旅のエピソード その13 「自転車と雨」

かつて兵庫教育大学で外国人研究員としてお世話をしていた方の大学を訪ねて、オランダのトエンテ(Twente)という街へ行きました。このときも大学院生が加わっていました。トエンテは首都アムステルダム(Amsterdam)から電車で2時間、ドイツの国境近くにあります。

オランダはネーデルラント(Netherland)とも呼ばれます。「低地地方」という意味だそうです。俗にダッチ(Dutch)とかホランド(Holland)という呼び方もされます。13世紀頃から干拓が始まり、今や海面下にある面積は国土の1/4といわれます。オランダは早くから世界へ進出し、特にアジアとの関わりはジャワ島(Java Island)を中心とするオランダ領東インドネシアの支配や日本との交易などに伺われます。その中心は東インド会社(East India Company)です。江戸の鎖国下で唯一外交関係を結んでいた国です。オランダからもたらされた学問や技術は蘭学と呼ばれました。

アムステルダムといえば、大戦中にフランク一家らがナチスから逃れて、隠れ家で潜行する姿を記録した「アンネの日記」を思い出します。ゴッホ(Van Gogh)やルーベンス(Rubens)などの画家を輩出し、その美術館も素晴らしいものです。

トエンテの街に着いて気がついたのが自転車が多いことです。子どもも結構なお年寄りも自転車に乗っているのです。そして自転車道がどこにもあるのです。かつての研究員とで夕食をすることになりました。レストランはダウンタウンにありました。その日は雨です。ややして、その方の家族がやってきました。二人の小学生の娘も一緒です。雨合羽を着ています。家から自転車でやってきたというのです。

オランダで自転車の人気が高い理由です。国土は平坦でそれほど体力を使わずにすみます。市街地は多くの場合、自転車の利用者と歩行者が自動車よりも優先されるようになっているのも興味あります。人口1人あたりの自転車台数は1台で、移動の際に用いられる交通手段としてのシェアは27%を占めるというのも、利用者への手厚い対策によるものでしょう。雨でも晴れでも安全に自転車に乗ることができる文化があるようです。

旅のエピソード その12 「グアムと食堂の青年」

私はどこへ行っても人に話しかける癖があります。道を聞くとき、安くて美味しい食堂を探すとき、他愛のない会話をしたいとき、英語を使いたくなるとき、なにかの評判が確かかを調べるとき、などです。

グアム(Guam)に始めて行ったとき、レンタカーで島をぐるりとまわりました。ダウンタウンから西へ走ると 太平洋戦争国立歴史公園 (War in the Pacific National Historical Park)という歴史記念公園があります。そこのビジターセンターに立ち寄りました。旧日本軍の潜水艦や魚雷が庭に展示されています。大戦開始前にはアメリカの統治下にあったのを日本軍は1941年から1944年までグアムを占領します。元日本兵横井庄一さんがグアムのジャングルで発見されたのが、氏が戦地グアムに送られてから約28年後の1972年でした。

ビジターセンターの受付で「このあたりで地元の美味しい料理を食べれるところはないか」と聞きました。「あそこの観光地はいい」とか「そこは行ってもつまらない」、といって親切に教えてくれるのです。ここのビジターセンターにはあまりに日本人観光客はやってこないのだそうです。

案内された食堂はど田舎にありました。素朴な格好をした一人のグアムの青年が調理しています。そこに友だちの若者がやってきて、屋外に並べられている食卓を一緒に囲みました。一人目は数ヶ月後にアリゾナで兵役につくこと、二人目はグアム大学(University of Guam) で農業を勉強し始めること、三人目はこの食堂を継ぐというのです。皆それぞれ自分の目標をもっていて好感がもてました。このような会話は田舎でしか出来ません。

旅のエピソード その11 「ボディは部厚く」

アメリカのジョージア州(Georgia) に2か月生活したことがあります。ローターリークラブ(Rotary International) からの奨学生としてそこで英語の研修を受けたときです。マスターズ・ゴルフコース(Masters Golf)のあるオーガスタ(Augusta)の東、車で1時間のところにある小さな街ステイトボロ(Stateboro)です。

1978年の7月と8月。家族との始めてのアメリカ生活です。この街にきて驚いたの、富める人と貧しい人が住み分けしていることでした。車で走ると街のたたずまいや雰囲気がはっきり違うのがわかります。富裕層と貧困層、白人と黒人の対照がはっきりしています。

日本車はほとんど目にしない時代でした。日本の製品は「安かろう、悪かろう」という言葉が流布する頃です。走っていた車のほとんどは大型のセダンです。かつて日本で働いていた宣教師から譲ってもらったGMの車はシボレーシェベル, マリブ(Chevrolet Chevelle Malibu) というのでした。ボディは部厚く、押してもボコボコしないのです。こうした車は当時「タンク」と呼ばれていました。燃費などは話題視されないほどガソリンが安い頃でした。ボンネットを開けると地面が見えるほどエンジン部分がすかすかしているのです。ですから、自分で部品交換などメインテナンスができるのです。「Do It Yourself -DIY」(自分のことは自分でやる)というフレーズを知ったのもこの頃です。

旅のエピソード その10 「座席のダブルブッキング」

たまにあることですが、空港のカウンターでチェックインをしようとするとき、ダブルブッキング(Double Booking)があります。最近このようなことを聞かないのは、予約システムの高性能化によるようです。こうしたトラブルがなくなると、少し淋しい気にもなります。

これまでダブルブッキングを3度経験しました。さもしい性格のせいか忘れられません。最初はバンクーバー(Vancouver)に行くとき、2度目はミネアポリス(Minneapolis)へ、3度目はバンコック(Bangkok)へ行くときです。バンクーバーへは、院生と一緒でした。満席なので、別の会社の4時間後の便に乗ってくれ、というのです。ファーストクラス(First Class)というので喜んで申し出を受けました。しかし、院生は先に行くことになりました。私がいないと困るという院生もいましたが、ホテルで会おうと言って別れました。

ファーストクラスに乗るのは始めてです。離陸前からワインやビールがテーブルに置かれます。実に快適な待遇に感心しました。フライトアテンダントは、長年勤めるベテランです。対応ものんびりして落ち着いた立ち居です。エコノミークラスのフライトアテンダントとは大違いです。「シニョリティ」(Seniority)という年功序列があって、長年勤めた者がファーストクラスを担当するのです。

2度目は、ミネアポリス行きのときです。このときはエギュゼキュティブ(Executive)の座席で、同行の教師と隣り合わせになりました。この教師は機内で美味いものを沢山食べたせいか、ホテルに入ると歯が痛い、歯が痛いというのです。ダブルブッキングではこういうエピソードも生まれるのですから面白いです。

3度目は香港からバンコックへ行くときです。チエックインをするとき、「あなたは2時間の王様です」といって、にっこりしてくれました。ジョークがうまいですね。王様です、という表現に気に入りました。ファーストクラスでは至れり尽くせりのもてなしを受けるという意味です。「旅はダブルブッキングに限る」です。

旅のエピソード その9 「ワインと運転」

北島と南島から成るのがニュージーランド(New Zealand) です。年間の旅行者が240万人以上という観光立国です。友人を訪ねて北島の南端近くにあるパーマストン(Palmerston) という町へ行きました。その友人はインド系の研究者で、兵庫教育大学で客員研究員としてお世話した方です。

休日を利用して車で北島の最南端に位置する首都ウェリントン(Wellington)の観光に出かけました。落ち着いた港町です。観光後、カーフェリーで南島にわたり、クライストチャーチ(Christchurch)にある約140年の歴史を誇るカンタベリー大学(University of Canterbury)を訪れました。2011年の大地震が起こる前です。23人の日本人も亡くなる出来事でした。

クライストチャーチでホエールウオッチング(whale watching) ができるという情報を得ました。1泊がてら鯨が出るという湾のある町に車をとばしました。観光船に乗ると数頭の鯨が湾を回遊しているのが見えます。説明では年中この湾に住み着いているそうで、地元の人は親しみをこめて鯨に名前までつけています。

帰りのドライブは快適でした。ブドウ畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行8名がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指してくれました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス2杯までは飲んでよい」。なんと粋な計らいなのだろうと感心しました。帰り道に車から降りて、満天の星空に浮かぶ南十字星(Southern Cross) に家内とで見とれました。

旅のエピソード その8 「フライトアテンダントに声をかけては、」

どんな職業も楽なものはありません。職業を大まかに分けると主に体を動かすもの、頭を使うもの、その組み合わせのもの、というように分類されるかもしれません。国際線のフライトアテンダント(Flight Attendant)の仕事はどうでしょうか。毎回乗る人は異なりますが、仕事は主に食事の配布と片付けなどが中心です。満員のジャンボジェット内では、大変な重労働だと察します。あまり頭を使わなくてよい仕事かもしれませんが、疲れは相当でしょう。おまけに時差がつきまといます。体調の管理をどうしているのかが気になります。

アメリカでの学会発表に行くときです。機内で英語での発表資料を点検し、原稿を暗記しようとしていました。発表はできるだけ聴衆を見ながら、適度に身振り手振りで発表します。原稿の棒読みはいけません。発表の仕方は、「トーストマスター」(Toast Master)という大勢の人前で話すスキルを高めるクラブで学んだことがあります。何度も冷や汗をかきながら自分の発表の練習をしたものです。

座席で懸命に練習をしていると、女性のフライトアテンダントがやってきたので、「これから学会にいくのだ」と原稿を見せながら声をかけました。学会が開かれる町や学会の特色を説明し、たどたどしく学会発表の概要を話すと「頑張ってね」と声をかけてくれました。ややして彼女は白いフキンに包んだワインのボトルを持ってきて「グッドラック」と激励してくれ、そのワインをくれました。少々びっくりしましたが、なにか良い旅が待っているような心持ちになりました。

機内では、フライトアテンダントも乗客も退屈なので、なにかしら会話をしたいと思っています。機内でもちょっとしたことで、必ず一つや二つの楽しい思い出ができます。会話で避けたいことは、何度も「ビールを持ってきて欲しい」とか「コーヒーをお願いします」と頼まないことです。アテンダントに嫌がれます。なにか欲しい時は、自分でキャビンに行って頼むのです。

旅のエピソード その7 「パスポートは腹まきに」

旅をしていて最も困るのは、物を忘れたり紛失することです。特にパスポート(旅券)やクレジットカードの紛失は深刻です。かつて院生がサンフランシスコ(San Francisco)のホテルのロビーにバックパックを置いたまま手洗いに行き、無くなっていたことがあります。幸い、領事館に駆け込んでパスポートを再発行してもらい帰国できたました。

ニューメキシコ州(New Mexico)のアルバカーキー(Albuquerque) でもパスポート「事件」がありました。アルバカーキー一帯にはプエブロ(Puebro)・インディアンの人々がたくさんいます。その歴史を伝える博物館(Indian Pueblo Cultural Center)に行ったときのことです。博物館を見学をして帰りの車中で、一人の院生が「パスポートがない」というのです。

仕方なく博物館に戻って探すことにしました。受付にいたプエブロ・インディアンの男性に事情を話しましたが、案の定遺失物として届けられていません。パスポートがないと出国も帰国もできないという事情を話ますと、男性が爽やかな笑いを浮かべて 「兄弟よ、心配することはない、ここに永住すればいいんだよ」というのです。これは慰めというか、一種のジョークです。

仕方なく連絡先を告げて別の場所を探すことにしました。結局パスポートは出てきません。ホテルに戻ると院生から 「スーツケースにあった」という報告です。院生はさすがにバツが悪かったのか、「お詫びのしるしに今夜の夕食は皆さんにおごります」と宣言しました。皆、歓声を上げて「また頼むよ、、」と冷やかします。

旅のエピソード その6 「フライトアテンダントのジョーク」

フライトアテンダント(Flight Attendant) には、「スチュワード」(Steward)と「スチュワーデス」(Stewardes)がいます。男性と女性とで使い分ける単語です。今ではこの言葉は航空会社では使わなくなりました。スチュワードというのは、もともとは「仕える人」という意味です。仕える人になるための心掛けや礼儀作法のことをスチュワードシップ(Stewardship)といいます。

ある冬の真っ最中、ワシントンDC(Washington DC)からミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)の便に乗りました。座席で離陸を待っていると、スチュワードが出発の案内を始めます。窓からは地上の係員が翼に不凍液を噴射しているのが見えます。

ミネアポリスはカナダに近く、DCよりももっと寒い町です。「ただいまから当機はハワイのホノルルに向かいます。」乗客は一瞬キョトンとして、一斉に「やった、やった、、」と大騒ぎです。なにせ皆寒いミネアポリスに向かう人ばかりですから、常夏のハワイへは夢のような旅です。

彼はすまし顔で、「残念ながら、機長の判断でミネアポリスに行くことにします。」こんなユーモアは日本ではひんしゅくものでしょうが、アメリカではとても受けるのです。罰せられるどころか、「実に面白いユーモアだ」とニュースになる位です。

こんなこともありました。離陸の際にフライトアテンダントが「ただ今からこの飛行機は、、、、、本便は、、、、、、」行き先を言わないのです。「失礼しました。行き先を忘れました、、、ああ、、当機はボストンへ向かいます。」こんなすべった調子でも誰も非難しません。ユーモアですむのです。

旅のエピソード その5 「Yes, Noとトップ!」

院生との研修視察旅行では半年前から、先方と交渉を始めます。特に学校の訪問が主なので、こちらがなにを調べたいか、どんな人に会いたいか、どんな資料が欲しいか、などを相手に伝えることからスタートします。視察旅行では、ゼミ生以外にも講座の院生に広く呼びかけて参加を募ります。院生のほとんどは教師なので、研修資金にはあまり不自由はしません。しかも、大学院で研究する身分ですから時間はたっぷりあります。

研修旅行に際しては、こうした院生の世話を私は余りしません。ホテルのチェックインや相部屋の決め方、訪問先への道を尋ねることなどは院生にやってもらうことにしています。皆れっきとした大人なのですから、自分でやって貰うのです。英語というハードルはそこにはありますが、、、今回の話題は外国の空港での手荷物カウンターでのやりとりです。

手荷物を預けるとき、空港の係員は、旅行者がなにか不審なものを持ち込まないかを調べます。そこで簡単な質問をします。
 係官 「おかしなものを持っていないか?」
 院生 「はい(Yes)」
 係官 「なにを持っているのか?」
 院生 「いいえ(No)」
 係官 「、、、、、、、」

係官は、怪訝な顔をしてやおらスーツケースを調べ始めました。そしてビニールに入った白い粉のようなものをとり出しました。これは一大事です。Yesと言ってしまったからです。
 係官 「これはなにか?」
 院生 「これはTop,,Top,,」

院生は粉石けんという単語を知らなかったのです。石けんのソープ(soap)ではなく「ディタージェント(detergent)」という単語が正解です。Topとは洗濯石けんの名前です。院生は係官と一緒に別室行きです。それを私たち一行はニヤニヤして見つめます。私もあえて院生に助け船を出すようなことはしません。

やがて院生がスーツケースと一緒に戻ってきました。無事解放されたようでした。しかし、再度の検査で別な係官とまたYes, Noのやり取りをやってしまったのです。係官同士であきれていましたね。「この人騒がせなジャップめ」とでも言いたかったでしょう。あとで、一行は「トップはアカン!」、「トップは持つな!」といって院生らと腹を抱えて笑いました。外国へは粉石けんは必要ありません。ドラッグと間違われます。浴室にある石けんで洗濯すべきでしょう。

旅のエピソード その4 「スピード違反で捕まる」

院生との研修旅行には必ずレンタカーを使います。主たる目的は学校訪問ですが、それが終わると観光、レストランでの夕食などの楽しみが待っています。そして面白いエピソードです。

ニューメキシコ(New Mexico)のアルバカーキー(Albuquerque)へ行ったときです。ここは砂漠のど真ん中にあるような街です。ビルに上がると360度の地平線が見えます。メキシコの香りが建物、土産品、食べ物などに感じられます。郊外にはロッキー山脈(Rocky Mountains)の南端が見え、そこは指折りのスキー場となっています。アルバカーキーの北には、州都のサンタフェ(Santa Fe)、原爆を製造したロスアラモス(Los Alamos)の街があります。河川、渓谷、山岳などの地形は大陸生成の歴史を見るようです。

さて、アルバカーキー市内を日本製のレンタカーで走っていますと、オートバイに乗った警官に呼び止められました。運転していたのは大阪からきた院生です。警官は制限速度を15マイルもオーバーしているとか言うのです。そこは25マイルが制限速度でした。院生は実にたどたどしい英語で応対し始めました。乗っている者は皆、始めてアメリカに来たような気分でしたから、警官とのやり取りに興味津々です。

院生は国際免許を見せながら、「アイアムソーリー、アイアムソーリー、」です。「アメリカで始めて運転した、、、」などなどたどたどしく説明します。そして、「25マイルだから40キロくらいだ、この車は、日本製だからメーターはキロメーターだろうと思った」と説明するのです。警官は、半分あきれたような顔で「この国はマイルだ。気をつけていきなさい」といって無事解放してくれました。観光客にとっては粋な計らいです。

あとで院生に聞くと「警官とのやりとりは演技でなく、真剣にやったんだ」そうです。皆、迫真の演技に感心することしきりでした。