初めに言葉があった その49 デフレからの脱却  その10 「一ドル=360円」

暫くインフレとデフレのことを話題にしています。この二つの現象に直結するのは基軸通貨である米ドルと円の相場です。外国為替について私は、たいしたことではないのですが三度の経験をします。

最初の経験は、1972年の沖縄の本土復帰のときです。幼児教育を始めるようにとの指示で1970年に那覇へ家族を連れて赴任しました。一ドル=360円のときです。このとき沖縄はドルが使われていました。そして復帰の1972年、一ドル=300円と設定されました。固定相場です。高度経済成長の頃です。当時の首相は佐藤栄作です。

復帰前にドルでの預貯金を持っていたほとんどの沖縄の人は、この変換レートによって損をしたのです。沖縄キリスト教短期大学の学長がしきりに嘆いていたのを覚えています。一ドルで60円も損をしたのです。今からすれば、超円安です。円の価値が低いインフレーションの時代です。さらに1973年10月に起こった第一次石油ショックにより一ドルは280円台に急騰しました。

第二の経験は、国際ロータリークラブより奨学育英資金を頂戴したときです。一年間の資金は19,000ドルでした。1978年に渡米したのですが、そのときのレートは確か一ドル=175円位で推移していました。このとき、円で奨学資金を貰っていたら、ドルを買うとして大分目減りしたはずです。

ドル/円の相場は、1976年10月まで米国の景気拡大を背景として日本の輸出が顕著な伸びを示し、経常黒字が拡大したことから円高が進みました。アメリカにおける日本製の小型自動車の輸入が増大し、周りの人の中にも日本車を購入する者が増えていきました。1985年9月にニューヨークで先進五か国の蔵相らが集まって為替レートの安定化に関する会議が開かれます。当時、アメリカは対日貿易が大幅に赤字でした。そのためアメリカは円高ドル安に誘導する必要がありました。これが「プラザ合意」 (Plaza Accord) です。アメリカが「プラザ合意」を目論んだのは赤字の是正のためです。1年後にはドルの価値は下がり150円台で取引されるようになります。

第三の経験は、円高が続いたころです。1995年4月には1ドル=79円という値がつきました。それから10年後の2005年に退職したときに得た僅かの円で、1ドル90円でドルを買うことにしました。まだ円高といえる頃です。当時の首相は小泉純一郎でした。なぜドルを買おうとしたかですが、3人の子供と孫たちはアメリカで仕事をし生活していました。特に孫の誕生日が近くなるとプレゼントを贈るのですが、彼らが何を欲しているのか、たとえ服であってもそのサイズはなにか、ということで悩みました。そこでドルを送るのが一番手っ取り早いと思いました。

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初めに言葉があった その47 デフレからの脱却  その9 「終活」

四文字熟語が多いなと感じていましたが二文字熟語も多いのですね。シュウカツという言葉をきいていたら「就活」ではなく「終活」だったので私は頭をかきました。2010年頃からこの言葉が出回ったようです。この単語を知らなかっただけです。ちなみに「終活ジャパン協会」というサイトも見てみました。

人生でタチが悪いことの一つは、「自分は明日は死ぬことはないだろう」と思い込んでいることでしょう。七十代でも八十代の人もそう思っている人が大半です。「今自分は健康だから」、「毎日健康に留意しているから」、「病気したことがないから」、「家系は皆長寿だから」、、、ですが確実に鬼籍に向かっています。

「終活」はなぜ必要なのでしょうか。残される者への心遣いでしょうか。その他、自分の体と財産のことでしょう。入院したら延命措置をどうするか、献体したほうがよいか、葬式の宗派や墓はどうしてもらうか、一体誰に相続させるか、誰が手続きするかなどなどあります。「就活」は一生を決めかねない出来事です。それに比べて「終活」はエンディングにあたっての備えですからたいしたことではないといえるでしょう。

幸い私にはこれといった財産はありません。残された者は苦労しないはずです。住み家は連れ合いが相続し、僅かの預金は三人の子供で分割するように伝えてあります。簡単なエンディング・ノート (ending note)は長男らに伝えてあります。

インフレーションと終活ということです。これからはしばらく葬儀屋さんの商売も忙しくなるようです。ですが葬儀費用を抑えようとするいろいろな工夫がされています。かつてのような豪華で高価な葬儀は市井ではあまり見られません。気軽な「プチ終活」も人気があります。もはや冠婚葬祭に関しては恥も外聞も気にする時代でなくなりました。実質婚も家族葬も年々盛んです。ウエディングもエンディングでも「インフレはもったいないことだ」という雰囲気です。私も終活はデフレでよいと考えます。静かに送り送られるのがいいのではないでしょうか。

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初めに言葉があった その46 デフレからの脱却  その8 「「患者のための薬局ビジョン?」

日本薬剤師会によると75歳以上の高齢者だけでも残薬は年間およそ475億円分に上ると推計されています。薬は飲まないことにこしたことはないのですが、、、これほどの薬が無駄になって医療費に反映されていると考えると苦々しくなります。国民の医療費に占める薬局調剤医療費は14.2%だそうで、その伸びは11年で372%以上、国民医療費での比率にして3倍強というのです。いかに薬剤の処方が増えているかを物語ります。高齢化の進行によって薬を必要とする人が増えているという理由だけの数字ではありません。

医薬分業が始まったのは1974年。これを機に病院と薬局の経営が別となりました。ただ薬局は道を挟むなど分かれて立地することを義務付けられていて「門前薬局」が立ち並ぶことになりました。沢山の薬局の看板を見ながら、果たして経営は成り立っているのかとさえ思ってしまいます。厚生労働省は2015年10月に「患者のための薬局ビジョン〜門前からかかりつけ、そして地域へ」という方針を打ち出しています。これを読みますと「かかりつけ薬剤師・薬局が持つべき機能」として、服薬情報の一元的・継続的な把握とか、服薬情報の一元的・ 継続的な把握とそれに基づく薬学的管理・指導とか、かかりつけ医との連携により地域における総合的な医療・介護サービスを提供する、などとあります。

連れ合いには、ホームドクターがいます。いつもクリニックの隣にある「かかりつけ薬局」で薬をもらいます。この薬局は (1) 連れ合いの薬や体質の情報を一元的に管理している、(2) 連れ合い宅を訪ねて副作用や飲み残しがないか確認しドクターに報告している、(3) 医師に処方の変更を提案している、かといえば全くそんなことはありません。こうした実情を改善しようとするのが「患者のための薬局ビジョン」らしいのです。

厚生労働省のこのビジョンによれば、患者が選んだ「かかりつけ薬局」が、ホームドクターと連携して患者の服薬状況の全体を把握するよう促すことで、医療の質を高め医療費の削減につなげようと意図しています。「果たしてうまくいくのかな、、」という疑問が沸いてきます。
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初めに言葉があった その45 デフレからの脱却  その7 残薬はどうしてでるのか

私は幸いにしてこのかた薬を定期的に飲んだことはありません。70歳を過ぎてのちょっとした誇りです。連れ合いは長年、食後に服用しています。それも一つや二つではありません。ドバーッとした量です。丁寧に箱に詰めた複数の薬を食卓に広げます。服用後は空になった箱にまた薬を詰めるという作業です。これで食事が終わりです。なにか儀式のようです。

彼女は定期的にかかりつけの医院に出かけては薬を処方してもらいます。三週間に一度くらいです。「二ヶ月分を出してくれればいいのに、、」とブツブツいっています。だんだん出掛けるのが億劫になるようです。薬を飲んでいると精神的に安心するのでしょうか、、、一二度飲み忘れたとしても症状が進行するものでしょうか? 少しずつ薬は減らして欲しいと思います。プラセボ (placebo) を与えて、本物との違いを調べて欲しいものだとも感じます。多分、違いはでないのではないでしょうか。

今、残薬問題が深刻化しています。「飲み忘れ」や「飲み残し」が服用者の70%近くを占めているという数字があります。特に高齢者の飲み忘れがひどいようです。飲み忘れによって体調が良い、と感じたときは薬をやめて欲しいものです。かかりつけの医師も患者の健康状態を把握して、「薬の処方はもうやめましょう」といってもらいたいのです。そして、もっと外にでましょうとか、車をやめて歩きましょうとか、出かけて買い物は楽しみましょうとけしかけるのはどうでしょうか。高齢者もそうした後押しの言葉で体調に自信がでてくるはずです。

過度に薬に頼るのは、薬がないと不安に駆られるからだろうと察します。患者に「薬の量を減らしましょう」といっても効果があるとは思われません。なにせ、薬中毒のような状態にあるからです。そこで、医師は思いきって予備患者のような高齢者には薬を減らす決断をしてもらいたいものです。そして、点数を稼ぐのをなんとしても自粛してもらいたい。医師の倫理に期待したいものです。
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初めに言葉があった その44 デフレからの脱却  その6 「AD/HDは作られた病」

“注意欠陥多動障害(Attention Deficit/Hyperactive Disorder: AD/HD) の父”といわれるのが、アイゼンバーグ(Leon Eisenberg)という児童精神科医です。臨床心理学者でもあります。2009年に亡くなるまで、アメリカにおける児童精神医学界で活躍した人です。特にアメリカ精神医学会が発行している「精神障害の診断と統計の手引き(DSM)」や世界保健機関によるInternational Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems(ICD-10)の作成にも貢献しました。

2013年5月にアイゼンバーグが「AD/HDは作られた病であることをAD/HDの父が死ぬ前に認める」という記事がでました。アイゼンバーグが亡くなってから4年後のことです。アイゼンバーグは、AD/HDの研究や過剰な診断と相まって薬の売上を増加させた、と述懐したとあります。注意欠陥多動障害もまたインフレを起こしていたのです。

アイゼンバーグは言います。「実際に精神障害の症状を示す子供は存在するものの、過剰な診断と製薬会社の影響とによってAD/HDの患者の数が急増している。」 AD/HD患者の数が急増しているのは、AD/HDは過小評価されて、小児科医、小児精神科医、保護者、教師たちに思い込ませた製薬会社の力と、それまでは正常と考えられていた多くの子供がAD/HDと診断されたことによるものであるという衝撃的な発言です。

アイゼンバーグは、アメリカでは、製薬会社と医者との良好な関係によって子供たちが流行のようにAD/HDと診断され、薬物治療を受けている」ことに警告したのです。彼は、「AD/HDとは虚構の疾病である (AD/HD is a fictious disease.)というのです。一つの疑問ですが、なぜ、著名な研究者が死ぬ前に過剰な診断と薬の処方の増加に警告しなかったのかということです。

何事も恣意的に引き起こされることは恐ろしいことです。輪転機を回してやみくもに紙幣を印刷することもそうです。いくらデフレからの脱却とはいえ、給料も上がらず物価が2%上昇してお金の価値が下がっては若年労働者や定年退職者には堪えます。診断のインフレとは、正常を疾病として薬の処方が増え、教育サービスが増え、障害年金が増え、製薬企業の利潤が増えることです。そしてなによりも恐ろしいことは、子供を薬漬けにすることです。双極性障害(躁うつ病)(bipolar disorders) で薬漬けになり命を絶った高校生を知っています。
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初めに言葉があった その43 デフレからの脱却  その5 「偽陽性と偽陰性」

自閉症の増加に関してです。端的にいえば、診断のインフレ現象には精神医学界と製薬業界との「癒着」に似たところがあります。この両者は昔から持ちつ持たれつの関係にあります。医者は薬物療法として疾病に効き目のある薬を必要とします。製薬企業は新薬とか特効薬の開発にしのぎを削っています。「新しい診断には新しい薬が必要になる」ということです。今も昔も製薬は巨大な産業です。

診断とは難しい行為だと考えられます。誤診は日常的にあるものです。二つの誤診という過誤があると思われます。偽陽性(false positive)と偽陰性(false negative)です。前者は、疾病でないにもかかわらず疾病だと診断し、何らかの治療をすることです。無実の人を有罪にすることもこれにあたります。後者は、疾病であるにもかかわらず診断を間違え処方しないことです。ガンの発見を見間違え、治療を怠ることです。真犯人を無罪にするのもこれにあたります。

さてどちらの誤りとして重大かということです。通常は、疾病でいえば後者の偽陰性がたちが悪いと思われます。犯罪でいえば前者のほうが重大な問題であるように思われます。「自閉症がふえている」という現象でいうならば、前者のほうにあたります。危ういものには小さ目の網をかけておいたほうがいいだろうという判断です。これは幾分とも納得いくことです。こうして正常を病的とみなすという診断のインフレ現象が起きるのです。

一度診断されると何からの処方が続きます。その例が薬の処方です。新しい診断には新しい薬が必要となってくるのです。製薬会社が強烈なマーケティングを行い、新しい患者向けの薬の導入を医師に促すのです。DSM-4はこうした診断のインフレを防止できなかったという反省が表明されています。そしてDSM-5へと改訂されていきます。

別な理由として自閉症の発生率が増加したのは、自閉症が特別な学校サービスを受けるための要件となったことにも理由があります。診断書を貰いやすいという噂によって、保護者が特定の医者を選ぶという事例もたくさんあります。担任教員を補助する加配の教員を配置するにも、個別の指導に対応するにも診断が基となるのです。
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初めに言葉があった その42 デフレからの脱却  その4 「特定不能の自閉症スペクトル 」

那覇の幼稚園で出会ったAという子供です。この子は発語や会話がありませんでした。話しかけても指示しても応対しないのです。ただ、視線は合う状態です。粗野や自傷的な行動はなく、周りに迷惑をかけることはありません。興味や行動は多岐にわたり、同じことを繰り返すということはあまりありません。むしろ何かを探しているという状態でした。暑い沖縄ですので水遊びが好きで、保護者の寄付で造った小さなプールに入ることもありました。プールの中で一緒に泳ぐとか練習するということは嫌がりました。私は素人なりに「この子は自閉症ではないか」と考えていました。

DSMの診断基準では、自閉症スペクトラム障害 (Autistic Spectrum Disorders: ASD)については次のような基準を挙げています。
1  コミュニケーションにおける質的な障害
2  意思伝達の質的な障害
3  同じような形で繰り返される行動・興味・活動

第一は、対人関係の形成が難しい「社会性の障害」ということです。他の子供や大人と関わりをもとうとしないことです。第二は、ことばの発達に遅れがある「言語コミュニケーションの障害」です。会話が成り立たないのです。第三は、変化を嫌う「想像力の障害」ということです。

A児は、今思えば、DSMの診断基準にある、三番目の常同的な行動や興味に集中するということはないので、果たして自閉症といってよいのかは分かりませんでした。今思えば、特定不能の自閉症スペクトル (Autistic Spectrum Disorders – Not Otherwise Specified )というところです。自閉という状態は多岐にわたり程度もさまざまであることを知りました。

もう一人のBという子供です。この子は、A児とは正反対に会話ができ、行動も活発で集団行動も上手な子供でした。視線がしっかりと合い、指示に従って動く子供です。しかし、好き嫌いがはっきりしていて、ときに教師の指示を嫌がることもありました。周りの同胞との遊びでは自発的な動きを好むために、いざこざが起こりました。自分の意志が通らないときは相手を叩いたりして咬んだりして叱られることがありました。「乱暴者」でした。今の呼び名では「広汎性発達障害」(Pervasive Developmental Disorders: PDD)という分類にはいる子供だったかもしれません。

B児の目の表情から怒りや寂しさが伝わってきました。周りから孤立しがちだったのです。「溶け込む」のが苦手なのです。うまく立ち回るスキルがまだ不十分だったのです。それと年齢相応の言葉の能力も未発達でした。自分自身に困り感があったはずです。母親は毎日幼稚園に送迎していました。家でのB児の様子などを報告してくれる暖かい母親という印象でした。兄弟もB児をかばうなど良好な兄弟関係がうかがえました。私はといえば幼稚園での生活で試行錯誤しながら、B児への指導のとっかかりを探す毎日でした。
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初めに言葉があった その41 デフレからの脱却  その3 「自閉症スペクトラム障害」

私が自閉症に出会ったのは沖縄の幼稚園で働いていたときです。不思議な行動をする幼児がやってきました。園児も少なかったので受け入れることにしました。それから私の勉強が始まったようなものです。石井哲夫氏の「自閉症児がふえている」という本を見つけました。1969年頃でDSMの第2版が出た頃です。この「自閉症児がふえている」というタイトルは、実は、DSM-2の診断基準によるところが大きかったことを後で知ることになります。

現在のDSM-5では、自閉症スペクトラム障害 (Autistic Spectrum Disorders: ASD)は、様々な神経発達症(neurodevelopmental disorders)の中で分類された一つとされています。これまでの広汎性発達障害 (pervasive developmental disorders) を再定義しています。このように精神医学者や心理学者の中で自閉症の定義が変遷してきたのですが、保護者や子供にとっては一体どのような恩恵があったのかと考えてしまいます。

全米精神衛生研究所 (National Institute of Mental Health: NIMH) の所長を13年間勤めたインセル (Thomas Insel) は次のようにいっています。 「NIMHはDSM-5の診断カテゴリを黄金律としては扱わない。むしろ症候を基準としたカテゴリとして援用する。」こうしたコメントに対して、アメリカ自閉症協会も非常な賛意を表明しています。インセルは、全国自閉症協議会 (Interagency Autism Coordinating Committee: IACC)の委員長としても活躍する人です。

国際的な診断がインフレに向かい始めたのは、DSMの広範囲な普及にあると考えられます。我が国もDSMの影響を受けて出版関係だけでなく、医療関係や製薬会社などに広く需要が拡大していきます。既述しましがた、50年位前、ASDは10,000人に3〜4人だと言われてきました。しかし今、日本では1,000人に1〜3人の割合で生じているといわれます。アメリカ疾病予防管理センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC)によれば、およそ68人に1人がASDであると確認されています。

発生率とは、どこまでをASDの範囲とするかによって違ってきます。それにしても発生率が増加してきたのは間違いありません。もし診断基準が拡大したのなら、なぜ以前はそんなに狭いものだったのか、という素朴な疑問が沸いてきます。疑わしきものは、何らかの診断をして処方するという機運が高まってきたのです。
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自閉症診断のグラフ

初めに言葉があった その40 デフレからの脱却  その2 「自閉症」

英国の精神医学者であるラター (Michael Rutter) は1972年頃に自閉症の発症率は10,000人に3〜4人 (.03%)だと主張しました。当時、自閉症は、虐待など母親の愛情が不足であったり、母親と分離したことが原因で発症するとされていました。

自閉症研究者として名が知られていたベッテルハイム (Bruno Bettelheim) が著書「自閉症・うつろな砦」(The Empty Fortress: Infantile Autism and the Birth of the Self) 等の著作で「冷蔵庫マザー説」 (refrigerator mother) を説き、養育者の態度などの後天的な理由で発症するということを強調します。ジョン・ボウルビィ (John Bowlby) という英国の精神科医も同様に「母性的養育の剥奪」(deprivation of maternal cares) といった愛着行動の不足が自閉症の根底にある課題だと主張します。こうした子供を取り巻く環境説が広く社会一般に信じられますが、やがて誤りであるとして否定されます。

おさらいですが、自閉症とは、1人遊びが多く、 特定の物に強いこだわりを示し、コミュニケーションのための言葉がでないといった状態です。関わろうとするとパニックになったりもします。前述したラターは、自閉症は兄弟間での出現率は.2%と発表し、遺伝ではないかという仮説をたてます。アメリカの発達心理学者、リムランド (Bernard Rimland) は自閉症は神経発達の不全により障害であると主張します。

リムランドは、アメリカ自閉症協会 (Autism Society of America)の設立に尽力します。この協会もアメリカ精神医学会 (APA) も自閉症は先天性の脳機能障害であるという立場にたっています。次回は「診断のインフレ」について考えます。

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Bruno Bettelheim
Michael Rutter
Bernard Rimland

初めに言葉があった その39 デフレからの脱却  その1 「診断のインフレ」

インフレーション (inflation)とは望ましい現象なのかを考えています。普通、インレーションとかインフレとかは、物価が上昇し通貨の価値が継続的に下がる現象といわれます。日銀券を大量に印刷すると物の値段が上がる、というように理解すればよいでしょうか。その逆がデフレーション (deflation) です。一体市場にどの位の貨幣を適量に流通させればよいかは、貨幣論者にお任せすることにします。

インフレは経済社会だけに見られる現象ではありません。精神医学の世界にもあるのです。アメリカ精神医学会 (American Psychiatric Association: APA)という学会があります。その創立は1844年とあるように伝統のある学会です。この学会が発行する本に「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders-DSM) があります。DSMは日本でも翻訳されています。DSMの出版は厳格な著作権が管理され、年間500万ドルという収入を上げています。世界各国での翻訳や出版から得られる収入です。

このマニュアルの初版が出たのは1952年です。その後1968年、1974年、1980年、1987年、1994年、2000年と順次改訂が加えられ、2013年に出たのが現在のDSM-5です。一般的にアメリカでは病院やクリニック、さらに保険会社は患者を治療するためにDSMの診断を要求しています。このようにDSMは臨床面では広く用いられ、また研究目的のために患者の状態をカテゴリ化して診断基準が検討され改訂されています。

幾たびとマニュアルの改訂が続く歴史は何を物語るのかが私たちの関心をひきます。DSM-5は良くまとめられているという評価がある一方で、なお多くの懸念すべきことも多いといわれています。それは診断の基準が、なにが最も信頼性や妥当性を有するのかについて主観的な判断に頼っているといわるのです。診断の不一致をいかに収束するかということがマニュアルの改訂に現れていると思うのです。

私たちの心の発達にはいろいろな要因があります。生育史、両親との関係、心的外傷 (psychological trauma) 、人間関係のストレス、過労、睡眠不足などが発達に影響してきます。素人考えなのですが、精神的な疾患というのは、人間社会の規範にあった振る舞いや発言をしているかとか、日常生活に支障をきたすことがないといったことを手本として診断されるようです。多くの精神科の医師も発達の研究者も、個々人の心の発達の基底にあるものが多様なために診断に悩まされているのは容易に想像できます。そこで「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」といったものが広く出回るとことになります。

「デフレからの脱却」は、精神障害の現状になにをもたらしているかを数回にわたり取り上げます。

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