」ともされている。伝統文化や言語の遺産を再認識する日としている。プリマスロックの前にある記念碑には「1620年に清教徒団が上陸した場所」と記されている。

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留学の奨め その13 リベラルアーツ教育とサービス・ラーニング

あまり聞き慣れない用語であるが、「サービス・ラーニング(Service-Learning)」の概念が注目されるようになったのは、1970年代末以降のアメリカである。大学教育が専門性や知識の習得に偏重しているという批判がひろまり、そのような教育では公正な市民社会を築く上では不十分だと指摘されてきた。知識偏重の教育はいつどこでも叩かれる。受験勉強がそうだ。大学は幸いにして学んだことを社会で活かすことができる機会を備えることができる。それが各種の奉仕活動という体験である。

1982年に設立された非営利のサービス機関にInternational Partnership for Service-Learning : IPSLという団体がある。この組織は以来、主として米国の学部生や院生らを発展途上国にて各種の社会奉仕活動に従事させ、住民との交流を通して開発や環境などグローバルな課題や問題意識を学ぶ運動を推進している。 現在は各国の学生も受け入れている。IPSLのサイト(http://www.ipsl.org/)からService-Learningのなんたるかを簡単に紹介することとする。

サービス・ラーニングは「教室で得た知識が果たして社会生活の実践役立つのかどうかを確認する過程」とでもいえよう。インターンシップにも似ているが活字から学んだ概念や理論が実際の現場で果たして役立つのか、そうでなければ現場から学ぶこととはなになのか、、理論がなぜ適用できないのか、などを思考することではないか。それによって自分の知識の理解を再考し深化させながら、再理論化の作業をする。

次に、サービス・ラーニングはボランティア活動とは異なる。いろいろと周りが設定してくれた環境で活動する。期待されていることをやればよい。だが、大事なことは学生の主体性とか自発性を要求するのがサービス・ラーニングとされる。既存のメニュからだけでなく、学生自らが自分の問題意識にそって、コミュニティに分け入り社会に貢献しようとする気概が求められる。

さらにサービス・ラーニングは、経験の振り返り(reflection)のプロセスを強調する。そうした振り返りは、個人の日誌づけの励行とかブログなどで文字化してもよいし、グループでの討論によって経験を分かち合うことからも生まれる。振り返りは経験知をとおして既存の知識の修正にもつながり、やがて個人の成長に大きく貢献する。

リベラルアーツ教育の神髄とはこうした活字化と実践化の統合にあるように思える。そこからグローバルな視野を広げたり持続的な平和活動への関心が高まることにつながるようにも思える。

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留学の奨め その12 リベラルアーツ教育とボランティア活動の限界

最近の大学におけるリベラルアーツ大学のカリキュラムをみていると、バイリンガルな人材の養成、留学体験による他文化理解、そしてグローバルな資質の養成などなっている。そのために、他文化理解科目の設置や英語による授業、留学生との交流、留学の推進などを掲げている。一体そんな環境で国際的に活躍できる人材が育つのか? 全く「アカン」といいたい。

筆者は、留学とは学位を獲得することと定義している。英語研修とかホームステイによる異文化体験ということではない。ところが多くの大学が学生を仲介するのは、一週間とか二週間の英語研修である。そのため保護者も我が子のために数十万円の出費を強いられる。学生といえば、全くの海外旅行気分である。事前研修というのがある。小遣いはいくら位とか、パスポートの期限は大丈夫か、英語会話の練習とか、ホームステイの心構えとか、、、アホらしくなる。

最近は語学研修からボランティア体験が脚光を浴びているようだ。大学側もその準備のために相当な努力を強いられている。まずは、ボランティアを受け入れてくれるパートナー機関を探すことから始まる。機関は大学であったり現地のNPO法人であったり、政府関連機関であったりする。ボランティア体験は、主として現地での活動の観察や交流、各種の体験、話し合いなどとなる。

しかし、ボランティア体験だけではグローバルな人材を育てることには限界があることが、ようやく認識されてきた。それはボランティア活動の計画がすべて機関間で周到にお膳立てされ、学生の側の声やニーズが届いていなかったことである。受け身の姿勢からは学ぶことの果実は少ない。そこから「サービス・ラーニング(Service Learning)」という新しい発想が生まれてきた。

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留学の奨め その11 リベラルアーツ教育と国際系学部の新設

リベラルアーツを標榜する大学が日本でも増えているようだ。特に「国際リベラルアーツ」を掲げる学部の新設が相次いでいる。こうした学部のカリキュラムを国際系リベラルアーツと呼ぶのだそうだ。だがリベラルアーツの雄は国際基督教大学(ICU)。1949年に創立され、「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とある。戦後間もなくのことである。

かつて筆者も北海道大学の教養部で1年半を過ごした。東京大学にも教養学部があった。リベラルアーツ教育が重視されていた。だが、教養部の勉強は高校の延長のようなところもあった。目新しいことといえば、ドイツ語とフランス語のいづれかが必須であったことだ。それから哲学入門とか人生論ノートなどの本がたっぷり読めた。今思えば、筆者も海外での学びに至ったのは、この教養部時代からなんらかの影響を受けたといえる。

国際リベラルアーツのカリキュラムであるが、原則英語での授業、国際教養科目の充実などを強調している。また外国人留学生との交流とか留学を義務付けるというのもある。これといって珍しいことではない。国際系学部は私立だけでない。長崎大学が新設を検討している人文・社会科学系学部の概要だが、世界の政治や経済、文化を学べるコースを用意し、国際的に活躍できる人材を育てる拠点にするのだそうだ。

なぜこのような様相になってきているかである。それは国の指針「グローバル人材育成戦略」があり、大学はそれに沿って学部を新設しようとしている。我が国を取り巻くグローバル化は急速に進展しているといっても、1990年後半からの海外留学生数の減少、海外勤務を希望しない内向きの学生の増加が報告されてきた。そのため、政府もこのような状況を危惧し「グローバル人材育成推進会議 審議まとめ」を発表した。「高校・大学、企業、政府・行政、保護者等が積極的に若い世代を後押しする環境を社会全体で生み出すことが不可欠」と提言している。これが文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」につながっている。

最近の報道では、大阪や山梨の私立大も「外国語・国際系学部」(仮称)をつくろうとしているそうだ。だが国際系学部は過当競争に陥りつつある。筆者には大学間の差別化が難しくなっているように思える。学生募集に奔走している姿が映る。大学が新しい学部をつくりグローバル化の牽引役になろとしても、そうたやすくことが運ぶものではないはずである。

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留学の奨め その10 米国大学への留学生の増加

米国のシンクタンク(think tank)、国際教育研究所(Institute of International Education: IIE)が発表した2013〜14年度の米国の大学や大学院への留学生の統計は興味深い。国際教育研究所はフルブライト財団の支援によるFulbright Programを主宰したり、国内外の留学生を支援する、いわば米国における国際交流教育推進の旗艦組織である。

この統計によると前年度と比較して8.1%増の約88万6千人で、留学生の総数は1,107万5千人であるという。米国は留学生で支えられているといってよいほどの数字である。率直にいって米国の大学への留学はやはり高い人気があるという印象である。

国別の留学生の数だが、第1位は5年連続して中国人で、27万4千人とあり、これは前年の16.5%の伸びで留学生全体の31%を占めた。第二位はインドで10万3千人の6.1%の伸び、第三位は韓国となっている。日本からは1万9千人。前年度より6.2%減っている。この減少は9年連続して続いている。1990年後半の留学生のピークだった頃と較べで半減してしまったといわれる。

留学生の増加の伸びでいえば、最高はサウジアラビアからの留学生の伸びが21%で5万4千人となっている。ブラジル、クエートからの留学生も大幅に増えている。この理由は国費留学生の増加であるという。

米国の大学で留学生が増加する第一の理由は、優れた高等教育を受けられる環境があるからである。留学中に学位を取得すれば、自国に帰ったときその身分が優遇され、地位や高所得が約束されている場合が多い。今も留学は大きなステイタスとなっている。

第二は派遣先の国内で、高等教育機関を十分な早さで作れないなど、人材養成が追いつかず、そのために留学生が増えているという状況である。若者の向学心を満たす教育や研究環境が不十分ということだろう。

第三は米国は伝統的に留学生の出身国がどこであれ歓迎するという姿勢をとっていることである。中国やインドだけでなく、キューバやイラン、ベネズエラからもたくさんの留学生を迎え入れている。しかも留学生の授業料は高い。大学にとっては大事な収入源ともなっている。

米国との外交関係が緊迫した状態にある国からも米国には留学生が押し寄せている。国際間の緊張が続くとはいえ、留学生を受け入れる体制、例えば人権の尊重、政教の分離、安全が整っているからだと考えられる。

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留学の奨め その9 研究者の仕事探しと異動

今回はアメリカの研究者の異動に関する話題である。若手の研究者とって、大学での仕事探しはどこも大変なものである。 彼らは業績やキャリアが不足しているので、誰もが通過しなければならない難関である。大学におけるポストの空きの広告がでると、自分の研究分野をにらみながら応募することになる。

はじめは、自分の研究業績のレジュメ(resume)を大学に送る。研究業績にはポスドクの経歴も入る。この書類審査を通過すると大学での人事選考委員会に招かれる。この時の旅費は招く側が負担する。ここが日本と違うところだ。首尾良くポジッションを得るしても、大抵は3年の雇用契約である。ここから終身雇用身分であるエニュア(tenure)への途が始まる。雇用契約が切れ更新がないとまた仕事探しである。まるで渡り鳥のように転々とする。その間業績を増やしていく。米国にもコネ(old boy connection)が働く。

もう一つは、大学が特定の研究者に招聘状を出す場合である。招聘する側からの一本釣りである。こうした研究者は研究業績にすぐれ、名が知れた人達である。引き抜く方の大学はその研究者の収入などを事前に調べ、それ以上の条件を提示する。例えば1.5倍の給料をだすとか、という具合である。指名された研究者は、提示された待遇、大学の所在地の環境、同僚となるスタッフの研究状況などを調べ自分の研究にプラスになるかなどを考慮する。

このとき、研究者は自分の上司や学部長などに「他大学から1.5倍の給料でオファーがきているが、もし大学が今の給料を上げてくれれば残るが、、、、」と交渉するのである。学部長が「お前に残って欲しい。給料を上げよう」といえば、他大学からのオファーを断る。「予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」といえば、移ることになる。このように交渉が可能なのが面白いところだ。また学部長も予算やスタッフの給料を決める裁量を持っているのも驚く。

総じて米国の大学における研究者の給与は高いが、雇用契約や安定度に関しては研究職は日本よりも厳しい市場である。

tenuretrackstructure_new tenure_cartoon  “一つの扉はテニュア、もう一つはマクドナルド行きの扉だ”