日本におけるキリスト教信仰の自由が回復すると、カトリック教会と正教会、そしてプロテスタントの諸教会の多くの宣教師たちが続々と来日します。改革派、会衆派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニオン派、フレンド派などです。宣教師はまずは学校作りなどの教育活動を始めて、人々の信頼を得ていきます。西洋文明を日本に伝え、だんだんと聖書と聖歌および讃美歌を日本人に伝えていこうとしました。
パリ外国宣教会は慈善事業や社会福祉事業に力を注ぎ、貧しい人々への宣教活動をしたことで知られています。御殿場に療養所を設立し、ハンセン氏病患者を収容します。熊本にも同じような療養所をつくります。1880年に孤児院を開設したのもパリ外国宣教会です。長崎の西出津町に女子救助院というのを設立して授産活動を始めます。そこに修道女となった者は、フランスからのもたらされた技術によって織布、編物、そーめん、マカロニ、パン、醤油の製造などを行い自給自足をしていきます。こうした働きの中心に立ったのは、マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)という宣教師です。
1888年には築地教会の近くに後の雙葉学園の前身となる高等仏和女学校が開かれます。プティジャン司教は、フランスの女子修道会からも修道女の派遣を依頼し、来日した修道女らは1877年には、神戸で後の大阪信愛女学院となる孤児院と学校を創設します。