琉球処分

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「琉球処分」とは、明治政府が1872年から1879年にかけて、琉球王国を廃止して完全に日本の領土へ組み込んだ一連の政治的プロセスのことです。それまで独立した王国として独自の文化と歴史を持っていた琉球が、近代日本の一部となる大きな転換点となったのが、琉球処分です。

 なぜ琉球処分が起こり、どのように進んだのかです。まず、なぜ明治政府は「処分」を行ったのかです。その最大の理由は、当時の琉球が持っていた「日中両方への従属」を解消し、近代国家としての国境をはっきりさせるためでした。1609年の島津氏の侵攻以来、琉球は実質的に薩摩藩の支配下にありました。同時に、琉球は中国の皇帝に使節を送り、形式的に「臣下」としての礼を尽くす冊封・朝貢関係も続けていました。

 明治政府は欧米列強に対抗するため、「ここからここまでが日本の領土である」と世界に証明する必要がありました。そのため、清との関係を断ち切らせ、完全な日本領にしようとしたのです。

琉球処分の主な流れ
 琉球処分は、一気に強行されたわけではなく、段階を踏んで進められました。
【1872年】琉球藩の設置(第一段階)
【1874年】台湾出兵(清に琉球民を「日本国民」と認めさせる)
【1875年】清との関係断絶を要求(琉球側は激しく抵抗)
【1879年】沖縄県の設置(第二段階・王国の終焉)

琉球藩の設置(1872年)
 明治政府はまず、国内で「廃藩置県」を行った翌年、琉球王国を「琉球藩」に改めます。最後の国王である尚泰を「藩王」に任命し、華族に列します。これにより、「琉球は日本の一部である」という形にしたのです。

台湾出兵(1874年)
 1871年、台湾に漂着した琉球の島民が、現地の先住民に殺害される宮古島島民遭難事件が起きます。明治政府はこれを口実に1874年に台湾へ出兵します。この際、清との戦後交渉で「被害に遭った琉球民は日本国属民である」という文言を認めさせることに成功し、国際的に琉球が日本領であるという名分を得たのです。

清との関係断絶を要求(1875年)
 政府の処分官である松田道之が沖縄に渡り、「清への朝貢をやめること」、「中国の年号ではなく明治の年号を使うこと」などを厳しく要求します。しかし、清とのつながりや貿易の利益を守りたい琉球王府は、この要求を拒絶し、粘り強く抵抗を続けました。

沖縄県の設置(1879年)
 説得による解決が難しいと判断した明治政府は、1879年3月、松田道之に警察や軍隊を同行させて首里城へ入らせました。そして琉球藩の廃止と「沖縄県」の設置を強制的に通告します。首里城は明け渡され、尚泰王は東京へ移住させられました。ここに、450年以上続いた琉球王国は完全に滅亡することとなったのです。

 琉球処分は、ただちに平和な解決を迎えたわけではありませんでした。王国の滅亡に納得いかない親清派の琉球の士族たちの中には、清に密かに渡って「琉球を救ってくれ」と救援を求める人々(脱清人)が相次ぎました。当然、清も「勝手に琉球を併合した」と明治政府に猛反発します。一時はアメリカの前大統領グラントの仲介で、「沖縄本島側を日本領、宮古・八重山諸島を清の領土とする」という分島案などが話し合われましたが、最終的に調印には至りませんでした。この琉球をめぐる対立は、のちの1894年の日清戦争の一因にもなったといわれます。

首里城の日本政府 Wikipediaより引用

 明治政府は、沖縄の士族たちの反発を抑え、社会的な混乱を避けるため、土地制度や厳しい租税などをすぐには変えず、王国時代の古い習慣をそのまま残す政策をとりました。このため、沖縄の近代化や日本の他県並みの権利である国政選挙への参加などが認められるのは、本土よりも大きく遅れることになりました

 琉球処分は、明治政府が「近代国家」としての形を整えるために強行した、琉球王国の解体と沖縄県の設置という日本への強制的な統合プロセスです。この出来事は、独自のアイデンティティを持っていた琉球の人々の意志とは関係なく、外交や国防によって進められたため、現代にまでつながる沖縄の歴史的、政治的な問題の原点とも言われています。

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芸能・文化の発展と保護

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琉球王朝は、中国からの使者をもてなすために組踊など琉球舞踊や「琉球料理」を宮廷文化として高めました。これにより、中国側に対して「礼節と文化に満ちた独自の気高い国である」と思わせることに成功するのです。薩摩に対しては、貿易の利益をもたらす存在として、中国に対しては忠実で文化的な朝貢国として、自らの価値を全方位にアピールし続けたのです。

 独自の文化を磨いた琉球は、幕府の将軍が代わる際などに、江戸へ「慶賀使」や「謝恩使」という使節団を派遣しました。幕府は、異国の衣装をまとった琉球使節団を江戸城に迎えることで、徳川将軍の威光は、日本国内だけでなく琉球にまで及んでいる、というデモンストレーションとして利用しました。使節団が通る東海道などには、使節団を一目見ようと多くの民衆が集まり、日本本土でちょっとした琉球ブームが起きたといわれます。

琉球使節団 AI作成

 この薄氷を踏むような互恵外交は、1609年から1879年の「琉球処分」によって沖縄県が設置されるまで、約270年間も続きました。琉球王国は、大国の狭間で主権を制限され、経済的な搾取に苦しみながらも、したたかな文化的外交を展開することで、自らのアイデンティティと王統を守り抜いたのです。この時代に磨き上げられた宮廷芸能や食文化、礼節の精神が、現代の沖縄文化の大きな骨格となっています。

 琉球独特の「組踊」のことです。組踊は、18世紀初頭の琉球王国で生まれた独自の歌舞劇です。2010年にはユネスコ無形文化遺産にも登録され、現代の沖縄を代表する伝統芸能として大切に守られています。大国の狭間で揺れる琉球王国が、国の威信をかけて創り出した組踊の歴史は興味深いものがあります。

組踊 文化庁サイトから引用

 組踊が生まれた歴史的背景は、1719年、清からやってくる冊封使を歓迎する宴の席でした。時の国王、尚敬の命を受け、おもてなしの総責任者として「踊奉行」に任命されたのが、当時36歳で天才芸術家と呼ばれた玉城朝薫です。朝薫はそれまでに、薩摩への留学や、江戸へ派遣された使節団への随行を通じて、本土の芸能である能、狂言、歌舞伎を深く鑑賞し、その構造を学んでいました。さらに、中国の古典劇である京劇の真髄も理解していました。朝薫のイノベーションといわれる「日本の能や歌舞伎のドラマ性」と「中国の演劇の様式」をベースにしながら、台詞を琉球の古語にし、音楽を三線を中心とした琉球古典音楽に置き換えたのです。これにより、これまでにない全く新しい琉球独自の歌舞劇「組踊」が完成したのです。

 1719年9月9日の重陽の宴で、朝薫の処女作である『二童敵討』と『執心鐘入』が披露されると、中国の使者たちはその洗練された美しさと高い精神性に深い感銘を受け、絶賛したといわれます。こうして組踊は、いわば琉球の外交を支える最強の武器となったのです。陰陽道で縁起の良い「陽」の数字である「9」が重なり目出度いので宴が催されたのです。

 組踊の3つの大きな特徴です。組踊は、大きく分けて「唱え」「踊り」「音楽」の3つの要素で構成されています。

独特のせりふ回し:「唱え」は現代の演劇のように普通に喋るのではなく、独特の抑揚(メロディ)をつけて語られます。また、言葉の基本は「八・六・八・六」の琉歌の音数律になっており、格調高く美しいリズムを持っています。

能をベースにした様式美:「踊り」登場人物の動きは、能の影響を強く受けており、極限まで無駄を削ぎ落とした静かで上品な歩き方や手の動かし方の所作が基本です。感情の表現も象徴的で、例えば悲しい時は、顔の前に静かに手をかざす「泣きの手」という所作一つで、深い哀愁を表現するのです。

舞台を支配する生演奏:「地謡」舞台の進行や登場人物の心情は、ステージ上手に座る「地謡」と呼ばれる演奏者たちによって表現されます。三線、箏、笛、篳篥、太鼓の生演奏と唄が、現代の映画音楽のように劇の効果を高め、物語をドラマチックに引っ張っていきます。

組踊り 文化庁サイトから引用

 玉城朝薫が作った作品のうち、特に傑作とされる5つの演目は「朝薫の五番」と呼ばれ、現在でも繰り返し上演されています。この作品は、大きく2つのジャンルに分かれます。ジャンルの主な演目特徴ですが、ストーリー仇討物の『二童敵討』、そして『護佐丸仇討』という親を殺された子どもたちが、機転を利かせて見事に復讐を果たす、忠義と勇気の物語です。日本の「曾我兄弟の仇討ち」などの影響を受けているようです。

『執心鐘入』、『銘苅子』、『女物狂』など人間の愛憎や親子の情愛を描いた人間ドラマもあります。『執心鐘入』は、能の『道成寺』をベースに、恋い慕う男に拒絶された女が「鬼女」へと変貌する、組踊屈指のホラー・サスペンス傑作となっています。

 では、なぜ「男性」だけで演じられたのか?歌舞伎などと同様に、琉球王国の組踊もすべて士族の青年たちによって演じられていました。当時は「公の場で女性が踊ること」が禁じられていたため、女性の役も美しい声と容姿を持った若い男性士族が演じていました。彼らは王府の役人でありながら、外交のために厳しい稽古を重ねた「国家公務員の芸術家」だったのです。

 薩摩の侵攻後、主権を制限されていた琉球王国ですが、組踊という芸能を通じて中国の使者、そして日本に伝えたかったのは、「自分達は武力は小さくとも、これほど高い精神性と礼節、そして豊かな文化を持った誇り高き民である」という強いメッセージを伝えたのです。悲劇的な状況の中でも、決して野蛮に流れず、美を極めることで国を守ろうとした琉球人の智慧とプライドが、この「組踊」という結晶の中に今も息づいているといえましょう。

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なぜ琉球がアジアのハブになれたのか?

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琉球がこれほど栄えた理由は、大きく3つあります。第一は、地理的優位性です。琉球諸島は、日本本土、中国大陸、台湾、そして東南アジアを結ぶ海のルートのちょうど要石に位置しています。季節風を利用して南下・北上する帆船にとって、絶好の寄港地だったのです。第二は、平和外交への徹底です。琉球は強力な軍隊を持たない代わりに、全方位に礼を尽くす外交を展開したことです。独自の外交文書集である『歴代宝案』には、東南アジアの国々と交わした平和的な交易の記録が克明に残されています。第三は、万国津梁という精神です。首里城正殿に掛けられていた有名な「万国津梁の鐘」には、次のような言葉が刻まれています。「琉琉球国は南海の恵まれた場所にあり、韓国、中国、日本の間にある。船を操って万国の架け橋となり、異国の産物が国中に満ち溢れている。」

(冊封使と尚王との会見 AIによる作成)

 やがて、大交易時代の終焉16世紀後半になると、琉球の中継貿易は徐々に衰退へと向かいます。原因は、ポルトガルやスペインなどヨーロッパ勢力の東アジア進出、中国(明)の海禁政策の緩和による民間貿易の活発化、そして日本国内の政情の変化でした。琉球が独占していた「独占的なハブ」としての価値が薄れていったのです。そして1609年、薩摩藩による琉球侵攻を受け、王国は日本の支配下に組み込まれつつ、中国との朝貢貿易も継続するという「二重支配」の歴史へと移り変わっていくことになります。

 1609年に薩摩藩の島津氏が軍勢を率いて琉球に侵攻した際、琉球王国は激しい抵抗の末に降伏しました。これ以降、琉球は「薩摩藩」の支配下に置かれながらも、表面上は独立国家として明、のちに清との朝貢関係を続けるという、世界史的にも極めてユニークな「日中両属」の時代を生き抜くことになります。この複雑な状況下で、琉球がどのようにして王国を維持し、生存を図ったのかです。まず前提として、この二重支配は琉球の意志だけでなく、支配する側の薩摩藩や江戸幕府の強い意向によって作られたシステムでありました。当時、徳川幕府と明・清の間に国交はなかったのですが、中国の高級な生糸や漢方薬などの物資は、日本にとってどうしても必要なものでした。

(薩摩藩が首里城へ AIによる作成)

 そこで薩摩藩と幕府は、「琉球を独立国家のままにしておき、中国と朝貢貿易を続けさせ、その利益を薩摩が吸い上げる」という戦略に変わるのでした。これが成立するためには、「琉球が日本の支配下にあることを中国に絶対に知られてはならない」という絶対条件がありました。もし知られれば、中国は激怒して朝貢貿易をストップさせてしまうからです。

 琉球を独立国家としておくためには、徹底された隠蔽工作が必要でした。中国の使者である冊封使が新しい琉球国王を任命するために首里城へやってくる際、琉球と薩摩藩は総力を挙げて日本色を隠し通したのです。例えば、普段は那覇に駐在している琉球在番奉行などの薩摩の役人は、中国の使者が滞在している間、本島北部の山奥や離島へ完全に身を隠したのです。さらに、那覇や首里の街から、日本の元号が書かれた文書、日本の書籍、日本風の衣服や髪型、さらには日本の寛永通宝など貨幣に至るまで、日本を連想させるものを一切撤去し禁止するという徹底さでありました。

 薩摩藩から琉球へ出す命令書も、中国の使者に見つかるリスクを考慮し、慶長や寛永などの年号ではなく、あえて干支で日付を記載する徹底ぶりでした。琉球国は日本の支配を受けつつも、中国の前では「自分らは独立した琉球王国である」という芝居を完璧に演じ続けたのです。こうして「偽装」を徹底したのです。

 琉球存続のために、琉球の政治家や知識人たちは、ただ利用されるだけでなく、日本にとって『独自の異国』であり続けることこそが、王国の滅亡を防ぐ唯一の道であると見抜いていました。もし琉球が完全に薩摩化してしまえば、中国との貿易資格を失い、薩摩藩のただの島々として完全に吸収されて王統も途絶えてしまうと恐れたのです。そのため、琉球はあえて「中国風の文化や独自の礼節」をより洗練させる道を選んだのです。

 17世紀後半から18世紀にかけて、摂政として活躍した羽地朝秀や蔡温らは、国家の地盤を固める改革を行いました。羽地は、薩摩藩の支配下で財政難と社会の混乱に陥っていた王国を立て直すため、初の正史「中山世鑑」を編纂し、王国の正統性を明文化するのです。同時に綱紀粛正と産業振興を目指す改革「羽地仕置」を断行したのです。 蔡温は、18世紀の琉球王国で三司官、現在の首相に相当する者として活躍した政治家で学者でした。中国の風水や儒教を取り入れた実学を駆使して、治水事業や農政や林政の改革を行い、王府の財政再建と琉球王国の近代化の基礎を築いたといわれます。

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琉球王国の繁栄

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琉球王国が15世紀から16世紀にかけて展開した大交易時代は、東アジアから東南アジアにまたがる壮大な海商ネットワーク時代といえそうです。小さな島国でありながら、なぜそれほどの国際貿易を展開できたのか、その歴史と仕組みは興味深いものがあります。

((AI作成)

大交易時代を支えた「中継貿易」の仕組み
琉球王国の貿易は、自国の産物を売るのではなく、ある国で仕入れた商品を、別の国へ運んで売るという中継貿易でした。その基本構造は、中国の明を中心とした冊封体制と朝貢貿易を巧みに利用したのです。

 琉球王国が明朝からの破格の優遇を受けていた当時、明朝は「海禁」という政策をとり、民間人の海外渡航や貿易を厳しく制限していました。外国が中国と取引するには、明の皇帝に貢ぎ物を届けて臣下としての礼をとる朝貢貿易しか認められていなかったのです。琉球はこの朝貢を熱心に行い、明から他のどの国よりも破格の優遇措置を勝ち取ったのです。

 他国が数年に1回と制限される中、琉球は1年に1回、時にはそれ以上の朝貢が許されました。明の皇帝から、進貢船として航海に耐えうる頑丈な大型木造船を何度も無償で与えられたといわれます。それによって、福建省から造船や航海、外交文書作成に長けた専門家集団ができるのです。それが後に「久米三十六姓」と呼ばれる人々が琉球に移住し、貿易のインフラを支えたのです。久米三十六姓とは、1392年に明の洪武帝によって琉球王国に派遣された、職能集団およびその子孫の総称です。琉球の外交、貿易、学問、文化の発展に計り知れない貢献をした人々であり、現在の沖縄県の歴史を語る上で欠かせない重要な存在といわれています。現在も「久米」という地名が那覇の中心部に残っています。

(AI作成)

具体的に何をどこへ運んでいたのか?
 琉球は、中国から得た特権をフルに活用し、日本、朝鮮、そしてタイ、マレーシア、インドネシアなど東南アジアをダイナミックに結びつけました。シャム、マラッカなどへ:中国から仕入れた高級生糸、絹織物、陶磁器、大量の古銭を運び、現地で高く売却したのです。東南アジアから持ち帰ったもの:薬用や高価な香水となる香木、染料や薬材になる蘇木、胡椒などを仕入れました。

 東南アジアで仕入れた香料や胡椒、中国の生糸を日本や朝鮮に持ち込み、代わりに刀剣、銅、銀、硫黄を手に入れたのです。琉球の活火山である硫黄鳥島で採れる硫黄も重要な交易品であり、それを再び中国への朝貢品として納めたのです。硫黄鳥島は、徳之島の西約65 km、久米島の北東約200 kmの東シナ海に位置し、1959年の噴火により硫黄採掘従事者は島外へ移住し、今は無人島となっています。

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琉球と沖縄の違い

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7年余り私と家族が暮らした「琉球」にはいろいろな思い入れがあります。2026年6月に次女と孫娘とで短い琉球滞在を楽しみました。完成間近な王朝正殿にも立ち寄りました。

「琉球」と「沖縄」は、どちらも同じ南西諸島の地域を指す言葉です。その使い分けは、歴史や文化的な文脈で使われるか、現在のような行政や地理的な文脈で使われるかで大きな違いがあります。琉球の範囲ですが、現在の沖縄県だけでなく、鹿児島県の奄美群島までを含む「琉球弧」という広い地理的・文化的広がりを指すこともあります。

琉球とは?
 琉球は、主に明治時代より前に、この地域に存在した「琉球王国」やその独自の歴史・文化を指すときに使われます。琉球の歴史的背景ですが、1429年から1879年までの約450年間、日本とは異なる独立した王国、琉球王国でありました。その頃、中国や薩摩藩、東南アジア諸国と独自の交易を行っていたのです。そのために、中国の明や清、東南アジアの影響を強く受け、 混ぜ合わせといわれるチャンプルーという独自の文化が発展したのです。そんなわけでジーマーミ豆腐やゴーヤを混ぜた一品「豆腐チャンプルー」を思い出します。

 2019年の火災で焼失し、再建中の首里城正殿など、独自の建築様式があります。全体を彩る桐油や漆塗りの鮮やかな赤の色彩や、屋根の装飾、細部の木組みなどは、紫禁城など中国の宮殿の様式を強く受けています。中国の使者をもてなすために発達した琉球舞踊や宮廷料理である琉球料理も独特です。独自の鮮やかな染物である紅型や琉球漆器も名産物となっています。2026年9月17日、正殿および両廊下の漆塗装がすべて完了し、鮮やかな赤く輝く姿が公開されました。一般公開は11月23日から始まります。

沖縄とは?
 沖縄は、1879年の「琉球処分」によって日本の都道府県、沖縄県になって以降、現在の日本の自治体、地理、現代文化を指す言葉として使われます。明治以降、日本の沖縄県となり、太平洋戦争での壮絶な地上戦、戦後27年間に及ぶ米軍統治を経て、1972年5月15日に日本へ復帰しました。

 沖縄の現代の文化の特徴ですが、伝統的な琉球文化をベースにしながらも、大正・昭和以降の日本本土の文化、そして戦後の米軍統治下で流入したステーキ、タコライス、ポーク缶詰などアメリカの文化が融合しました、独自の現代文化を持っているのです。本島北部や周りの島々は、世界有数の透明度を誇る美しい海とサンゴ礁で囲まれ観光地としての魅力を放っています。三線を取り入れた現代音沖縄ポップスや、活気あるエイサーも沖縄を代表する芸能となっています。

 伝統的な織物や芸能を語る時は「琉球絣(かすり)」「琉球舞踊」と呼び、現在のリゾート地や県産品を指す時は「沖縄の海」「沖縄そば」と呼ぶように、人々は無意識のうちに歴史的な誇りや伝統には琉球という名称を、親しみやすい現在の地域には沖縄というように両方を使い分けています。

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「税」という漢字

今国会では盛んに減税、そして廃止論が論議されています。どうしてこのような事態になっているかが気になり、税金の歴史やその正体とはなになのかを調べています。

 古代エジプト時代にはすでに、賦役の提供を中心とした租税、ギリシア、ローマでは財産税と間接税の芽生えもあったといわれています。確か中学生のとき飛鳥時代に大宝律令という法律によって、「租・庸・調」という税や労役をかける税のしくみのことを習いました。「租は男女の農民に課税され、税率は収穫の約3%位」だったようです。

 「税」という漢字の意味です。文字通り漢字の「税」はのぎへん(ノ木へん)の「禾」と「兌」から成ります。漢和辞典によりますと、「禾」は穂を実らせた穀物の象形だと言われています。そして、「禾」「の「ノ」の部分は、穀物の穂が垂れている様子とあります。税の右側の「兌」は、もともと抜き取るとか脱ぐという意味と言われます。そうしますと、「税」とは実った稼ぎを抜きとる、という意味ということになります。

 私たちは通常何気なく「税を払う」とか「税を納める」という言い方をします。この二つの表現は明確に異なります。「税を払う」とは、例えばペットボトルの水を買ったときにその一部の10円を払うことです。他方「税を納める」とは、決められたこと、例えば収入があれば、所得税法などで規定された額を納める、ということです。納めるのは、何らかのモノー対価が手にはいらない場合の行為です。少し難しくいえば、政府は所得から税を集める租税債権を持ち、税を納める者は債務者、担税者となります。この場合、債務者は政府からの反対給付はありません。

 社会保険料の場合はどうでしょう。「保険料を払う」か「保険料を納める」のどちらでしょうか。社会保険金は病気や事故の時に支払われるものです。「保険料を払う」ことによって対価としての給付ー保険金を受けることができるのです。ですからこの場合は、モノを買うときのように「保険料を払う」というのが正しいと思われます。いずれにせよ、私たちはこの世に暮らす限り、税から逃れることはできません。

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消費税は預かり金か?

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今各党は消費税減税とか廃止、あるいは食料品消費税ゼロということを提案しています。消費税って分かっているようですが、調べると結構難しいものです。消費税とは、まず事業者が適正な価格を決め、それに8%とか10%の税をかけて、それを私たちが払っていると思いがちです。品物を購入したときや、サービスを受けたりするときに受けとるレシートにはそう書いてあるから仕方ないことです。

 しかし、法律上、消費税は事業者に対して課税される税金となっているのですが、一般の感覚では事業者が消費者から「預かった税金を納めている」ように感じられます。 取引上、事業者は価格に消費税相当額を「転嫁する」ため、消費者が負担する構造になっています。このからくりは、消費税という名称があたかも消費者が負担する税と思わされていることにあります。もともと消費税とは売上税とか付加価値税というのが正しいといわれます。付加価値税とは、売上から仕入額を差し引いた額に対して課される間接税です。

小田原青色申告会より引用

 1989年にスタートした消費税は当初の3%から現在は10%まで上がりました。所得にかかわらず均等に税金がかかる点で、公平なように見えて望ましくない制度のように感じます。つまり貧乏人も金持ちも、一律8%や10%の税金を払うのが消費税です。ちなみに所得税は基本的に累進課税ですが、一部の所得は累進課税の対象外です。それが株式や公募株式投信の売買益への税で分離課税といわれます。分離課税は一定の低い税率が適用されるため、高所得者にとっては税負担が少なくなるのです。

Instagramより引用

 消費税の計算方法は大きく2段階となっています。第一は、消費者から受け取った「売上にかかる消費税」を計算するやり方です。例えば、税率10%で税込価格 1,100円としますと、売上に含まれる消費税は、1,100 ÷ 1.10 = 1,000(税抜)ですから、〔1,100 − 1,000 = 100円〕が消費税となります。第二は、〔売上消費税 − 仕入れ消費税(控除)= 納税額〕という式です。これは飲食店などが食品を仕入れル時に支払う税から売り上げの時に払う税を差し引いて納税する場合があてはまります。自分が仕入れ時に支払った消費税を差し引いて申告するのです。つまり、〔納税額 = 売上に含まれる消費税 − 仕入れに含まれていた消費税〕という式です。例として、売上に含まれる消費税が100万円として、仕入れで支払った消費税が70万円としますと、〔100万 − 70万 = 30万円〕が納税額となります。これは税が二重三重に累積しないようにしているからです。

 ここで消費税が減税とか廃止になったとしますと、品物の価格は下がるのでしょうか。現行の加工食品含む軽減税率は8%ですが、0%になれば税込価格が8%下がるのが原則です。しかし、加工食品含むメーカーや小売店が、ゼロ税率分をそのまま価格に反映しないケースが想定されます。その理由は、原材料価格、人件費や輸送費の高騰などの理由で据え置くとか、さらに小売店の競合状況により業者によって価格の設定が違ってくるからです。価格というのは市場が決めるのです。ゼロ税による実際の値下がり幅は不確定であると考えたほうがよいようです。私たち消費者は、価格については蚊帳の外にあるのです。特に食料品の消費税0%、いわゆる非課税取引となると、小さな飲食店のラーメン店とか蕎麦店の多くが経営不振に陥るといわれます。この理由は別な稿で説明します。

 財務省のページから国の収支をみますと消費税収入は24兆円で、これは社会保障の財源として徴収されていると言われることが多いのですが、実際にはその多くが輸出企業への33兆円の輸出還付金として流れており、社会保障には一部しか使われていないことが判明しています。輸出還付金の仕組みは、ここでは取り上げませんが、もし消費増税が起こるとすれば、国民の可処分所得を減らすことになります。可処分所得とは、収入から税金や社会保険料といった支払い義務のある費用を差し引いた後、自由に使えるお金のことです。増税によって私たちは買え控え、消費を冷え込ませるのです。これが日本の経済成長を妨げる最大の要因の一つであるといわれています。

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消費税のおさらい

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消費税は、直接税か間接税か?ここは少しややこしいところです。結論からいうと、「消費者が消費税を負担する」という説明は基本的に正しいのですが、「消費者が法律上の納税義務者である」という意味ではありません。制度上の分類理由は、「税金を負担する人、担税者」と「税金を国や自治体に納める人、納税義務者」が異なるので消費税は間接税とされています。

北海道新聞デジタルより引用

 その理由は、次のように二つを分けて考えると分かりやすいです。法律上、税を納める義務があるのは原則として事業者です。たとえば、私たちが1,100円の商品を買った場合、税務署に100円を納めるわけではありません。販売した事業者が申告し納付します。では、その100円を最終的に誰が負担するのかです。消費者が商品の価格と一緒に負担することが想定されています。この意味で、消費税は「消費者が負担する税」と説明されます。ただし「事業者が預かった100円をそのまま納める」わけではありません。ここが特に重要です。事業者は商品を販売する一方で、仕入れの際にも消費税を支払っているからです。

財務省から引用

 例えば、消費者から受け取った消費税が100円として、仕入れの際に支払った消費税が60円としますと、納付する消費税は40円という仕組みです。このため、消費税を単純に「店が消費者から100円を預かって、その100円を国に渡している」というのは正確ではありません。

 では「本当に消費者が払っている」と言えるのかです。ここには「税の法律上の負担」と「経済的な負担」という区別があります。法律上の納税義務者は事業者であり、価格を通じて最終的に税負担をすることが予定されている者は消費者ということになります。したがって、「消費税は消費者が負担する間接税」という説明は制度上の基本的な整理です。

ただし、現実には、事業者が消費税分を必ず価格に100%上乗せできるとは限りません。競争が激しい場合などには、事業者が価格を十分に上げられず、税負担の一部を事業者側が実質的に負うこともあり得ます。つまり、「消費税は消費者が負担する税」といのは制度上の基本的な考え方ですが、「消費税を必ず消費者が100%負担している」とは必ずしもそうとは限らない、という理解が一番正確といえそうです。

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