心に残る一冊 その76  「朝顔草紙」  文絵

槍奉行が闇討ちにあったという知らせで監物が登城し、信太郎と小雪は相対して坐っています。
「文絵どのは拙者のことを存じだったでしょうか」
「はい、存じ上げておりました、、、生きているうちに一度はお目にかかりたい、一目お会いしてから死にたいと、口癖にように申しておりました」
小雪は袂を顔に押し当てて嗚咽し、しばし肩を振るわせます。
「失礼なお尋ねですが、先ほどのお琴は貴女がお弾きになったのですね」
「お恥ずかしゅう存じます」
「たしか朝顔の曲だと思いましたが、,」
「はい、、」
「亡き従姉上がお好きで、あの曲を弾くと、毎も、、、貴方様のことが想われると申しておりました」

そこへ、けたたましく犬の吠える声がおこり、「うるさい畜生だ、ぶった斬るぞ!」という荒々しい声が聞こえます。庭前へ鳥刺しの装束を着た男が二人、ずかずかと入ってきます。刃向かおうとする信太郎に小雪は止めにかかります。そして男達が去ると説明します。
あれは鳥刺しの組の者といいまして、領内いずれの屋敷へも出入り勝手とお上からお触れがでているのでございます」

信太郎は、槍を預けていた老番士に鳥刺しの組のことを訊きます。あの腹黒い奴神尾采女がお上を焚きつけて企てた仕事であることがわかります。堪りかねた相談役らがお上に諫言すると、ことごとく采女の部下らに暗殺されるというのです。信太郎は、槍奉行の闇討ちは鳥刺し組の仕業ということがわかります。

信太郎に烈火のような怒りが湧いてきます。そして神尾采女を屠ろうと計画します。采女の登城、下城のお供は厳重をきわめ、鉄砲二丁、槍五本、徒士二十人ということを探ります。討つなら下城の途中であると信太郎は考えます。采女の下城の行列がひたひたと宗念寺の塀の外にさしかかります。

采女の駕籠が眼前にさしかかると、信太郎は「神尾采女、天誅だ」と叫びながら駕籠の中に一槍いれます。手応えありとみるや、さっと槍を曳いて武林の中に引き返します。
「曲者、曲者!」と叫ぶ共侍を突き伏せると駕籠の側に近づき「采女、采女!」と呼びかけてぐいと引き戸を明けます。そして胸元深くトドメを刺します。

同じ頃、監物は居間で遺言状を認めています。最早どんな手段を使っても、采女の勢力をそぐことは出来ない、万策尽きた、腹を切ろう決心したのです。
「ご免ください」
「誰じゃ、」
「信太郎でございます」
「何処かへ出掛けたときいたが」
「はい、ちょっとそこまで出て参りました」

すっかり旅支度のできている信太郎をみて驚きます。
「どうしたのだ、その姿は」
「お暇仕りたいと存じまして」
「なに帰る、、、この夜中にか」

監物は小雪を呼び寄せます。そして信太郎が江戸に戻ることを伝えます。
「お別れについて、お願いがございます。文絵どののご位牌を頂戴いたしとうございます」
「未練だぞ、信太郎、文絵をそれほど想ってくれる志は忝ないが、その方は安倍の家名を継ぐべき大事な身の上、一日も早く他から嫁を迎えて、親に安心させるが孝の道だ」

監物は黙っています。小雪も蒼白めたおもてを伏せたままです。乳母のかねに対して、「かね、位牌をもってきてやれ」 監物がしばらくして云います。
「頂戴いたします」 信太郎はじっと位牌を見つめるとそれを旅の袋に収めます。

「お待ちくださいませ」と堪りかねたかねが叫びます。
「もうわたしは我慢ができません。お嬢様、どうか本当のことをお話あそばせ、、」
「これ何を申すか!」
「いえ、いえ申します、位牌を生涯の妻にするとまで仰せられた信太郎さまのお言葉が貴女にきこえませぬか、」
「安倍の若様、あなたのお持ち遊ばした位牌は、小雪といわれる旦那様の姪御のもの、これにおいでなさるのが、真の文絵さまでござりまする!」
信太郎は雷に撃たれたように立ちすくみます。

「信太郎、赦してくれ、、」
「かねの申すとおり、これが、、、文絵じゃ、いままで欺いていた罪を赦してくれ」
「何故、何故、またさような」
「十五年以前の約束を守って、遙々きてくれたお前にたいして、盲いた娘をこれが文絵だと云うことができようか、、わしにはできなかったのだ」

「文絵どの、お支度をなさい」信太郎がきっぱりと云います。
「どうするのじゃ、」
「駕籠は表にきています。すぐに江戸に出立いたしましょう」
「夜道をかけてはじめての夫婦旅、寒くないように支度をするのです」
「信太郎の妻は文絵どのです、さあ、」
「今宵ただ今から信太郎が貴女の眼になります。なにものも怖れずしっかりとこの手をつかんでおいでなさい」
「信太郎さま、、」

文絵の声は歓びと感動にわなわなと震えています。監物も乳母も泣きながら、然しつきあげてくる歓びに顔を輝かしています。

二人を送り出した半刻、監物のところに使者がきて神尾采女が何者かに闇討ちをかけられたことを伝えます。
「即刻ご登城くださるようにとのことです」
「そうか、信太郎め、采女をやりおったか」と監物は呻くように云うのです。