心に残る名曲 その二百三 日本の名曲 平井康三郎の「平城山」 

1910年高知県で生まれ、1936年に東京音楽学校研究家作曲部を修了します。作品は、器楽、声楽(洋楽・邦楽)と広範囲にわたっています。

東京音楽学校で教鞭をとりながら作曲活動を行い、「平城山」や「スキー」などを作曲します。その後は、文部省教科書編纂委員として音楽教科書編纂等に携わります。また、NHK専属作曲・指揮者、合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大学教授等として活躍します。

1965年には「詩と音楽の会」を結成し、日本の新しい歌曲、合唱曲集の創作活動を行っています。小学校や中学校の校歌も数多く手がけたことでも知られています。「さくらさくら」「ゆりかご」は彼の手によって作られます。そうした作曲活動の功績で紫綬褒章、勲四等旭日章、毎日出版文化賞等多数の栄誉を受けています。

心に残る名曲 その二百二 日本の名曲 宮城道雄 「春の海」

神戸で1894年に生まれた宮城道雄は、やがて邦楽に洋楽的要素をいれた新様式の作品を多数発表し、演奏家としても活躍し大正と昭和の邦楽界に革命的な業績を残した作曲家です。

1902年に失明しますが、生田流箏曲と野川流三弦を伝授されます。既習の曲の反復から脱し、自ら作曲を志していきます。そして処女作となる「水の変態」を発表します。1920年に本居長世とで「新日本音楽」と銘打って新作発表会を開きます。この頃、尺八の中尾都山とともに全国を巡演していきます。

草創期のレコードやラジオ放送にも積極的に参加し、作品と演奏を世に広めます。古典様式の新作曲にも力を入れるとともに、古典音楽の勢力からも高く評価されるようになります。そして1932年には、東京音楽学校の教授まで登りつめます。1933年にはフランスのヴァイオリン奏者シュメ(Renee Chemet)が宮城の箏とで「春の海」を合奏しレコード化していきます。

宮城道雄Renee Chemet

心に残る名曲 その二百一 日本の名曲 草川 信 「ゆりかごの唄」

草川 信は長野県埴科郡の出身です。長野師範学校附属小学校、現在の信州大学教育学部附属長野小学校で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学を経て、東京音楽学校に進みます。そこでバイオリンを安藤幸に、ピアノを弘田龍太郎に師事します。

卒業後は渋谷区立小学校訓導や東京府立第三高等女学校教諭などを経験します。そのかたわら、演奏家として活動していきます。その後、雑誌『赤い鳥』に参加し童謡の作曲を手がけるのです。実兄、草川信雄も同校卒業生で今も飯田橋にある富士見町教会オルガニストでありました。富士見町教会といえば植村正久という有名な神学者が初代の主任牧師となった由緒ある教会です。

草川は童謡で広く知られ「ゆりかごの歌」「どこかで春が」「汽車ポッポ」「夕焼小焼」など多数の名曲を残しています。ヴァイオリニストだった影響でしょうか、流れるような旋律が特徴でどれもわらべうた的な雰囲気で抒情的です。

ついでですが、「夕焼け小焼け」の作詞家中村雨紅は八王子市の上恩方というところの出身です。

心に残る名曲 その二百 日本の名曲 近衛秀麿 「越天楽」

このシリーズも200回目となりました。近衛秀麿を取り上げます。学習院大学を卒業後、東京大学文学部に入る近衛は、日本の音楽史上忘れてはならない作曲家、指揮者でしょう。1898年生まれです。1915年から16年まで近衛は山田耕筰に作曲法を学びます。1923年にヨーロッパに留学し、パリではヴィンセント・ダンディ(Vincent d’Indy)という作曲家で指揮者に学びます。ベルリンではマックス・フォン・シリングス(Max von Schillings)に作曲法を、指揮法はエーリヒ・クライバー(Erich Kleiber)に学びます。

1925年に帰国後は、山田耕筰の日本交響楽協会の結成に加わり、その後新交響楽団を組織します。彼は欧米に12回にわたり出掛け、90あまりの交響楽団を指揮するという珍しい経歴があります。近衛秀麿は日本人として初めてベルリン・フィルを指揮した人でもあります。北原白秋の詩に作曲した「ちんちん千鳥」、雅楽の「越天楽」などが知られています。

日本を代表する指揮者であり、またナチス政権下のドイツ・欧州でユダヤ人演奏家の亡命をサポートしていたという事実が近年話題となっています。その人物が近衛秀麿だというのです。「玉木宏 音楽サスペンス紀行〜亡命オーケストラの謎〜」が放映され、近衛秀麿のヨーロッパにおける第二次大戦まえの行動が描かれています。

心に残る名曲 その百九十九 日本の名曲 大中寅二 「椰子の実」

大中寅二は1896年生まれの作曲家です。同志社大学経済学科を卒業し、やがて山田耕筰に学びます。1920年からは東京の霊南坂教会のオルガニストを務めます。1925年にドイツに留学し、そこでヴォルフ(Leopold Wolff)に師事して作曲法を習得します。

帰国後は東洋英和女学院短大などで教え、やがて有名となる歌曲「椰子の実」を差曲します。1932年の第一回音楽コンクールの作品部門で入賞します。宗教音楽の分野での作品が多く、「主よ憐れみ給え」、「ヨブ」、「四季の頌」など、20曲あまりのカンタータ(Cantata)を発表しています。カンタータを作曲するというのは、日本の音楽史上、初めてではなかったでしょうか。

大中寅二の息子が大中恩です。作曲家や指揮者として知られています。彼は信時潔に師事します。今も日本の合唱団のレパートリーで重要な位置を占める作曲家です。もっぱら子どもの歌と合唱作品を残します。阪田寛二とのコンビで「サッちゃん」などで知られています。

島崎藤村

椰子の実
 名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ
   故郷の岸を 離れて
    汝はそも 波に幾月 (島崎藤村作)

心に残る名曲 その百九十八 日本の名曲 成田為三と 「歌を忘れたカナリヤ」

秋田県出身の作曲家成田為三です。生まれは1893年。1914年に東京音楽学校に入学し、山田耕筰に教えを受けます。現在の東京芸術大学です。在学中、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受けます。1916年にはすでに「浜辺の歌」を作曲するという才能を示します。この曲は、国民的作品として今でも広く歌い続けられています。

成田為三

1917年に同校卒業後、九州の佐賀師範学校教師となりますが、作曲活動を続けるために東京に戻ります。そして1922年にドイツに留学します。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーン(Robert Kahn)に師事し、和声学、対位法、作曲法を学びます。1926年に帰国後、留学中に学んだ対位法の技術をもとにした「対位法初歩」、「和声学」、「楽式」、「楽器編成法」といった理論書を著すのです。為三は、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し輪唱曲集なども発行します。

歌を忘れたカナリヤ」が「赤い鳥」誌上で発表されます。「赤い鳥」は、1918年に詩人鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌です。この雑誌に為三作曲の楽譜の付いた童謡がはじめて翌1919年の5月号に掲載されます。新鮮にして甘美なメロディーが日本中の子どもたちの心をつかんだといわれます。

当初、鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったようです。ですが5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになったといわれます。北原白秋の「からたちの花」が発表されたのも「赤い鳥」です。「赤い鳥」によって児童文学運動は一大潮流となるのです。日本の文学史上、先駆的な雑誌になったことがわかります。