文化を考える その11 それぞれの家族史 その2 サッカー

長男の次男は地元のボストンの郊外にあるサッカークラブに所属してプレイしている。長男によると、なんらかんらで年間の費用は20万円位となるそうである。今年の4月、チームはサッカーの本場スペインのバルセロナに遠征し、地元の少年チームと親善試合をしてきた。親が同行するという条件であった。すべて本人の負担であった。そこで筆者も援助を申し出、ついでに物見遊山で出掛けた。試合の前後は観光を楽しんだ。バルセロナの少年の力量は段違いで5試合すべて完敗した。

前回の女子ワールドカップの時である。決勝戦では、長男家族は嫁の実家に出掛けて試合を観戦した。試合は最後までもつれる好試合となった。アメリカがリードすると日本が追いつく白熱のゲームとなった。最後はPK戦となり日本の勝利となった。観戦中、アメリカを応援する孫たちを日本国籍の長男は黙って観察していたという。アメリカチームの敗北に、孫たちはがっかりしたようだ。そして長男に「日本へ戦争で仕返しする」と皆にきこえるように呟いたそうだ。

女子ワールドカップの敗北は、孫にはよっぽど悔しかったに違いない。スポーツと戦争は別次元の話だ。父と子が戦争に巻き込まれるなど想像するだけでも恐ろしい。だが、心置きなく冗談がいえ、腹蔵なく話せるのも親子だからだ。とはいえ長男には日米の決戦には複雑な思いで観戦したのではないか。こんなところにも国籍の違いや日米のことが話題となる。

IMG_0261-1 Corbin

文化を考える その10 それぞれの家族史 その1 永住権

異文化体験については、さまざまなことが身の回りにある。成田家の歩みは、戦後の引き揚げを哀史を交えると史実になるような話題に満ちている。私小説が書けるくらいである。今それを真剣に考えている。

子ども3人はアメリカで育ち、教育を受け、仕事を得、家庭を持っている。長男が大学院時代、1990年8月湾岸戦争が起こった。その前月、選抜徴兵法が施行された。国民の男性と永住外国人の男性に連邦選抜徴兵登録庁への徴兵登録を義務化するものだった。彼は永住権を取得していたが、兵役に志願しなかった。それ以来、市民権の申請をためらってきた。幸い職に就き、結婚して家を持つことができた。

兵役に就くことは危険と隣り合わせではあるが、アメリカでの生活を円滑にするための有力な近道である。除隊後は大学で学ぶ奨学金(Pell Grant)が与えられる。経済的に貧しい階層の兵役志願率が高くなる。兵役は市民権を申請することのできる要件ともなる。

アメリカに住み仕事を得るには永住権が必要となる。通常であれば数年から10年くらいの時間と弁護士費用がかかる。ポートピープルなど人道上、配慮されるべき外国人は別である。さらにアメリカで多額の投資をする人々は優先的に永住権が所得できる。たぐいまれな頭脳の持ち主もそうだ。だが成田家はそのどれにも当てはまらなかった。

pell-grant Pell GrantGreenCard-Design-2010Green Card

文化を考える その9 見捨てられた人々 その2 棄民

戦後、外地に取り残された人々は「棄民」と呼ばれた。成田家はすべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。筆者3歳の時である。親戚の反対をよそに移住したのが樺太であった。そのような経緯で引揚げというのは、親戚に顔を会わせにくいという心情があったようだ。

満蒙開拓団のことに戻る。もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって残りの兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな手記に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にも記述されている。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、親族の反対を押し切って一切の財産を処分し、こうした国々に移住していった。ところが、入植地としてあてがわれのは、未耕地で開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。

戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。1966年、佐藤内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。国の土地強制収容に反対する三里塚闘争が始まる。国策で欺された元満蒙開拓団員は「怨念」のプラッカードを掲げ、長い闘争に参加した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが数日前に放映された。やがて故郷へのダモイー帰還がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国はつらいものとなったようだ。誰も尋ねない誰にも語れない、深い傷を背負った帰還となった。

Khalkhin_Gol_Captured_Japanese_soldiers_1939 28b8759bb60dcb31bf8a763c48ab5577

文化を考える その8 見捨てられた人々 その1 満蒙開拓民

当たり前だが、不思議なことにまた8月15日がやってきた。筆者がいつも思い起こすのは「国策としての移民」、そして「棄民」という言葉だ。私の親たちは敗戦の日、樺太と満州にいた。幸い帰国を果たしたのだが、兄弟がシベリアに抑留され、かれこれ1955年頃に外務省から死亡通知書が届いた。父は半信半疑だった。死亡地はクラスノヤルスクとあった。恐らく金鉱山で働いたか、水力発電所の建設に従事したようだ。

悲惨だったのは、国策によって満州に向かった「満蒙開拓民」の農業従事者と家族である。開拓団とか移民団と呼ばれたが、実は対ロシア防衛を目的とした「満州開拓武装移民団」であった。彼らは満州への出発前に簡単な軍事教練を受けた。

開拓団の人々は25万人とも30万人ともされる。20の都道府県から約300の開拓団が組織されたという。その中には地縁と血縁でつくられ、集落全員で組織されたのもある。最も開拓民が多かったのが長野県であった。1932年から満州への入植が始まった。割り当てられた所は今の満州吉林省である。

戦局の悪化により、満州に駐屯していた関東軍は南方へ移動する。こうしたなか、兵力を補うために14歳から17歳までの男子が青少年義勇兵として訓練を受け、開拓民団に配属された。武装農民であった。満州の邦人女性も看護婦見習いになる訓練のために赤紙を受けとる。

1945年8月9日、ソ連が日本に参戦し開拓民の大半はソ連との国境付近に取り残され、年寄りや老人は置き去りという長い辛い逃避行が始まる。助かった者の多くは抑留される。

9d47ce2a06f5ff5d36397af4b6ea2961img_233-0d7e9

文化を考える その7 Cultural Studies

聞き慣れない研究の分野に「Cultural Studies」というのがあるのを最近知った。「地域へと広まっていった、文化一般に関する学問研究の潮流を指している。」とある。ハイカルチャーだけでなくサブカルチャー(大衆文化)の研究を重視するようだ。

サブカルチャーという用語を最初に使ったのはアメリカの社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)である。彼は「孤独な大衆」(The Lonely Crowd)という著作を書き、その中で社会的性格は伝統指向型から内部指向型とか他人指向型へと変化すると論じている。リースマンは、伝統指向型の社会的性格は、はっきりと慣習が伝統によって体系化されているため、恥に対する恐れによって人々の行動は動機付けられると考える。

さらにリースマン曰く。内部指向型や他人指向型の社会的性格では、人は行動の規範よりもマスメディアを通じて、他人の動向に注意を払う。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安とか寂しさによって動機付けられるのだと。大衆文化とはこのようにして広まるという。この考えは仮説だろうと察するが、一考に値する。

ハイカルチャーを享受するには相応の教養や金と時間が必要であった。だが、大衆が実力を持つのが20世紀。大衆社会においては、高等教育を受けた人々が増加し、ハイカルチャーも一般に楽しめれるようになる。絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書やパンフレットなどで見られる。音楽も演奏会に行かなくともラジオ・レコード・テレビで気軽に楽しむことができるように変容していった。今は電子媒体で安価で広汎に普及している。現代は、いわばハイカルチャーの大衆文化時代といえる。要は、Cultural Studiesとは以上の現象をもっと掘り下げて”難しく”研究する分野のようだ。

m5 img_2

文化を考える その6 文化の日のエピソード

誰かが「自分は異邦人であり、よそ者であるという視点から物事を見つめることが大事だ」といっている。この稿を書きながらこの指摘を考えている。アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説に「異邦人」というのがあるが、こちらは「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性」(Wikipedia)というように、文化の話題からすこしそれる。だがなぜか「異邦人」という言葉に惹かれる。

ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の文化観が我々にとって身近になるような気がする。それは、共同体それぞれ文化に基準があり、他の価値や伝統からでは意味を理解することが困難だ、ということである。日本人論とか日本文化ということが内外の識者によって語られるのを読むことがある。そこでの文化のとらえ方は、「日本人」とか「日本文化」でくくられる狭い意味の文化論ではなく、生活や環境全体を意識しながら重層的にとらえる見方である。徹底的にエスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義を排除していることでもある。

先日、孫娘や娘婿らと会話しながら、日本とアメリカの公的祝日について話題となった。建国記念日や天皇誕生日、憲法記念日などは彼らには納得できる。だが、日本には成人の日、春分の日、秋分の日が祝日になっていること、みどりの日、文化の日などがあることに興味を示した。

筆者が特に説明に窮したのは文化の日の意義である。「日本の文化を大事にすること、学問に励むこと、ノーベル賞をもらった人々に勲章を与える」などと説明したのだが、得心する顔ではなかった。これではいかんと思い調べると、もともとの文化の日の制定は、明治天皇誕生日である1852年11月3日に由来するというのだ。確かに、戦後しばらくの間、両親らがこの日を「天長節」と呼んでいた。明治天皇は国民にとって偉大な存在だったようである。

みどりの日、昭和の日などを天皇の誕生日を記念する日であることも説明した。すると娘婿が、「日本は新しい天皇が生まれるたびに祝日が増えるのか?」と誠にこちらを困らせる質問をしてきた。

Meiji_tenno1 文化の日

文化を考える その5 サブカルチャーの回帰

サブカルチャーのメインカルチャーへの挑戦は至るところに現象として現れた。当然のように文化と考えられた歴史とか古典に対する強い関心と畏敬は、サブカルチャー(大衆文化)の側からすると一種の審美的文化観とされて、時に「マニア」、「おたく」といった独特な行動様式として揶揄することもある。しかし、おたくの本人は「伊達や酔狂」と自負するようなところがあって、むしろ孤高のような存在感を楽しむようなところもあるようだ。

サブとメインの境界が曖昧になったということは、その逆転現象がうまれてきたということでもある。例えば、活字文化は今もそうかもしれないが、メインカルチャーの旗頭であった。だが、なにもかも電子媒体としてメディア界に急速に広がるのが現在。書籍の売り上げた伸びないのは、電子媒体の流通と普及があるともいわれる。多くの書類、卒業論文、研究論文は電子媒体で提出しなければならない。悔しいことだが、手書きの論文は受け付けてくれない。

「子どもたちは夏目漱石や森鴎外を読まないのではない。読めないのだ」ともいわれる。漢字能力の低下が一因だというのである。手書きできない。それで電子辞書を使い携帯電話サイトから「ケータイ小説」をつくる。「書く」のではない。漢字が書けなくても小説が書けるという時代になった。「話し言葉が中心なので親近感があり、一文一文が短く読みやすい」という新しい文化観もそこにある。

技術革新に伴う諸々の変化は、もはや後戻りができない。革新が続くだけだ。だが、電子媒体にも寿命がある。記録したデータを保持できる期間は有限である。読み込みの処理がなくとも経年により媒体は劣化していく。そしてデータが読めなくなったり消失したりする。自分もその苦い経験はある。もっとも機械的な寿命の問題だったが、。

活字文化がサブカルチャーか、メインカルチャーかという議論はすまい。だが分かっていることは、サブとメインの逆転、そのまた逆転も起きうることである。今や「アングラ」も「ヌーヴェルヴァーグ」もという表現も目にすることはない。文化の論争は意味がなくなっているからだろう。

活字文化プロジェクトが各地で盛んになり、活字文化推進会議とか活字文化推進機構もできた。電子媒体文化とのせめぎ合いのようだが、両者が共存することも文化ではないかと思うのである。

71517fa32e4f882d4a368b62182d05a20000_cover PersonalStorageDevices.agr

文化を考える その4 サブカルチャーの台頭

1960年代のサブカルチャーを誘因する大きなきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。既成の体制やハイカルチャーに対して主として若者が怒りだす。主流の文化であるメインカルチャーの地位が揺るぎ出すのである。それまでサブカルチャーとして卑下されがちであった現象が次第に認知されていく。このことはメインとサブの境界を曖昧にしていくことを意味する。

音楽の世界ではビートルズのジョン・レノン(John Lennon)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ジョーン・バエズ(Joan Baez)、ピーター・ポウル・メアリー(Peter, Paul & Mary-PPM)などである。彼らの、自由と平和を訴えるメッセージは若者だけでなく広く大衆に受け入れられていく。映画の世界でも芸術性の高い作品に混じって、大衆娯楽に徹するものとが共存していく。「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる”新しい波”の映画も制作される。大島渚の「愛のコリーダ」は既成の概念を打破するような演出だ。演劇もそうだ。アンダーグラウンド(Underground-culture)とかカウンターカルチャー(Counter-culture)と呼ばれ、反権威主義的な文化が芸術運動が広まった。それまで認知度が低く、水面下での活動がやがて社会的な地位を確立していく。

漫画やアニメはかつてはサブカルチャーだったが、今やすっかりメインカルチャーとして不動のものとなった。ビデオ・オン・デマンド(VOD)が有線テレビジョン(CATV)で提供されている。大宅壮一には今の社会状況がどのように写るのかは興味ある話題である。どんな流行語を使うだろうか。

alg-peter-paul-and-mary-jpg Peter, Paul & Maryimg_0愛のコリーダから

文化を考える その3 ハイカルチャーとサブカルチャー

文化の語源を調べているが、cultureを誰が文化と訳したのか分からない。中江兆民とか福沢諭吉などかもしれない。そもそも文化とは、その時代の主流な文化とされるハイカルチャー(high-culture)を意味した。知識階層に欠かすことができない素養として、古典とか歴史、文学に精通していること、それがハイカルチャーということのようだ。

ハイカルチャーは、学問、芸術、演劇、美術、音楽といった「教養ある人々、あるいは知識人」に支持されたもので、それを享受するにはある程度の知識や素養を要求された。一般芸能などを卑下し排除したりする時代精神があった。しかし、社会が大衆化するにつれて、やがてこうした文化観は変容していく。

前々回、江戸の吉原という集団の特徴について少し触れた。花魁を頂点とする遊里には、独特のしきたりに沿った秩序があった。客をもてなすために、花魁はかなりの教養や技能、所作が求められた。そのために、若い花魁に読み書きや所作を教授する者もいた。「吉原裏同心」の小説では主人公の神守幹次郎の妻、汀女がその役を担っていた。粋もいれば無粋もいる。客を飽きさせないために、繊細な知識や技能が花魁に求められたという次第だ。吉原というところは、ハイカルチャーな世界だったことが伺い知ることができる。

時代小説はさておき、1960年代に盛んにサブカルチャー(sub-culture)という言葉が広まった。その意味は、その時代の「主流文化」、別称メインカルチャー(main-culture)とは異なる、あるいはそれに反するといった文化観である。マジョリティの価値観から逸脱する思想や行動様式、言葉などを指すのがサブカルチャーであった。こうして文化の定義が難しくなっていく。

20120902223820 364993096_74a9bfa731_b

文化を考える その2 文化とは

前回は佐伯泰英の時代小説を読みながら「文化」の一面ということを考えた。吉原という共同体は固有の生活様式で統合されており、他の文化からの基準ではこの共同体を理解することは困難だということをいいたかった。相対化という視点でこの共同体における生活内容や人々の行動様式を問うていく必要がある。だが結構難しい話題である。

文化の定義めいたことである。文化には二つの意味がありそうだ。第一は優れた芸術、学問、技術、それが醸し出す上品な雰囲気のようなことである。第二は受け継がれていく人間行動のパタンや価値観としての文化ということである。広辞苑によれば「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果、衣食住、技術、学問、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容」とある。文化とは概して好ましいもの、望ましいものと考えられてきた。その例として、以下のように「文化」がつく単語がある。

文化国家、文化庁、文化勲章、文化都市、文化村、文化広場、文化センター、文化功労、文化の日、文化映画、文化財、文化革命、文化圏、文化保存、あげくは文化住宅、文化風呂、文化食品、文化鍋、文化包丁などである。うさんくさい響きの単語だが「文化人」というのもある。

広辞苑はさらに、文化に対峙する単語は「自然」とある。なるほど、ドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕作」、「培養」、「洗練」、「教化」、「産物」という意味であり、人間が自然に手を加えて形成してきた成果といえる。

人が作ったものが文化だとして、すべての文化が人間を幸せにしたということではない。人は文化によって苦しみ、虐げられ、死に追いやられてきた事実も限りなくある。原発、武器、戦争なども文化そのもの、あるいは文化の所産といえまいか。

sample1 S12CO0090001