ようやく、「間主観性」(intersubjectivity) とか「間主観 」というところにやってきました。英語の表記のほうは意味が伝わってきやすい用語です。自分と他者、自我と他我、主観と主観の関係性といった響きです。ブリタニカ国際大百科事典には「intersubjectivity」を「共同主観性」「相互主観性」と表記しています。
「間主観性」とは、前稿ででてきたフッサール ( Edmund Husserl) が使った用語のようです。どのようなことかといいますと、主観がそれぞれ単独で働いて外界に向かうのではなく、主観同士が互いに交錯しあいながら働き、「共に」機能し、共通な世界を成り立たせる、ということがらを言い表す用語のようです。間主観性という概念は、こうして、「単独の主観が信用を失い、客観性という概念が疑われる場面で登場する」という意味で使われます。
自我とか主観性が私の内面にある、私だけのものという考えを捨てない限り、「他我をいかに認識ないし経験できるのか」という行き詰まりは解決できない、そう考えてフッッサールは、主観性とか自我は私の内面にあるのではなく、私と他人、人間と人間の中間にあるのではないかと考えて「間主観性」という概念に至ったということです。そのようなわけで「間主観性」は「共同主観性」ともいわれます。
自我とか主観性は人間と人間の間にあるということは、それが人間関係に由来する、関係概念だということです。フッサールは人間と人間の間に間主観性があり、私とか他人の心はその間主観性の枝分かれしたもの、それを分かち持ったものと考えられるようになりました。
このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や源泉を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や思考を留保することを提案します。このような判断や思考を留保することをエポケー (suspension of judgment)と呼び、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱します。
周りの世界にあるいろいろな命題を「括弧に入れる」ことを意味するのが「エポケー」というのです。すなわち世界の外的現実についての自信の信念をいったん停止するのです。ただしこれは外界の存在を疑うという意味ではないとフッサールはいいます。
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Edmund Husserl