石見国浜田藩の物頭格で五百石を貰い仕えていた安倍信右衛門は、今は江戸に退身しています。藩主に直諫し暇をだされたのです。地位などに遠慮せずに、率直に相手を諫めたのが因です。その息子に信太郎がいます。二人の間で次のような会話が交わされます。
「突然のことでだが、そのほう明日江戸を立って、故郷まで行ってきて貰いたいのだ」
「石見へでございますか」
「石見の浜田だ」
「なんぞ急な御用でも、、、」
「一人、、、人を斬るのだ」
「父が永の暇をだされたのは十五年前、なぜ退身したかということは話をしていなかった、」
「その仔細ならあらまし存じております」
「亡くなる二年ほど前、母上から聞かせていただきました」
「では神尾采女のことを知って居るな?」
「はい」
「父が浜田を退身したのは、武士の本分に欠けていたからだ。真に君家を思うならば諫死をも辞すべきでない。少なくとも采女を斬って立ち退くくらいの覚悟が出来ないはずがなかった。それを、、、父はまだ若く客気満々であったため、尽くすべき本分を尽きずにきてしまった」
神尾采女は非常な才人で主君松平大和守の寵愛を受けていました。若くして御用人に取り立てられると、政治の面にまで進出し、奸曲の人物となっていました。それを信右衛門は再三再四遠ざけるように主君に進言したのです。それが因で暇をだされます。采女は、国老までのぼり、いまや藩政の実権を握り、藩の民を苦しめていることを信右衛門は知ります。
「十五年前に、父が斬っていたらこの禍根は残らなかった、、」
「首尾良く采女を討ち取ったら、国家老建部監物の娘、文絵どのを嫁に迎えて帰れ」と信右衛門は云います。
自分の未来の嫁がいるという夢を抱いて、信太郎は浜田に着くやいなや父の指示に従って国家老をしている建部監物の屋敷に落ち着きます。
「はい、実は、、、突然のことで、甚だ不躾とは存じますが、予て父が在藩中にお約束申し上げました。ご息女との婚約のことにつきまして、、、」
「おお、では文絵を迎えにきてくれたのか、、」
信太郎そっと眼を上げると監物の眉は苦しそうに深い縦しわを刻んでいます。ああ、すでに文絵は他に嫁したな、信太郎はそう思います。
「かたじけない、よく迎えにきてくれた」
「もし文絵が生きていたらどんなに悦んだことであろう」
「去年の秋から病みついて、この春の花を待たずに死んでしまったのだ」
「残念だが、最早なんとも致し方がない、諦めてくれ信太郎」
「、、仏間へご案内へ願えませぬか、」
「回向してくれるか、、さぞ文絵も喜ぶであろう」
寝苦しい一夜が明けます。気がつくとさして遠くない部屋から琴の音が聞こえてきます。哀調帯びた曲です。朝食の席に着いたとき、監物の隣に一人の娘が座っています。色の透き透るように白い、眉に憂いを含んだ淋しげな、然し驚くほど美しい顔立ちです。娘は盲いています。
監物が云います。
「これは文絵の従姉妹で小雪である、見るとおり眼が不自由であるが文絵とは姉妹のように育ってきた、彼女のことなら何でも知っている、話し相手になってくれ、、」
そのとき、監物が柴野という同僚の槍奉行が闇討ちにあった、という知らせをきいて急ぎ登城していきます。