イスタンブルとソフィアの旅から その6 トルコ共和国の誕生

1918年10月、第一次世界大戦においてオスマン帝国は連合国に降伏し、君主スルタン(Sultan)のメフメト6世(Mehmed VI)の政府は連合国との間で講和のセーヴル条約(Treaty of Sevres)を締結します。その結果、領土の大半を失うこととなりイスタンブルは連合国に占領されてしまいます。

大戦の敗北によって、ばらばらになったトルコ内では、旧帝国軍人や旧勢力、進歩派の人たちが国の独立を訴えて武装抵抗運動を起こします。1920年には中央アナトリアのアンカラ(Ankara)に抵抗政権を樹立します。大国民議会という組織が祖国解放戦争に勝利し、オスマン帝国を打倒して新たにトルコ共和国を樹立しようという一連の抵抗運動です。これはトルコ独立戦争と呼ばれています。1922年9月、ムスタファ・ケマル・アタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk)を初代大統領として推戴し、現在のトルコ共和国が生まれます。

Mustafa Kemal Ataturk

アタテュルクは、大胆な欧化政策を断行します。ヨーロッパのさまざまな法典が、古いイスラムの法律にとってかわります。1928年には憲法からイスラムを国教と定める条文を削除します。トルコ住民の95%以上はイスラム教徒で、スンニ派(Sunni)と呼ばれます。1923年の共和国樹立後における革命的な変化の結果、公的活動に及ぼす宗教の影響は低下します。

アタテュルクは、トルコ語の表記についてもアラビア文字を廃止してラテン文字(ローマ字)に改める文字改革を断行したことで知られています。学校と社会生活は、宗教から分離されます。アタテュルクの名前はイスタンブル国際空港や大学、紙幣、道路などに広く使われています。しかし、欧化政策は今もイスラム主義者から根強い抵抗があるといわれていますが、救国の英雄、近代国家の樹立者としてトルコ国民の深い敬愛を受けているといわれます。