心に残る一冊 その86  「いさましい話」 津田庄左衛門

普請奉行の津田庄左衛門は「尤もいずれ江戸にお帰りになるというのなら、敢えて敵をつくることもないでしょう」と国許に派遣された若き勘定奉行の玄一郎に忠告します。
「私は江戸へは戻りません」
「こんなことを申し上げるとお笑いになるかもしれませんが、それはこの土地の人を嫁にもらうことなんです」
「この土地の人と結婚すれば姻戚関係もできるし、またその妻の力もいろいろな面で役立つと思うのですが、、、」

地元で土地で結婚すれば親戚ができ、いちおう土地に根を下ろしたことになり、江戸から来て江戸に帰る人間でなくなるというというのが玄一郎の思慮です。

勘定所の中で、部下の益山郁之助、三次軍兵衛、上原千馬は玄一郎をなんとか陥れようとあの手この手を使って不満をかきたて、江戸に帰そうとして果たし合いまで画策するのですが失敗します。そして、玄一郎地元の女で美貌の松尾と祝言をあげるのです。松尾に懸想していた若侍達の反発感情を昂めます。

そこに事件が起こります。領内にある山の檜の一部を浪花屋という業者に払い下げる代価として五百両を玄一郎が受け取ったという訴えです。巧妙に玄一郎の署名があり、勘定奉行の役印が捺してある証書も提出されます。玄一郎は一切釈明はせず、城内に押し込めらます。その始終をきいた津田庄左衛門は浪花屋の手代と会い、益山ら三名の企みであることを察します。そこで玄一郎に罪が及ばぬよう庄左衛門は主謀者と名乗り、証書は自分が作り、役印も自分が盗んで捺印したと自訴します。庄左衛門は家禄を取り上げられ国外追放という処分が下ります。玄一郎は監禁から解かれます。

然し、妻の松尾は自分の父から津田庄左衛門の過去のことを聞いていたのです。庄左衛門は妻と子どもがいたにも拘わらず、ある女性と恋仲になり子どもを生んだことがあるというのです。その子どを笈川家に出すのです。時が経ち、庄左衛門はそのことをすっかり忘れていたのですが、妻と長男に先立たれる頃から、その子のことを思いだし、自分の過失の重さを振り返ります。己の子を物でもくれるように他人に遣ったという悔いです。

松尾は玄一郎に云います。「あの方、津田さまはあなたの実の父です」。こうして津田の穏やかな淡々として話しぶりを思い出され、実の親が子をおもいやる言葉であったことを玄一郎は知ります。「叱られたり折檻されたことはおあいですか」と云われたとき、自分はなんと答えたかもよく思い出せないのです。然し、津田が安心し頷いた表情は記憶に残っています。「わたしは悔いの多い人間ですから、、」と溜息をついてさりげなく云った声が玄一郎の耳にさまざまと聞こえるのです。