ヨーロッパの小国の旅 その十四 ブルガリアの旅

2016年6月に、私は家内とでトルコのイスタンブル(Istanbul)にある日本人学校で教師をしていた友人を訪ねました。地図を見ながら、イスタンブルだけを観光するのはもったいないと思いました。そこで選んだのが西隣にあるブルガリア(Republic of Bulgaria)です。イスタンブルからブルガリアの首都はソフィア(Sofia)まで飛行機で一時間の距離です。

ソフィア(Sofia)というなんとも芳しいような名前です。ソフィアはギリシア語で叡智とか知性という意味です。哲学は英語でPhilosophy, Philosophiaで、Philoとは愛という意味です。SophiaとかSophieなどとも使われる女性名詞です。私事ですが孫娘もSophia。この名詞は人名の他に都市や組織にも使われます。上智大学(Sophia University)とかアヤソフィア(Hagia Sophia)がそうです。アヤソフィアは別名Sancta Sophiaといい「聖なる叡智」という意味です。

ソフィアはヨーロッパ最古の都市の一つであり、この街はかつて東ヨーロッパ周辺に住んでいた民族トラキア人(Thracia)の集落、セルディカ(Serdica)と呼ばれていたとあります。有史以前のトラキア人集落跡が現在のソフィアの中心で見つかります。その歴史は7千年以上に及ぶとされます。紀元前29年にセルディカは古代ローマ(Ancient Rome)によって征服されます。古代ローマとは、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家といわれます。

セルディカは発展し、やぐら、防壁、公衆浴場、役所、一般の教会堂より上位にあるバシリカ(basilica)が造られます。特に。東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(Justinian I)の時代には繁栄を謳歌したようです。この時のセルディカは巨大な城壁に囲まれており、その一部は遺跡としてソフィアのダウンタウンで見られます。そういえば、ダウンタウンの駅名もSerdicaで名残を留めています。セルディカの発掘と保存作業は続いていました。

イスタンブルに行く前に、バルカン半島の地図を見ながらブルガリアとかルーマニアをも訪ねてみたいという気持になりました。

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ヨーロッパの小国の旅 その十三 ラトビアの歌と踊り

バルト海の真珠”と称されるのが首都リガ(Riga)の旧市街です。世界遺産にも登録されています。一度訪ねたいものです。リガには12世紀後半ごろからバルトドイツ商人(Baltic Germans)が移住し、1282年にはハンザ同盟に加盟して貿易拠点として急速に発展を遂げます。その影響を受けてでしょうか、写真で見ますと旧市街には北ドイツ風のゴシック様式(Gothic)やロマネスク様式(Romanesque)の優雅な街並みが広がっています。厚い壁と小さな窓、細い柱や尖頭と円形のアーチ、石造天井、壁の彫刻などがこうした様式の特徴です。

バルトドイツ商人の祖先はドイツではありませんでした。やがて定着していくにつれてドイツの文化を取り入れ、上流社会を形成していきます。そしてラトビアとドイツの文化が融合していきます。20世紀になるとドイツ、アメリカ、カナダなどへ移住していく者が増えます。

しかし、土着のラトビア人は融合ではなく農民独自の文化を維持しながらキリスト教の伝統に結びついていきます。その代表といえる行事は、「ヤニ」(Jani) と呼ばれる夏至の祝いです。この祭りは聖ヨハネ(St. John)の洗礼を祝うものでもあります。自然崇拝や多神教の信仰色もあります。

ラトビアの伝統的な歌や踊りは何百年も受け継がれてきました。百二十万以上の伝承物語があり、三万以上の民族音楽が残されています。ラトビアの歌と踊りの祭典(Latvian Song and Dance Festival)は、1873年以来続いています。5年毎に開かれ30,000以上の人が集うとされます。歌と踊りのレパートリーは古典的で簡素化された教会様式アカペラ(A cappella)から現代的なものに及んでいます。

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ヨーロッパの小国の旅 その十二 第二次大戦とラトビア

1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツとソ連との不可侵条約によりラトビアをはじめとするバルト三国はソ連に併合され、共産党の厳しい統治下に入ります。ラトビアはソ連との間で相互援助協定を結び、ソ連軍の駐留を認め空軍と海軍基地を提供します。1940年6月にソ連はラトビアに侵攻し、ラトビアはソ連の衛星国となります。ラトビア人もバルト系ドイツ人も厳しい迫害を受けました。35,000人以上の知識人らは追放され、北方ロシアやシベリアの強制収容所に送られたと記されています。この時代は「恐怖の年代」(Year of Terror)と呼ばれます。ドイツは不可侵条約を破りソ連に宣戦します。ラトビア人にとっては、東進してきたナチス・ドイツは自らを解放する同盟者に映ったようです。

しかしながら、ナチス・ドイツに協力しソ連に対抗しようとしたラトビアでは、多くのユダヤ人がラトビア人の監視のもとで強制収容所に送られ虐殺されます。中世にポーランドを通してラトビアに移住してきた多くのユダヤ人達です。さらにラトビア在住のユダヤ系の人々のみならず、ドイツやドイツの占領地から大量のユダヤ人が移送されてきます。1941年から1944年までのナチスドイツの侵攻によって、ラトビア人男性は徴兵されドイツ軍に編入されます。同時に国内でナチスドイツ抵抗運動が起こりますが、75,000人にのぼるラトビア人やユダヤ人が殺害されます。1944年ソ連の侵攻で2/3のラトビアが占領されます。100,000人以上のラトビア人がドイツやスウェーデンに逃れます。

戦後、連合国の協定によってラトビアなどバルト三国はソ連に併合され、スターリンの圧政を受けるのです。バルト三国は1991年にソ連が崩壊するまでソ連の共和国となります。ソ連からラトビアに大量のロシア人が移住してきます。戦争を挟む40年間に人口の3/4を占めていたラトビア人は1/2まで減ることになります。当然、国民はロシア語を使うことになります。

1980年代になり、ソ連における政治体制のペレストロイカ(perestroika) とかグラスノスチ(glasnost)といったスローガンによる改革運動の進行や1991年の共産党保守派によるクーデター(Coup detat)の失敗により、その年の8月に議会が独立を宣言し、ソ連からの完全な独立を回復するのです。

戦後、リガの旧市街は昔の趣を再現し、中世の街並みの残る地域として世界遺産(World Heritage)となり、観光都市として繁栄しています。バルト三国の発展は、戦後70年以上を経過した西ヨーロッパの未来と深く関わっているのです。バルト三国は北大西洋条約機構 (NATO)、 欧州連合(EU)に加盟しロシアからの脅威に備えています。

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ヨーロッパの小国の旅 その十一 ラトビアとは

ラトビア(Republic of Latvia)は私は訪問したことがありません。世界史が好きな私には、なぜかバルト三国は興味がひかれます。それは大国に翻弄された小国、とりわけ北東ヨーロッパの国々が大戦をくぐり抜けて独立を果たしたことへの畏敬のようなものを感じるからです。

バルト三国のラトビアについてです。首都はリガ(Riga)。リガは新市街と旧市街が歴史地区とされ、ユネスコ世界遺産に認定されています。石畳の道を踏み入れるとそこは中世の世界というわけです。ラトビアはエストニアとリトアニアの間にあり、これらの国と同じような独立、戦争、占領、独立という苦難の歴史があります。以下、Britannica百科事典にそってラトビアの歴史を翻訳してみます。

長年、ハンザ同盟(Hanseatic League)、ドイツ騎士団(Teutonic Order)、そしてラトビア内にあった自治を叫ぶ人々との争いが続きます。ドイツ騎士団はそれでもラトビア領土内の自由貿易を認めていました。ですがラトビアは以前としてドイツ人の支配にありました。

1500年代、ラトビアの地はスウェーデンやポーランドなどの支配で分割されます。 1710年にロシアのピヨートル皇帝一世(Peter Great)はバルト海に進出し、スウェーデンからやがてラトビアの首都となるリガを占領します。その後長くラトビアはロシアの支配下におかれます。

19世紀になるとラトビアの中に自治と独立の機運が起こります。それは 1905年の第一次ロシア革命と1907年の第二次革命です。独立運動は、ドイツやロシアから受けていた政治や経済の支配から脱却しようというものです。1907年にラトビア国民集会(Latvian National Political Conference of Riga)がリガで開かれるのです。しかし、ドイツがリガを占領し自治を禁止します。ドイツの占領下で1918年11月にラトビア内で農民、ブルジョア、社会主義者らが自由を宣言します。そこにイギリスがドイツを排除しようとして介入します。

1919年にドイツはラトビアとリトアニアから撤退しますが、ソビエト共産党による赤軍が後に控えたままです。1920年にソ連とラトビアは平和協定を締結し、ソ連はラトビアの権利を認め、1922年にラトビア憲法による大統領制と議会制が謳われます。そうした制度にも関わらず、民主的な国家運営はなされませんでした。ラトビアでは改革が遅れるとともに、大統領に強大な権限を与えて国家を運営しようとします。

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ヨーロッパの小国の旅 その十 リトアニアと杉原千畝

杉原千畝氏は、早稲田大学時代から特に英語に堪能だったといわれます。外務省の官費留学生として1919年にハルピンの日本総領事館に赴任しロシア語を勉強し、1932年には満洲国外交部では書記官としてソ連との北満洲鉄道の譲渡交渉にあたったようです。

1939年に、杉原千畝氏はリトアニアのカウナス(Kaunas)に開設された日本領事館の職員として赴任します。この年にナチスドイツがポーランド西部に侵攻し第2次世界大戦が始まります。翌年には日独伊三国同盟が締結され、日本はドイツとの強固な同盟国となります。

“強固な同盟”を優先した日本政府はナチスのユダヤ人迫害をどう捉えていたかです。すでにナチス・ドイツのユダヤ政策によって、大量の避難民が発生していました。日本への入国・通過を求めてビザの発給を求めて多くのユダヤ人がカウナスの領事館へやってきます。その事態に対して日本の外務省は訓令を出しユダヤ人の日本の入国や通過を非とします。政府は、ナチス・ドイツの方針におもねていたからです。

ビザを求めるユダヤ人と外務省の訓令の間にはさまれた杉原氏は指示に背いてビザを発給したのです。その数は1,300通といわれます。一家族一枚でしたから、約6,000名以上のユダヤ人がリトアニアから脱出することができたと資料にあります。この時、杉原氏が発行したビザは、ユダヤ人から「命のビザ」と呼ばれるようになります。

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ヨーロッパの小国の旅 その九 リトアニアと「シンドラーのリスト」

私はリトアニア(Lithuania)を訪ねたことはありません。リトアニアと日本との関係で忘れられないのは、後に「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官の杉原千畝氏です 。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアの首都カウナス(Kaunas)で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、第三国への亡命を手助けしたことで知られています。そのことを証拠づけるさまざまな外交資料が残されています。

シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画をご覧になったでしょうか。スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督による1993年のアメリカ映画です。主人公オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)というドイツ人実業家は第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、戦争のために必要な物資を製造する軍需工場で働いていた1,200人を虐殺から救った人物です。その時、彼がユダヤ人労働者の雇用を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれました。

後に、日本経由でアメリカなどに渡ったユダヤ人やイスラエル政府は杉原千畝氏の功績や勇気を讃え、「諸国民の中の正義の人」と呼ぶようになります。誰が「東洋のシンドラー」と呼んだかは定かではありません。後に杉原氏は「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」と述懐したようです。

杉原氏のビザの発行や外務省による名誉回復に対する批判的な資料もあります。例えば「ロシア語に堪能だった杉原はソ連のスパイではなかったか」、「杉原のビザの給付は乱発ではなく外務省の許可を得ていた」といったことです。しかし、このような批判は杉原氏の名声を失墜させるどころか、彼の人道的な行為をさらに輝かせるものとなります。

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ヨーロッパの小国の旅 その八 エストニアの隣国リトアニア

バルト三国の二番目の国はリトアニア(Lithuania)です。後に紹介するラトビア(Latvia)、ポーランド(Poland)、ベラルーシ(Belarus)と隣あわせです。人口は約280万人で、エストニアと同様に強国の争いに翻弄された苦難の歴史があります。

近代のリトアニアの歴史です。1917年にロシア帝国で起きた2度のロシア革命(Russian Revolution)後、1918年から1920年にかけてリトアニア国内では自由と独立を求める運動が起こります。1920年には、国籍や宗教の違いを超えた最初の総選挙が行われます。1922年には最初の憲法が採択され、大規模な農地改革や教育改革が行われます。1923年にはそれまで占領されていた港湾都市のクラペダ(Klaipeda) を取り戻し、海上交通が容易になります。1920年代から1940年にかけて近代的な制度が敷かれ、カナウス(Kaunas)が首都となります。

1944年から1953年にかけては、ソビエト連邦の支配下におかれ、その間粘り強い抵抗運動が侵略者に対して続けられます。一時ナチスドイツの占領下に置かれた時期もあります。こうした苦難に直面しながらも民主的な国家樹立の精神を保持し続けます。

1988年にはサユディス(Sąjudis) と呼ばれる大集会が開かれソ連からの独立を叫びます。そしてようやく1991年の1月、独立回復宣言を発布します。最初に独立を承認したのはアイスランドでその後続々と各国が承認します。1993年にはソビエト軍を引き継いだロシア軍が撤退し、2004年3月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟します。さらに欧州連合(EU)への加盟を果たします。

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ヨーロッパの小国の旅 その七 エストニアと電子立国

サイバー先進国として、エストニアはもはやヨーロッパの「小さな国」ではないことを説明してみます。エストニアが電子政府を構成している要素の一つに、2002年から始まった国民に対して「eIDカード」を発行する国民ID制度というのがあります。制度が開始して以来、エストニア人の98%がこのeIDカードを所有しているといわれます。

eIDカードの活用例としては、EU内の行き来のときのパスポートとなります。次ぎに国民健康保険証としても使えます。医療記録を確認したり、税務の申告で使えます。もちろん投票のときも使います。銀行口座にログインする際の身分証明書ともなるのですから、銀行毎のカードは不用となります。オンライン上で行政手続ができるメリットといえば、役所で並ぶ時間や待ち時間がなく誰にも大きな時間短縮が図られています。役所は人手を別のサービスに振り向けることができます。

エストニアは他国からの侵略と混乱の歴史から、たとえ領土を失ってもデータさえあれば国は早期に復興できるという備えの考えがあります。それを実現しているのが「データ大使館」と呼ばれるものです。エストニアは2007年4月に基幹となるサーバーが攻撃され、混乱したことがあります。有力な説ではロシアが仕掛けたサイバー攻撃といわれます。そこでエストニア国民の個人情報や政府の機密情報等のデータを、信頼できる同盟国のサーバへ分散して保存しておくことにしたのです。データ大使館を置いた国は、同じくヨーロッパの小国ルクセンブルク(Luxemburg)です。

この二つの国に共通するのはIT活用に積極的であることです。ルクセンブルクはスタートアップするIT企業を多く抱え、外国企業の受け入れにも積極的です。政府機関や国民のあらゆる情報を保存するサーバーはサイバー攻撃の対象となります。そうした苦い経験により、情報の分散化をはり、それをITの先進国であるルクセンブルクに求めたとされます。データ大使館には国を継続するために必要なデータを保管するという小さな国の大きな戦略が込められています。

ところで我が国の「マイナンバーカード」はなんの役に立っていますか。個人番号を証明する書類や本人確認の際の公的な身分証明書だけです。普及率はたったの14%。あってもなくても不自由しないので普及しないのです。典型的な行き当たりばったりの施策です。

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ヨーロッパの小国の旅 その六 エストニアの魅力

バルト三国のうちの一つエストニア。首都タリンは、中世の面影を現在まで残すヨーロッパ内でも珍しい街です。領土は九州位の大きさでありながら、意外な特徴があることを紹介しましょう。

まずはオンラインサービスが行き届いたサイバー先進国であることです。Skypeの発祥地であるエストニアはITの利用が極めて盛んです。電子政府先進国といわれ、行政サービスの99%をオンラインで手続きでき、国民がネットで納税しています。多くの人々がオンラインで投票するのです。サイバー先進国の話題は次回で紹介します。

次ぎに、エストニア人の多くが英語を話すことです。母国語を英語としない国のランキングでなんと第4位です。第1位はスェーデン、次ぎにノールウェイ、オランダと続きます。国民の英語のレベルが高いのはこの国の強みの一つといえます。このようには人々は当たり前の様にバイリンガルです。3ヵ国語も4ヵ国語も喋れる人が珍しくありません。スェーデン語、ロシア語を操るのです。

さらにEUの中では物価が安いといわれます。それは人件費が安いことも関連しています。治安が良く、行政や警察とか軍隊に多額の予算をかけていないこともあります。オンラインサービスのお陰で人手が少なくて済むのです。街並みが綺麗で治安が良いのですから観光客も多くなります。国民の物静かな人柄や親しみやすい性格も特徴といわれます。EU加盟国なので通貨はユーロです。他のEU加盟国との行き来が自由です。日本国内のように容易に隣国まで行けるので行動範囲が広がります。観光客からエストニアが人気がある理由です。

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ヨーロッパの小国の旅 その五 タリンの街ーヴィル門

エストニアの首都タリンの旧市街への入り口となっているのがヴィル門(Viru Gate)です。2つの石の塔からなるヴィル門は14世紀に建てられたとあります。昔タリンを外部からの攻撃に備えて建てられたものです。門を入ると石畳が敷かれた中世の街並みとなり、今は民芸店やレストランが立ち並びます。

さらにタリンの街を歩くと赤いとんがり帽子のような塔が見えてきます。中世はこんな時代なのかという感覚に襲われるくらいです。旧市街は13世紀後半から城壁が作られ、現在でもそれに囲まれています。幾たびの戦禍を免れてきたのはこの城壁のおかげといわれます。その城壁には20ほどの見張りとなった塔が建っていますが、特に旧市街西側は保存状態が良いので「塔の広場」と呼ばれています。

「ラエコヤ広場」(Raekoja Plats)は、旧市庁舎の前の広場で、旧市街の中心スポットとなっています。今は、周りにレストランやカフェが立ち並び、市民の憩いの場となっています。フェスティバルやクリスマス時にはマーケットが開かれます。中世当時、広場は祝いの場だけではなく、市民集会が開かれ、裁判も行われ処刑の場となり、贖罪の礼拝が執り行われた歴史があります。聖と俗が一体となった空間が広場というわけです。

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ヨーロッパの小国の旅 その四 タリンの街ーアレクサンドル・ネフスキー大聖堂

私が娘と首都タリン(Tallinn)を訪ねたのは1997年です。ヘルシンキからフェリーでタリンに着きました。旧市街は中世期のたたずまいです。塀や建物の壁には銃弾の跡が残っています。これは第二次大戦の銃撃戦の跡です。独立して6年後のことですから、街全体は復興中でした。看板には盛んに外国からの投資に期待するスローガンが見られました。

タリンで見だつものをいくつか紹介しましょう。小高い丘の上に建つドームの建物は、東方正教会「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」(Alexander Nevsky Cathedral)です。アレクサンドル・ネフスキー(Alexander Nevsky)は中世ロシアの英雄として讃えられている人で正教会で列聖され、正教会の聖人となっています。ビザンティン建築様式(Byzantine Architecture)のこの大聖堂は、タリンにある教会の中でも最も大きいものです。

Wikipediaによりますと、19世紀末に建築されたこの教会は、ロシアによる支配の象徴でしたが、独立を果たした後は取り壊しも一時検討されたようです。今では、当時の歴史を学ぶことができる建造物としても貴重なものとして保存され、多くの観光客を惹き付ける場所となっています。後に触れるブルガリア(Bulgaria)の首都ソフィア(Sofia)にもブルガリア正教会の壮麗なアレクサンドル・ネフスキー大聖堂があります。

ビザンティン建築のことです。紀元後330年頃、ローマ帝国のコンスタンティヌス大王(Constantine the Great)は、ボスポラス海峡要衝にある都市ビュザンティウム(Byzantium)に自らの名前をつけます。それがコンスタンチノープル(Constantinople)です。その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となります。今のイスタンブール(Istanbul)です。ローマ帝国は1453年にオットマン帝国によって滅ぼされます。

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ヨーロッパの小国の旅 その三 エストニアの独立に至る歴史

Britannica百科事典を調べながら、エストニア(Estonia)の大国に挟まれた誠に複雑な歴史を辿ります。日本のように国内の大名らの争いではなく、国外からの侵略という脅威です。エストニアは長らくドイツ騎士団(Teutonic Order)に支配され、13世紀にはデンマークが領有します。16世紀になるとリヴォニア戦争(Livonian Warというエストニアの支配を巡る争いが起こります。これによりスウェーデンが支配し、エストニア公国となります。

18世紀になると大北方戦争(Great Northern War)の結果、ロシア帝国の支配となります。この戦争はスウェーデンと反スウェーデン同盟間の戦争です。ピュートル皇帝一世(Peter the Great)はスウェーデンを駆逐し、ロシアはバルト海の覇権を握り、獲得した地にサンクトペテルブルク(St. Pertersburg)を建設します。

1917年のロシア革命により、エストニアには自治がもたらされます。20世紀になり、第一次大戦の結果1918年にドイツが降伏し、エストニアは一時独立を果たします。1939年にはソビエト赤軍がエストニアに進軍すると傀儡政権が作られます。それ以来、長くソビエトの支配が続きます。1980年代までエストニアの政治経済、社会はソビエト連邦と軍隊を後ろ盾とする共産党に支配されます。

この共産党の支配時代には、独立運動をしていた人々、自由を求めて文化活動をしていた人々は弾圧され逮捕されて拷問などを受けています。元共産党本部であった建物は歴史博物館となり、そこを訪ねますと牢獄などが保存されています。1991年のソビエト連邦における共産党保守派のクーデター失敗によりエストニアはようやく独立を宣言し、ソビエト連邦もこれを承認します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二 バルト海の歴史とハンザ同盟

北の地中海と呼ばれたバルト海(Baltic Sea)は、古代バルト文明、中世のヴァイキングの東征、ハンザ同盟(Hanseatic League)の通商の舞台となったところといわれます。地図を見ますと、スカンジナビア諸国(Scandinavia)、デンマーク、ドイツ、ポーランド、バルト三国、そしてロシアがこの周りに位置していることがわかります。古くから海上交通に利用され、沿岸には有力な海港都市が存在しています。

バルト海貿易を最初に開拓したのは、スカンジナビアに住む北ゲルマン人(ヴァイキング)です。やがてゲルマン人の東方進出に伴い、12世紀以降はヴァイキングに代わりドイツ人が貿易の担い手となります。そしてロシアとの交易を発展させていきます。ドイツ商人はロシアから毛皮、穀物、木材、海産物、コハク(Amber)を求め、ロシアには毛織物、食糧、ワイン、生活必需品などを輸出します。

王侯貴族を顧客にしていた地中海貿易とは対照的に、バルト海貿易は投機性に乏しかったといわれます。しかも冬のバルト海の航海は厳しく、航海が絶たれます。近世に入ると大西洋や太平洋航路が国際貿易の重要な舞台となるにつれて、バルト海貿易はやがて衰退していきます。

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ヨーロッパの小国の旅 その一 エストニア

しばらくヨーロッパの旅をしてみます。地図を見てわかるようにヨーロッパ大陸には沢山の国々が存在しています。陸続きなので過去も今も人々の行き来が盛んです。交易も盛んである反面、民族のいさかいも長く続いているところこです。その中の国で、ドイツとロシアの間にあるバルト三国(Baltic States)の一つエストニア(Republic of Estonia)に行ってみましょう。

エストニアの人口はたったの160万人。首都はタリン(Tallinn)です。「北の地中海」と呼ばれるバルト海(Baltic Sea)に面しています。バルト海という名を聞くと帝政ロシアの「バルチック艦隊」が思い出されます。バルト三国とはエストニアの他に、リトアニア(Lithuania)、ラトビア(Latvia)を指します。三国は欧州連合(European Union:EU)や北大西洋条約機構(NATO)、そして経済協力開発機構(OECDに属しています。

エストニアは地政学的の条件から、大国に翻弄され、独立運動が起こっては鎮圧された長い歴史があります。ようやくソビエト連邦から独立したのが1991年です。1885年にゴルバチョフ(Mikhail S. Gorbachev)が大統領に就任し、立て直し(ペレストロイカ)、情報公開(グラスノチス)による政策を進めます。それに対して起こった共産党保守派のクーデターが失敗し、エストには独立を宣言し、ソビエトもこれを承認するのです。

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イスタンブルとソフィアの旅から その21 宗教と文化相対主義

二つの都市を訪ねながら宗教の及ぼした複雑な影響を考えています。特にイスラムによる統治が色濃く表れたバルカン半島のほんの一部を訪ねただけですが、学ぶことの多い旅でした。

「イスラム教とかイスラム主義は教条的で原理主義的なもの」ととらえる見方が強いのですが、それは誤解のようです。いろいろな考え方のイスラム主義者(ムスリム)が存在します。戒律を日常生活、政治や制度にも厳格に適用しようとする人々から、イスラム教の信仰を個人の生き方に留めようとする人々もいます。イスラム圏に存在する文化的、社会的、またジェンダーに関する生活上の制限に対しては、宗教的、非宗教的な手段によって抵抗するムスリムもいます。このようにイスラム主義を習慣、制度、パタン化された思考で理解しようとすべきではないと思われます。

アメリカの人類学者、ボアズ(Franz Boas)が文化相対主義(Cultural relativism)ということを提唱します。彼は、自身の文化を相対的に把握したうえで、異文化と相手側の価値観をとらえ、その文化、社会のありのままの姿を理解しようとすることを提唱します。文化の洗練さは外部の価値観によって測ることはできない、と考えのです。このような文化相対主義に基づいて、イスラム主義の多様性という側面を理解することも大事だと思うのです。

トルコは政治から宗教色を排除している国であることは既に述べました。宗教と政治の関係は複雑で微妙です。ただ明白なことは政教分離の原則は、近代社会の特徴であるということです。たとえば、国教を廃止したフランス。国の宗教的活動及び宗教への援助を禁じ、宗教の特権や政治上の権力行使を認めない日本もそうです。アメリカは、「宗教と国家の分離」ではなく「教会と国家の分離」を掲げ、教会と公権力の癒着を禁止しています。宗教団体に政治上の権力を行使させないだけではなく、公の場から宗教色を排除することで、宗教の領域と政治の領域を分けています。

しかし、今世紀はすでに自文化中心主義(ethnocentrism) という 民族、人種の文化を基準として他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や思想が台頭しています。「Racism」という語を定着させた人類学者にMargaret Mead がいます。歴史は繰り返す、と云われます。”History repeats itself.”

イスタンブルとソフィアの旅から その20 リラ修道院 その4 色彩の競演

リラ修道院は海抜1,100mのところにあります。空を仰ぐとバルカン半島の峰で既に雪をかぶった標高2,729mとあるマリョヴィツァ山(Malyovitsa)が遠望できます。丁度、季節は紅葉の真っ最中。青い空、白い峰々、縞模様のアーチ型をした修道院の回廊や教会の柱や壁の白と黒。そしてフレスコ画。こうした素晴らしい色の競演をよそに、僧院は静かなたたずまいをみせています。

修道院に関して、前回イコンで飾られたイコノスタシスという壁のことを記しました。この壁は「聖障」と呼ばれています。聖所と至聖所を区切るのが聖障でです。聖所は礼拝堂内のことで、信者や観光客が案内されるところです。だが至聖所の中は見ることも入ることもできません。至聖所は天国をあらわすというのだそうです。リラ修道院を見学するのに拝観料はありません。だがいくばくかの献金(喜捨)をするのがマナーというものです。

修道院内にも宿坊があり、観光客は宿泊できます。一泊40〜45レフですから3,000円くらい。修道院の裏側に数件のホテルとレストランがあります。レストランは屋外テラスで暖かい日差しを受けながら食事を楽しむことができます。名物はこの地方の特産、鱒料理です。薄切りレモンが添えられ焼かれた大きな鱒がでてきます。それにワインを注文して賞味するのはなんともいえない気分になります。ワインはキリストの血を象徴するものです。

イスタンブルとソフィアの旅から その19 リラ修道院 その3 イコノスタシス

再度、リラ修道院のフレスコ画の話題を取り上げます。ソフィアにあるブルガリア正教会のアレクサンドル・ネフスキー大聖堂(Alexander Nevsky Cathedral)の内部は蝋燭がともされ、フレスコ画や天井の色がくすんでいます。しかし、リラ修道院は違います。19世紀に再建された聖母誕生教会はパウェル・イアノフ(Pavel Ioanov)によって設計されたとあります。1834年から1837年にかけて聖堂は完成し、5つの塔、3つの聖壇、2つの礼拝堂から成ります。そしてイコノスタシス(Iconostasis)という木造の壁には精緻な彫刻が施され、表面は金箔となっています。この完成には4人の彫刻師によって5年の年月を要したと記されています。そういえば、神田にあるロシア正教会ニコライ堂も多層式イコノスタシスとして知られています。

今も極彩色で輝くフレスコ画は、1864年に完成したと記されています。バンスコ(Bansko)、サモコフ(Samokov)、ラズログ(Razlog)といった町から画家が呼び寄せられたとあります。なかでも有名だったフレスコ画家はザハリ・ゾグラフ(Zahari Zograf) とディミタ・ゾグラフ(Dimitar Zograf)という兄弟です。

宿坊を中心とする建物は4階からなり300の部屋、4つの礼拝室、修道院長室、歴史博物館、図書室、厨房を擁しています。図書室には250記録文書や9,000冊の古文書が収蔵されています。今も4階は修道士の宿坊となり修行しています。

歴史博物館の秘蔵品は、ラファエル(Raphael)という修道士が彫った高さ50cmの木彫りの十字架。140もの聖書物語が彫り込まれています。十字架に彫られている人物は約1,500。一つひとつ人物の表情が異なっています。

歴史博物館には次のような英文の説明があります。
Dear Guests,
Welcome to the Ecclesiastic and Historical Museum of Rila Monastery. Founded in the 10th C. by the most worshipped Bulgarian Saint Ioan Rilski, Abbey has preserved through the ages exquisite examples of the Bulgarian and foreign ecclesiastic arts and crafts. Part of this priceless treasure is exposed in our exhibition. We sincerely hope that it will be also treasured in your hearts.

大切な用語を説明します:
 ecclesiastic 伝道的、宣教的
 monastery 修道院、僧院
 abbey 寺院、礼拝堂
 priceless かけがえのない、至宝の
 treasured 大事にする

イスタンブルとソフィアの旅から その18 リラ修道院 その2 フレスコ画

リラ修道院は訪ね甲斐のある歴史的な遺産です。その中心は、聖母誕生教会(St. Mary Nativity Church)の壁や天井に極彩色で燦然と輝くフレスコ画(fresco)といえます。

フレスコとは、「壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で砂と石灰を混ぜて作ったモルタルで壁を塗って、その上に水だけで溶いた顔料で絵を描く方法」とあります。石灰がつくる結晶のなかに顔料の一粒一粒が閉じ込められるため、色が美しく、耐久性は抜群で非常に長期間、その色を保ち続けるのだそうです。

フレスコで想い出すのが、人類最古の絵画と言われるアルタミラの洞窟壁画(Cave of Altamira)です。我が国の高松塚古墳の壁画もそうです。時代はくだり、バチカン(Vatican)にあるシスティーナ(Sistine)礼拝堂にあるミケランジェロ(Michelangelo)が描いた「天地創造」、「最後の審判」、ラファエロ(Raphael)による「アテナイの学堂」、これらもフレスコ画です。

リラ修道院に戻ります。フレスコ画のモチーフはいうまでもなく聖書物語です。聖書の36場面が描かれています。礼拝堂内に入ると無数のイコン(icon)で飾られたイコノスタシス(iconostasis)という壁が目に飛び込んできます。金箔が施されています。この壁は「聖障」と訳されていて、正教会と東方諸教会の聖堂では、聖所と至聖所を区切るのにイコンで覆われたこうした壁が必ずあります。

神田にある通称ニコライ堂は、東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral)と呼ばれます。東方正教会の流れをくみます。聖堂内のイコノスタシスには、金と白金箔がはられています。ビザンチン様式のこの建物はあたりの景色に際立っています。神田川に架かるアーチ型の【聖橋】はこの聖堂のデザインと関連があるのではないでしょうか。

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総合的な教育支援の広場

イスタンブルとソフィアの旅から その17  リラ修道院 その1

ブルガリアの首都ソフィアの南、110キロ余りのところにリラ修道院(Rila Monastery)があります。路線バスに揺られ2時間余り。途中いろいろな人が乗り降りします。運転手は煙草を吸っています。途中のリラ村からは緑の深い森をくねくねと走ると、そこに忽然として男子の修道院が現れます。UNESCOの世界遺産、リラ修道院です。

創建は10世紀に遡ります。St. Ivan of RilaとかIoan Rilskiという僧がこの深い谷間を隠遁の地として選び礼拝堂を建てます。当時は、岩壁の洞窟を使ったと記録されています。やがて各地からやって来た若い求道者が現在の位置に教会堂などを建て始めたようです。

リラ修道院は、長い間ブルガリア帝国の支配者から厚い庇護を受けて文化や霊的な教育の中心として発展します。それはオスマン帝国の支配が始まるまで続きます。14世紀には、修道院としての規模となり充実します。リラ修道院の現存する最も古い建物は、修道院正面の門と大司教の正座、そして石造りの礼拝堂と塔でです。フレリョ塔(Tower of Hrelja)と呼ばれます。

16世紀にはいると修道院は数々の攻撃や破壊を受けます。しかし、マラ・ブランコビッチ(Mara Brankovic)というセルビア王国(Serbia)の王妃やロシア正教会などの援助で元通りに再建されるのです。修道院の宿坊は1816年に造られます。1833年、大火のために修道院は焼失しますが、当時有名な建築家アレクシ・リェッツ(Alexi Rilets)の設計と裕福なブルガリア人などからの多額の浄財とによって1862年に再建されます。修道院内の複合建築物には、ブルガリアの言語や文化を代表する書物や遺品を所蔵し、収蔵所としての役割を果たしています。

UNESCOの世界遺産に登録されたのは1983年です。今もブルガリア正教会から手厚い援助を受けています。ブルガリアの最も文化的、歴史的、建築学的に重要な遺跡の一つといわれています。

イスタンブルとソフィアの旅から その16 「ヨーロッパの火薬庫」

誠に短い時間でしたがバルカン半島の一部を旅しました。ヨーロッパとアジアの接点にある半島であるがゆえに、民族紛争や覇権争い、戦争が数多く起こったところです。バルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」(European gunpowder)とも呼ばれました。遙か昔の話しですが、こうした事実は高校の北海道旭川西高校時代の世界史で学びました。バルカン半島を訪ねたときその頃を思い出しました。

バルカン半島の多くがトルコの支配下にありました。しかし、トルコの支配力低下と共に国民国家の概念がもたらされます。ギリシア正教(Greek Orthodox)やスラヴ(Slavs)民族主義の関係を利用してロシア帝国がこの地域へ勢力を伸ばそうとしたことで、ロシアとオーストリア、トルコの対立が先鋭化していきます。1914年6月、オーストリアとハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand)大公夫妻が銃撃されるというサラエボ(Sarajevo)事件を契機に第一次世界大戦が勃発します。

バルカン半島の地図を見れば、いかに領土や覇権を巡る争いが多いかったことは次の国々がひしめいていることでわかります。スロバキア(Slovakia)、スロベニア(Slovenia)、クロアチア(Croatia)、ボスニア(Bosnia)、セルビア(Serbia)、モンテネグロ(Montenegro)、コソボ(Kosovo)、マケドニア(Macedonia)、アルバニア(Albania)、モルドヴァMoldova)、ハンガリー(Hungary)、ルーマニア(Rumania)、ブルガリア(Bulgaria)、ギリシュ(Greece)、トルコ。皆、民族と宗教の違いが色濃く反映される地域です。民族の多様性とは一体人々を幸せにしてきたのか、と問いたくなります。バルカン半島は、これからも目を話せないかもしれないのです。特にシリア(Syria)が絡む難民問題などです。

世界史でユーゴスラビア国のチトー(Tito)という大統領のことを少し学びました。この社会主義連邦共和連邦の解体がユーゴスラビア紛争へ繋がります。そして、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立します。1992年、セルビア共和国とモンテネグロ共和国から成るユーゴスラビア連邦共和国が成立します。その間のバルカン半島での政治闘争は悲惨なものでした。