アジアの小国の旅 その七十九 ジブチ

中東に派遣されている自衛隊の機体と要員の交代が行われるのがジブチ(Republic of Djibouti)です。3か月毎に交代するのです。紅海(Red Sea)のインド洋への出口にあたる地政学上非常に重要な場所、いわゆる「アフリカの角」(Horn of Africa)地域にあるのがジブチです。アフリカ大陸にある国としては3番目に小さい国です。面積は四国の約1.3倍といわれます。歴史上、イタリア、イギリス、エチオピア帝国の力関係の緩衝地帯のような役割を果たしてきた旧フランス領です。

スエズ運河の建設が始まった1859年にフランスは地元のダナキル族(Danakil)からタジューラ湾(Gulf of Tadjoura)のオボック港(Obock)を租借します。エチオピア帝国がハラール(Harar)までの鉄道敷設権をフランス企業に与えたのをきっかけに、その周辺地域を含めてフランス領ソマリ (Somaliland)として植民地化されます。ジブチがフランスから独立したのは1977年です。

国を構成する民族は、主にソマリ系のイッサ人(Issa)とエチオピア系のアファール人(Afar)の2大集団です。この部族間の対立もあって、アフリカ諸国の中では比較的遅くに独立を達成したという経緯があります。独立後もこの民族間の対立は尾を引き、1990年から2001年まで内戦が続きました。

過酷な気候のため農作物が育たず、国土も小さいため鉱物資源も少ない国です。かろうじて塩の生産が輸出品となっています。エリトリア独立によって港を失い内陸国となったエチオピア相手した海上貿易の利益、ジブチとエチオピアを結ぶ鉄道の収益、フランス軍を初めとする海賊に対応する各国軍の駐留による利益で経済が成り立っているのがジブチです。中国もジブチに基地をつくり、中東への影響を高めようとしています。ジブチは典型的な中継貿易国家といえそうです。

アジアの小国の旅 その七十八  エリトリア

エリトリア(State of Eritrea)という国名を聞いたことがありますか?エトルリア(Etruria)はイタリア半島中部にあった古代都市、アナトリア(Anatolia)は、トルコのアジア部分の地域です。名称が似ていますが、全く違った地名です。エリトリアはアフリカの角と呼ばれるアフリカ大陸北東部にあり、西にスーダン(Sudan)、南にエチオピア(Ethiopia)、南東部にジブチ(Djibouti)と国境を接し、東は紅海(Red Sea)に面する国です。地図を見ますと、エリトリアは紅海に沿って約1350km続く海岸線を持ちます。領海域にはおよそ350の島々があります。

1869年にエジプトでヨーロッパとオリエントを結ぶスエズ運河(Suez Canal)が開通すると、イタリアがエチオピアに介入し始め、1882年に植民地宣言をします。エチオピアはエリトリア地域をイタリアの支配に委ねます。エリトリアは30年もの長きにわたる対エチオピア独立闘争の末に1993年に独立します。アフリカで2番目に新しい国といわれます。

国全体は熱帯乾燥気候に属します。小国にも関わらず多様性に富む地形により様々な気候が混在し、沿岸部の砂漠地帯には、年平均気温が30℃を超える世界一酷暑の地といわるダナキル(Danakil )低地があります。アフリカ大地溝帯にあるために、マグマが吹きだす活火山でも知られています。首都のアスマラ(Asmara)はイタリアの占領時代に発展した街で、近代建築(Art Déco)のならぶ街並みが2017年に世界遺産と認められます。Art Décoとは一つの装飾様式で線や記号、幾何学的な模様やパターンで構成されたデザインが特徴といわれます。

アジアの小国の旅 その七十七 スーダン

世界中に、食糧が不足して子どもに食べさせることができない国があります。スーダン(Republic of the Sudan)もその一つといえそうです。今年はバッタの巨大発生で畑を食い散らしていることが報道されています。スーダンは、北東アフリカに位置し、アフリカ大陸で3位の面積を有しています。エジプト(Egypt)、リビア(Lybia)、チャド(Chad)、中央アフリカ、南スーダン、エチオピア(Ethiopia)、エリトリア(Eritrea)と国境を接し、東は紅海(Red Sea)に面しています。対岸にはサウジアラビア(Saudi Arabia)があります。紅海の先にはスエズ運河(Suez Canal)があります。

エジプト南部アスワン(Aswan)あたりからスーダンにかけてのナイル川(the Nile)流域北部はヌビア(Nubia)と呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けたところです。古代エジプトの諸王朝は、勢力が強まるとナイル川沿いに南下して金や象牙の交易拠点を作り支配領域を広げ、国力が衰退すると撤退することを繰り返したといわれます。

スーダンは1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下に置かれます。1956 年にイギリス・エジプトから独立する際、北部と分離独立を求める南部の間で内戦が勃発し、2011年7月に、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立します。約半世紀にわたる長い紛争が続きました。このため、南スーダンでは子どもだけでなく大人も、平和な状態をほとんど知らないといわれます。

2018年9月にムウタズ・ムーサ(Motazz Moussa)首相となりますが、2019年4月に軍部によりクーデターが起こり、憲法を停止し暫定軍事政権が実権を握ります。同年8月よりアブダッラー・ハムドゥーク(Abdalla Hamdok)が首相となり組閣をし、軍と民主化勢力による3年の暫定共同統治を行っており、2022年の選挙実施を目指しています。

アジアの小国の旅 その七十六  ソマリア

ソマリア(Republic of Somalia)は、東アフリカのアフリカの角(African Horn)と呼ばれる地域を占める国です。飢餓に苦しむ貧しい国というイメージが浮かびます。エチオピア(Ethiopia)、ケニア(Kenya)およびジブチ(Djibouti)と国境を接し、インド洋とアデン湾(Gulf of Aden)に面しています。

19世紀まではイギリスとイタリアの保護領として、北部はイギリス領、南部はイタリア領に分割統治されていました。1960年に南北が独立と同時に合併して「ソマリア共和国」を形成します。1991年に内戦が起こって以来、無政府状態が続いていましたが、2012年11月に「ソマリア連邦共和国」として、21年ぶりに統一政府が樹立されます。

1969年のクーデターによりバレ政権(Barre regime)が誕生します。1991年、バレ政権が崩壊して内戦状態になり、同年5月には北部で「ソマリランド共和国」(Republic of Somaliland)が分離独立を宣言します。また1998年7月には北東部で「プントランド」(Puntlaand)も自治政府の樹立を宣言します。 特に、旧イギリス領にあたるソマリランド共和国は、国際社会では「国家」として承認されていない「未承認国家」ですが、ソマリアの中で最も治安がよく、安定した政治体制が築かれていて、独立国家としての機能を有しているといわれます。

1991年に崩壊して以来,ソマリアは,全土を実効的に支配する政府が存在しない状態に陥ります。劣悪な治安状況の下,大量の難民及び国内避難民が発生します。干ばつが加わり,食糧不足が悪化し重大な人道危機が生じます。世界中でこの危機が報道されたのは真新しことです。1992年以降,停戦監視及び被災民援助活動の支援のために国連ソマリア活動(UNOSOM: United Nations Operation in Somalia)が設立され,アメリカを中心とする統一タスクフォース(UNITAF: Unified Task Force)の活動が開始されます。しかし武装勢力の激しい抵抗を受けて、1995年3月には完全撤退を余儀なくされます。2018年1月現在,緊急人道支援を必要とする人口は390万人に及ぶといわれます。

アジアの小国の旅 その七十五  イエメン

イエメン(Republic of Yemen)は中東のアラビア半島南端部に位置する共和制国家です。紀元前10世紀頃は、古代のイエメンの王国はインドと地中海及び東アフリカの貿易の中継地として繁栄したようです。そのため古代ギリシャ人やローマ人から「アラビアン・フェリックス」(Arabian Felix)と呼ばれます。ラテン語で「幸福なアラビア」という意味だそうです。ヘレニズム(Hellenism)やローマ時代の地理学者が,現在のアラビア半島南半部を呼んだ名称です。オマーンと同様に香料の産地で豊かな王国と考えられていたようです。

 イエメンの現代史です。1839年に英国がアデン(Aden)を占領し、以降南イエメン地域を保護領とします。その後イエメン・アラブ共和国が成立します。1962年に南アラビア連邦が発足しますが,反英運動が激化し,1967年英国から南イエメン人民共和国として独立します。1969年には社会主義政権が誕生し,1970年にイエメン民主人民共和国と国名を改めます

 東西冷戦構造の中で、1970年代,1980年代には南北イエメン間でたびたび武力衝突がおこりますが、南北で分裂していたイエメンは1990年に「イエメン共和国」に統一されます。しかし、イエメン国内での度重なる戦乱や弱体な中央政府、覚醒作用をもたらすカート(Khat)の栽培と使用の広がり、Wikipediaによると、イエメンにおける全雇用の15%がカート関連産業であるといわれます。さらにイスラーム過激派の跳梁といった問題を抱えています。世界の最貧国の一つとして知られています。

アジアの小国の旅 その七十四  オマーン

欧米列強の進出に悩まされ、保護や植民地支配からの独立した国々は、今も内戦などで苦しんでいます。オマーンもまた、かつてポルトガル、イギリス、フランスの保護国となった歴史があります。

オマーン国(Sultanate of Oman)は、アラビア半島の東端にあり、アラビア海(Arabian Sea)とオマーン湾(Gulf of Oman)に面する絶対君主制国家です。北西にアラブ首長国連邦(United Arab Emirates: UAE)、西にサウジアラビア(Kingdom of Saudi Arabia)、南西にイエメン(Republic of Yemen)と隣接しています。石油輸出ルートとして著名なホルムズ海峡(Strait of Hormuz)の航路もオマーン飛地の領海内にあります。 首都マスカット(Muscat) はオマーン湾にのぞむオマーン最大の港湾都市で、政治や経済、文化、教育の中心です。全土が砂漠気候に属し、大きな河が存在しない珍しい国といわれています。

オマーンは東アフリカ、中東、ペルシア湾岸、インドを結ぶ航路を控え、戦略的に重要な位置にあります。ホルムズ海峡はエネルギー供給の大動脈と呼ばれ、S字型に曲がった航路を何度も舵を切りながら進みます。一日平均14隻のタンカーが航行しているといわれます。日本政府は、オマーン湾やホルムズ海峡へ海上自衛隊の護衛艦1隻と哨戒機2機を派遣しています。オマーンは産油による高い国内総生産も相まって政治の安定に寄与しています。

オマーンの農産物はナツメヤシ サヤインゲン、果物の他、カラン科の樹木から分泌される樹脂、乳香(frankincense)があります。乳香は数千年にわたり宗教的行事にお香などで利用されてきた歴史があります。芳香成分には、リラクセーションや瞑想に効果的であると考えられています。ベツレヘム(Bethlehem)でイエス・キリスト(Jesus Christ)が生まれた時、東方からやってきた3賢人がイエスに捧げた贈り物が乳香、没薬、黄金であったという記述がマタイによる福音書(Gospel According to Matthew)2章11節にあります。

アジアの小国の旅 その七十三 ヨルダンとペトラ遺跡

ヨルダン川 (Jordan River)は、洗礼者ヨハネ(John the Baptist)がイエス・キリストに洗礼を授けた所とマルコによる福音書(Gospel According to Mark)1章9ー11節にあります。ヨルダンはこのヨルダン川中東にある人口約760万人ほどの国で、死海(Dead Sea)を挟んでイスラエルと接しています。人口の半数近くがパレスチナ難民とその子孫と言われています。また、最近では63万人のシリア難民が押し寄せているそうです。首都アンマン(Amman)は紀元前13世紀頃に首都として定められたヨルダン渓谷の街といわれます。

ヨルダンは古代オリエントの中で比較的新しい国です。ヨルダン川(Jordan River)を境に古代のパレスティナから分離しています。古代の歴史にあって文明の発祥の地として大きな役割をはたしてきた地域です。旧約聖書、創世記(Genesis)第36章以降に記述されるモアブ(Moab)、ギリード(Gilead)、エドム( Edom)といった王国はヨルダン渓谷(Jordan Valley)に存在し、そこに古代ナバテア人(Nabatean)の有力都市であったペトラ(Petra)があります。紀元前1200年頃から、エドム人(Edom)がペトラ付近に居住していたと考えられています。紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったアラブの遊牧民族ナバテア人(Nabatean)が居住し始めます。そしてナバテア王国(Nabatean kingdom)が誕生します。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占し、それに伴いペトラも栄えたといわれます。

ペトラですが、シルクロード(Silk Road)と西のローマを結び、香料、絹、香辛料など収益率の高い商品を扱い、キャラバン隊の中継基地そして通商上の要所です。隊商都市として繁栄を極めたといわれます。優れた灌漑や貯水対策を講じ、砂漠の都市でありながら水に不自由することは無かったといわれます。交易により巨万の富を築いたナバテア王国は貨幣の鋳造も行っていたことも記録されています。ナバテア王国はペトラからエドム人を排除して領域の支配を固め、他方で超大国であったローマ帝国とは対立を避けることで国を安定させます。

世界遺産「古代都市ペトラ」は、映画「インディアナ・ジョーンズ 」(Indiana Jones)の舞台ともなっています。架空の考古学者インディの冒険活劇映画です。ペトラ遺跡は、1812年8月スイスの東洋学者ヨハン・ブルクハルト(Johann Burckhardt)によって発見されます。

アジアの小国の旅 その七十二 「牛乳屋テヴィエ」とユダヤ文学

後述しますがイディシュ文学(Yiddish)はアシュケナージと呼ばれるユダヤ人の文学です。今回は「牛乳屋テヴィエ」(Tevye the Dairyman)とユダヤ文学の話題です。世界に散ったユダヤ人「ディアスポラ」(Diaspora)は建国の精神を抱いてイスラエルの地に戻ってきます。Diasporaとはギリシア語で「散らされている者」という意味です。そこから英語の「disperse」(散らす)という単語が派生します。

Sholem Aleichem

イスラエルの地に国を造ろうとした運動は、シオニズム(Zionism)と呼ばれます。宗教的、文化的復興を目指す近代化運動のことです。民族主義の昂揚とか祖国回復の運動ともいわれます。復習ですが、世界中から二種類のユダヤ人がイスラエルの地に戻ってきたといわれます。第一のグループはアシュケナージ(Ashkenazi)と呼ばれ主に東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫のユダヤ人です。第二のグループはセファルディ(Sephardi)と呼ばれ、主としてスペインやポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国やトルコ、北アフリカに住んでいたユダヤ人です。

「屋根の上のバイオリン弾き」

さて「牛乳屋テヴィエ」は「屋根の上のバイオリン弾き」(Fiddler on the Roof)というミュージカルでも知られています。主人公はテヴィエ(Tevye)とその家族です。舞台はウクライナ(Ukraine)のユダヤ人が住む村です。この作品を書いた劇作家、ショーレム・アレイヘム(Sholem Aleichem)はウクライナ出身のユダヤ系アメリカ人です。アレイヘムの小説は、民衆の啓蒙を主題とし、離散したユダヤ人社会で生れたイディシュ文学の代表といわれます。「牛乳屋テヴィエ」に登場するユダヤ人はアシュケナージの人々です。

アジアの小国の旅 その七十一 ユダヤ教徒とは

この記事は「シオンとの架け橋」(A Bridge between Zion and Japan)というサイトとBritannicaからの情報を基にしています。外部の人間がユダヤ教について、とやかくいっても理解することは難しいことです。民族や個人の社会的な背景や信仰によるところが大であるからです。教典や教義の解釈もまた違います。ユダヤ人は情報を大切にする民族といわれます。それゆえに何でも質問するので、いろいろな異なる答えが生まれる、という諺もあるほどです。それを示すのが、「3人のユダヤ人が議論すると4つの意見が対立する」という諺です。

全人口の4分の3を占めるユダヤ人は全員がユダヤ教徒で 、残りのアラブ人などはイスラム教(Islami)、ドルーズ教(Druze)、キリスト教徒などに分かれます。まず、ユダヤ教徒は4つの宗派に分かれています。 超正統派は男性なら黒い帽子、黒い上着と全身黒づくめで、女性は髪の毛を隠し、ロングスカートをはく人々です。次ぎに正統派は普通の服装ですが律法を守りユダヤ教を信じる人々です。さらに改革派は民族の伝統や人間の内面を重視し、食事の規定などを放棄する人々です。そして世俗派は宗教にも律法にも関心のない人々です。

映画「十戒」より

ここで「律法」というのは、「ハラハー」(Halakhah)と呼ばれる宗教律法です。ハラハーは、古代から受け入れられてきた慣習,ラビと呼ばれる法学者・賢者の口伝律法といわれます。ユダヤ人の行為規範を指していることです。豚肉を食べないなど、割礼を施すこと、ユダヤ教の食事規定を守り、安息日の土曜日には仕事も料理も洗濯、裁縫もしない、電化製品を使わない、車に乗らない等の事柄です。 超正統派の人々の流儀です。

ある調査によりますと神を信じる人はユダヤ人の71%とあります。 イスラエルの人々が世俗的な人でも神の存在を意識していることです。逆にいいますと、ユダヤ教という宗教を信じない人々が多いのです。そこで「ユダヤ人とは一体誰か」という問いが生まれます。1950年制定の帰還法 (Law of Return)では、ユダヤ人とは「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」と定義しています。すべてのユダヤ人にイスラエル移住の権利を与え、国外のユダヤ教徒がイスラエルに移民することを認める法律です。

シナゴーグ

注目したいことは、「ユダヤ人は全員がユダヤ教徒」という表記です。 ユダヤ教を信じない世俗的な人々も、「ユダヤ教徒」に分類されているのです。このことは、「日本は仏教徒の国である」「日本人は仏教徒である」という表現と似通っています。ほとんどの日本人は特定の宗教を信仰していないといわれます。しかし日本人の習慣や行事に古来の宗教が深く根ざしていることも事実です。

アジアの小国の旅 その七十 パレスティナ自治政府

パレスティナ解放機構(Palestine Liberation Organization: PLO)とは、ヨルダン川西岸地区(West Bank)およびガザ地区(Gaza)を管理するパレスティナ人による自治機関です。パレスティナの独立宣言に基づいてパレスティナを国家として承認している国は137か国あります。日本はPLOを国家承認していないため,パレスティナ自治政府,またはパレスティナ自治区と呼んでいます。ただPLOとは友好関係を維持しています。

ガザ地区

1988年5月にPLOとイスラエルの間で相互に承認しあったことは既に述べました。この歴史的な合意の立役者はPLO議長のアラファト(Ycasir Arafat)です。パレスティナ民族評議会でパレスティナの独立宣言を読み上げ,彼にはパレスティナ〈大統領〉の呼称が与えられました。アメリカが主導する中東和平プロセスのもとで,1993年オスロ合意に基づいて、PLOとイスラエルはパレスティナ暫定自治宣言に調印し、ガザとジェリコ(Jericho)の両地区にパレスティナ暫定自治政府(Palestinian Authority)が樹立されます。

しかし,イスラエルで2001年リクード党のシャロン(Ariel Sharon)政権が登場して以後,オスロ合意による和平交渉は行き詰まります。米国における9.11事件以後イスラエルは一層強硬策に転じ,2002年にはパレスティナに軍事侵攻し、対抗措置としてPLOの過激派による自爆テロも続発します。ブッシュ(George Bush)政権は2003年のイラク戦争後,パレスティナ国家の独立とイスラエルとの共存をめざす工程表を提示しますが、争いの連鎖が再燃し,情勢はむしろ悪化します。

Leader of Palestine Liberation Organization (PLO) Yasser Arafat gestures as he speaks before the United Nations General Assembly on November 13, 1974 in New York. (Photo by AFP)

2004年のアラファト議長の死後,穏健派のアッバス(Mahmoud Abbas)が後任となり,和平交渉の気運が高まります。2005年8月,ガザ地区と西岸地区北部の一部からのイスラエル人入植者の退去が完了します。しかし2006年イスラム原理主義のハマス(Hamas), が総選挙で勝利し,2007年にハマスと穏健派のファタハ(Fatah)の連立政権がいったん成立しますが,内部抗争が続き,連立政権は崩壊します。イスラエルとアメリカはハマスを相手にせず、穏健派のファタハを交渉相手にすると宣言し、軍事面を含む援助を行うという複雑な構図です。

アッバス議長