木枯らしの季節 その十四 間宮林蔵と川路聖謨

私は樺太(Sakhalin)の真岡生まれ。真岡は間宮海峡に面する不凍港です。今はホルムスクと呼ばれています。間宮林蔵も真岡を通過し北上して、やがて間宮海峡を発見します。タタール海峡(Straight of Tartary)とも呼ばれています。

data11 bankokuzenzu1816 hokkaidou_1024px_069江戸幕府にとって蝦夷の開拓は北方の国防にかかわる重要な任務でありました。日本とロシア、清の勢力範囲の確認が急務となっていました。そのため蝦夷周辺の樺太や千島列島、さらには黒竜江付近の地図を作成すること必要がありました。特に樺太一帯の詳しい調査が必要となってきました。林蔵は樺太踏査を幕府に願い出ます。

江戸時代、測量技術や移動手段が貧弱でなおかつ北方に関する知識も皆無という当時、林蔵の探検は苦難の連続だったことは容易に想像できます。Britannicaによりますと林蔵は、伊能忠敬を度々訪問し天体観測による緯度、経度の測定法を中心とする測量の最新技法を学んだことが記されています。忠敬は測量技法を林蔵に教えるだけでなく、彼が使用していた最新の測量器具を林蔵に譲り与えます。

江戸幕府の勘定奉行であった川路聖謨 (かわじとしあきら)も林蔵の北方に関する知識を重要視していたようです。聖謨は1853年に阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱えます。また同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチン (Jevfimij Putjatin) との交渉にも臨みます。そして1855年の日露和親条約締結が林蔵の北方に関する知識に助けられ、日本側が交渉を有利に進めたといわれています。外交交渉の成否は情報の有無が鍵を握るという例であります。

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木枯らしの季節 その十三 シーボルトと高橋景保と情報交換

北方四島の返還とか竹島、尖閣列島の帰属問題などを考えるとき、昔からいかに領土を巡る緊張やそこに関わった人々の気概が伝わってきます。国の統治や発展のために各国が地政学や地理学、生物学、民俗学、植物学などに強い関心を示してきたかもわかります。江戸時代、遠いオランダからやってきたきたシーボルト (Philipp von Siebold)もその一人です。

sibukawa hazama-s 0d000750000000000シーボルトはドイツの医師で博物学者でありました。文政年間といえば1800年の前半。シーボルトは生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集しオランダに移送しています。そうした行為は江戸幕府によって禁制されていました。今でいえば国家の機密を漏洩した、という行為です。オランダはシーボルトが日本で収集した情報を非常に重視していたことがわかります。シーボルトは間諜でもあったようです。

少し時間を戻します。シーボルトはオランダ、ドイツ、ロシアの情勢を伝える書物を持参して日本にやってきます。医学のみならず植物、地図などの洋書です。それを江戸幕府のお抱え学者らも関心を示したのは当然です。江戸幕府の天文方奉行で天体観測、測量、天文関連書籍の翻訳をしていたのが高橋作左衛門、本名は高橋景保です。彼は、シーボルトから紹介された地誌並びに洋書を解読して揃えれば幕府のお役に立つと普段から考えていたようです。

高橋景保は、シーボルトがロシア人著述の書籍や新しい世界地図を持っている事を通訳の吉雄忠次郎から聞きます。この書類を入手し解読して幕府に献上したいと熱心にシーボルトに頼みます。しかし、シーボルトは容易に応じません。そこで景保は交換条件を打診します。シーボルトも日本並びに蝦夷地の良い地図であれば提供できると伝えます。地図を異国人へ渡す事が国禁であるのは景保はもちろん承知しています。しかし、彼は交換しなければ貴重な誌書の入手機会を失うと考えたのです。

シーボルトは最上徳内の訪問も受けたといわれています。徳内は蝦夷地や樺太など北方探査を行った探検家です。彼はシーボルトと何度か会見して学術や北方事情などを話題に対談します。日本研究に熱心なシーボルトに協力し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えたほか、アイヌ語辞典の編纂事情をシーボルトに紹介します。やがて地図などの交換が発覚し、シーボルトが帰国する以前に地図その外が幕府によって押収されます。国禁とされた情報を提供し代償として洋書類を翻訳し役立てようとした気概が大胆な行為につながったと言えるでしょう。

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木枯らしの季節 その十二 風車から帆船へ

皆越尚子氏の『オランダ雑学事始』には、「オランダ人は ”世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った”と自負している」と書かれています。国土全体の30%が海面下にあるというのです。干拓に邁進したオランダ人の知恵と努力は、まさにオランダ人がオランダを造ったといえるのでしょう。

300px-kurofune c0188700_1813284 kanrinmaruオランダといえば、そのシンボルが風車です。それはポルダー (polder)と呼ばれる干拓地の造成に活躍します。ゾイデル海(Zuider) の干拓は有名ですが、風車は排水作業などで大きく貢献したといわれます。そのために風のエネルギーを動力に変える風車のメカニズムは様々に研究されてきたとあります。風車の羽根に張る帆布と角度、方向固定のための滑車、動力を伝達のための心棒や歯車がいろいろと工夫され改善されたようです。

こうした技術は、大型帆船の建造に役立ちました。風車はそのまま帆船の不可欠の部品となって使われ船舶技術に応用されたのです。海洋王国オランダを支える技術の原点はこの風車の発明によるようです。帆船はやがて蒸気船に取って代わられます。

最初の頃の蒸気船は外輪船でありました。水深が浅くても走れるため穏やかな河や沿岸を航行するに便利でした。今も観光目的の外輪船は見られます。蒸気機関を備えた汽帆船もが多く造られました。さらにより推進力のある高速のスクリュー船が造られます。

蒸気船が日本を訪れたのは、1853年の黒船来航最初です。黒船に日本人が驚いたことは頷けます。外輪蒸気船のフリゲート艦「サスケハナ (Susquehanna)」など四隻です。その後、オランダで建造され長崎海軍伝習所の練習艦として1857年に就役したのが咸臨丸。蒸気機関を備えた汽帆船でありました。汽帆船からスクリュー船への転換によって大航海の貿易や戦争の様が大いに変わります。このように、オランダの諸技術が後の日本の産業発展に果たした貢献は計り知れないものがあります。

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木枯らしの季節 その十一 寒風とミッフィ

木枯らしの寒さが真っ最中の話題です。今回は「ふわふわ うさこちゃん」というオランダの童話です。

images tumblr_nc7j49alhb1qa6cy0o1_250-1 img_5651efc580a207e71c5734dc19dc55af152798駐日オランダ大使館のサイトに面白い記述があります。
「日本で最も知られているオランダ人はおそらくミッフィ (Miffy)でしょう。ウサギの女の子、この小さな漫画のウサギはオランダのアーティスト、ディック・ブルーナ (Dick Bruna)により生み出され、老若問わず世界中で愛されています。」

オランダでは、ミッフィのことを「ナインチェ・プラウス」 (Nijntje Pluis) と呼ばれています。 「Nijntje」は、ウサギを意味するオランダ語「konijn」に、可愛いとか小さなという「-tje」を合わせた造語で「Pluis」とはふわふわしたとか毛羽立ったというオランダ語です。

1960年の英語版の出版に際して、「Nijntje Pluis」はミッフィ (Miffy) という名が付けられたと福音館書店のサイトにあります。「ふわふわ うさこちゃん」は石井桃子が翻訳し福音館から発行されます。「ミッフィ・バニー」という名前は講談社から刊行されているものです。ちなみに、福音館は、戦前カナダのメソジスト教会の宣教師が伝道を目的として設立した出版社が前身となっています。

寒さのなかで、暖かい雰囲気を醸し出すミッフィです。
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木枯らしの季節 その十 和蘭陀と日本

ブリタニカ国際大百科事典(Britannica International Encyclopaedia) を参考にしながら、オランダ (和蘭陀) と日本のつながりを考えます。

1600年3月16日。オランダの商船リーフデ号 (Liefde)が九州は豊後国、臼杵のあたりに漂着します。これが日本とオランダの最初の接触です。リーフデ号はロッテルダム (Rotterdam)にあった世界最初の株式会社といわれる東インド会社 (East India Company) の船で、極東を目指す航海の五隻の船団の一隻でした。一行は太平洋上で暴風雨に遭遇し、うちリーフデ号だけがかろうじて日本に着いたのです。

s1293-05-g07 30751_fullimage_voc_overwinning_560x350_560x350 thmb-001当時大坂にいた徳川家康はリーフデ号の乗組員を保護し、日本滞在を許します。その間、造船術、航海術、天文学、数学などを教授してもらいます。1609年にはオランダの使節が駿府で家康と謁見し、通航と貿易を許可する朱印状を得ます。そして1613年には平戸に商館を設置します。それまでは宗教、文学、制度、法律などのソフトを中国や朝鮮から習得してきたわけですが、江戸時代になるとオランダから様々な科学技術などハードを学び応用していくことになります。

徳川幕府は1633年から1639年にかけて五回にわたり鎖国令を発し、切支丹弾圧を行います。ところがプロテスタント国であったオランダは弾圧を免れ、長崎は出島に商館を移します。ヨーロッパ諸国でオランダは唯一、通航や貿易を許されるのです。鎖国がその後の日本の発展に与えたネガティブな影響は計り知れないほどですが、一本の糸のようなオランダとの接触は、オランダ語を通しての蘭方医学やオランダ語研究に進展していきます。そして解剖図表といわれる「Tabulae Anatomicae」を「解体新書」として翻訳します。

レンブラント (Rembrandt  van Rijn)の「テュルプ博士の解剖学講義」 (The Anatomy Lesson of Dr. Nicolaes Tulp) は1632年に描かれたといわれます。この絵を見ますと、杉田玄白や前野良沢、中川順庵らが講義に加わっていたらどんなに興奮しただろうかと想像します。

オランダの東インド会社のことです。この会社は最盛期に150隻の商船、40隻の軍艦、そして10,000余りの兵員を擁していたといわれます。それが東方貿易を支えていました。軍艦はもちろん商船を守る任務です。商船には大砲を積み、兵員も乗り組んでいたといわれます。

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木枯らしの季節 その九 「和蘭陀」の感謝祭とPieterskerk

「感謝祭の原形はライデンから」を振り返っています。駐日オランダ大使館のサイトによりますと、オランダは、「森の地」とか「窪地」を意味するHoltlandからきています。Hollandという呼び方もありますが、「西海岸にある“ホラント”と呼ばれる一部の地域の呼称」ともあります。

leiden_pieterskerk_postcard bollenveld-klein san-pedro-y-san-pablo_672-458_resizeオランダの正式国名は「Kingdom of The Netherlands」。「低地の王国」といってもよいでしょう。したがって「Netherlanders」 とは「低い土地の人々」となります。13世紀以降に海面下地帯の干拓を進め、国土の20%が干拓地です。オランダは漢字による当て字で和蘭、和蘭陀と表記されます。ともあれホラントに韻を踏んだ「蘭」が割り当てられたようです。

司馬遼太郎の「街道をゆく〈35〉オランダ紀行」は、興味あることがいろいろと紹介されています。堤防を造り、風車で水をくみ上げてつくられた土地は極めて平坦ですが、司馬はユーモアを交え、この国の平坦さや自転車の普及を表現しています。オランダは農業生産物の世界三大輸出国の1つでもあります。

・「南に下れば八百屋さんの店先に一盛二百円ほどの山はある。」
・オランダ人は茶目っ気がある。海抜101メートルの山を「マウンテン」と読んでいる。」
・ 「トラック一杯の薬よりも、一台の自転車」

アメリカの感謝祭の起源はオランダにあることは既に触れました。ライデンでは毎年、感謝礼拝が行われます。場所は1100年に建てられたSt. Peter’s Churchというゴシック様式 (Gothic)の教会です。この教会はオランダ語では「Pieterskerk」と呼ばれています。Pieterとはペテロ、St. Peterです。kerkはドイツ語のKirche、英語はもちろんChurchにあたります。St. Peter’s Churchには初代のピリグリム・ファーザー(Pilgrim Father)の指導者であったJohn Robinson牧師が埋葬されています。

日本のプロテスタント教会やカトリック教会の神学者によって1987年に刊行された新共同訳聖書では、Peterに「ペテロ」が使われています。ヨハネによる福音書1章42節でイエスはペテロを 「ケファ(Cephas)」、岩のかけら、石という意味で呼んでいます。「私はこの岩の上に私の教会を建てる」という言葉に由来しています。Cephasはアラム語(Aramaic language)という古語だそうです。

木枯らしの季節 その八 感謝祭がアメリカ引き継がれる

多くのアメリカの人はオランダで感謝祭が始まったことは知りません。巡礼始祖ーピルグリム (Pilgrims)のイングランドからオランダのアムステルダム(Amsterdam)を経由してライデン(Leiden)への移住、ライデンのスペイン軍の包囲からの解放、そして感謝礼拝の挙行といった歴史のことです。

embarkationofthepilgrims3 31b1c1862369c999e9bd7378f9dab925 cape-cod-1100301_960_720_pixabayロンドン市内のカルヴァン派教会の牧師で著作家であったロビンソン(Rev. John Robinson)は1619年頃、35名の会衆、そして無信教の者など66名などとメイフラワー号(Mayflower II)に乗り込みイングランドのスクロービィ(Scrooby)を出発してオランダのアムステルダムとライデンに渡り、そして新大陸のニューヨーク(New York)へと航海します。メイフラワー号がマサチューセッツ(Massachusetts)のケープカッド(Cape Cod)の先端に到着したのは1620年、節季は11月です。ところがこの地が農業に適していないことがわかり、プリマス(Plymouth)付近に開拓地コロニーをつくります。「Plimoth Plantation」です。

新大陸での最初の収穫と感謝祭は1621年であったと記されています。幸い1621年は豊作だったようです。プリマスの辺りに住んでいたWampanoag部族というネイティブアメリカンとの交流が始まり感謝祭に一緒に参加したといわれています。

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木枯らしの季節 その七 ライデンからプリマスへ

北米における感謝祭(Thanksgiving)は、ヨーロッパ(Europe)のオランダ(Netherland)の歴史に遡ることができます。感謝の日の起源について諸説があるようですが、バングス(Jeremy Bangs)という歴史家でライデン・アメリカンピルグリム博物館長(Leiden American Pilgrim Museum)の仮説が有力なようです。バングスはシカゴ大学を卒業し、ライデン大学 (University of Leiden)からPh.D.を取得します。やがてライデン市立ピルグリム文書館 (Leiden Pilgrim Documents Center of the Leiden Municipal Archives)の主任学芸員となり、その後1997年にライデン・アメリカンピルグリム博物館を創設します。

image506 %e3%83%a1%e3%82%a4%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%af%e3%83%bc%e5%8f%b7 plymouth10バングスによると、1573年から74年にかけてスペイン軍がライデン(Leiden)を陥落させようと包囲した史実が基となっています。スペイン軍の包囲からライデンが解放されたことを記念し、感謝礼拝を執り行ったことが感謝祭に発展したのではないかというのです。この祝いが毎年ライデンで開かれる「10月3日祭」 (Oktober Feest)という祭りです。「10月3日祭」 の伝統がアメリカに移住した巡礼始祖と呼ばれるピルグリム(Pilgrim)によって引き継がれたというのは頷けます。

ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた巡礼始祖を乗せたメイフラワー号 (Mayflower)が イングランド(England)のプリマス (Plymouth)を出帆したのは1620年9月6日。そして11月9日にマサチューセッツ(Massachusetts)、ボストン(Boston) の南に位置するケープカッド(Cape Cod)のあたりに到着します。66日の航海です。しかし、メイフラワー号のピルグリムはもともとニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)沿岸を目指していました。そこでケープコッドを離れ南下するのですが、天候が悪くケープコッドに戻ります。ところがケープコッドは塩分を含んだ土地であり、農作物の耕作に不適であるという理由でボストンの東のプリマス(Plymouth)に上陸し、そこにプリマス開拓地(Plimoth Plantation)を定めます。

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木枯らしの季節 その六 最初の感謝祭

中西部(Midwest)や東海岸のニューイングランド(New England)は紅葉も終わりに近づいています。感謝祭 (Thanksgiving Day)が近づいています。私の最初の感謝祭は1977年。ミルウォーキー(Milwaukee)のルーテル教会のLeRoy Hass牧師さん宅に招かれたときです。この先生は長く関東や上越で宣教活動に励まれておられ、日本語はもちろん達者です。日本語で説教ができるくらいですから、その努力はたいしたものです。奥様のSaraさんは暖かいお母さんタイプ。日本生まれの娘のDeborahさんはウィスコンシン大学で看護学を学んでいました。Deborahとはヘブライ語で蜜蜂という意味です。Hass家は代々靴作り職人だったそうです。

edward-frascino-turkey-with-sign-the-world-will-end-nov-27-new-yorker-cartoon1 h54 59578f678263f71832ae79e247fd013fマディソン(Madison)から東にインターステイト94(Interstate 94)を70分ほど走るとミシガン湖です。晩秋の湖は寒々としています。木枯らしの寒さではなく冷たさそのものです。粉雪が風で舞う日でした。お家はこじんまりした小さ目の造りです。中西部の一軒家には必ず地下があり、子供の遊び部屋やロンドリーとなっています。

アメリカでは11月の第4木曜日、カナダではすでに終わりましたが10月の第2月曜日です。多くの州は感謝祭の翌日の金曜日も祝日扱いとして4連休となります。慈善団体などがホームレスなどの人々に温かい七面鳥料理を振る舞うのも恒例となっています。

感謝祭の夕食は感謝の祈りから始まります。
  O God, when I have food,
    help me to remember the hungry;
  When I have work,
     help me to remember the jobless;
  When I have a home,
     help me to remember those who have no home at all.

会話がはずむ食卓です。ですが成田一家にとっては最初の感謝祭です。周りを見ながら食事するのは緊張するものです。それを解くには少し時間がかかりました。

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木枯らしの季節 その五 為替に変動が

番狂わせ (Upset)の大統領選挙後は、株や為替に変動があるだろうといわれていました。私は、トランプが勝利したら為替が動きドルを買おうと考えていました。自由貿易主義から保護貿易主義に転換するとアメリカの成長は阻害され、それによりドルが安く、円が高くなるだろうという筋書きです。経済の動向に全く土素人の私ですら理解できそうな展開です。ところが 「トランプ勝利=円高」 というシナリオは吹っ飛んでしまったようです。11月14日は1ドル108円という円安です。輸出産業にはホクホクです。経済現象はそんな単純なものではなさそうです。

%e6%9c%ac%e5%91%bd%e3%81%aetpp%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%8a%98%e6%9f%842 map bauer-fertilizer選挙直前、クリントンが3ポイントリードといった報道でした。これは総得票率のことをいったのです。選挙人の獲得は勝者総取り方式 (Winner-take-all)ですから、選挙人の多い州で勝利するかによります。オハイオ(Ohio)、フロリダ(Florida)、ペンシルヴァニア(Pennsylvania)、ノースカロライナ(North Carolina)といった州をトランプは得票数で上回りました。これが勝敗を分けたのです。

選挙人の数は州の人口によって定められています。一票の格差というものは問題になりません。勝者総取り方式を改めよう、といった声はほとんど聞きません。投票日ですが、「11月の第1月曜日の後の火曜日」、1日が火曜日となる日を除く11月の第1火曜日となっています。今年は1日が火曜日だったので11月8日となりました。この投票日は建国直後から定められています。11月としたのは建国時代は農業が主要産業ですから11月が農閑期だったからです。いまもアメリカは農業が主要な産業であることは間違いはありません。

マサチューセッツに住む長男からは、今回の結果に驚いたとのメールが来ています。この選挙結果は自分たちの生活になんの支障もないといっています。いわゆる「No Problem,,」というやつです。ちょっと呑気すぎやしないか、という心配もあります。

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