昨日、親戚の七回忌法要にでかけた。僅かになった親戚縁者に会うのが楽しみであった。お寺は港区青山にある。寺名は徳川家康以来の家臣であった老中の側室の法名から名付けられたという曰わく付きのお寺である。
さて法要であるが、長い日本人の伝統というか文化に法る宗教行事であるのはわかるのだが、どうにも落ち着かない。その理由は有り難いはずのお経の意味がさっぱりわからないからである。サンスクリット語で読み上げられているようである。最初と最後のあたりで故人の戒名が読み上げられるのだが、あとはただ、じっと我慢して聴いている。こんな不遜な態度でいいのかと反省はするが猛省はしない。意味を知ろうと努力せよ、という声が聞こえてきそうだ。
お経は釈迦の教えを信者達に説くための「教典」とある。一体、この拙い記事を読んでいただく方で、お経の意味をどれくらいの人が理解され納得されておられるだろうか。こうしたお経を静かに我慢しながら聴くのは、恐らくは全く知らない外国語で演説や祈りを聴いているのと同じような気がする。意味がわからないことほど辛いことはない。時間の浪費ではないかとさえ思ってしまう。
さてお経が終わると法話となる。これはお経の時と違って、お坊さんとの対面の時である。法話の話題は「四苦八苦とは」ということであった。仏教における「苦」の分類によると、「思うようにならない」ということを意味するのだという。大変な苦しみということではなさそうである。人知ではどうにもならない現象のこと、それが「四苦」だそうである。あとの四つの苦とは、を知りたかったのだが、法話の時間が長くなったせいか、「愛別離苦」とかを簡単に触れただけで終わった。
思うようにならない「八苦」のうち、五つまで分かった。残りの三つは家で調べようと考えながら、法会から功徳を頂戴した気分で帰ってきた。
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